ティル・ナ・ノーグの旋律



 ティル・ナ・ノーグ。
 海に浮かぶという西果ての美しき楽園よ。
 私はかならず辿りつくだろう。
 そして、そこで永遠の幸福に微睡むだろう。


     ***

 思えば、ずっと見つめていた気がする。
 近くで。少し離れた場所で。
 ずっと。
 初めて対話をしたあの日から。


「一騎?」
 予定に合わせて楽園の前にたどり着くと、通りに面した大きな窓ガラス越しに、一騎が窓際の椅子に腰かけているのが見えて、カノンは首を傾げた。
 外から確認したかぎり客は一人もおらず、溝口や真矢もいない。
 入口にかけられた黒板はランチタイムのままだ。メニュー看板もしまわれていない。時計を見ればあと十分でランチタイムは終了の予定だった。
 カノンは少し考えてから、黒板に準備中と書き換えた。看板を抱えると、音を立てないようにそっと扉を開けて楽園の中に入る。軍人として訓練された動きは、扉に付けられたドアベルをほとんど揺らすことなく、カノンは目的を達成した。入ってすぐの植込み越しに店内を覗くと、一騎は一人、テーブルに片肘をついた姿勢で椅子に座っていた。眠っているように見えたのでそっと入ることにしたのだが、やはり眠り込んでいる。視力が衰えた分、もともと鋭い感覚がさらに磨かれている一騎がカノンに気づかないということは、相当深い睡眠に落ちているのかもしれない。
 ――体調が悪いのだろうか。
 ショコラにしいっと呼びかけ、足音に注意しながらそっと壁側の席に移動すると、音を立てないように最新の注意を払って椅子に腰かけた。まだ約束の時間まで少しある。なら起こすのはもう少しあとでもいい。
 ふうっとため息をつき、ショコラを見やる。ショコラはカノンの足に鼻を擦りつけてから、椅子の足元にゆっくりと寝そべった。
 小さく笑いを零してから、カノンは改めて窓辺で微睡む一騎の姿を眺めた。 
 大きな窓から差し込む柔らかな光が、室内に反射して淡くオレンジ色に輝いている。眠る一騎の身体をその光が優しく縁取っていて、どこかこの世のものではないような雰囲気を作り出していた。
 一年もの間昏睡状態に陥り、生命維持装置の中で眠りについていた一騎の身体は以前より明らかに筋肉が落ち、半袖とハーフパンツからひょろひょろとした手足が伸びていた。未だに同化現象が進み続けていることもあってか十六という年齢にはあまり見えず、彼だけが十四歳のまま取り残されているように思える。
 色素の抜けた白い肌。かつて少年らしく綺麗に日焼けしていた色はどこにもない。髪ばかりはもとの色艶を取り戻したが、今の白すぎる肌に一騎の伸びた黒髪はいくらか鮮やかすぎた。こうして身じろぎもせず目を閉じていると、精巧な人形のようにさえ見えてくる。そして閉じた瞼の下には恐ろしく鮮やかな真紅の瞳が隠れていることをカノンは知っていた。
 それでも、一騎が今こうしてここにいることがカノンには重要だった。北極の地で失ってしまうのか、二度と島に帰ってこないのではないかと恐れた日はもう過去のことだ。一騎がここにいる。改めて確認し、自然と口許が綻んだ。思わず名を呼びかけようとしたときだった。
 不意に空気が一変した。一騎を取り巻く空間が揺らぎ、ついでひたりと静止する。
 ――なんだ…?
 まるで自分だけがこの場から切り離されてしまったような錯覚がカノンを襲った。すぐ先、椅子二つ分ほどしか離れていないはずの一騎がひどく遠く思える。まるで水槽越しに見ているかのような。深く閉ざされて声一つ届かない世界。――無の、境地。そこに一騎を囲われてしまったように思えて、カノンはじわりと背中に冷たいものが這うのを感じた。
 目を閉じた一騎はどこまでも穏やかだ。幸福そうでさえある。口角が微かに上がり、笑みをかたどるのをカノンは見た。
 一騎の口元がうっすらと開き、唇が微かに動く。
 まるで何かを呼ぶかのように形作られたそれを見て、思わず息を飲んだ。燻っていた焦燥が、急速にカノンのうちに膨れ上がる。
 このまま一騎が手の届かない遠くに行ってしまうような気がして、気づけば声を上げていた。
「一騎っ…!」
 呼応するように、ショコラもわぉんと短く咆える。
 その瞬間、一騎を取り巻いていた静かすぎるほど穏やかな空気が霧散した。
 一騎がゆっくりと目を開ける。睫毛の間から深紅の瞳がゆるりと揺れた。
 まるで夢から覚めたというような風情だった。一騎は首を傾げ、ぼんやりと呟いた。
「カノン?」
 その声に、訳もわからず泣きたくなった。
「そこにいるのか、カノン」
 顔をカノンの方に向け、焦点の定まらぬ瞳を揺らす。
 光をほとんど捉えられない一騎の今の目では、部屋の内側にいるカノンの姿はぼやけた影でしかないのだろう。それを寂しく思わないではなかったが、声を張り上げて自分の存在を伝える。
「ああ。私だ。カノンだ。ここに…お前のそばにいる」
 一騎に分かるように足を一歩踏み出して、さらに近づいた。
 ――そう、私だよ。一騎。
 お前が繋ぎとめてくれた命だ。お前が私を存在させてくれた。どこにもいなかった私を。
 何度も何度も繰り返し、噛みしめた想いを込めて返事をすれば、そうかと一騎が頷いた。その顔が柔らかく綻ぶ。
「迎えに来てくれたんだな」
 一騎が浮かべた笑みに、カノンは心の底から安堵した。知らず詰めていた息を吐き出す。
 ――戻ってきた。一騎が。
 なぜかそう思った。つとめて明るく声を出す。
「ああ、ちゃんとショコラを連れてきたぞ」
 名前を呼ばれたショコラが一声咆えてから、一騎の足元に身体をすり寄せる。ショコラは目の見えない一騎の案内役を請け負っている。訓練を施したのはカノンだ。一騎が一人で一定以上の距離を移動するときは、必ずショコラを一騎に預けている。
 今日の午後は一騎のアルヴィスでの定期検査があった。
「いつも悪いな」
 ショコラの毛並みを指ですきながら一騎が笑う。
「でもアルヴィスなら、もう一人でもけっこう行けるぞ」
「ダメだ!」
 思ったより大きな声になってしまって、カノンは自分で驚いた。一騎もきょとんとして首を傾げている。慌てて言い繕う。
「その、お前に何かあっては困る…私が」
「カノンが?」
「そ、そうだ!」
「カノンは優しいな」
 ありがとな、と柔らかな笑みを向けられて、カノンは顔に熱が上るのを感じた。今の自分はさぞかしみっともない表情を浮かべているに違いない。不謹慎ではあるが、この顔を一騎が目にしない事実にほんの少しだけ安堵する。
「今日は私もアルヴィスに行く用事があるから一緒に行こう!」
「俺が一緒でいいのか?」
「も、もちろんだ!」
 動揺を押さえようとするあまり急いた口調になってしまったが、一騎は気にした風もなく、よろしくなと軽く笑って椅子から立ち上がった。そのまま歩き出そうとして、一騎は不意に視線を揺らがせて、楽園の中の一点に目を向けた。カノンは、また得体のしれぬ不安がこみ上げてくるのを感じた。
「どうした、一騎」
「…いや、なんでもないよ」
 一騎はそう口にすると、先導するショコラのあとについて、しっかりした足取りで出口へと向かう。カノンもその後ろに続いた。
 出る間際に、カノンもまた楽園の中を振り返った。だが、そこはいつもの見慣れた店内で、先ほど感じたような侵しがたい静謐はどこにも見当たらなかった。


     ***


 あの時、一騎の目にはいったい何が見えていたのだろう。
 カノンはその後も繰り返し考えたが、結局結論は出なかった。あの頃の一騎は、ときどき現実と夢の境が曖昧で、自覚もないままぼんやりとすることがあった。その都度、真矢があるいはカノンが一騎を引き戻していたように思う。まさに《戻る》という言い方でしか、一騎を描写することはできなかった。一騎が行こうとしていた場所がどこであったのか、カノンには今もわからない。真矢はわかっていたのかもしれない。島の中で、真矢だけは一騎の深い部分…一騎さえ気づいていない心を理解しているように思えた。
 あれ以来カノンは、一騎がいつか本当にどこか自分の手の届かない場所へ行ってしまうのではないかという怖れを抱くようになった。その予感は、常にカノンの心に巣くって、消えることがなかった。
 そんな日々を送るうちに、一艘の船の訪れとともに再び竜宮島にフェストゥムが襲来した。一騎は禁じられていたマークザインに搭乗した。来主操と名乗る、人間の姿をしたフェストゥムとの対話。空を奪われ、カノンたちもまた再びファフナーに乗って戦った。そして、戦いの終わりとともに皆城総士が島に帰還した。
 消滅の危機を回避し、一時的な平和が島に戻ってきた。
 そして、総士の帰還とともに、あれほど危うげだった一騎の様子は安定した。糸の切れた風船のような雰囲気はどこにも見あたらなくなった。ああ、そうだったのかとカノンは思った。一騎は自分の座標を取り戻したのだ。総士を失っていた一騎は、きっと一騎ではなく、一騎の一部がなんとかこちらの世界に留まっていただけだったのだ。カケラでしかない存在が、二本の脚でしっかり立てるはずがない。一騎と総士の間にある繋がりは、カノンには想像することもできないほど強いものであるのに違いなかった。カノンにはそれが少し羨ましかった。それと同時に安堵した。これで大丈夫だと。一騎はもうどこにもいったりしないのだと。島に、カノンから見える場所にずっといてくれるのだと思った。
 一騎はあいかわらず喫茶楽園でのアルバイトを続け、高校卒業後は本格的に調理師として働きはじめた。そしていつの間にか、あのとき一騎が座っていた席が、楽園でカノンが座る場所になっていた。
 窓の外がよく見え、目をあげればカウンター越しに料理をする一騎の姿が確認できるこの席は、カノンにとっての特等席だった。母にはカノンが何を見ているのかとっくにバレていて、カウンター席でもいいのよと言われたこともある。だがカノンは首を振ってこの席がいいのだと答えた。カウンター席では近すぎる。
 いつからか、一騎を前にするとカノンの心臓はコントロールが効かなくなってしまっている。あまり近い場所では心臓の音がうるさくて、耳の良い一騎には聴こえてしまうかもしれない。それにカウンターで並んでは、母の姿も見えない。
 少し離れたこの席で、窓からの柔らかな光を浴びながら、一騎と、そして大好きな母の姿を一緒に眺めることのできるこの場所が、カノンは大好きだった。
 カノンとしてはひそかに楽しんでいるつもりだったのだが、どうやら真矢にも気づかれていたらしく、カノンが来ている時は、カウンターに人が座って視界を邪魔することがないよう席を調整しているのだと、あとで咲良から教えてもらった時には、二重の意味で顔から火を噴くかと思った。
 ときどき、皆城総士とも目があった。彼も楽園の常連で、それこそカウンター席に座っていることが多かった。楽園でカノンと視線が重なるたびに「君は…」とやたらなにか言いたげな様子を見せていたが、結局それ以上を総士が口にすることはなかった。
 一騎はこの一、二年で背が伸びた。少年の面影をどこかに残しつつ、しなやかさのある穏やかな青年らしい風貌になった。少ししか変わらないように思えた身長差は広がり、わずかに見上げて話すようになった。些細な変化の一つ一つがカノンの心を躍らせ、予測もつかない旋律を奏でる。
『男の子ってさ、ある日いきなり大きくなっちゃうんだよね』
 四年前に海辺で撮った写真を見つめながら、真矢がそう肩を竦めて笑っていたから、彼女も同じように感じていたのかもしれない。カノンよりずっと長く一騎を見てきた真矢であれば、余計に。
 みなが成長した。確かに時間を刻んできた。剣司が見せるようになった安定感は、大人のそれにもはや近い。隣にいる大切な者を守りたい気持ちがそうさせるのだろう。総士もずいぶんと変わった。頭脳のキレの良さを隠しもしないやたらと小綺麗な少年という印象だったが、一騎とはまた違った雰囲気の青年に成長した。特にこのところの彼は落ち着きと余裕を感じさせる。
 自分たちも、少女と呼ばれる時代を終えつつある。それでも真矢が一騎に接する様は昔からまるで変わることがなく、少しのことでどぎまぎしてしまうカノンには、一騎と真矢の関係が羨ましかった。さほど言葉を交わすわけでもないのに、一騎の隣に立つだけで凪いだ空気をまとわせる総士との関係も。だがそれと同じくらい、彼らの姿を見ているのが好きだった。
 一騎がファフナーを降りると知らされたとき、カノンの胸にあったのは安堵だった。これでもう、一騎は戦わなくていいのだと思った。ザインに命を削られることはない。一騎の生存限界はショックではあったが、今日、明日にも一騎が消えてしまうわけではないのだからと、三年もあればきっと一騎が長く生きる方法も見つかるだろうと信じることにした。今を、穏やかに平和に生きることが、これまで過酷な戦いを続けてきた一騎の幸福なのだとそう考えた。
 カタンという音とともに、ふっと目の前に影が差して、椅子に座ったままぼんやりとしていたカノンは顔を上げて仰天した。
「一騎!?」
 ややのけぞりながら声を上げる。向かいの席に一騎が座っていた。カノンの驚きように、一騎も目を瞬かせる。
「な、なんでそこに座る」
「いや、俺もちょっと休憩しようかと思って」
 もう他のお客さんも帰っちゃったし、と言われて周りを見れば、確かに残っているのはカノン一人だった。今日は母も急ぎの作業が残っていて、食事を終えるとともに慌ただしく先に帰ってしまった。あなたはゆっくりしてきなさいねと言う言葉に甘えたものの、予定以上にのんびりしてしまったらしい。
「す、すまない。長居をしてしまったようだ…」
「まだ営業時間だし、ゆっくりしていけよ」
「そ、そうか」
 クリームソーダのお代わりもいるか? とのんびり聞いてくる一騎に、ゆっくりなどできるわけがないと、カノンは内心で悲鳴を上げた。
 向かい合わせというのは気まずい。テーブルがある分、普段話している距離より間があるはずなのに、どうしてこうも緊張するのだろう。正面から一騎を見ているせいか。どこに目を向けたらいいか分からない。無言でグラスに残っていたクリームソーダをずるずると飲んでいたが、だんだんと耐えきれなくなり、カノンはガタンと音を立てて椅子から立ち上がった。
「いや、やっぱりもう帰る!」
「そうか?」
「ああ!」
 やたらと威勢良く返事をしたカノンに、そっかと一騎は頷いた。
「じゃあ送るよ。アルヴィスに戻るんだろ。俺も用事があるから」
「総士か?」
 一騎が総士に会いに度々アルヴィスに行っていることは、よく知っていた。研究にのめり込みすぎて自分の管理を疎かにしがちな総士を心配して、ちくいち面倒を見ていることも。
 一騎は一瞬きょとんとしたあと、おかしそうに笑った。
「あと父さんな。今日、アルヴィスで泊まるらしくてさ。着替えと弁当」
「一騎は…すごいな」
「そうか?」
 羨ましいとは、どうしても言えなかった。こんな風に気遣われ、近くにいることを許されるというのは、どんなものなのだろう。
「こうして食事を作るのは、今の俺ができることだから。みんながそうさせてくれてる。許してくれてる。そういうことなんだと思う。ありがとな。カノンも」
「私か?」
 突然お礼を言われて、カノンは驚きに固まった。なんと返したらいいのかわからなくて、ぎくしゃくとしてしまう。
「…私は、…別になにも」
「ここにいてくれるだろ」
 そう言って、一騎は席から立ち上がった。正面からカノンを見つめて笑う。
「行こう。カノン」
 一瞬、胸に抱いたのは期待だった。
 その手を差し伸べさえしてくれれば、自分は迷うことなく一騎を掴むだろうに。でも、決してそんなことは起こらないのだろうことをカノンは知っていた。
「ああ、一騎」
 痛いような、息が苦しくなるような幸福を感じながらカノンは微笑んで答えた。
これで良かった。カノンは、一騎との今の距離をかけがえのないものだと思っていた。この場所で一騎の近くにいたかった。今の時間が続けばいいと思っていた。少しでも長く。
 ――一騎が、たびたびマークザインのもとを訪れていることを知るまでは。
 カノンにとって忌まわしいばかりの存在を封印した格納庫で、ザインを見つめる一騎の目は、焦がれるような光に満ちていた。優しく微笑みながら、その手でザインに触れようとしていた。
 あの日楽園で目にした、どんなに手を伸ばしても触れられないような遠く、捉え所のない空気が、再び一騎を取り巻いていた。
 ――一騎が、いなくなる。
 もう味わうことはないと思っていた恐怖が、再びカノンの心をじわじわと蝕みはじめた。


     ***


「真矢…本当に行くんだな」
 真矢と一緒に翔子の墓参りを終え、帰り際に二人で海を眺めていた。夕暮れの海は、鮮やかなオレンジ色に染まっている。見慣れた竜宮島の海。それでも、日々見る度に違う姿を見せ、カノンの心を惹きつける。今日の海は、穏やかに凪いでいて、どこか寂しい風情があった。海は心を映す鏡だと、教えてくれたのは誰だっただろう。
「うん。もう決めたから」
 島外派遣の選抜隊に立候補した真矢の顔は、どこか晴れやかだった。島の外に待ち受けているものを悟った上で、真っ直ぐに前を見つめている。カノンはぎゅっと拳を握りしめた。
「私が行くべきだ。私は外の世界を知っている。行くなら私が」
 真矢がカノンを見て微笑んだ。
「違うよ。カノンはもう十分知ってるから、だからこの島にいて欲しいんだよ。あたしたちは何も知らない。だから知らなくちゃいけない。希望があるなら見つけたいの。カノンがここを見つけてくれたみたいに」
「それは、一騎のためか」
 思わず口をついて出た言葉に、真矢が目を大きく見開く。その顔にはっとして、すまないと小さく呟くと、真矢は穏やかに笑って首を振った。
「…別にそれだけじゃないよ」
「私は真矢が羨ましい」
 島のために、そして一騎のためにできることがある真矢が羨ましかった。
 カノンは、一騎に対する自分の無力を感じていた。一騎は、ザインに会うことを止めようとしない。気づくと足が向いていると、困ったように笑うだけだ。それを総士が積極的に止めようとしないことも、カノンには理解できなかった。あまつさえ、ザインを残すと総士は言った。なぜお前がそんなことを言うのかと思った。カノンにとってザインは禍いだ。一騎を連れていくものだ。アイルランドの悪い妖精のように、見初めた相手を誘惑し、たぶらかし、誘い込む。命を食らって二度と返してはくれない。それなのに。
 なにか恐ろしい未来に向かって、すべてが進みはじめている気がしていた。気は急くのに、自分には何もできないのがもどかしかった。ブルクで賢明にファフナーの整備を学びながら、今やっていることが本当に島のためになることなのか不安になることもあった。
「あたしはね、カノンが羨ましいな」
 真矢はふふっと小さく笑い声を上げてから、眩しげに目を細めて海に目をやった。その目線はどここまでも遠い。
「カノンを見てると、翔子のこと思い出すんだ」
「私は翔子に似ているところなどないぞ」
 外見も、そして性格も。話に聞く羽佐間翔子という少女は、なにもかもが自分とかけ離れているように思える。だが、真矢はやはり笑っただけだった。
「翔子はね、一騎くんのことだーいすきだったの。大好きで、大好きで、大好きすぎて目も合わせられないくらい。大好きって一度も言えなくて…でも、自分の命全部使って一騎くんに想いを伝えたんだと思う。だから、今も一騎くんの中に残ってるんだと思う」
 カノンは言葉もなく、ただ真矢の声を聞いていた。翔子が抱いていた想いのかけらが、カノンの中にも降り積もっていくようだった。そこには、真矢の想いも含まれているのに違いなかった。
「一騎くんが、翔子を翔子としてここにいさせてくれた。学校にも行けない。誰とも会えない。身体が弱くて、いついなくなるかもわからない。それでも私はここにいるのよって、ずっと心の中で叫んでた翔子を一騎くんが見つけてくれたんだって。まるで当たり前みたいに手を伸ばしてくれたんだって。ごく普通のどこにでもいる女の子みたいに。ここにいてもいいんだって、それが当然みたいに人に思わせてくれるの、一騎くんだからなんだろうね」
 真矢がカノンを振り返る。夕陽が、真矢の髪色を燃えるような色に染めていた。鮮やかな笑顔を、真矢は浮かべた。
「行ってくるね、カノン」
 ――島のこと、一騎くんのこと、お願い。
 真矢はそう言って島の外へと旅立った。輸送機が飛び立つのを見守りながら、カノンは繰り返し真矢の言葉を思い返していた。
 ――わかるよ、真矢。
 ――わかるよ、翔子。会ったこともないあなたの想いが、私には手に取るようにわかるんだ。感じるんだ。
 一騎の向ける眼差しが、声が、その温度がこんなにも胸を苦しくさせる。心臓が壊れてしまったみたいに。暖かくて苦しくて泣きたいくらい幸せな気持ちを、翔子も真矢もずっと感じていたのだろう。
 一騎の隣で一緒に立ちたい。そのための力が欲しい。
 現実は、それをカノンに許してくれなかったけれど。


     ***


「ごめんな、行くことになったんだ」
 シナジェティックスーツをまとった一騎は、しばらく着ていなかったのが不思議なくらいに当たり前のものとしてそこにあった。楽園でのエプロン姿も確かに一騎を形作る一つのものであったはずなのに、これが本来の姿なのだと言われているようで悔しかった。悲しかった。
 何度も止めたのに。やめてほしいと頼んだのに。
 カノンの声は、願いは最後まで届かなかった。
「ありがとう。止めてくれて」
 必死に伸ばした手は優しく取られて、微かな温度だけを指先に残して離れていった。薄く骨ばった…けれど確かな大きさを持つ手だった。決してカノンのものにはならない手だった。
 今度こそ一騎は行ってしまう。ずっとカノンの心にあった不安が、とうとう形になってしまった。本当は、きっとそうなるのだろうと予感していたのだ。ザインの残存を総士が口にしたときから。マークニヒトの解体計画が失敗し続けているときから。ザインのそばに立つ一騎の姿を目にしたときから。いや、もっとその前から。
「総士、お前はザインが一騎を生かすと思っていたのか」
 急ピッチで派遣の準備を進める中、カノンは総士に尋ねた。総士はかすかに目を見開いてカノンを見つめたあと、眉を寄せた。
「カノンが憂う気持ちはわかっていた。事実、ザインへの搭乗は一騎の命を削り続けるだろう。これからも」
「一騎だけじゃない。お前の命もだ、総士」
 ――それでも、お前は。
「これは、賭けだ」
 どこか一点を見つめ、総士は自分に言い聞かせるように呟いた。揺らぎのない、はっきりとした声だった。カノンもまた頷いた。
「お前がそう感じたのなら、きっとそうなんだ」
 総士が見ているのは、きっと未来なのだろう。思えば、彼はいつだって絶望しなかった。苦境にあって苦痛を味わいながら、先に立って仲間を導く役割を彼は担い続けてきた。そうでなければ、フェストゥムの…無の世界から帰還を果たすことなどできるはずがない。
 肉体のない状態で、無の空間で、自我を保ち続けるなど想像を絶する行為だ。いったいどれだけの精神的苦痛を味わい、それを耐える精神力を持っているのだろうかと思う。
 総士は諦めない。いつだって諦めなかった。それは島のためであり、一騎のためだったのだろう。
 ふと、楽園でよく総士と視線が合ったことを思い出した。楽園で、カノンはいつも一騎の動きを追っていた。おそらく総士もそうだったのだろう。同じ人物を見ていれば、視線がぶつかるのも当然だった。総士は、一騎を生かすことを考えている。彼がともにいるのなら、きっと一騎は大丈夫だろう。カノンの見る限り、皆城総士という人間は大変に諦めが悪い。それに彼らが行く先には真矢もいる。
 ――結局、私は離れた場所から一騎を助けることしかできないんだな。
 少し悔しかった。それでも、仲間たちへの信頼が大きかった。彼らなら、未来を見つけられるだろうと信じられる。
 過ぎてみれば、平和はあまりにも短かった。一騎が楽園で料理を作るだけの世界は、誰にも許されなかった。それでも、あの穏やかな日々も真実なのだと、あの光景こそを本当の未来にするために、彼らは行くのだと、それだけは信じていようとカノンは思った。
 総士を真っ直ぐに見つめて、カノンは伝えた。
「総士、お前が考えたように、マークザインは一騎に必要な機体だ。そして多分、ニヒトも必要だ…お前にとって」
 総士が驚いたようにカノンを見た。
「お前にニヒトの解体はできなかった。そして今、島の外で役目を果たそうとしている。きっと意味があるんだ。エンジニアの勘だと思ってくれ」
 総士が俯いた。左の拳を握りしめ、吐き出すように言った。
「僕は…この機体が憎い。幾つもの命を喰らい、憎悪にまみれたこの存在が。マークニヒトを、僕がこの手で砕くために帰ってきたのだと…それが僕の役割の一つだと思ってきた」
「だが、総士。この機体に乗れるお前だから、お前は一騎と外に行ける。一騎の隣で戦える。島のために」
 ――私にはできない。
「きっと無駄にはならない。お前の…願いが叶うことを信じている、総士。お前が信じる未来を私も信じるよ。…私も生きて欲しいんだ。一騎に…お前たちに」
「カノン」
 総士が微笑んだ。まるで泣き出す寸前のような笑顔だった。
「ありがとう、カノン」
 ザインに乗り、ニヒトとともに空へと旅だった一騎を、彼らが遠く消えていった方角をいつまでも見つめながらカノンは誓った。
 ――私は、ここでお前の帰りを待つ。
 これが自分の役割ならば受け入れようと思った。
 激化する戦いの中で、消耗していくファフナーパイロット達を支えるため、咲良とともにパイロットに復帰した。新同化現象を覚悟しての搭乗だった。
 そしてカノンは、未来を見た。すぐ先の未来、更に先の未来。可能性は分岐し、カノンに選択を迫った。提示される未来は常に過酷で悲劇に満ちていた。ファフナーに乗っている時だけではなく、わずかに残された穏やかな日常の中にさえ現れ、カノンの心を食い荒らした。
 繰り返される未来で、地獄を見た。何度も大切な人たちを失った。自分こそが禍ではないのかとさえ思った。
 未来で戦い、何か一つ現在の時間が変わるたび、カノンの体重は落ちていった。消費されている。命が消えていく。文字通り、命を使って戦っていた。
 それでも希望だけは失わずにいた。あの日、未来に触れるまでは。


     ***


「みんないなくなった。今いるのは、俺とお前だけだ」
 掴んだと思った正しい未来の先で、一騎が口にした言葉に愕然とした。何が、いったいどんな未来が一騎にこんな言葉を口にさせるというのか。
「生きよう、二人で」
 ザインの左腕が、カノンに差し出される。カノンは動くことができなかった。
 ――だって、お前は私を選んだりしなかった。私だけを求めはしなかった。お前はいつも総士のために、真矢のために、いろんな誰かのために命を投げ出して振り返りもしない。そういう人間で。
 ――私はただ見ていることしかできなくて。
 その一騎が、カノンと生きると口にする未来とはいったい何だ。戦って戦って、心を引き裂かれながら戦い続けて、やっと掴んだと思った未来がなぜこうなる。初めて、絶望を覚えた。自分と一騎以外、他に誰も存在しない未来。そんなものは、あってはならない未来だ。それなのに。ふっと浮かび上がった声があった。
 ――それでも、私は、お前が。
 ――お前が、私を望んでくれたなら。
「違う!!」
 叫んでいた。
「そうじゃないんだ。そうじゃない。こんなこと私は求めていない!」
 母が大事だ。島が、ここに生きる人たちが。本当に大事で。誰ひとり、何一つ失いたくないのに。その願いは本当なのに。そのためにならなんだって出来ると思った。ファフナーに乗った。未来を視る力も、選ぶ力も受けいれた。一人きりの戦いも。それなのに。どうしてこんな。
 ああそうかと思った。
 ――私は、こんなにもお前のことが。
 涙が止まらなかった。こんな形で知りたくはなかった。見ているだけで良かった。近くにいられるだけで。それで十分満たされていたのに。
 いつの間にか想いは膨らんでいた。
 そばにいたいと無意識に願ってしまうほどに。一騎のそばにいたかった。本当は、ずっとずっとそうだった。総士のように、真矢のように、一騎の隣を歩いてみたかった。必要とされたかった。
 ――生きたかった。一緒に。
 堰を切ったように想いが溢れだす。一騎に会いたいと思った。どうしようもなく会いたかった。本当の一騎に。
 ――会いたい、一騎。お前に会いたい。ここに、今そばにいて欲しい。今会って、その顔を見て、なんでもないように笑って欲しい。あの声で名前を呼んで欲しい。私に名前の意味を尋ねたその声で。一騎。
 カノンはしゃくりあげながら泣いた。
 泣いて、泣いて、身体の中の水分が無くなってしまうくらいに泣きつくして、そして憑き物が落ちたように冷静になった。じわりとこみ上げてきたのは凪のような穏やかな想いだった。
 ――ああ、だから私は選べる。私だけができる。そのためにここにいる。私の大切な人が、かけがえのない人たちがこの先も生きられるために。生きる場所を手にするために。



 幼い頃、まだ故郷に家族が身を寄せ合えるだけの小さな小さな幸せが残っていたとき、生みの母がカノンに教えてくれた話があった。
 世界はこんなに暗くて悲しいけれど、そんな世界のどこかに、常世の国があるのだと。遥か西、遠い遠い海の彼方に、美しい国があるのだと。そこでは争いもなく、病にかかることもなく、飢えることも渇くこともない。戦いに疲れ果てた者たちを癒す楽園なのだと。
『それはなんていうところ?』
 もう顔もほとんど思い出せない母が、ほっそりとした手でカノンの赤毛を撫でながら、歌うようにその場所の名前を口にした。
 音楽の旋律を思わせるその音は、カノンの心に刻まれたけれど、故郷と家族を失ったときに、胸の奥の奥に封じられた。
 年齢も性別も関係がなかった。生きることが正義だった。その正義を侵すやつが敵だった。だから殺した。それが当たり前だった。不幸にも生き延びてしまった自分は、せめて命令に忠実であることで命を費やすしかなかった。少女の小さな手で武器を扱うのは苦痛が大きかったが、訓練と努力で使ってみせた。
 心はいらなかった。自分というものは踏み潰した。今ある命と、命令さえあれば良かった。
 カノン・メンフィスという少女など、この世界のどこにもいなかったのだ。あの日、選べと呼びかけられるまで。忘れていた自分の名前の意味を思い出し、その名を正面から呼ばれるまで。
 ――母さんが教えてくれた通りだった。
 楽園はあった。この世界に。戦いに手を汚し続けたこの私さえ受け入れてくれた。
 この場所を失えるはずがない。たとえそこに、もう自分がいないのだとしても。



 あれから一人で、翔子の墓を訪れた。おそらくこれが最後の機会になるのだとカノンは理解していた。
 膝をついて花を添え、墓石に刻まれた名前に微笑みかける。翔子、と呼びかけた。一度も会うことのなかった義理の姉の名前。
「翔子。あなたのことを語るとき、みんなが空を見上げるんだ」
 よく晴れた日、青い、青い空の彼方に彼女は消えたという。島を守るためにフェンリルを使用して、跡形もなくいなくなった。
 毎日写真で見る翔子は、白くて華奢で、すぐにも折れてしまいそうなほど儚い印象の少女だった。小さな顔にかかる長く艶やかな髪の毛が印象的で、カノンからしても思わず守ってあげたいと思わせる雰囲気があった。自分とはまるで違う。武器を持つよりも、兵器になるよりも、部屋や木陰の下で静かに本を読んでいる方がよほど似合っていただろう。けれど、彼女が選んだのは、ファフナーに乗ることだった。守られるのではなく、彼女が大切に思う存在が生きる島を自分の手で守ることだった。
「あなたは怖くなかったのか。翔子」
 きっと生きたかっただろう。ここにいたかっただろう。母を置いていくことを後悔しただろう。
 それでもまっすぐに自分の選んだ道へと、彼女は羽根を広げて飛び立っていった。
 震える拳を握りしめ、カノンは願う。
「あなたの勇気が欲しい。どうか。私はそんなに高くは飛べないけれど」
 何度も考えた。何度も迷った。それでも導き出される答えはひとつだったから、それを果たさなくてはならない。一騎もまた自分で決めてザインに乗ったように。
 本当は、嫌だと叫びたかった。
 ――どうして、私なんだ。どうして、私に選ばせる。
 何度も問い続けた。けれど、自分しかいないのだとわかっていた。進む道しかなかった。 
 減り続ける体重を前に、その数字を前にしながら、このまま自分が消えていくという実感が未だにわかなかった。私という存在はどこにいくのだろうと考えれば、恐ろしくて仕方がなかった。あれほどいなくなってもいいと思っていたはずなのに、見つけてもらい、手に入れた自分という存在を失うことが怖かった。その答えはゴルディアス結晶によって示された。鮮やかに煌めき輝くそれは、いなくなった人たちが、確かに存在したという目に見える証だった。
 ――ああ、この中の一つになるというのか。島の一部になるのか。私はここで、一騎を待つことができるのか。
 そして島のコアは、未来へ島を導く存在は、カノンのことを覚えていると言った。決して忘れないと。
 最後、もう一度ファフナーに乗る。それによって、未来への道は開かれる。カノンの残る命を使って。それが本当に最後。揺らがずにそこへ踏み出すための強い心が欲しかった。
 ――これが私の選択。…私の祝福。
「私も選ぶよ。翔子」
 ざあっと風が吹き抜けていった。カノンの髪の毛を揺らしながら、島を渡り、空へと上っていく。竜宮島に満ちるミールの恩恵。カノンを受けいれてくれたもの。風の向かう先を、そこに広がる大好きな景色を、カノンはひたすらに見つめた。
 その中に、知るはずのない翔子の微笑みを、その小さな笑い声をカノンは聞いたように思った。


     ***


 舌で飴を転がしながら、残る自分の存在を感じていた。この飴玉だけは、他の誰のものでもない、一騎から贈られたカノンだけのものだった。飴が形を溶かしていくたびに、カノンの命も溶けていく。甘く、優しく、穏やかに。
 染みひとつない真っ白なワンピースが、カノンの身体を優しく包む。
「お前に見せてやれば良かったな、一騎」
 似合うと言ってくれただろうか。あれほど人が寄せる想いに鈍い彼だとしても、スカートなんて珍しいなくらいは言ってもらえただろうか。お前のために着たんだといえば、少しは困った顔をしただろうか。いつもこちらを困らせ、慌てさせるのは一騎の方だったから、一度くらいそんな顔をさせてみたかったと少し思う。
 背中で、さらさらと笹が葉ずれの音を奏でる。皆の願いを受けて揺れている。「生きる」と書いた一騎の願いと一緒に。一騎の願いに、カノンもまた思いを重ねた。生きてくれと願い続ける。
 同じように願い、今もそのためにそばに在り続けているのだろう存在を、カノンは知っている。
 まだ一騎は生きている。そして、これからも一騎は生きる。未来に至るその可能性がカノンを幸福にする。その隣に、もう自分はいられないのだとしても。
 ――そして。
「行こう、カノン」
 窓の外で打ち上がる鮮やかな花火の光に照らされながら、カノンのためだけに用意されたカノンだけの未来が、すがりつきたくなるような優しい姿のまま消えていった。これでいいのだと、カノンの選択を祝福するかのように。
 闇に溶けて何も残らなくなる最後の一瞬までも食い入るように見届けてから、カノンはずっときつく握りしめていた拳を解いた。細く長く息が溢れる。
 本当にすべてが終わったのだと感じた。
 未来は、選択された。カノンにできることはすべて果たされた。
 最悪の未来を何度も目にして、発狂しそうなほどの光景を視界に焼き付けて、その中でももっと可能性の高い未来を示すことができたはずだ。それもまた犠牲を伴うものだけれど。きっと彼らはそれでも選ぶだろう。選んで辿りつくだろう。
 涙がぽろぽろとカノンの頬を伝い、止まることがなかった。
 セントエルモの火。航海する者を守護する、海で死んだ者たちの魂。自分もあの炎の一つになるのだ。そうしたら一騎の道を照らせるだろうか。彼の進む闇を少しでも晴らす、小さな灯りになれるだろうか。
 一騎が守りたかったものが、カノンにとっても守りたいものになった。守ろうと思った。一騎がいつか帰る島が、誰もいない廃墟であっていいはずがない。一騎はそのために島を出たのだから。
 本当は一緒に戦いたかった。行きたかった。後悔がないわけではない。望みたいことはたくさんあった。崩れ落ちそうになる心を支えてくれたのは、やはり一騎だった。一騎はいつだってカノンの心をバラバラにしたけれど、つなぎ合わせてくれるのもまた一騎なのだった。
 一騎の近くにいるとき、存在に触れる度、カノンの心は震えて様々な音色を奏でた。繰り返し、変化しながらメロディを紡ぐ《カノン》のように。
 胸に残ったのは、全身に沁み渡るかのようなただ一つの感情だった。きっと永遠に伝えることがないと思っていたそれを、今なら言葉にできると思った。胸を張って。最大の感謝とともに。
 舌に滲む甘さがカノンの最後の心を繋ぎ止める。
 ――愛してもらった。だから私もせいいっぱい愛せた。この島で。やっと辿り着いた、永遠のティル・ナ・ノーグで。
 明日の竜宮島も美しい青空の下にあるだろう。明日も、またその明日も。例えその空が陰ることがあるとしても、辿り着く未来のずっと先で、カノンの愛した景色は、必ず太陽の下で輝くだろう。そのための犠牲だった。カノン自身が夜明けを見ることはもうないけれど。でも、自分は光差す未来を見たのだから。皆が生きる未来を。仲間たちがそこに辿り着く事を願い、信じるだけだ。
 ――一騎。わたしは生きたよ、この島で。
 ――一生懸命、生きたよ。
 あの蒼い空の下で、自分はこの島に生まれ直した。今、この命すべてを返すのだ。
 キャンディの包み紙に書き記した、たった五つの文字。だが、それだけで十分だった。曲線的で繊細なこの国の文字を初めて目にしたときの不思議な感動を思い出す。感情が少しでも揺れると歪んでしまう文字を、なんとか丁寧に書けたと思う 咲良は誉めてくれるだろうか。仲間思いで優しい彼女を泣かせてしまうだろうか。
 島に伝えたい言葉。
 母さんに伝えたい言葉。
 ――そして、お前に。一騎。
 仮定の未来ではない。無意識に望んだ一騎でもない。カノンが出会い、今もこの世界で生き続けている一騎に伝えたい言葉。
 この言葉だけは形に残さない。すべて持っていくと決めた。これまでもこれからも。カノンの思いを島はきっと覚えていてくれるだろう。だから言える。
 ――たった一度。わたしのすべて。
 身体がすうっと浮き上がっていく心地があった。
 飴玉の、最後の欠片が口の中で消えていく。
 花火が打ち上がる音が響く。どぉん、どぉんと音が鳴るたびに、夜空に花が咲いてカノンを照らす。あの光と一緒にどこまでも登っていける気がした。鳥のように羽ばたいて空へと消えた翔子のように。
 全身を浸すこの感情、この体に残された最後の重み。カノンの心。
 きらきらと輝く火花のような思いを、川に流れていく灯籠のようなあたたかい炎のような感情を、溶けた飴の甘さとともにたったひとつ、舌に乗せた。


- end -


2016/01/31発行 2019/01/25再録
2016年発行の短編集「とおりガラスのうちせかい」から再録。
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