続☆ス〇バ店員のまかべくんと、大学生のみなしろくん


 茶色を基調とした内装。一面の窓ガラスから光が射しこむ解放感のある店内。
 控えめな照明と、流れる音楽。適度に雑多な人の気配。
 そこに漂うコーヒーの香り。
 その空間で。

 ――ちょろい。

 という言葉が、さきほどからぐるぐると総士の頭の中を回っている。
 先日剣司になげつけた言葉が、まさにブーメランとなって総士に突き刺さっていた。

 本日も、総士はコーヒーショップにいる。ショップに行くのは、コーヒーと勉強場所の確保ためで、それ以上もそれ以下もない。総士の変わらない日常であり、習慣だ。そのはずだ。
 …はずだというのに。
 総士はコーヒーを一口飲んでから、店のカウンターの方へと目を走らせた。
 そこでは肩まで伸びた黒髪を後ろでぞんざいに一つにまとめた青年が、忙しそうに注文を受けている。
 食品を扱う立場で男性の長髪は鬱陶しく思えそうなものだが、青年のそれはひどくすっきりとして清潔感さえ溢れている。店員が揃いで身に着けている深い緑色のエプロンの下に、白いカッターシャツをまとっているのが清々しい。青年の穏やかで涼しげな雰囲気によく似合っている。
 まだ昼前だが、時間帯に関わらずコーヒーショップを訪れる客は多い。
 しかし青年は、忙しさをまったく感じさせない柔らかな笑みで、客の一人一人に応対していた。
トールキャラメルカプチーノ、とメニューを復唱する声が聞こえる。やはり歌を歌っているようだと思う。通りのよい柔らかな声に、知らず胸の鼓動が一つ跳ねた。

 ――待て。跳ねてる場合じゃないだろう。

 総士は、自分に自分で突っ込んだ。
 先日、優しい笑顔とともに接客されてからというもの、総士の頭の隅には帰宅後も青年の顔がちらついていた。
 ペーパーカップは飲みきらないまま家にもち帰り、結局これはネコなのかイヌなのか、はたまた別の何かであるのか考えているうちに寝落ちていた。
 カップはまだ捨てていない。もったいなくて。いや違う。捨てそびれただけだ。帰ったらちゃんと捨てよう。
 そんなことに脳の一部を支配されている自分が信じられず、頭を整理するためにも今日はこの店に来るのはやめておこうと思ったはずなのに、結局習慣が促すまま授業前の時間に立ち寄り、空いていたいつもの席に腰掛けてこうしてコーヒーを飲んでいる。
 注文を受けてくれたのは、タイミングのいいことに昨日のあの青年だった。
 たかが客の一人など覚えていないだろうと、わずかな期待と失望を胸にカウンターに立ったところ、目が合った青年は「あ」と小さく声を漏らし、総士の姿を認めて笑った。昨日と変わらない、あの柔らかな笑顔で。そして言った。

「少しは休めましたか」

 自分のことを覚えているのだという確信が生まれるとともに、不思議な感慨がこみ上げてきて、総士は今更うろたえた。
 やや心配そうな視線を受けて、動揺しながら口を開く。

「ああ、はい」
「良かった」

 まったくの嘘だ。休めていない。おかげさまでちっとも休めていない。それなのにこの充足感はなんなのだろう。

「昨日のあれは美味しかった」

 挙句にどうでもいい感想まで口にしていた。でも本当に美味しかったのだ。また食べてもいいくらいには。これからはフードメニューもチャレンジしてみようと思ったくらいには。
 青年はキョトンとしたあと、今度はそれとはっきりわかる笑顔を浮かべた。

「そっか。えっと、良かった」

 あまりに嬉しそうに笑ったので、総士は昨日に引き続いて固まってしまった。表情も、思考も。

 ――結局。
 別のおすすめだというベーグルを注文して今席に着いている。ベーグルはさきほど食べ終えたが、確かに美味しかった。
 ちなみに、作業のために立ち上げたMacBookの画面は、先ほどからまったく動いていない。

 ――いったい、僕は何をしにきたんだ。

 両手を組み合わせ、がくりとうな垂れた。
 勉強をするという本来の目的が果たされていない以上、これでは単にコーヒーを飲みに来ただけの人間になってしまう。だが、それの何がいけないのかと頭の奥でもう一人の自分が囁く。
 と同時に、声をかけてくれたあの青年の笑顔が浮かんだ。

『どうぞごゆっくり』

 違う、そうじゃない。違うんだ。
 総士は低く呻いた。
 はたから見ると、課題に追いつめられている学生の図だが、あいにくと総士は自分の中の別の何かに追いつめられている。その《何か》がなんなのかもわからない。
 これ以上ここに居座っても作業は進まないと割り切り、総士は大きくため息を吐くとMacBookを閉じてカバンにしまい込んだ。トレイを返却し、中身が残るペーパーカップだけ手にして、手早く身支度を整えて店を出る。
 出る間際、ちらりと青年の姿を探したが、ちょうどバックヤードにでも入っていたのか見ることはなかった。


     ***


 図書館にでも行こうとキャンパス内を歩きながら、総士は結局あの青年のことを考えていた。
 彼がいつからここで働いているのか、総士は知らない。そもそも青年の存在を知ったのはつい昨日のことなのだ。それ以前もいたのかいなかったのか。まるきり思い出せない。
 それが、なんだって昨日突然彼の存在を意識するようになったのか、どれだけ考えても意味がわからなかった。
 そもそもあの笑顔が良くないと思う。分け隔てなく向けられる、穏やかで何の警戒心も抱かせない笑み。なんだって許されているような気分になるのだ。

 ――優しくされたら嬉しいもんじゃねえの。

 剣司の声がふと脳裏を過っていった。
 そうかもしれない。そうなのだろう。そういうことだ。
 このところ疲れていたから、余計にあの青年の優しさが嬉しかったのだ。自分だってちょろいときくらいある。
 そう思い直して手元に目を落とせば、受け取ったカップには昨日に引き続き、マジックでメッセージが書かれている。
「Fight!」という走り書きと、やはりよくわからない生き物のイラスト。
 それを目にして、思わず口元に笑みが浮かんだ時、「総士!」と名前を呼びかけられた。
 振り返れば、剣司が教科書と紙の束を抱えながらこちらに近づいてくる。剣司も図書館あたりで課題を片づけていたのだろう。総士ほどではないが、剣司の所属するゼミも忙しいという噂だ。

「珍しく早いな」
「まあな…剣司はゼミの準備か」
「そ。ギリギリ終わらせたよ。お前は相変わらずカフェ経由の大学か…って、それ…」

 剣司の目線が、総士の持つカップに向けられている。しまったと総士がカップを庇うのと、剣司があっと声を上げるのは同時だった。

「もしかしてメッセージか」

 ――目ざとい。

 内心で小さく舌打ちをした総士に気づくことなく、剣司はやっぱり都市伝説じゃなかったのかと喜んでいる。よく見せてくれというのにしぶしぶカップを手渡すと、やたらと浮かれた表情を浮かべた。

「へえ、俺初めて見たわ」

 ――だからなんでお前が嬉しそうなんだ。

 総士が内心で呆れていると、剣司はにやにやとした笑みを浮かべて総士を肘で小突いた。

「で、かわいい店員か?」
「は?」

 総士は、ぽかんと口を開けた。宇宙の言語を聞いたかのような反応に、剣司は焦れたように続ける。

「だから店員だよ。これ書いてくれた子」

 こいつは何を言っているのだろうかと、総士は真剣に考えた。
 店員。店員か。かわいい…部類の顔かもしれないが、笑顔も確かにかわいいといえるだろうが、あれは間違いなく男だ。というか、かわいいってなんだ。それは必要な情報なのか。
 何を返せばいいのかわからずにいる総士に、剣司はうんうんと頷きながら「総士にも春がきたかあ」などと言っている。本当に何を言っているんだこいつは。今は4月中旬だ。春など終わりかけている。
 無言で眉を寄せている総士をよそに、剣司はカップを持ち上げてまじまじと眺めていたが、ふと首をかしげた。

「ところでこのイラストってなんだ? クマか?」

 言われて、総士もイラストに目をやる。数秒見つめてから答えた。

「何を言っている。キツネだろう」

「……」
「……」

 二人で顔を見合わせ黙りこくった。沈黙したのは、互いにこれは結論の出ない問題であると判断したからである。余計なことで言い争う必要はどこにもない。

「…まあ気持ちがこもってるのは確かだよな。良かったな。じゃあ俺次の教室行くわ」

 そうまくしたてるように言ってカップを総士に返すと、剣司は足早に去っていった。
 突き返されたカップを、総士は改めてまじまじと見つめた。

「気持ち…か」

 まんざらでもない気分だった。
 イラストがキツネでもクマでもネコでもイヌでもゴリラでも、自分のために描いてくれたものだというなら嬉しい。そう素直に思えた。
 となると、やっぱりこのままカップを捨てるのはもったいないという思考が走り、馬鹿げたその考えに自分で苦笑する。
 少し考えたのち、総士はスマホのカメラアプリを起動した。カシャリという音が鳴り、一瞬の静止とともに写真が保存される。その音で我に返った。冷静になった頭は、自分が今行った行為を必要以上に客観視させた。
 何をやっているんだ僕はと気恥ずかしさを覚えながら、総士は残りのコーヒーを一気に飲み干し、空になったカップを通りすがりのゴミ箱の中へ放り込んだ。


     ***


 月曜、火曜、水曜、そして金曜日。
 それが青年がバイトしている日だった。半日だったり一日だったりと細かなシフトはまちまちだったが、基本的に昼から閉店時間の10時まで働いている。
 いつの間にか、彼が働いている日の時間帯はかかさず店を訪れるようになっていた。
 もともと週2~3程度のペースで不定期に訪れていたのだが、さらにショップを訪れる回数が増えている。月火水は、午前中。金曜日はゼミ帰りの夜。週前半は遅めの朝食を店で取り、週末は夕食代わりの軽い軽食を食べて帰るのが習慣になった。
 いや、別に彼に会うためではない。それは断じて違う。自分はもとからこの店に通っているのだし、目当てはコーヒーと作業場所なのだ。それだけは変わらないと、総士は自分に言い訳を重ねたが、数回の邂逅で青年の方はすっかり総士の注文を覚えてしまっていた。
 総士の顔を見るとあの笑顔を浮かべ、「いつものですね」と確認をとった上で、「今日は何ショットにしますか」と尋ねてくる。フードメニューは毎回青年に勧められたものを選んでいた。
 青年が常にレジカウンターに立つわけではなかったが、彼が注文を受けてくれたときには必ず、ペーパーカップにメッセージが書きつけられている。謎の生き物のイラストも。

 店で働く店員は、大体が小さなプラスチック製の黒いネームプレートをつけており、青年も同様だった。そこに白くマジックでMakabeと書かれているのが見える。おそらく彼の苗字なのだろう。間壁か、あるいは真壁といったところか。
 そんなことをチェックしている自分に気づいて、総士は自己嫌悪で死にたくなった。これはちょっとしたストーカーのようなものではないのか。
 いや、たまたま目に入ってしまっただけだ。彼の胸元、ちょうど視線が下がった位置に、ネームプレートがあっただけだ。その下に書いてあるのが彼のコーヒーの好みなのだろうとか、そういうことは、補足的に入ってきた情報でしかないのだ。
 おそらく年齢も同じ程度だろうとか、そんな推測をしてしまうのもささやかな興味の延長でしかないのだ。
 もはやなんのためなのかもわからないことを自分に言い聞かせていたが、総士にとってショップに通うことは、忙しい大学生活を送る中での癒しのようなものになりつつあった。

 青年とは、相変わらずカウンターでの短いやり取りしか交わしたことはないが、それでも以前より少しずつ近づいたものになりつつあるのを感じる。その距離感に、いつしか心地良ささえ覚えはじめていた。
 カップに書きつけられているものも、最初は《いつもありがとうございます》とか、《お疲れさま》、《fight!》といったものだったが、そのうちに、《頑張れよ》だの《風邪ひくなよ》といった、フランクな…それでいて親身なメッセージが書かれるようになった。
 特に疲弊しきった状態で店に寄ったときは、ひどく心配そうな顔をされた上、《無理するなよ》というメッセージが添えられていた。その態度や文字から、青年の人となりが伺えるようだった。
 勉強に疲れたときに、彼の顔を見てその声を聞くと、不思議と疲労が抜けていく気がしたし、あいわらずぎこちないイラストとあたたかなメッセージは、根を詰めて周りが見えなくなりがちな総士の心を和ませた。

 今日も講義開始の時間を確認して、カップを片手に席を立つ。トレイを片づけようと持ち上げたところで、すっと手をが差し出された。袖を捲り上げた白い腕の先には、青年の姿がある。総士が驚いていると、青年が鳶色の目を柔らかく細めた。

「俺が片づけときますよ」
「ああ、すまない。ありがとう」
「いいえ」

 総士が手にしていたトレイをひょいっと受け取ると、彼はふわりと笑った。

「いってらっしゃい」

行ってきますと告げた声はくぐもってしまって、相手に届いたかはわからなかった。頬に上る熱が気のせいであればいいと思った。


     ***


 そんな風に週4日のコーヒーショップ通いが習慣になって、一カ月がたった頃だった。
 金曜の夜、店で資料の打ちこみをして夜の8時を回ろうかという時間に、テーブルの端にかたんと小さな紙コップが置かれた。紙コップにはプラスチックのスプーンが刺さっている。
 驚いて見上げると、そこにはあの青年が立っていた。普段、白いシャツを着ている青年は、今日は珍しく黒色のカッターシャツを身に着けていた。それだけでずいぶん雰囲気が変わるものだと内心で驚きながら、いったいなんだろうと首を傾げていると、サービスだと言われる。

「新商品のスイーツ。良かったらお試しにどうぞ」
「なるほど」

 そういえば、時々この店ではこんなサービスをする。とくに断る理由もなく、せっかくだから食べてみようと考える。

「ありがとう」

 少し目元を和らげてそう礼を言うと、青年は目を瞬かせた。

「あの、ええと」

 目線を揺らし、なぜか言いよどむ。店員側である彼がこうしてどもる様子は珍しい。いったいどうしたのかと首をかしげていると、青年は何かを振りきったようにふっと笑った。

「いや…邪魔してすみません。おつかれさま」
「ああ…」

 あまり根詰めないようにと小さく声をかけて、青年はカウンターの中に戻っていった。
 普段ない対応に違和感を覚えはしたが、とくに深く考えることもせず、総士はカップの中身を口にした。二口ほどの量のそれはティラミスだった。そこに覚悟したほどの甘さはなく、むしろ疲れた脳に沁み渡った。


     ***


 その1週間後。
 再び週末の金曜日となり、相変わらず延長気味のゼミを終えた総士は、いつかのように疲れた身体を引きずりながらショップに寄った。
 これで明日は休みだ。帰ったら寝る。とにかく寝る。週明けに提出のレポートのことなど、今は知ったことか。
 とりあえず帰る前に飲み物と、ついでに食事もとろう。
 今の自分の顔が死んでいるのはまちがいなかった。青年が見たら、また呆れたような、それでいて心配したような表情を浮かべるのだろうと思うと、ほんの少しだけささくれた心が落ち着いた。
 とりあえず彼にお勧めのものをなにか尋ねようなどとと考えながら、疲労でどこかふわふわした状態でカウンターに向かう。
 顔を上げることもせずにいつものをと言いかけて、「ご注文は何にされますか」という聞き覚えのない声に思わず顔を跳ね上げた。

 ――注文?

 そこにいたのは、小柄な女性店員だった。まるで記憶にない顔だ。明るい茶色の髪は、見知った黒髪と似ても似つかない。総士は声を失って固まった。

「あ、あの…ご注文は…」

 知らず、相手をまじまじと見つめたままでいたらしい。顔を真っ赤に染め、たじたじといった様子で注文を促してきた店員に、回転を止めた思考はうまく返答を出すことが出来なかった。
 そんな総士に迷っていると判断したのだろう。季節限定の飲み物がおススメですと言ってきたのに、ぼんやりとしたまま適当に返事をした。トールサイズでホットとだけ伝えたことは覚えている。
 会計をしながら、店舗の中を見渡す。だが、そこには見慣れた姿は影も形も見当たらなかった。

 ――どうして、いない?

 今日は、確かに彼がバイトをしているはずの日だった。
 このところは、とりわけ金曜日の夜は彼に注文を受けてもらうのが当たり前のようになっていたから、例外など考えることもしなかった。
 姿もなければ、当然声も聞こえない。あの、張りつめた心を一瞬で溶かすような柔らかい声が。
 青年がいないということ、ただそれだけのことが、総士をひどく愕然とさせていた。
 今日来れば、会えると思っていたのに。
 そんな風に感じていた自分と、それが叶わなかったという事実にショックが重なる。
 約束を交わしたことなどない。その習慣を、当たり前のものだと思い込んでいた。
 自分が、勝手に。
 側頭部を殴られたような気持ちのまま、このところ立つこともなかったランプの下で、注文したものが出てくるのを待つ。
 ふらふらと受け取って席につき、カップの中身に口をつけて総士は顔をしかめた。
 どうやらストロベリーらしい、甘ったるいフルーツの香りと一緒に、上に盛られているらしいクリームが一緒になって口内に流れ込んでくる。コーヒーの味などどこにもない。
 予想していなかった甘さに打ちのめされながら、総士はため息と共にMacBookを開いた。メールチェックだけでも済ませようと開いた画面は、青年の不在に占められて、結局ひとつも頭に入ってはこなかった。


     ***


週明けの月曜日、そしてその翌日も、
総士が、ショップで青年の姿を見ることはなかった。


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2016/03/02 pixiv up
店員Aの目はときどき死んでいる。

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