カーテンコールに耳をふさいで
【サンプル】


序章 空のない街


 一騎が飛び降りたと聞いたのは、もう5回目のことだった。
 高校の授業を終え、取り出した携帯端末に入っていたメールの一文を見つけて総士は眉を寄せた。瞬間わきおこった苦い感情をねじ伏せるようにため息を吐く。端末を握りしめ、それ以上何を吐き出すこともないよう腹に力を入れた。
 またか、というのが総士の感想だった。

 また、一騎が飛び降りた。

 一騎…真壁一騎は総士の幼馴染だ。幼馴染と呼ぶのさえ生ぬるいだろう。総士には幼馴染がほかに何人もいるが、一騎と総士の間にあるのは、彼らと同列にするには抜きんでて密なものだった。
 総士の両親と一騎の両親の親交が深かったこともあり、一騎とは生まれたときからともに育った。家に残るアルバムデータには、同じ布団に並んで寝かせられているまだ赤子の一騎と総士の写真が保存されている。総士は一騎がいない世界を知らない。一騎がかたわらにいるのが総士にとっての当たり前であり、いわば一騎は総士の半身といって良かった。総士は息をするような自然さで、その事実を受け入れていた。
 総士より二つ年下の一人きりの妹は生まれついて身体が弱く、今も病院の施設で暮らしている。父も母も、仕事と妹のことで常に忙しくしていたために、結果誰よりも一騎と過ごす時間が多かったことが、一騎に抱く執着にも近い感情を、より根強いものにしたのかもしれない。一騎の母親と総士の母親が、二人が九つのときに相次いで亡くなったことも。
 どんなに寂しいときも、つらいときも、いつも一騎が隣にいた。一騎さえいれば、総士は総士でいられたし、どんな苦痛にも耐えることができた。
 だから、総士は一騎が自分の隣からいなくなる日のことなど、一度も想像したことがなかった。まして、一騎の存在そのものが、総士自身にとっての痛みになるなど。
 総士は、一騎との幼い頃からの関係がそのまま永遠に続いていくのだと思っていた。
 だが、そんなものはまったくの幻想でしかなかった。総士はそのことを、一年前の夏に思い知った。いや、思い知らされた。
 一騎が突然、街中のビルから飛び降りた日に。
《状況は。》
 メールを送ってきた相手に対して、簡単な文章を打つ。一騎のことを必ず連絡してくるのは、やはり幼い頃から知っている春日井甲洋だ。
 すぐに返事が返ってくる。
《――美浜町のビルから落ちたって。竜宮西病院にいる。命に別状はないよ。》
 続けてメールが来た。
《―― 一騎のところに行く?》
 総士は、行かないと伝えた。一命を取り止めたというのなら、それで良かった。一騎は死んではいない。なによりも、病院で一騎の顔を見たくなかった。
 メールを送り終わった携帯端末を、通学カバンに放り込む。同級生たちがどんどん下校していく中、総士は帰る気にもなれず、ビルの三十二階にある高等部の教室から向かいのビルを眺めた。喉奥に石を詰め込まれたように胸が苦しい。胃は重たく、むかむかと不快感を訴えている。
 つるつるに磨かれた窓ガラスには、陰鬱な自分の表情がぼんやりと映っていた。顔色も、背中まで伸びた亜麻色の髪も、すべてがくすんで見える。その向こうには高層ビル群が無数の針のように並んでいた。見慣れた光景。総士が生まれたときから知る竜宮島の街並み。
 この街には、空がない。
 目に映るのは天を衝かんとするビルばかりで海などどこにも見えないのに、街が島の名を冠するのは実に不思議だが、この土地ははるか昔は文字通り島であったのだという。もはや想像することさえ困難だが、かつては青い海と白い浜辺に囲まれた緑豊かな美しい島だったらしい。
 それが、この数百年の間に海は可能な限り埋め立てられ、増え続ける人口をまかなうために、高層住宅や商業ビルが次々と建設されていった。そして荒波を避けて居住区を守るため、かつて島であったという埋立地一帯は、今や高さ十数メートルにもなる強固な防波堤でぐるりと周囲を取り囲まれている。竜宮島の端へ行ったとして、目にするのは立ちはだかるコンクリートの壁だけだ。わざわざそんなものを見に行く人間はいない。
 人口が増えるばかりの街は、空へ空へと建物を伸ばしていった。今もそうして建物は増え、伸び続けている。まるでバベルの塔のようだと、総士は思ったものだ。天まで届くことなく、いつか神の光に焼かれて滅びる都市のことを総士はいつも連想した。
 あのビルのどれかひとつでも、その一番上へ登ることができれば、地上の煩わしさから逃れて、一面の空というものを目にすることができるのかもしれない。一騎はよくそんなことを口にしたし、総士自身も幼い頃はビルの上へ行きたいとひそかに憧れた。だが、実際は叶うはずもない夢だということを、総士はすぐに理解した。
 高層ビルの最上部は、そのほとんどが太陽光を受けてエネルギー変換するためのシステムで、つまり一般住民が屋上へ上れるものはない。居住区の建物は最上階に上がることはできたけれど、そうしたところで、周囲はそれより遥かに高いビルにぐるりと囲まれているから、開放感や爽快感など望むべくもない。ビルの隙間からわずかに覗くくすんだ青が、総士や一騎の知る空のすべてだった。
 ときどきビルのはるか頭上を高く飛んでいく飛行機の姿を目にすることもあったが、自分たちのうちの誰もそんなものに乗ったことはなく、その飛行機がどこからやってきてどこに行くのか知る人間もいなかった。そんな閉鎖的な街で、総士たちは生きていた。
 友人の一人である来主操は、こんなの息ができないよと早々に街を出てしまって、そのまま音信不通になった。知り合いが外にいるからと言っていたが、当時まだ中学生だった操がどうやってこの街を出たのか、その後どう暮らしているのかは、大人たちさえ知らなかった。
 この街で生まれ、ビルに挟まれて遠い空を見上げながら生き、そうして死ぬことが自分たちの当たり前だ。総士はそこに疑問を抱いたことはない。父も母もそうしてきたし、父の父、そのまた父だってそうだ。
 それに、ビルばかりが立ち並ぶとはいえ、街は管理されて治安もよく、住民が快適に生活できるようすみずみまで整備されている。山はどこにも見えないが、緑がないわけではない。道路の両端にはどこでも街路樹が植えられているし、ビルの合間には公園が点在している。屋上に庭園を設けている建物もある。総士の妹が入っている施設もそうだ。季節折々の花が咲き乱れて、いつも目を楽しませてくれる。妹を乗せた車椅子を押しながら二人で散歩をする時間は、総士にとって心休まる穏やかで大切なひとときだった。
 操が特殊なだけで、総士はこの街での生活に満足していた。完璧な幸福などありはしない。少なくとも父がいて、妹がいて、一騎や友人たちもいる。この街の外のことは知らないが、戦争や大きな事件も起こることはない。平穏な日常が続くことを疑っていなかった。

 ――それなのに。

 総士はぎりと歯を噛みしめた。
 それなのに、この街にあるビルのどこかから、今日も一騎は飛び降りた。
 いつもこうだ。一騎は三ヶ月から半年に一度のペースで、不意にビルから飛び降りる。
 予告めいたものはない。なんの予兆も見せない。本当に思いつきとしか思えないタイミングで、まるで空を飛んでみたかったというような呆気なさで、一騎はその身体を空へと躍らせるのだ。
 もともとの身体能力の高さもあってか、単に運が強いのか、一騎は必ず一命を取り止め、しばらく病院で入院したのち、日常生活に戻る。そうこうするうちに、またどこかのビルから飛び降りる。その繰り返しだった。
 一騎が初めて飛び降りたのは、十四歳のことだ。夏が盛りを過ぎ、夕暮れに残暑の気配を漂わせはじめたころ、自宅があるマンションの屋上から飛び降りた。もっとも、それが飛び降りだとは、最初誰も気づかなかった。不運な事故なのだと思われていた。
 一騎の住むマンションは、築年数が古い上に五階建てとさほど大きくはなく、この一帯ではかなり低い建物だ。一階が一騎の父親が営む器屋で、その二階が父と息子が二人で暮らす居住空間になっている。三階から上はほかの住人が住んでいるが、誰もがのんびりとしていて、集合住宅の空気を感じさせない。そしてどこか懐かしい。
 一騎の暮らす場所の、喧騒のない穏やかな空気が、総士はとても好きだった。そして一騎と二人で、よく屋上に上って遊んだ。
 マンションの屋上は、通常の建物がそうであるように周囲をぐるりとパラペットで囲まれており、住民が洗濯を干すのに使う場所だった。ビル風にひるがえる洗濯物の間で、おいかけっこやかくれんぼをしたこともある。一騎はすばしっこく、大きなシーツが波のようにはためく中を泳ぐように駆けて、いつも総士の手をすり抜けてしまうのだった。
 大人たちは、一騎や総士がそうして遊ぶ様子をあたたかく見守ってくれていた。もっとも、うっかり洗濯物を汚して怒られることはあったけれど。
 個人の庭さえほとんど持てないこの街で、太陽の光が射す空の下で洗濯を干せる場所は珍しい。大抵の屋上は管理されていて、子供が自由に出入りすることはできなかったから、一騎の家の屋上が、あのときの自分たちにとって一番空に近い場所だった。ビルの影に切り取られた空は、どんなに小さくても確かに総士と一騎のものだった。マンションの屋上は、あの日の二人だけの小さな楽園だった。
 その場所から、一騎は飛び降りた。
 一騎が屋上から落ちたという知らせを受けたとき、総士はいったい自分が何を聞かされたのかまったく理解できなかった。普段は理論に基づいた分析を得意とする脳が、いっさいを拒否して思考を停止させた。なぜだ、どうしてという疑問ばかりが頭を支配し、呆然としながら父と一緒にタクシーで一騎が収容された病院へ向かったが、直接の面会はできず、ガラス越しにその姿を確認しただけだった。それさえも現実味がなく、まるでテレビの向こうの世界を眺めるような気持ちで、ベッドに横たわる一騎をいつまでも見つめていたことを覚えている。
 一騎は命を落とすことはなかったものの、とうぜん無傷というわけにはいかなかった。右足は骨折、右腕は罅が入り、全身に打ち身。白いシーツから覗く顔は、あちこちがガーゼで手当てされていた。その様はあまりに痛々しく、命に別状はないと聞かされていながら、総士は一騎がこのままいなくなってしまうのではないかとひそかに怯えた。一騎の意識が戻り、面会ができるようになってからも、その琥珀色の目に自分が映っているのを確認しても、奇妙な不安が拭えないままだった。
 最初、この出来事が一騎自身の意思による飛び降りだと考える人間はいなかった。一騎本人も混乱と当惑が激しく、おそらくパラペットから身を乗り出し、下でも見下ろそうとして起きた事故だったのだろうと結論された。一メートルほどのパラペットは、幼い子供にとっては途方もなく高く思えたが、今の身長なら胸ほどの高さしかない。大人たちの推測に、一騎も特に異議を唱えることはなかった。今思えば、あのときもっと一騎に話を聞くべきだったのだと、その様子に注意しているべきだったのだと考えが及ぶが、すべては過去のこと。時間は二度と戻らない。
 一騎は、怪我が治るとすぐにまた学校に通い始めた。そして相変わらず総士の隣にいた。ときおり考え込む様子をよく見せるようになったが、もともと言葉数の多いタイプでもない。話しかければ笑顔を見せたし、総士はこれでまた日常が戻ってきたのだと感じた。
 だがその半年後、一騎は再びビルから転落した。自宅から歩いて三十分近く離れた、雑居ビルの外付け階段からだった。そして一騎は、見舞いで訪ねた総士に、自分で階段から飛び降りたのだと白状した。その頬は赤く腫れあがっていた。落下の怪我によるものではない。父さんが、と一騎は泣き出しそうな顔で微笑んだ。声を失った総士が、一騎の頬に震える手を当てると、手のひらにじんと焼けるような熱が伝わった。一騎は目を伏せただけだった。二人の間に、それ以上の言葉はもはや紡がれなかった。
 その三ヶ月後に、一騎はまた飛び降りた。



 やがて、総士は次第に一騎から距離を取るようになった。
 高校は、自宅から電車とバスを乗り継いで一時間以上かかる進学高を選択した。もともと担任教師には、より学力に見合った学校に進めと言われていた。渋っていたのは、一騎と離れることに抵抗があったからだ。
 だが今となっては、総士は一騎の顔を見つめることが苦しくなりはじめていた。不意に飛び降りるという一点以外は、一騎は普段と変わらぬ様子で総士に振舞ったし、なにか相談をしてくることもなかった。ときおりもの言いたげな目をすることはあったけれど、それだけだった。
 自分と離れることで、あるいは一騎の飛び降り癖が収まるのではないかという期待もあった。幼いころから、近すぎるほどにそばにいた自分たちだ。総士との距離が一騎に変化を与えるのでは、なにかのきっかけとなるのではと考えた。一騎に、気づいてほしかった。
 だが中学を卒業し、互いに別の高校に進学して間もない四月の終わりに、一騎はまたも飛び降りた。四回目の飛び降りだった。
 この4回目の飛び降りで、一騎は右目を負傷した。落下の際、植え込みの枝で眼球を傷つけたのだ。失明こそ免れたが、視力はほとんど失った。
 右目を眼帯で覆った一騎を病院で見つけたときに、総士は頼むからもうやめてくれとなりふり構わずに懇願した。
 こんなことでお前を失いたくない。理由があるなら教えてほしい。どうしたらお前を止められるんだと訴えた。
『一騎…!』
 呼ぶ声は、もはや悲鳴になっていた。
 だが、一騎はごめんと謝るばかりだった。ひどく申し訳なさそうに、悲しげに肩を落として、途方に暮れたように。

 ――ごめん、ごめんな総士。
 ――ありがとな…。
 ――ごめん。

 そのどれも、総士が聞きたい言葉ではなかった。自分の声が、まるで一騎に届いていないように感じて愕然とした。そのまま無力と苛立ちに苛まれながら総士が病室を退室しようとすると、一騎がベッドに横たわったまま尋ねた。
 ―なあ、ここから空は見えるか?
 こんな状況で気にするのがそんなことなのかと総士は思った。この病室の窓は中庭に面している。庭はそこそこの広さがあったから、見上げることはできるだろう。簡潔にそう告げると、一騎はそっかと安堵するようなため息を漏らした。

 ――良かった。

 そう呟いて残された左目を閉じる。その口元がかすかに微笑んでいるのを総士は呆然と眺めた。
 総士は、その日を最後に病院へ行くのを止めた。あれから一騎とは会っていない。
 同じ街に住んでいるとはいっても、雑然としたこの世界では、いくらでも距離をとることができた。総士は、一騎の姿を…その存在を自分の視界から徹底して排除した。
 ときどき一騎から短いメールが届くことがあったが(元気か、とか飯ちゃんと食ってるかという短いものだ。一騎のメールはいつも簡潔だった)、それに返事をせずにいたら、やがてなんの音信も来なくなった。
 その代わり、友人たちから一騎のことを知らせるメールがときどき来るようになった。最近は元気そうだとか、この前ショコラ(羽佐間家で飼っている犬の名前だ)と散歩しているのを見たとか、バイトを始めたらしいとか、そういうものだ。総士を、そして一騎を気遣ってのことだと理解していた。けれど、そのすべてを総士は煩わしいと感じていた。一騎がバイトを始めたという喫茶店を覗いてみたい衝動に駆られたはしたものの、結局足を運ぶことはなかった。
 そして今回、高校生活初めての夏休みを終えて二学期に入った九月の頭に、一騎はまた飛び降りた。

 ――これで5回目。

 数を数えている自分が嫌になった。総士は窓ガラスに映る世界から顔を背けた。口の中がひどく苦い。
 どうせ、自分が連絡を取ろうが、会いに行こうが、一騎はそのうち再び飛び降りるのだ。
 総士にはわかっていた。そしてわかっていながら、一騎に対して自分が何もできないことを思い知らされるのが嫌だった。
 一騎は、飛び降りる理由を誰にも一度も口にしたことがない。尋ねても、ただなんとなくと困ったように答えるだけだ。そのことで彼の父がどんなに憔悴し、友人たちが心を痛め、総士が自分の無力に身体中を切り刻まれるような思いをしているのか、一騎はわかっていない。わかっていないとしか、思えなかった。
 いっそ、辛い、苦しい、助けてくれと吐き出してくれれば。一騎が助けを求めるのなら、いつだって手を伸ばす用意があった。一騎にしてやれることがあるのなら、それがどんなことだってしてやりたかった。だが、一騎は結局誰の手も借りることはしなかったし、それは総士相手でも同じだった。自分という存在は、いったい一騎にとって何だったのだろうかと、総士は思った。
 あいつは死にたがりなんだと、誰かが口にしたのを総士は耳にした。
 ――死にたがり。そうなのかもしれない。一騎はいつの間にか死に魅入られて、あるいは囚われてそこから抜け出せなくなってしまったのか。
 一体何が一騎をそうさせたのか。考えてもわからなかったし、総士はもう考えることを止めていた。いや、考えまいとした。
 少し前まではあんなにも一騎のことを近しく思っていたのに。その姿を見れば、表情と声があれば、まとう空気からでさえ一騎が何を思い、何を考えているのか、あの日の自分は手に取るように理解できたのに。
 もう、一騎のことが総士にはわからない。その心がまったく見えなかった。
 それからも、一騎は飛び降り続けた。半年に一回であったものが、四ヶ月に一回、そして二ヶ月に一回と、次第に回数が増えていったが、その事実さえ、もはや総士を苛立たせるものにしかならなかった。いつしか、甲洋のメールにさえ返事をしなくなった。
 自分の気を引きたいのなら、もっとマシな方法を取れとさえ思っていた。
 重く苦いものを無理やり嚥下させられるかのような痛みと不快感を、ひたすらに胸の奥、腹の底へとねじ伏せながら、一騎のことをできるだけ考えまいとした。



 そんなある日、一騎は死んだ。
 それは、11回目の飛び降りのことだった。
 ――9月18日。一騎の誕生日を3日後に控えていた。
 17歳を目前にして、一騎の時間は永遠に停止した。
 隣の地区にある雑居ビルの屋上から飛んだという話だった。あまりにも現実味のない、あっけない最期だった。
 その連絡は、いつものように甲洋からのメールで来ることはなかった。
 ―皆城くん、一騎くんが。
 涙声で告げる、久しぶりに耳にする遠見真矢の声を自宅の受話器の向こうで聞きながら、総士は呆然としたまま窓の外を見つめていた。
 外はまだ明るいのに、指先から身体がゆっくりと冷えていく。自分の心臓ごと氷漬けにされるような心地を、総士はまるで他人事のように感じていた。
 久しぶりによく晴れた夏の終わりの日のことだった。どこかなつかしい青がビルの隙間からかすかに覗いていた。





     1 手紙

 一騎が死んでから、あっという間に2年が経った。
 総士は高校を首席で卒業し、そのまま大学へ進学した。選んだのは、キャンパス内に高層タワーを新設したばかりの名門医大だった。薬学部の中でも一番忙しい研究室をあえて選択し、ひたすら研究に打ち込んだ。平日は一人暮らしを始めたマンションに帰宅して倒れ込むように寝るだけ、週末は妹のいる施設に見舞いに出かけて彼女と過ごす。自由な時間はほとんどなく、作らなかった。
 友達付き合いもせず、勉強を主眼に据えた必要最低限の生活を送る総士に、父は当然良い顔をしなかった。従姉の蔵前は、みんなあなたのこと心配してるのよと連絡をくれたが、「その気持ちには感謝している、すまない」とだけ告げて通話を切った。
 大学ではすっかり、有能ではあるものの陰鬱で近寄りがたい人間というレッテルを貼られている。表情を緩めるときがあるとすれば、妹の前でだけだった。聡明な彼女は、総士の状況などとっくに察しているだろうに、何も口にすることはなかった。「総士」と名前を呼んで、いつも笑顔で迎えてくれる。大学に入ってからときどきかけるようになったメガネを、似合うよと言いながら笑い転げたのも彼女だった。まるで屈託のない様子で、総士の生活について聞きたがり、新しいことを知っては手を叩いて喜んだ。妹との時間だけが、総士の心の支えだった。
 総士は、一騎の葬式に参加せず墓参りにも行かなかった。
 家族や幼馴染は、総士のその行動になにも言わなかったものの、そんな反応ばかりではなかった。冷たいと非難する周囲の声に、だが総士は反論することもせずただ聞き流した。
 何も知らない人間は、総士と一騎が不仲なのだと思っていただろう。昔は仲が良かったのに残念だと。事実は逆だ。
 総士は一騎が好きだった。幼い頃から、いや物心ついたときからずっとずっと好きだった。総士が一騎から離れたのは、一騎が好きだったからだ。好きでありながら、どうしようもできない自分が許せなかったからだ。好きだからこそ、一騎の行動も許せなかった。
 そして、今も総士は一騎が好きだった。空虚で無機質な日々にあえて自分を置くほどに。
 距離を置いていたときだって、忘れたことはなかった。
 少年らしいくっきりとした眉と凛とした強い眼差しが印象的な一騎だったけれど、柔らかな輪郭に大きな目やつんと尖った小さな鼻、控えめに開かれた唇は、どこか少女めいた繊細さがあった。
 駆け回ったあとに上気して赤く染まった頬を、総士は何度もおいしそうだと思ったし、実際齧りついてみたい衝動に何度も襲われた。それが紛れもない欲だと自覚したのは、もう少し成長してからのことだ。
 今も覚えている。小麦色の柔らかい頬も、ふだん他者に対しては幾分ぎこちない微笑みが、総士を見たときに光が射したようにぱっと明るく輝くことも。砂糖を煮詰めたような琥珀色の双眸が潤む様も色づいた唇も何もかも。
 形の良い耳に口を寄せて声をかけるとくすぐったいと身を捩って笑うから、伝言ゲームの類や内緒話がまったくできなかったことも。
 封じ込めていた記憶はどこまでも鮮やかだ。忘れられるはずもない。過去になどできるはずがない。
 総士はそう、怖かったのだ。葬儀に出てしまえば、墓を…位牌を目にしてしまえば、一騎の死は本当になってしまう。一騎は確かに死んだのだと認めなくてはならなくなる。
 総士は、高校に進学してから一騎と自分から連絡を取ることはしなかった。4度目の飛び降り以降、一騎との直接の繋がりはほぼ絶たれたといってもいい。これからも同じように過ごしていれば、一騎はまだ総士の知らないところで生きていることになる。
 つまり、総士は現実から逃げたのだった。誰も総士の前で一騎の名を口にしなくなった。まるで腫れ物に触るような扱いだったが、それでも総士にとっては都合が良かった。
 本当は、一騎がもうどこにもいないことなど、痛いほど理解していた。あれだけ飛び降りを繰り返していれば、いつか本当に命を失う日が来るかもしれない。そもそも今まで無事だったことの方がおかしかったのだ。頭の隅ではそう冷静に考えていたのに、一騎が死んだという事実を、総士の心はどうしても受け入れられずにいた。
 いつかはちゃんと向き合って一騎と話そうと考えていた。もう一度改めて一騎の心にあるものを知ろうと。
 一騎を視界から排除しながら、心はいつだって一騎の姿を探していた。本当はずっとそうだった。飛び降りるたびに身体をボロボロにしていく一騎の姿を見たくなくて逃げ出した。自分がこれほどに心の弱い人間だと知りたくはなかった。それでも、いつかは一騎にまた向き合えるはずだと言い訳を重ねていた。
 けれど、そんな日は一騎の死を最後に永遠に来なくなった。一騎はもう十七歳になることはない。総士が17歳を過ぎて18歳になり、やがてもうすぐ成人して20歳を越えても、一騎の時間は永遠に止まったままもう動くことはないのだった。
 いつからか空を見上げることもしなくなった。空を見ると、一騎のことを思い出すからだ。一騎はいつも青い空のこと、そして青い海のことを口にしていた。総士は、一騎ほどに空や海に抱く憧憬を理解はできなかったけれど、いつか一緒に青い空を見ようなと誘ってくる一騎の笑顔は好きだった。
 その記憶さえ、総士にとってはもはや痛みでしかない。一騎との時間を、総士はつとめて心の奥底へ封じ込めようとした。それでも空は、それが淡くくすんでいても、どんよりとした曇天に遮られていても、ビルの窓ガラスや、地面の水たまりや、携帯端末の画面にふいに映りこんでは総士にその存在を教え、鋭く心を突き刺した。
 どんなに自分を誤魔化したところで、総士の隣に今一騎が存在していない事実は変わらない。一騎がいなくても時間は過ぎていく。世界は変わらず回り続ける。その現実がただ虚しかった。過去に戻ることも、未来に進むこともできず、総士の時間は、一騎が飛び降りた日のまま止まってしまっていた。



 凍りついた総士の時間を進めたのは、一通の手紙だった。
 大学も2年目となり、この生活に多少慣れながらも、ますます課題を抱え込んで慌ただしくしていたときだった。初夏を過ぎ、研究室があるビルから見下ろす街路樹の緑が、目に痛いほどの鮮やかさをまとうようになっていた。総士が、いつものように夜遅くまで研究室に残ってから自宅マンションに戻り、エントランスにある郵便受けを覗くとチラシに交じって見慣れないものが入っていた。
 それが手紙封筒だと気づくのに、総士はいささか時間を要した。そんなものをこのところ目にしたことはなかったからだ。このご時世、紙の手紙など滅多にお目にかかることはない。連絡をとるなら、電子通信の方がよほど早く確実に届く。
 不審に思いながら、チラシの間から封筒を引っ張りだせば、封筒はひどくくたびれていて、もとは白かったのだろう色はうっすらと黄ばんでところどころ黒ずんでいる。ボールペンで書いたと思われる宛名の字もよれて霞んでいた。それでも確かに読める。
《皆城 総士様》と。
 その字を目にして、総士はぶわりと全身が総毛立つのを感じた。見覚えのある書体だった。自分が間違えるはずはない。心臓がどくどくと早鐘を打つ。呼吸が浅くなり、こめかみにじっとりと汗が滲むのを感じる。口の中はからからに干上がって、粘ついた唾液が舌に絡んだ。
 総士は、手紙をおそるおそるひっくり返した。一瞬息を止めてから、差出人の名前を見る。
そこには、確かに《真壁 一騎》と書かれていた。

 ―― 一騎。

 総士はごくりと息を呑む。封筒を持つ指が震えた。あまりにも懐かしいその名前は、目に見える形となることで暴力的なほどの鮮やかさで総士の両目に飛び込んできた。
 そのまま記憶の奔流に飲み込まれそうになるのを、総士はかろうじて堪えた。
 なぜ、こんな。今になって。
 ――死者からの手紙。そんな言葉が脳裏をよぎる。
 もちろんそんなはずがない。封筒には明らかに経年劣化の痕跡がある。呼吸を落ち着けながら封筒の消印を確認すれば、昨日の日付が刻まれている。この手紙がどこから投函されたのかも。その情報は、自ずからこの手紙が誰の手によって総士のもとに届けられたのかを教えていた。総士は、このことを悪趣味だとも気味が悪いとも思わなかった。
 深く息を吸い、そして吐き出す。
 16歳の一騎が…まだ生きていたころの一騎が総士に宛てて書いた手紙がここにある。刻まれた文字は確かに一騎の筆跡であり、総士が飽きるほど目にしたものだった。今、総士の手の中にあるのは一騎が存在した証そのものだった。
 その晩、総士はこれを寄越しただろう人物に電話をかけた。そして翌日に指定された喫茶店で落ち合うことになった。


(続く)



2017/02/02 pixiv up
▲top