ス〇バ店員のまかべくんと、大学生のみなしろくん


 時計を確認すると、あと20分で3限目が始まるという時間だった。
 総士はため息とともにかけていた眼鏡を外し、眉間を揉みながら目の前に置いていたカップに口をつけた。
 チェーン店の慣れきった味が口の中を湿らせ、苦みとともに喉奥へと流れ込んでいく。
 午後一からスタートする科目は、遅刻に厳しい。駅前にあるこの店から大学の正門まで5分。門から教室までが10分弱。開始前に出席者の点呼を取ることを考えると、もう出発すべきだった。
 総士は開いていたMac Bookを閉じ、カバンに押し込む。
 眼鏡をかけなおしてから横にたたんでいたジャケットを羽織り、まだあたたかなコーヒーが残るカップを手に立ち上がると、カバンを持って店の出口に向かった。
 自動ドアが開くと同時に、ぶわりと春の名残を感じさせる生暖かい風が吹きつけてくる。
 ありがとうございましたという店員の声を背中に、総士は大学に向かって歩き出した。


     ***


「まーたあそこの店寄ってきたのか。お前好きだよなあ」

 講義が行われる教室の机にカップを置いて腰掛けると、先に隣の席についていた剣司が総士を見て感心したような声を上げた。
 同じ経済学部の剣司とは、一年の頃から共通する授業を取ることが多く、いつの間にか一番親しいと呼べる友人になっている。二年になってからはあまり授業が被ることはなくなったものの、それでも幾つかの講義ではこうして顔を合わせる。
 剣司の言葉に、総士は呆れた声で訂正を加えた。

「好きとか嫌いの問題じゃない。そこが一番適当だからだ」

 そもそもの選択肢が、この大学近辺にはないのだ。それでも、人気の高いアメリカ発のコーヒーチェーン店が近場にあるだけかなり恵まれているといえるだろう。
 家の帰り道から一本外れた場所、図書館に続いている通りに、喫茶店があるのも知っているが、いかにもな純喫茶という外観で、年月が経っているせいか全体的に古く、総士から見ればそうとうに寂れた店だ。地元の人が通っているのかもしれないが、少なくとも総士はあの店に誰かが入っているのを見たことがない。
 この前見かけたときはビニルシートがかかっていたから、とうとう潰れたのかもしれない。跡地に何が出来るかしらないが、どうせならコンビニでも出来た方が便利だという程度に考えていた。

「で、おまえいつも何飲んでんだよ」
「カフェアメリカーノ」

 そういえばと聞いてきた剣司に中身を教えてやる。レギュラーではなく、エスプレッソをお湯で割ったコーヒーだ。コクがあり、風味が爽やかという特徴がある。トールサイズのこれにショットを追加したものが総士の定番だった。
 こうするとコーヒーの苦みが強く出て、集中力を高めるのにはもってこいだ。気分で5ショットまで追加する。フレーバーや甘いものがそれほど得意でないため、他のものを注文したことはほとんどない。

「5ショット…まじかよ」
「7ショットまでなら追加したことがある」

 必要とあれば10ショットまで頼むのもやぶさかではない。基本的に追加は無制限だ。

「お前、胃は大事にしろよ…あ、でもさ、あのチェーン店って、ちょっと割高だけど店の雰囲気とやっぱ店員がいいよなあ。声かけてくれたりするだろ、注文のとき。今日はお仕事ですか、とか。大変ですねとか」

 いったいこいつは何を言い出したのかと、総士はやや白けた目で剣司を見た。

「記憶にないな」
「ないのかよ。でもほら、カップにイラストとかメッセージ書いてくれたりとか、たまにそういうのあるんだろ」
「受け取ったカップをわざわざ見ることはしない」
「そうかよ…。でもそんだけ通ってんだから、いつものとか覚えてくれたりしそうじゃん」
「そんな経験もない」
「まじで。まあそういうもんか…」

 おっかしーな、あれってもしかして都市伝説だったのかと剣司がぼやく。ぼやきつつ、更に食い下がってきた。

「でもさ、店員に顔覚えてもらったりとか憧れるだろ。それでまた通いたくなったりとか」
「馬鹿な」

 総士はすっぱりと切り捨てた。
 馬鹿馬鹿しすぎて笑いさえ出ない。店員を目当てに店に通うなどということがありえるのか。少なくとも19年生きてきて、そんな目的を抱いたことはなかった。
 あのコーヒーショップに行くのはコーヒーと作業環境のためだ。そのためにお金を落としている。それ以上も以下もない。学食のあるテラスは明るすぎるし、そもそも人の出入りも多い。コーヒーの味もそれなりだ。それならば多少値段が上でも味や質が安定しており、椅子が心地よく、照明が適度に暗く、多少の長い時間居座れるあそこの店は、貴重な勉強スペースだった。アースカラーで統一されたデザインも比較的好みだ。
 端的に店の利点を並べ立てると、なぜか剣司からお返しのように白けた目線を寄越された。ついで、はああと溜息を零される。

「そっか。まあ、そうだよな。総士だもんな」
「どういう意味だ」

 剣司の物言いに眉根を寄せる。自分だからという言い方をされる理由がわからなかった。だが、べっつにぃと剣司は肩をすくめただけだった。ついで眉を下げてへらっと笑う。妙に穏やかで、優しい笑いだった。

「そりゃ中には鬱陶しいってやつもいるだろうけどさ、優しくされたら嬉しいもんじゃねえの」

 俺はそうだけどなあと剣司はいう。総士にはその心理になるほどという思いはあったが、やはり理解はできなかった。

「そもそもお前には咲良がいるだろう」
「そりゃそうだけどよ。というかあいつは別格だから、カウントされねえし」

 恐ろしいさりげなさで剣司はのろけた。

「まあでもさ、なにげない優しさっての、意外に飢えてるもんなんだよな。人間ってさ」

 訳知ったような顔でしみじみともらす剣司をまじまじと見つめて、総士は口を開いた。

「剣司…お前ちょろいな」
「おい、それこそどういう意味だよ」

 剣司が気色ばんだところで授業担当の教授が紙の束を抱えて入室する。教室のあちこちから、うわぁという小さな悲鳴が上がる。総士は肩をすくめ、剣司もまたそれ以上何も言うことなく、教授の点呼に備えて前を向いた。


     ***


 長すぎる午後が終わった。授業後のゼミは予定終了時間を越えて続けられた挙句、課題まで出された。必要な資料を入手するために閉館ぎりぎりまで大学図書館に入りびたり、研究室に駆け込んで借りた資料のコピーを終えればもはや9時に近かった。
 大学院を目指す学生に教授は厳しい。それだけ見込まれているのだと考えることもできたが、今はただ少しでもいいから休息が欲しかった。
 と思いつつ、総士は疲弊した身体を引きずりながら、いつものようにコーヒーショップに足を運んでいた。

「いらっしゃいませ、お席はお決まりですか」

 入口でかけられた声に惰性のまま返事を返し、いつもの席が空いていることを確認すると、そこに脱いだジャケットとカバンを置く。財布だけ持ってレジカウンターへ向かうと、総士は顔を上げることもせず置かれたメニューに目を走らせた。特に興味を惹かれるものもなく、結局普段飲んでいるものを注文することにする。
 正直、疲れていて声を出すのも億劫だった。確保した席でレポートの残りを仕上げ、帰ったら寝る。そう決めていた。さっさと帰らなかったのは、帰宅したらそのまま寝てしまうだろう自分を自覚していたからだ。洗顔と歯磨きさえ済ませれば、シャワーは明日でもいいかと思うくらいに疲れている。コンビニで夕食を買っていく気力もないだろう。
 ここでついでに腹に何か入れるべきだろうなと横のフードケースに目を向ける。上段の重たそうなスコーンやクッキー類は却下だ。となると下段のサンドイッチということになるが…どれも同じに見えた。メニューを読めばいいのだが、もはやその文字を追うことさえ苦痛だ。思わずため息が洩れたときだった。

「おつかれみたいですね」

 するりと、声が耳に飛び込んできた。
 高くもなく、低くもない。ひどく耳馴染みの良い、柔らかな声だ。余計な世話だと普段なら思うはずの台詞が、何の抵抗もなく胸に落ちていく。
 驚きと共に顔を上げれば、そこにはさらに柔らかい空気があった。

「もしかしてバイトですか」

 受付け担当なのだろう黒髪の青年が、総士を見つめて首を傾げている。口元には笑みがあるが、明るい茶色の双眸はこちらを気遣うように揺れていた。
 総士はしばらく呆けたように固まっていたが、数秒後に我に返った。

「…いや、ゼミで」

 気づけば、答えるつもりのない情報を口走っていた。青年が驚いたように目を瞬かせる。

「こんなに遅くまで大変ですね。あ、飲みもののほかに何か食べられますか」
「いや…」
「この時間だと、そうだな…これとかいいですよ。重たくなくて、でも満腹感があるから。野菜もとれるし。あ、バジルとか嫌いじゃなければ」

 反応が追いつかずに口ごもっていると、迷っていると思われたのか、ひょいっとカウンター越しに身を乗り出し、指差されたのはサラダを巻いたラップサンドだった。青年の長めの黒髪が間近でさらりと揺れる。伸びた後ろ髪を軽く一つに結わえているのが、やたらと視界に焼きついた。

「…ではそれを。あとカフェアメリカーノに1ショット追加で」
「はい」

 言われるままに注文し、ついでコーヒーを頼むと、青年がふわりと笑う。ふにゃりと、顔全体がとろけるようなやたらと甘ったるい笑みに、総士は眩暈を覚えた。
 とくにずり落ちたわけでもないメガネに手を伸ばしながら、どうやら自分が大変に動揺していることを遠く自覚する。

――いったいなんなんだ。

 完全に青年の醸し出す空気に飲まれている。思考も舌も回らない。

「トール、エクストラショットカフェアメリカーノ」

 注文を読み上げる声が、まるで歌を歌っているようだと思った。そんな風に思う自分はぜったいにどうかしている。
 会計を済ませてしばらくすると、トレイの上にカップにいれたコーヒーとラップサンドが乗せられ、やはり笑顔とともに差し出された。

「はい、おまたせしました」
「…ああ、ありがとう」

 どうぞごゆっくりという声を背後に、総士はどうにもぼんやりとしたまま席に向かった。
 テーブルにトレイを置いてから、いつものようにカバンからMac Bookを取り出して蓋を開く。立ち上がるのを待つわずかな間に、とりあえずはコーヒーを一口飲もうと手を伸ばした。
 口をつける前に、ふとなんとなく手にしたカップを眺める。目に飛びこんできたものに総士は今度こそ固まった。
 その側面には、おつかれさまという文字と、犬とも猫とも判別しがたい謎の動物のイラストがマジックペンで書かれていた。



2016/02/13 pixiv up
――人が恋におちる瞬間を、はじめてみてしまった。(店員A談)byはちくろ
NEXT
▲top