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Tabi-hon(シンガポール)
【サンプル】


Prologue

 その日の朝、総士たちが打ち合わせのためにそろって事務所に出向くと、そこに待ち構えていたのは自分たちのマネージャーである溝口ではなく、日野弓子だった。
「あれ、弓子さん?」
 一騎が驚いて声を上げ、操も目をパチパチさせながら周囲を見回す。
「え、弓子? じゃあ美羽もいるの? あれ、いない」
「おはよう一騎くん。総士くんに、甲洋くん、操くんも。今日は、アルヴィス事務所のみんなのお姉さん、弓子先生が本日限りの緊急マネージャーです!」
「はあ……」
 弓子が華やかな笑顔で挨拶をするが、呆気に取られた総士は、動揺しすぎたのか逆に薄い反応を返す。総士でもこういうときはどうしたらいいのかわかんないんだな、と一騎は少し感心した。弓子はというと、四人の当惑などまったく構うことはなかった。
「あら、総士くんちょっと元気ないのかしら。お仕事頑張るのも大事だけど、睡眠もちゃんと取らなきゃ駄目よ! それでは早速本題に入ります。みんな、来年の初夏に新曲と写真集を出す企画については聞いてるわよね?」
「はい、それはもちろん」
 甲洋が頷いた。その件については、つい先週に打ち合わせをしたばかりだ。弓子がにっこりとほほ笑む。思わせぶりに一呼吸置いてから、彼女は口を開いた。
「そのMVと写真集の撮影は、なんとシンガポールで行うことになりました! まばゆい蒼穹! 照り付ける太陽! その下で笑いあうイケメンアイドルたち! お約束よね!」
「「「「???」」」」
 テンション高く、元売れっ子アイドルの本領発揮とばかりにウィンクまで完璧に決めた弓子に対し、事務所の看板アイドルである四人の反応はいまいちだった。弓子が首を傾げる。
「あら海外ロケよ、嬉しくない? しかも二月に暖かいところに行けるわよ」
「いえ、嬉しくないというかちょっとピンとこなかっただけで」
 総士が言葉を濁す。実際、まったくピンと来ていなかった。今や日本のトップアイドルといっても過言ではない《ホライズン》は、ほぼ毎日メディアに出ずっぱりだ。国内での仕事が忙しすぎて、この数カ月はまとまったオフも取れていない。単独で海外ロケに赴くこともあるし、今やアジアツアーも恒例となりつつあるが、四人で撮影のためだけに海外へ、というのははっきりいって大ごとだった。大ごとかつ突然すぎて実感がわかなかった。
 実際、去年や一昨年も海外ロケは行っているのだが、現地滞在時間はいつも一日か二日といったところで慌ただしい。だが、今回は全行程のために三泊四日を確保したらしい。
「よくそんな企画が通りましたね」
 手渡された日程表を見て唸る総士の横で、操が一騎に顔を寄せてひそひそと話しかける。
「ねえ一騎、シンガポールってどういうとこ?」
「俺もあまり知らないけど、チキンライスが美味しいとこだろ」
「えええ、チキンライスはどこで食べてもおいしいでしょ? グリンピースが入ってるのはいらないけど」
「お前が言ってるのって、ケチャップで作るやつか? シンガポールのは違うぞ」
「そうなの?」
「一騎くんは食べ物で覚えてるのねえ。さすがだわ」
 うんうんと弓子が頷き、首を捻りながら企画書をめくっていた操が、あっと声を上げた。
「オレこれ知ってる。マーライオンでしょ」
「なんでシンガポールを知らないのに、そこだけを知っているんだ」
 総士が呆れたように突っ込む。
「この前、旅行番組で見たんだよ。途中からだったけど。そっかあ、マーライオンがいる国なんだ。でもマーライオンと総士なんて、食べ合わせ悪すぎてマーライオンがお腹下しちゃわない? 総士って南国って感じしないもん」
「どういう意味だ。そもそも僕をマーライオンに食べさせようとするんじゃない」
「えっ、マーライオンって肉食なのか?」
「一騎、お前まで話をややこしくするな。そもそもマーライオンを動物園にいるパンダのような扱いで語るんじゃない。あれはシンガポールの伝説をもとにデザインされたものだ」
「でも、マーライオンきっといっぱいいるんだろ。探したらいいんじゃないか」
「一騎……お前……ツチノコじゃないんだぞ……」
「俺は、空き時間に釣りでもできたら嬉しいかな」

(中略)

 なにはともあれ、自分たち四人は南国へ行くのだ。もう引き返すことは許されない。
 こうして、《ホライズン》シンガポールロケ企画はスタートしたのだった。



《皆城総士の事情》

「眩しいな……」
 差しかけられたパラソルの下から空を見上げて総士は呟いた。眩しい。そして暑い。
 午前中の日本での仕事を終えるやいなや飛行機に飛び乗り、昨日のうちにシンガポールに到着した総士は、早朝から早速新曲のMV撮影に取り掛かっていた。甲洋と操は、昨日の夕方前にはホテルに入り、少しばかり市内を散策して早速地元名物を食べたり、ホテルの屋上プールで泳いだりしていたらしいが、総士と一騎は《ザルヴァートル》としてゲスト出演が決まっていたバラエティ番組の収録があったため、シンガポールの窓口であるチャンギ空港に着いたのが夜の十一時過ぎだった。それから入国審査やらなんやらを済ませて迎えの車に乗り、ホテルに着いたころには日付が変わっていた。
 シンガポールでの撮影予定を入れるために前日も遅くまで収録があったため、さすがの総士も疲労困憊だった。翌日の予定について簡単に打ち合わせ、シャワーを浴びてベッドに倒れ込んでからの記憶がまったくない。
 同室の一騎は総士より先にシャワーを浴びに行ったのだが、シャワーだけならいつも十五分程度で済ませる一騎が二〇分を経過してもシャワールームから出てこないので、総士は摺りガラス越しに様子を確認しに行った。そこでシャワーを流しっぱなしにしたまま、壁に寄りかかって眠りこけている一騎を発見し、慌てて叩き起こすはめになった。
 今日さえ乗りきれば、明日は雑誌の撮影のみ。午後からはフリータイムだと聞かされているのでとにかくやりきるしかない。
(続く)



《来主操の事情》

「おいしい~~!」
 満面の笑みでスプーンを握りしめ、口いっぱいにライスを頬張りながら操は感嘆の声を上げた。本日仕事終わりの夕飯として口にしているのは、シンガポール名物のチキンライスである。一般に「海南式チキンライス」として知られ、「海南鶏飯(ハイナンジーファン)」とも呼ばれる。チキンライスの基本的なセットは、一時間ほど丸ごと茹でた鶏肉と、鶏肉のスープで炊いたパラパラのご飯。それから鶏の出汁で作ったスープだ。つやつやとした鶏肉の上には彩りとしてパクチーが一枚乗せられているが、操はそれを真っ先に甲洋の皿に押しつけた。脇には、三色の調味料が小皿に入れられて並んでいる。赤いのがチリソース、黄色いのはジンジャーソース、そして真っ黒なのがソイソースだ。何の味なのかと初見では怯んでしまうが、甘くてコクのある味わいの甘醤油だ。甘醤油はごはんにかけ、ジンジャーとチリソースはチキンにかけて食べるのが一般的らしい。
 ちなみに、操がシンガポールでチキンライスを食べるのは今が初めてではない。総士と一騎より先にシンガポールに到着した操は、甲洋と一緒にそのままチキンライスを食べに行った。ロケ中もチキンライスが食べられることは分かっていたのだが、どうせなら食べ比べをしたかったのだ。そして操は大変満足している。なんなら、明日また別のチキンライスの店に行ってもいい。
(続く)


《真壁一騎の事情》

 歌うのは好きだ。でも多分、踊るのはもっと好きなのだと思う。
 夢中になって踊っていると、一騎はカメラを向けられていることを忘れてしまう。ときにはファンの視線さえ遠くになってしまうことがある。
 もともと身体を動かすことは好きだった。リズムに合わせてステップを踏むことが自分に向いていると分かってからは一層楽しくなった。ハードな練習もほとんど苦にならない。横で総士が息切れしていても、甲洋が汗を拭いながら膝に手をついて肩で息をしていても、操が床で転がっていても、一騎にはまだまだ踊れる余力がある。
 ともすればどこまでも踊ることにのめり込んでしまう一騎を引き戻すのは、総士の役目だった。多分、自分の動きが「ダンス」の形になっているのは、総士がいるからだと一騎は思っている。総士のステップはいつも正確だ。すらりとして優美な雰囲気を持つ総士だが、そのステップは緻密で力強い。あまり激しい動きや、早すぎるステップにはついてこられないが、まるで時計の音のように正確に刻まれる総士のダンスは、いつだって総士らしい説得力にあふれている。
 ――新曲のMV良かったな。
 昨日の撮影を思い出す。連日の仕事で身体は疲弊しきっていたが、撮影に臨んだ瞬間吹き飛んだ。砂浜で空と海の青をバックに踊るのだと説明されてからは、撮影が楽しみでならなかった。砂浜の上は、普段踊っているスタジオやステージとはまったく勝手が違っていて、一騎であっても慣れるのにわずかに苦労したが、映像を確認した限りでは、それをまったく感じさせない勢いと、爽やかさがあふれるものになっていたのではないかと思う。存分に四肢を躍動させるあの心地よさ。海や空を越えてどこまでも上って行けるような万能感。
 ――次は、いつあんなふうに踊れるんだろう……。
(続く)


《春日井甲洋の事情》

「ねえ、君はどこに行くの?」
 シンガポールで予定されていた仕事をすべて終え、さて午後のオフをどう使おうかとホテルの部屋で考えていると、隣にいる操が尋ねてきた。
 総士と一騎は同室だが、操と甲洋の部屋は別だ。それなのに、操は「一人はいやだよ~」と言っては、しょっちゅう甲洋か総士たちの部屋に潜りこんでくる。ホテルに戻ったあと、総士と一騎は少し休むといって部屋に引っ込んでしまったので、今もさっそく甲洋の部屋にやってきているというわけだった。軽くシャワーを浴びたのか、こざっぱりとして服も着替えている。ホテルの窓辺にある椅子にこしかけ、足をブラブラさせながら外の景色を眺めている姿は、もはやこの部屋の主は操じゃないのかという様子だ。
「オレはまた屋上に泳ぎに行ってもいいし、別のマーライオンを探しに行くのもいいな」
 操は甲洋とどこかに出かけるつもりでいるらしい。午後は夜までは自由にして良いということになっている。だが、せっかくなら互いのオフショットを撮ってこいと言われている。写真集やSNSに載せるためだ。万が一のことを考えても、単独行動はあまり望ましくはないだろう。それなら操と一緒に動くことになるだろうというのは予測していた。それに、総士と一騎を二人にしておきたいという気持ちもある。

(中略)

「そうだな……」
 本音を言えば、甲洋はどこに行ってもいい。けれど、操に任せればとんでもなくいろんな場所に連れまわされそうな予感があった。マーライオン捜索探検もだが、特に食い歩きコースという意味でだ。正直腹は減っていないどころか満腹だし、さすがに身体も疲れている。
 頭の中にすべて入っている予定表、周辺地図を確認して甲洋は答えた。
「釣りかな」
 えええ! と操が声を上げる。
「あれ本気だったの? シンガポールまで来て釣り?」
「いつもと違う釣り場を味わうのも醍醐味でしょ」
(続く)



2019/06/23
楽園ミュートス#3 悠まひこさんとのケイ素旅行シリーズ企画本・シンガポール編。人気アイドル4人のシンガポールロケと、それぞれの事情。
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