喫茶楽園は花ざかり
「花がない」
俺は沈痛な顔で呟いた。
「花?」
それを聞いた一騎先輩が目を瞬かせる。コーヒー豆をひいていた手を止めて、喫茶店の中を見回してから首を傾げた。
「花、飾るか?」
そういうことじゃない。そういうことじゃないんです、一騎先輩。
喫茶楽園の男性率は高い。そもそものオーナーがタンクトップ姿以外ほぼ見たことのない中年のオッサンである。唯一の紅一点である遠見先輩は、このところオーナーである溝口さんと一緒に空に行っていることが多い。
となると、喫茶店は俺と一騎先輩、それとケーキの仕入れで顔を出す零央という、男ばかりのむさくるしい場所になってしまうのだ。
まあ、俺は高校卒業したてだし、零央は中学生で男臭いと言えるほどの年齢ではないし、一騎先輩なんかむさくるしさとは無縁の風貌だ。同い年のはずの剣司先輩と比べても一目瞭然。もうすぐ二十歳の男ならもっているような男臭さみたいなものがまったくない。なんていうか、朝洗面台でヒゲ剃ってる姿がまったく思い浮かばない。というかヒゲは生えるのか? いや、多分生えるだろうけど。そのはずだ。
あまり思い浮かばないと言えば総士先輩もだけど、このところの総士先輩は一騎先輩よりはまだ想像がつく。顔立ちというか、立ち居振る舞いの印象のせいだろう。だが、そもそもあの人はそれ以前に生活感がゼロを通り越してマイナスだった。
いやむさくるしいというのは気分的な問題だ。俺が言いたいのは気持ち的なことなのだ。ザ☆おっさんという感じの溝口さんがいないのだとしても、今ここにいるのは男だけという事実が俺の心を重たくするのだ。花がない。俺にとっての花が。
花はないというのに、この喫茶楽園では、ときどき花がぶわわと咲き誇る錯覚を目にすることがある。
その一因が一騎先輩だ。一騎先輩の笑顔はすごい。
この人、間違いなく男なんだけど、まじで花が開いたみたいに笑う。普段のほほんとした顔が、ぱっと明るい表情になるのだ。その変化たるや、見慣れている俺でもけっこうなインパクトを感じる。笑うとやけにかわいいっていう噂はあながち間違いじゃない。誰が噂してんのかは怖くて知りたくもないけど。
そんな一騎先輩が、とりわけふわふわとした笑顔を浮かべる相手は決まっている。総士先輩だ。
楽園に総士先輩が来るたび、その顔を見るたびに「総士!」と声を上げて嬉しそうな笑みを浮かべる。
総士先輩も負けてはいない。普段あんまり仕事してなさそうな表情筋が、いったいどうしたんだってくらいに柔らかく緩む。
さらにそれ以上に穏やかな声で一騎先輩の名前を呼ぶのだ。「…一騎」と。
そこにいったい誰が何を挟めるっていうんだ。はーやってらんねえわとなる俺の気持ちも察してもらいたい。
この人たちもはや名前を呼び合うだけですべてのコミュニケーションができるんじゃないかっていうレベルなのだ。
いや、実際コミュニケーションしていた。
一騎先輩の例を挙げておく。
「総士!」
弾むような声。あ、総士先輩がきたんだな。
「総士…」
声がしょげている。総士先輩に何かあったらしい。
「総士……」
声が澱んでいる。怒っている。総士先輩が何かやらかしたらしい。
「そぉし…」
なんだその捨てられた子犬の鳴き声みたいな切なそうな声。身長170越えの、成人間近の男が出すような声じゃないだろ。それなのに、この俺でさえ何もしていないのに胸が痛くなってくる。なんだこれ。助けてくれ。
ちなみにその声をきいた総士先輩は、目を見開いて硬直したあと、そのまま一騎先輩の腕をひっつかんで、ものすごい勢いで楽園から出て行った。
そのあとのことは知らない。知りたくもない。頼む。教えないでくれ。
とにかくこんな感じなのだ。
一騎先輩のすごいところは、事情をまったく理解していないはずの俺でも、なんとなくその言わんとするところはわかるということだ。「SO・U・SHI」という、あのたった3文字に喜怒哀楽のすべてがこもりまくっている。もはや一芸といっていい。
その逆で、総士先輩の声にはさほど抑揚がない。だが、一騎先輩は、そのわずかな変化から総士先輩の様子を読み取る。正直、なぜそれほどの情報を拾い上げられるのか理解不能だ。
感情が見えないわけじゃない。遠見先輩ならもっと何か見えるのかもしれない。
でも、遠見先輩も、一騎君にはかなわないよーと笑っていた。あれはかなわないというよりも、別に敵いたくはないという意味合いを含んでいるようにも感じられたが、いずれにせよ、そこまで総士先輩の心情を把握しているわけではないらしい。
となるとやはり一騎先輩はすごいと思う。
俺は一騎先輩に負けたくはないが、この分野で勝ちたいとはまったく思わない、そもそも同じ土俵に上がるつもりもない。
遠見先輩の思っていることや今の気分を、できるだけ察知できればと思わなくもないが、一騎先輩のそれはそもそもが次元を超えている。
「一騎」
「悪い、今日カレーじゃないんだ。ハンバーグ定食でいいか」
「一騎」
「だから、コーヒーは飲みすぎるなって言っただろ。胃を悪くするぞ」
「一騎」
「そっか、明日検査か。いや忘れてないよ。ほんとだって」
「一騎」
「わかった、今日お前んとこ寄るな」
どうかしてるだろ。
そういう内容、まったく含んでなかっただろ。名前呼んだだけだろ。どうなってんだよ。
挙句にはこれだ。
「一騎…」
「総士…」
互いに頬を染めて見つめ合わないでほしい。ヒマワリだかガーベラだかマーガレットだか、黄色やピンクや白い色の、名前もわからないような花がぶわっと開いて、花びらが舞い散る幻覚が俺には見えた。
なんだこれ。俺はこんなものを見るためにここでバイトを始めたんじゃない。
死んだ目で外の晴れやかな蒼を眺めていると、ちっちっちと、遠見先輩が指を振った。
「暉君、わかってないなあ」
仕草が少女めいてかわいらしい。遠見先輩の蜂蜜みたいなとろりとした声が鼓膜を震わせる。だが俺はこの声が氷河のように凍てつく様も知っている。鼓膜ではなく心臓が震える。ガチの怖さで。あれに魅せられちゃった俺は、たいがいどうかしてると思う。
とはいえ、普段の遠見先輩は俺にとっては女神にも等しい。うっとりするような優しい顔で、先輩が笑う。
「すごいのはここからだから」
「は?」
俺はぽかんとして遠見先輩を見つめた。にこにこと笑う顔の、その目が実はまったく笑っていなかったということに気づいたのは、それから少しあとのことだ。
***
その日は、朝から一騎先輩の機嫌が悪かった。悪いといっても、まとう空気がピリピリしているだけで、俺や遠見先輩にとくに当たるというわけじゃない。だが、明らかに気が立っている。
基本的に穏やかで、こういうのもなんだけどぼけっとしたところのある一騎先輩には珍しいことだった。
どうしたんだろうと思っていたら、キッチンスペースで先輩が呟いた。
「そおし…」
俺は戦慄した。
名前を呼ぶ声が低い。めちゃくちゃ低い。普段が柔らかい声だけに、こうなったときの声はドスが効きまくっていてぶっちゃけ怖い。
挙句にその顔には何の表情も浮かんでいなかった。ちょっと瞳孔が開き気味だ。瞬きもしていない。やばい。怖い。…こわい。
ちなみに当の総士先輩はここにはいない。一騎先輩は、いつものようにランチの支度をしながら野菜を刻んでいる。刻み終えたときに、ふと零れたのが総士先輩の名前だった。
わかるだろうか。この恐怖が。
本人もいないのに、包丁を握ったまま、虚空に向かって開きぎみの瞳孔でぼそりと低く呟かれることの恐ろしさが。真横でじゃがいもの皮を剥いていた俺の全身に走った震えが伝わるだろうか。
ついでに俺は気づいてしまった。一騎先輩が握りしめている包丁の柄が、今にも割れそうだってこと。ギシギシと包丁の柄が悲鳴を上げているのをうっかり聞いて、俺は「里奈ああああああ! ばああちゃああああああんん!!!」と叫びたくなった。
包丁の柄が軋んでいるのは、力を込めているからじゃない。押さえているからだ。
力を押さえていなければ、多分まな板を真っ二つにしていたんじゃないだろうか。マジか。どんな握力と腕力だ。一見、そんな風に見えないから余計にこわい。
この人、本当にエースパイロットなんだと、謎の確信が生まれる。普段の物柔らかな様子からは、あまり実感が持てなかった俺だけど、今なら言える。あのマークザインというザルヴァートルモデルに乗れるのはこの人だけだ。
在学時代に数々聞かされた噂話だって尾も鰭もついていない、マジモンだ。間違いない。蹴り上げたサッカーボールがサッカーゴールを突き破ったとか、序ノ口だ。この人なら、ナマコ投げで遊んでいたナマコをヴェルシールドにブチあてることだってできる。
俺が恐怖のあまりに、包丁を取り落しかけたときだった。
がらんと、ドアベルの音が響く。開いた扉から顔を覗かせたのは、亜麻色の長髪を一つにくくった見慣れた姿だった。
――おいでませーーー!!!
俺は、常になく総士先輩を歓迎した。この状況を打破してくれるなら、花を咲かそうが散らそうがなんでも良かった。
総士先輩を認めた一騎先輩は、どろどろとした空気を全身から立ち上らせながら先輩に呼びかけた。
「そうし…」
「か、一騎?」
さしもの総士先輩も、ビビったようだった。声がじゃっかん裏返っている。そりゃあそうだろう。
俺だって見たことのないようなお怒りぶりだ。
で、原因はあんたなんでしょう。何をしたか知りませんけど、いや決めつけるのは良くないな、されたのかもしれないけど、とにかく二人の間でなんかあったんだろうから、ここはとっとと収めてくださいよ。一騎先輩のことで解決できる存在があるなら、もう総士先輩しかいないんだ。遠見先輩は…ぶん投げた。さっき目があったけど、あれが明らかに丸投げてた。間違いなく総士先輩に。
総士先輩も災難かもしれませんけど、一騎先輩の機嫌がなおるなら、しばらく二階を使ってくれても構わないです。20分くらいなら。いや、10分で。そんくらいで。時間を与えてはいけない気がする。そんな気がする。
俺がそんな思いを込めて総士先輩を見つめていると、当惑したような眼差しが俺を見た。
は?なんで俺を見るんだこの人。やめてくれ。そんなことしたら一騎先輩の意識が俺に向くだろ。
俺は一般人なんだ。あんな視線まともにくらって生きてなんかいられない。俺を殺す気か。
それなのに総士先輩は俺に言った。
「僕は、何かしただろうか」
「なんでだよ!!」
俺はとっさに叫んでいた。
相手が曲がりなりにも先輩だとか、そういう礼儀は吹っ飛んでいた。
サヴァン症候群どうしたんだよ。並列思考息してんの?ねえ!どう考えたってわかるだろ。原因はあんただろ。あんたしかいないだろ。俺でもわかるよ。わかりたくないけどわかるよ。なんであんたがわかんないんですか、ねえ。
遠見先輩が俺に耳打ちをする。
「ほらね、すごいでしょお」
すごい。確かにすごい。ぜんぜんすごくない意味ですごい。
「はい、皆城くんマイナス100点ー」
「うっ!?」
「え、総士!?どうしたんだ!?」
遠見先輩の冷え切った声が響き、総士先輩が胸を押さえて呻いたところまでを確認して、俺はすべての思考を捨ててテーブルを拭くことに専念した。
急変した総士先輩の様子に、あれだけ不穏すぎる気配をまとわせていた一騎先輩から、怒りのオーラが霧散した。
慌てたように駆け寄って、その顔を覗き込んでいる。
「総士、総士!?」
「一騎…」
「総士…」
また花が咲き始めた。どうなってんだ。どういう流れだ。
もう勝手にしろよ。好きにしてくれよ。
やっぱり遠見先輩の命中率は200%だった。せっせと片づけをする俺の隣でぼそりと遠見先輩が呟いた。
「不器用なんて言葉 滅びればいいのに」
俺は、俺の辞書から即座に「不器用」という単語を徹底消去することを決意した。
- end -
2016年春コミの無配再録。
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