皆城総士の10の幸福


「総士くんは、本日はお休みです」
「は?」

 起床して食堂での簡単な朝食を終え、先日のデータ解析の続きをと思って割り当てられた研究室に出向いたところ、総士を迎えたのはアルベリヒド機関研究スタッフのそんな一言だった。
 このところ、研究室が使用するサーバーやコンピューター機器のメンテナンスを順に行なっているのだが、対象に突然の変更があり、今日は総士の研究室ということになったらしい。

 今、総士が解析を行なっているデータは、研究室内のパソコンでしか作業ができない。
 だが、研究室は今日は使えない。
 総士を含め、この研究室使用者は、みなが突然の休日を与えられたというわけだった。
 総士はポカンと口を開けたまま、携帯端末を抱えて立ち尽くした。

「で、どうしてここに来るんだよ」

 メディカルルームに姿を現した総士を、剣司は呆れた顔で見た。

「お前確か今日休みなんだろ。部屋に戻れ戻れ」
「しかし、今日どうしても進めておきたい分析があって、脳内で進行プランも組んでいた。突然予定に空白ができて、正直困惑している。剣司、こちらで手が必要な案件はないかと思ったんだが」
 デスクに向かっていた剣司の近くに、腕組みをしたまま空き椅子に腰かけ、総士はそう言って眉を寄せた。

 その顔は確かに当惑の色で染まっている。言外に、手持ちぶたさで落ち着かないから何か仕事をくれと告げてきたのに、こいつはどんだけワーカホリックなんだと剣司は心底げんなりした。

「せっかくの休みだ、ラッキー幸せ、みたいに思っときゃいいだろ」
「ほう……お前の幸せとはそういうものか」

 剣司の言葉にかすかに目を見開き、まるでその発想はなかったといわんばかりに総士は感心したような声を洩らした。
 なんだかちょっぴりカチンと来た剣司は、「じゃあ、お前はどんなときに幸せだって思うんだよ」と返す。
 ふむ、と総士は考えた。

「実験成果の数値が、予想とぴたりと合致したときに幸せを感じるな」
「おい」

 剣司は突っ込んだ。

「それ、幸せとかじゃなくて、達成感だろ」
「そう違わないだろう」
「違うっての」

 うわこいつめんどくせえと剣司は思った。仕事上の達成感もそりゃあ大事だし、モチベーションの維持には不可欠なものだが、それにしたってそれが思いつく幸せとして真っ先に出てくるのはちょっとあんまりすぎる。

「じゃあなんでもいいからさ、今日の休みの間にお前がいいなとか、幸せだって思ったことでも探してみろよ。なんでもいいから。これお前の仕事な。わかったならさっさと行け」

 しっしっと片手を振って、総士をメディカルルームから追い出そうとする剣司を、ふむと総士は見つめた。

「なるほど。検討しよう」
「頼んだぜ」
「ところで、」
「まだなんかあんのか。なんだよ」
「剣司、お前のアルヴィス勤務は今日は午後からだと把握していたんだが、なぜここに来ているんだ?」

 うげっと剣司は呻いた。天井を見上げ、頭部をがりがりと掻いてからぼそりと口を開く。

「…生徒で一人、数値が気になる子がいるんだよ……その確認に来てただけだ」
「朝一番にか。なるほどな」
「……」
「……」

 しばし互いに見つめあい、やがて目を逸らしたのは剣司の方だった。

「…わかったよ! 俺も確認だけだ。あとは午後まで休む!」
「それが賢明だな。剣司、お前も仕事に打ち込みすぎて咲良に心配をかけるなよ」
「お前にだけは言われたくねーよ!」

 叫んだ剣司に笑い返しながら椅子を立ち、総士はメディカルルームを退室した。
 しばらく廊下を進み、角を曲がったところでふと立ち止まる。

「幸せ、か」

 なんでもいいから探せと、剣司が言ったことが頭の中を回っていた。
 改めて、そんなことを考えたことなどなかったなと思い返す。
 自分にとっての幸福など、考えたことも探したこともない。総士が幸福であるかどうかは、島の未来には関係がなかったからだ。
 幸福を感じることが許されるとも思っていなかった。全てにおいて、総士の個に価値などなかった。少なくとも、14歳の自分はそう思っていた。
 今にして思えば、それでも一部の大人たちは総士を「子ども」として扱い、守ろうとしてくれていたと察することはできるのだけれど。

――なら見つけに行こうよ、総士。

 あどけない笑い声がどこかから響いた。
 立上芹と虫を探しに行くんだと告げたときの、まるで雲間から陽光が零れるような妹の笑みを総士は思い出した。
 彼女は、何かあるたびに必ず総士に確認をとった。お前が望むのなら、それをすればいい。わざわざ断る必要などないと告げた総士に、乙姫はぷくりとほほを膨らませて拗ねてみせた。

『わたしは妹で、総士はお兄ちゃんなんだから。お兄ちゃんの許可を取るのはあたりまえでしょう?』

 わたしをあまり甘やかしすぎないでねと彼女は言った。わたしのこと、ちゃんと怒ってねと言った。
 あまりもあっけなく過ぎ去った、まるで夢のような短い時間。
 事実、これは夢なのだと乙姫は言った。自分の夢が叶ったのだと。
 貴重な時間を思えば、乙姫の望むことならすべて叶えてやりたかった。それがどんな些細なことでも、無理難題なことでも。けれど、彼女はそんなことは望まなかった。乙姫の願いは、いつだって島と、そこに暮らす人々のためにあった。
 それでも、彼女はすべてを受け入れ、喜び、笑っていた。
 ああ、あれは確かに幸せな時間だった。乙姫の存在と過ごした時間があればこそ、自分は自らの意思で無に行くことを選べたのだろう。
 そして彼女もまた大気へ帰り、新たな命が生まれた。今も、島で続いているその幸福。

――ね、行こう、総士。
――きっと総士も見つけられるよ。たくさんたくさん、あるよ。

――総士の幸せが。

「僕の、幸せか」

 総士は小さく微笑んだ。

「そうだな、乙姫」

 行こうか、と総士はアルヴィスから外へ通じる扉へと足を向けた。

     ***

 総士は、外に出た瞬間その眩しさに目を細め、思わず掛けていたメガネを外して片手で視界を覆った。
 アルヴィス内を照らす人工の光とは異なる自然光の輝きは、暴力的なまでの明るさと温度でもって総士を照らし、全身を包み込んだ。
 総士が訪れたのは、居住区をわずかに見下ろす坂の上だった。そっと目を開き、メガネを掛けなおして周囲を見渡せば、太陽の光を受けてさまざまな色に光る瓦屋根や、真っ青な海面のきらめきが目に飛び込んでくる。
 季節は初夏を迎えようとするところ。気温はこれから上昇するばかりだろう。
 気づけば痛いほどに鮮やかな新緑が島を覆っていたことに気づき、こうしてアルヴィスから出るのがずいぶんと久しぶりなのだということを総士は自覚した。
 まったく地上に出ていないわけではないのだが、朝方だったりあるいは夜だったり、出ても目的地までの最短距離の通用口を使用していたりと、日中に島を歩くということがほぼなかった。
 お前運動してるか? と一騎が呆れたように聞いてきたのは、必要運動量が足りているかということではなかったのだろうなと、総士は今更ながら思い至った。
 それにしても、としみじみと島の景観を見渡す。
 綺麗だと思った。綺麗な島だ。大人たちが作りたかった、残したかった楽園が目の前にある。そのための犠牲は大きく、あまたの屍の上にできている楽園だ。
 自分もまたいつかこの島の犠牲の一つとなって消えるのだろうと思っていた。それでいいと思っていた。けれど、今もまだここにいることを許されている。こうして島の美しさを感じられている。胸にこみ上げるそれは、間違いなく「幸福」と呼べるものだろう。
 思わず笑みを零した総士の足に、不意に何かが触れた衝撃があった。
 なんだ? と足元を見ると、いつの間に現れたのか一匹の黒猫が総士の足に身体をすりつけている。
 喉を鳴らしながらスリスリと懐いてくる姿に驚きつつも、健気な様子に思わず絆され、膝をついて猫の背中にそっと指先で触れてやった。まだ子猫なのだろうか。思った以上に小さい。総士の両手で包み込めてしまいそうなほどだ。
 こちらから触れては逃げられるのではとかすかに危惧したが、子猫は嫌がるどころかミャアと心地よさげな声を上げると、そのままころりと寝転がって腹を晒した。

「…………」

 子猫はそのまま動かない。

「僕に、撫でろというのか……」

 仰向けに転がったまま、子猫は総士を見上げている。その目はきらきらと期待に満ちていた。

「いいだろう……」

 一つため息を吐き、総士はそれならばと子猫の腹を掻くように撫でてやった。子猫はくすぐったそうに身を捩りながらも逃げることはない。それどころか、だんだんと目がとろりとしてくる始末だ。
 その様子に思わず総士も目を細める。

「心地よさそうだな」

 こうして、子猫がのんびりと散歩し、出会った人に懐くこともまた竜宮島の平和の象徴のようなものだ。
 竜宮島には猫が多い。生態系は厳密に管理されているが、猫についてはほかの種を脅かさない範囲で比較的気ままにされているように思う。道を歩けば、道端を走っていく猫、垣根を散歩する猫、数匹で昼寝をしている猫とたくさん見かける。
 そんな彼らも戦時下であれば、襲撃を避けて姿を眩ませる。きっと人と同じように、フェストゥムの犠牲になった猫もいたはずだった。

「そうか、お前も幸せか」

 猫を撫でながらそう噛みしめていた総士は、子猫に夢中になっていて気づかなかった。 近づいてきたのがこの黒猫だけではなかったということに。
 ふと顔を上げれば、そこにはでっぷりとした三毛猫がおり、右太腿に衝撃を感じれば、すらりとした白猫が身体をすりつけている。
 さらにはその後ろにも猫が一匹、二匹……いや、四匹……。

「なんだと…」

 総士は凍りついた。いつの間にか、四方を猫に囲まれている。猫の向こうにもまた猫がいる。
 ざっと確認しただけでも十匹を優に越える猫たちの視線は、すべてが総士に向けられていた。正直に言ってこわい。
 しかし、猫たちは総士の当惑など「知ったこっちゃねえ!!」というように、なぁぁんと声をあげながらじりじりと寄ってくる。これはまずいと思いながら総士はとっさに叫んでいた。

「お前たち、順番に並べ!!毛づくろいというものを教えよう!!」

「「にゃーーー」」

 猫たちは総士の言葉がわかったのかわからなかったのか、とりあえずはこいつに構ってもらえるらしいと判断したらしい。わらわらと距離を詰めてきた。肩に飛び乗ってくるものまでいる始末。
 引くに引けなくなった総士は、猫たちが満足するまで一匹一匹毛並みを撫で続け、その姿は島のバードによっても目撃されたのだった。

     ***

「疲れた……」

 総士はよろりとしながら商店街へ続く道を歩いていた。
 猫の相手とはかくも疲れるものなのか。いや、あれは奉仕だ。あの時間、猫たちは総士より立場が上だった。我も我もと、腹を見せて転がる猫たちの図は壮観だったが。
 散歩のはずが、すでに一仕事終えた気持ちだ。日差しが降り注ぐ中、一心に猫を構い倒して喉も乾く。自販機を探そうと周囲を見渡したところで、《西尾商店》の看板が飛び込んでくる。
 そうだ、あそこに行こう。ついでに軒下で休ませてもらおうと決めて、総士は店へと足を向けた。

「あれ、総士先輩」
「西尾か」

 総士を迎えたのは、店主の行美ではなく、双子の孫の片割れである西尾里奈だった。最近すっかり見慣れたおかっぱ頭を揺らし、目を丸くして総士を見ている。
 今日は彼女が店番らしい。特に客の訪れもなかったらしく、店内には彼女が見ているテレビの音が流れっぱなしになっており、そして彼女はというと、レジが置いてある台の内側で椅子の上に胡坐をかき、コミックを広げながらスルメをかじっていた。
 お茶を買おうと中に入った総士は、その光景にちょっと目を覆いたくなった。

「西尾、僕の口から言うのもなんだが、その座り方はどうなんだ……」
「どうって、いつもこうですけど」

 それはどうなんだと総士は思った。しかも彼女が穿いているのはショートパンツだ。スカートでないだけいいのだろうが、年頃の娘が客の前で胡坐で足をさらけ出しているのはいかがなものなのだろうか。
 だが、総士の懸念を里奈は「別にぃ」と蹴散らした。

「それに総士先輩だし、まあいっかなって」

 おい。なんだその適当な扱いは。

「とにかく客なのだから、知り合いとはいえ脚は下ろせ…」
「はぁーい」

 もう一度たしなめると、里奈はしぶしぶというように返事をしながら足を下ろした。コミックも脇に避けながら「総士先輩って」と口にする。

「なんだ」
「なんかおとーさんみたいですよねー」
「おと……!?」
「それより今日どうしたんですか? 先輩来るの珍しいですよね」

 爆弾発言をかましたことにまるで頓着せず、里奈が尋ねてくる。総士は衝撃に視界が眩むようだったが、気を取り直した。
 そうだ大したことじゃない。言葉の綾だ。コミュニケーションだ。

――総士ってたまに父さんみたいだよな。

 幼馴染の声が遠くで重なったが、あいつとは別の機会に決着をつけようと決めて、馴染んだ声を頭から振り払った。

「あ、もしかしておばあちゃんに用事ですか? 奥にいますから呼んできましょうか?」
「いや、今は飲み物でも買おうかと立ち寄っただけだ」
「飲み物ならアルヴィスに自販機があるじゃないですか。なんでわざわざ暑い中こんなとこまで?」
「今日は外に出てぶらつけと言われてな……」
「お休みってことですか?」
「まあ、そんなとこだ」

 お茶ならこれとこれがありますよと教えてくれながら、里奈はいいなあとぼやいた。

「あたしもお休みが欲しかったあ。こんな天気のいい日に、誰も来ないのに店番ですよ? やんなっちゃう。あ、総士先輩が来たけど」

 文句をいいながらも、手際よく総士が選んだお茶の会計を済ませる姿に思わずおかしさと覚えつつ、ふと彼女に尋ねてみたくなった。

「西尾はどんなときに幸せだと思う?」
「へ?」

 里奈はびっくりしたように手を止めて、大きく目を見開いた。

「どうしたんですか、総士先輩。まさか人生相談ですか?」

――あたしに!??

「そういうわけじゃない……いや、深く考えなくていい。個人的に気になったというだけなんだ……」

 適当に思いついたことを教えてくれと言うと、里奈はうーんと唸った。

「んーそうですねえ……なんか思ってもないことで、ちょっといい気分になったときとか? ほんっと大きなことじゃなくていいんですよ。あるときにふっと、あーしあわせーって感じるっていうか。例えばお風呂入ってるときとか。あと訓練終わって家に着いたら、部屋の電気がついてておばあちゃんがお帰りって言ってくれたときとか。まあ、おばあちゃんも最近忙しいからそんなことほとんどないですけどね!」
「……そうか」

 茶化すように笑った里奈に思わず目を細めると、里奈は「あ、そうだ」と声を上げて店番をしていた椅子から勢いよく立ち上がった。
 呆気にとられた総士の横をすり抜け、駄菓子コーナーをしばらく物色していたかと思うと、そのうちの一つを手に取る。総士を振り返り、里奈は妙に得意げな顔を浮かべた。

「総士先輩、いいものあげますよ。あたしのおごりです」
「なんだ……?」

 手を出せと言われて押しつけられたのは、派手な色合いで包装された棒状の駄菓子だった。

「うんめえ棒です。総士先輩も食べたことあるでしょ」
「……ああ、そうだな」

 そうだ。まだ小さい頃、一騎と買いに来た記憶がある。おこづかいを握りしめて、手にした金額で何を買おうか相談しながら。その中に、この駄菓子もあった気がする。
 懐かしく思って、手にした菓子を見つめていると里奈が腕を肘でつついてきた。

「ほら、せっかくあげたんだから食べて食べて」
「今か」
「そうです、ほら!」

 急かされて包みを破る。
 うんめえ棒は棒状のスナック菓子だ。バーベキュー味という記載が見えるが、バーベキュー味ってどういうものなんだと思う間もなく、ケミカルなしかし妙に食欲をそそる香ばしい匂いが鼻をついた。
 出てきたスナックを一口ほおばって、もそもそと咀嚼すれば、濃い味付けとパサついた食感が、瞬く間に口の中の水分を奪っていく。
 このところスナック菓子を食べていない総士には、ずいぶん懐かしい味だった。しみじみと味わってから、買ったばかりのお茶を一口飲んで口を開いた。

「……悪くはない」

これをうまいと言っていいものか、育ち切った舌には判断の難しいものだったが、それでも癖になる味ではあった。

「たまにはいいでしょ。で、どうでした?」
「は? どうとは?」

 里奈の言葉に、なんのことだと首を傾げる。その反応に里奈はうわっと声を上げた。

「どうって、うわー忘れちゃってるんですか。袋ですよ。裏側見てください!袋の内側!」
「内側、だと?」

 言われて、首をかしげながら食べたあとの菓子袋を内側から除いた。そしてそこに文字を見つけた。
目を見開き、ついで数度瞬きをする。

「ね、どうでした?」
「あたりと、あるな」

 そう答えると、里奈は満足げに笑った。

「だが、なぜ」
「ふふ、あたし、あたり引くの得意なんですよ」

 ほめてくれと言わんばかりの表情で、笑みを浮かべたその両目は、きらきらと輝いている。

「あたしにとっての幸せって、こういう感じです」

「……なるほど」
「あたし、幸せとか、そーゆーの深く考えられないっていうか」

 店の脇に置いてあったうちわを手に取り、右手でパタパタと仰ぎながら里奈はそう口にした。
 だが、考えられないと口にしながらも、実のところ彼女は考えることを恐れているのだということを総士は知っている。幸せの理由や、その先にあるものを考えなければならなくなるからだ。そして考えるほどに四肢を拘束され、沼にはまり込んでいくような感覚を覚えるからだ。それでもここにいようと彼女が必死になっていることを知っている。
 そんなものを抱えているはずの里奈は、それでも総士の前であっけらかんと笑った。

「よくわかんないけど、でもあたりって出たら嬉しいじゃないですか。こーゆーの生きてなきゃ味わえないですもん」
「そうだな。確かにそれは幸せだ」
「でしょ」

 参考になったと告げると、良かったですと返ってくる。

「しかもすまないな。おごらせて」

 総士が詫びを口にすると、そういうのやめてくださいよなどと言う。

「大したもんじゃないし、そんなこと言われたら逆にかしこまっちゃうっていうか。それに、総士先輩ってあんまりウチに来ないじゃないですか。だからこれは、次来たときはいっぱい買ってくださいよーってことです。つまり投資ってやつです」
「なるほど。極めてテクニカルな商法だ」
「でしょー」

 里奈はやはり得意げに胸を張って笑った。
 思わず、総士の口にも笑みが浮かぶ。

「じゃあ、邪魔をしたな」

 無事に茶も買えたことだし総士がそのまま店を出ようとすると、なぜか里奈が慌てて引き留めてきた。

「待ってください、総士先輩!」
「どうした」
「はい、これ!」

 もう一本、同じうんめえ棒を渡されて、総士はきょとんと立ち尽くした。さらにおごってもらうわけにはと言いかけたところで、もーぅ! と里奈が声を上げる。

「だから忘れちゃったんですかあ? あたりが出たら、もう一本です!」

 袋にも書いてあったでしょ! と里奈が頬を膨らませる。
 ああ、そうだった。自分はそんなことさえ、すっかり記憶の片隅に追いやっていたのだ。
 総士はありがたくスナック菓子を手にすると、もう一度ありがとうと彼女に告げた。

「また絶対来てくださいね!」
「ああ、今度は自分であたりを引くさ」

     ***

 総士は商店街を抜け、そのままさらに歩いて行った。
 商店街では、店先の人々に何度か声をかけられた。「おやお休みかい」とか「久しぶりに顔が見れたよ」とか「これからどこまで行くんだい」とか「気をつけてねえ」などと言うものだ。
 自分の存在が当たり前のように認識され、記憶され、こうして島の一部となっていることに、今更ながら驚き、不思議に思う。
 そんなことを噛みしめながら、この気ままな一人散歩をもう少し楽しんでみるかと思っていたときに、「おや、総士くん」と声を掛けられた。
 目を上げればそこは銭湯《竜宮城》の前で、入口から小楯保が出てきたところだった。
 軽く目を瞠ってから頭を下げる。

「こんにちは」
「珍しいじゃないか、こんな時間に」
「ええ、そうですね」

やはり誰が見ても、平日の日中に自分がこうして外にいるのは珍しいものなのだろう。自覚はあったが、それにしてもなんともいえない気持ちになる。もっと頻繁に外に出るべきだなと反省していると、そうだと保が声を上げた。

「ちょうど掃除が終わって男湯を張り替えたとこなんだ」

 総士の顔を見て、保はにこりと笑った。

「総士くん、入っていかないかい」

 貸し切りの一番風呂だぞ、とそう続けた。

     *

いったい自分は何をしているんだろうかと思いながら、総士は一人で銭湯の湯に浸かっていた。
 邪魔にならないようにと結い上げた髪は、すでにしっとりと水分を吸って重たい。勧められるままに入ってしまったが、これで良かったのだろうか。
 ぼんやりとそんなことを考えていると、がらがらと音を立てて浴場の扉が開き、保が向うから顔を出した。

「どうだい、総士くん」
「大変いい湯加減です」

 そうだろうそうだろうと笑い、保は風呂場を見回して確認を終えると、「じゃあ、俺は女湯を入れ替えてくるから、どうぞごゆっくりと」言って再び出ていく。
 取り残された総士は、ふうっとため息を吐くと、全身の力を抜いて首元まで湯に体を沈めた。
 かぽーん、という音が響く。

「幸せだな……」

 気づくとそんな言葉が零れていた。里奈も風呂に入るときが幸せだと口にしていたが、これは間違いなく幸福の時間だ。
 力を抜いた四肢に、湯の温もりがジンジンと痺れるように伝わってくる。最近シャワーだけで済ませていた身体には、染み入るような感覚だった。
 自然と吐息がこぼれる。
 ほかに誰もいない、まだ昼頃の一番風呂。このだだっ広い空間を独り占めしている贅沢。
 高い天井をぼんやり見上げていると、どこからともなくかぽーん、かぽーんと独特の反響音が聞こえてくる。間抜けな、というにはどこかぬくもりのある音だ。
 きっと隣の女湯からだろう。木桶をタイルに置くときに響く音色。これぞ銭湯に来たなと思わせる。

 ――このまま寝てしまいそうだな……。

 結局、総士がいる間にほかの誰かが来ることはなく、最後まで一人風呂を満喫して総士は脱衣所に移動した。
 水分補給をしてからのんびりと髪を乾かし、来たときの服に着替え終わってから脱衣所を出ると、番台に座って新聞を読んでいた保が、総士に気づいて笑った。

「どうだった?」
「最高でした」

 風呂の心地よさと、さきほど風呂上りに飲んだフルーツ牛乳の冷たい甘さを思い出す。
 冷やされたそれが自販機に置いてあるのを見つけ、いくらなんでも満喫しすぎではないのかと、自分のはしゃぎようにいささか恥ずかしさを覚えたのだが、欲望に抗えず購入して口をつければ、そんな思考は吹き飛んだ。あっという間に一気飲みをしていた。
 昔、ファフナーパイロットたちでこの銭湯を訪れ、やはりフルーツ牛乳を飲んで「ぷっはー!!生き返る!!」と剣司が叫んだ声を思い出した。「ビール飲んだおじさんじゃないんだから」とたしなめていたのは衛だ。まだ生きているのに生き返るとは、どういうことだと思ったあの言葉を、今になって痛いほど噛みしめた。
 水分が枯渇した身体が、細胞の一つ一つが、歓喜しながら甘露を享受するのを感じた。萎れていた花が雨を受けて、再びしなやかに茎と葉を伸ばすような。
 生きている、今ここに自分は確かに生きている。そんなふうに思えた。
 それは、とても幸せなことなのに違いなかった。

「保さんの仕事はすごいなと思いました」

 風呂に入ると誰もが幸せになれる。その幸せを提供する場所を、今も守る人。

「幸せな気持ちになりました」

 総士が最大限の感謝を述べると、男が嬉しそうに目を細める。

「またおいで」
「はい、是非」

 礼を言って外に出ようとしたとき、あ、そうだと保が声を上げた。

「伝言を頼まれてた。危ない危ない、忘れるとこだったよ」
「伝言?」
「一騎くんが、うちに寄っていけ、だそうだ」

     ***

 その15分後、総士は真壁家の前に立っていた。
 鍵をほとんどかけることのない見慣れた引き戸を、ノックをすることなくいつものように開く。 お邪魔しますと口にして足を踏み入れた瞬間、ふわりとだしの香りがした。
 真壁家は、いつもいろんな匂いがする。土の臭い、畳の臭い、木の臭い。人が生きている匂いだと、総士はいつも思っている。
 玄関の音を聞きつけて奥からすぐに一騎が顔を出す。総士の顔を見て一騎は破顔した。

「いらっしゃい。ちゃんと伝わったんだな」

 どこか面白がるように言いながら「腹減ってないか?」と尋ねてくる。

「まだなら昼飯食ってけよ」
「ああ、いただこう」

 一騎のことだから、総士に食べさせるつもりですでに準備しているのだろう。
 思えば、突然の本日の休日を命じられてから、外に出てそのままだった。
 時間はすでに昼を回っている。それでもまだ半日しか経っていないわけだが、今日はずいぶんと色んなことを経験した気がする。
 朝からのことを思い返していると、一騎が総士の顔を下から覗きみて首を傾げた。

「なんかいいことあったか、総士」
「そんなふうに見えるか」
「なんとなく。空気がふわってしてるっていうか」

 なんだそれは。
 あいかわらず一騎の言うことは抽象的で要領を得ない。だが、言いたいことはなんとなくわかってしまうのも事実だ。

「そうだな」
「へえ、気になるな?」

 とりあえず上がれよと言われて、お邪魔しますともう一度口にした。
 居間に案内してから総士に卓袱台の座布団を勧め、自分は台所に足を向けながら一騎は言う。

「今日、買い出しのついでに豆腐屋さんに寄ってさ、お前、前にがんもどき食いたいって言ってただろ。思い出したから少し多めに買ってきたんだ。豆腐屋さんも覚えてて、是非総士に食べさせてやってくれっていうし。それに父さんも好きだし。それで買い物の途中でさ、 あちこちでお前のこと見かけたって聞いて、それで伝言頼んだんだよ」

 その言葉に総士はぎょっとする。

「一騎……まさかお前、保さんだけじゃなくて出会う人間全員に僕への伝言を頼んだんじゃないだろうな」
「え? そうだけど」
「なんだと…」
「だって、お前今日一日仕事だって言ってただろ。それなのにお前を見かけたってあちこちで話を聞くし、それなのに会えないし。今日は楽園も休みだろ? だから保さんと、イアンさんと、里奈と、八百屋のおじさんと…それくらいか」
「わかった。もういい十分だ……」
「でも伝わっただろ?」
「そうだな……」
「ちゃんと、お前が来た」

 一騎は得意げだ。
 島は狭い。総士が散歩をしていることも、一騎が総士を探していることも、おそらくすでにほとんどの人間が聞き知っているはずだ。

「昔はそういうの嫌になるときもあったけどさ」

 一騎がはにかむように笑った。

「ここにいるんだなって、今はすごく思う。この島で生きてるんだって」

 温泉卵を乗せたきつねうどんとほうれん草の白和えに、先ほど煮付けたところだというがんもどきの煮物という食事を済ませる。
 楽園で昼食を取ることはあったが、こうして真壁家で一騎の手料理をゆっくり味わうのは久々だなと噛みしめつつ、居間で煎茶を飲んで憩いながら、そういえばと総士は思い出した。
 お茶と一緒に紙袋に入れていたものを取り出して一騎に渡す。

「一騎」
「ん?」
「これをやる」
「なんだ……? あ、うんめえ棒だ」

 一騎は細長い駄菓子を受け取って、目をぱちぱちさせながら嬉しそうな声を上げた。

「へえ、懐かしいな。お前、西尾商店にも行ったのか。自分で買ったのか?」
「いや、西尾におごってもらった」

 正直に告げると、一騎がおかしそうに笑う。

「はは、おごってって……お前後輩に」
「好意は受け取るものだ。それに礼は別の機会にするつもりだ」
「そっか。でもほんとに、懐かしいな。昔お前と買いに行ったりしたよな」

 懐かしそうに、目を細めて駄菓子を眺める一騎に、そうだ大切なことがあったと総士は思い出した。

「一騎」
「ん?」
「当たりが出たらもう一本だ」

 ぶはっと吹き出す音が聞こえた。
 うんめぇ棒を手にした一騎が、顔を伏せて肩を震わせている

「なんだ」

 思わずムッとして問いかけると、まだ笑いをこらえきれていない顔が総士を見た。琥珀の目に涙まで滲ませている。

「だって、お前、そんな真面目くさって言うから」
「だが大事なことだろう」

 言われるまですっかり自分が忘れていたことを、忘れていたからこそ強調する。

「うん、大事なことだよな」

 一騎はふふっともう一度笑みをこぼして、ピリリと袋を開けた。駄菓子の入っている内側を覗き込んで声を上げる。

「あ」
「どうした」
「当たりだ」
「ほんとか?」
「ほんと」

 一騎に手渡されて、総士も確認する。思わずしみじみと唸った。

「西尾はすごいな……」

 伊達に店番やってないですから!! と得意げに顎を反らす少女の顔が浮かぶ。
 結局スナックを2人で割ることにした。煎茶を片手に半分をそれぞれかじっていると、そうだと一騎が呟いた。

「俺もうんめえ棒の当たり持ってるかも」
「お前が?」
「うん」
「最近行ったのか」
「違うよ。……昔の」

 一騎が目を細める。ひどく柔らかいそれに、総士は胸を掴まれたように思った。

「ずっと昔のだよ。お前と一緒にひいてさ、今度行こうって…そのまんまになってたやつ」
「そうか」
「探せば多分あるな。あ、でも10年以上前の当たりなんて、期限きれか?」
「……大丈夫だろう」

 この島なら。むしろ喜んで、引き換えてくれるのではないだろうか。経過した時間に、そして今ある時間に感謝を抱きながら。これもまた、幸せの一つの形というものだろう。

「じゃあ、今度一緒に西尾のおばあちゃんとこ行こうな」
「ああ」
「暑くなってきたし、パピコとか食うか?」
「それもいいな」

 ふはっと、一騎がまた笑い声を上げた。

「なんだ」

 ん、だってさ、と一騎が目を細める。

「今日のお前、ずっと楽しそうにしてるから」
「そうかもな」

 総士はそう答えた。

「ここにいられて、戻ってこられて良かったと改めて感じていた」
「そっか」

 一騎は頷いた。

「そっか、うん」

 もう一度繰り返す。ついで一騎は笑った。

「嬉しいな」

 ひどく柔らかい、甘くとろけるような笑みだった。
 その顔を、総士はまじまじと見た。言葉を無くして凝視してくる総士に、一騎も不思議に思ったらしい。首を傾げて尋ねてきた。

「どうしたんだ、総士」
「いや」

 総士は眼鏡を押し上げて、かすかに口端を弛める。ゆるりと唇が弧を描いた。
 目元を柔らかく細め、総士は告げた。

「幸せだと、そう思ったんだ」


今も息づく血を分けた命
蒼穹の下、陽を浴びる故郷
柔らかな猫の毛とぬくもり
確率の先の小さな驚き
全身を包む温かな癒し
体内に染み込む鮮烈な甘さ
美味しい食事
友の笑顔
それを嬉しいと思う心

今、ここに生きているということ

- end -


2017/05/08 pixiv up

2007/2月幻蒼イベントでの無配を書き直したものです。
以前ツイッターで出たお題の「いいねの数だけ流流の総士に幸せって言わせる 」をもとにしています。10個いいねを頂いたので、このようなお話になりました。
皆城くんの台詞と項目を、それぞれむりやり10個。
ついでにめちゃくちゃ遅い皆城くんおめでとうと、続編ありがとうの気持ちを込めました。
皆城くんは、研究で忙しくはしつつも島での生活に触れることも大事にしていたんじゃないかなと思っています。
多分、ほぼフェストゥムとなってしまった自分の身体の生存限界が未知数(あるいは長くない)ことを分かっていて、だからこそ島や仲間たちと関わる時間を、その一日一日をより大切に過ごしていた気がする。

※皆城くんが買ったのは、冷たいほうじ茶。
※竜宮島のうんめえ棒は当たりつき。
※うんめえ棒には、定番のメンタイ味やコーンポタージュ味のほかに、チーズ味とかスルメ味とかカレー味とかシチュー味とか、キワモノなところでモンブラン味だのショートケーキ味だの味噌ラーメン味だのがある。誰が開発しているのかは不明。一部の大人にも(酒のつまみとして)大人気。
西尾商店のレジ脇にある投函箱に「こんな味食べたい」と希望を書くと反映されるとかされないとか。
※その他、かっちゃんイカとか、コロコロキャラメルとか、レタス太郎とかタツミヤ昆布などがある。フェストゥムグミ(せとうちレモン味)もひそかな人気。こだわりのちょっと固め。真ん中あたりにイチゴ味のラムネが入っているのでかみ砕くと良い。
※かっちゃんイカは、溝口さんが真壁家での飲みのつまみによく買ってくるので、一騎くんは毎回「かっちゃんって誰なんだろ…」って思いながらごみを片づけている。
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