世界の果てを見たいと君が言ったから
【サンプル】


序章:はてのゆめ

 ゴオゴオと風が啼いている。
 一騎は崖の上にいた。行く手は白い靄に包まれて何も見えない。足元を見れば、あと数歩先のところで地面が消失している。濃く立ち込めた靄が一寸先さえも覆い隠し、一騎が立つ場所を曖昧にした。
 だが、一騎は自分の前に海があることを知っていた。闇のような、いや闇そのものがうねりとなって、一騎の前に横たわっている。一騎が立っているのは、崖の先端だった。
 ザァンっと音がした。重たいものを打ち叩く音とともに飛沫が散る。わずかに霧が晴れ、海の様子を一騎に見せた。
 海は荒れていた。海面がところどころ白く泡立っている。まるで湯が煮えたぎったかのように次々とうねっては沈み、沈んでは盛り上がり、一騎が立つ場所へ、一騎を飲み込もうとするかのようにその身体をぶつけてきた。ザアァン、ドォォン。崖にぶつかるたびに波は砕け、バラバラと結晶が散らばるようにして降りかかり、一騎の身体を濡らす。
 一騎は、海の飛沫を浴びながら、じっと凝らすように海の向こうを見つめた。だが、そこには闇しかない。空と海を分かつはずの境界線がどこにも見えない。
 そして、闇は静かに呼吸をしていた。一騎が見るのと同じように、向こうから一騎を見ていた。靄の間からじわりと滲んで、一騎の四肢を絡めとろうとするかのごとくまとわりつく。
 息苦しさを覚え、一騎は喘いだ。空気が重い。闇が、重い。
 俺は、ここで何をしてるんだろう。
 一騎は首を傾げる。まるで何も思い出せない。どうしてこんなところにいるのか、ここからどこに行けばいいのか、まるでわからない。わからないのに、ここから動くこともできない。空気だけでなく、身体そのものがひどく重たかった。風と波の唸りを聞きながら、一騎は途方に暮れる。
 そのとき、不意に声が聞こえたような気がして一騎は首を傾げた。
 誰かが呼んでいた。一騎の名前を繰り返し呼んでいる。
 だが周囲を取り巻く霧や、ときおり振りかかる波しぶきが、声の方角もその主についても判断をつかなくさせた。その声は海の向こうから呼びかけているようであり、一騎の背後から呼んでいるようでもあった。
 声をかき消すかのように、波はいっそう高くうねり、風は吹きつける力を強くした。
 風は冷たく、どんどんと身体の熱を奪っていく。全身を強く打ち叩き、両脚でしっかりと踏みとどまっていないと、すぐにでも崖の先から転がり落ちてしまいそうだった。
 一騎はもう一度、闇の先に目を凝らした。
 この向こうには何があるんだろう。
 それは疑問であり、期待であり、恐怖だった。
 この先を進めば、俺はどこに行くんだろう。そのまま引きずり込まれて水底へと沈むのか、それとも沈むことなくその先へ行けるのか。
 もし、たどり着ける場所があるのだとしたら、その先には何があるんだろう。
 知りたいと思い、知りたくないとも思う。とっくに知っているような気もする。
 ―いきたい。いやだ、いきたくない。…いきたい。
 相反する心が葛藤する中、何かに引き寄せられるかのように、身体はじりじりと崖の端へと進もうとする。闇が呼んでいる。それはひどく甘美な誘いに思えた。身を委ねてしまえば、きっと楽になれる。
 ああ、その先にあるのは。
 きっと真っ暗で、何もない。静謐で、穏やかな。

 ――虚無。

 ぱちりと目が開いた。とっさに一騎は自分がどこにいるのかわからなかった。
 周囲は暗い。だが、先ほど感じていた四隅からのしかかるような闇ではない。乾いて澄んでいる。
 ぱちぱちと瞬きを繰り返し、よくよく目を凝らせばすぐに周りにあるものが朧げに形を浮かび上がらせてきた。四方は壁に取り囲まれている。いや、一方だけが柔らかな線を描き、わずかな光を透過している。あれはカーテンだ。窓の近くには机と椅子、それから小さな本棚。壁にかかっているのはモッズコートとマフラーだ。
 それらを確認し、ああ今まで夢を見ていたのだなと一騎はようやく理解した。
 ここは、一騎が東京で暮らす七畳の和室だった。大学に進学してから、一人暮らしをしているアパートの二階の角部屋だ。小さなベランダは多摩川に面しているけれど、海ではないし、もちろん崖の上でもない。いたって平均的な日本家屋の一室の、畳の上に敷いた布団の中に一騎はいた。
 もぞもぞと身体を動かし大きく身体を伸ばした途端、手足が布団からはみ出し、途端に冷気がまとわりついて、うわっと布団の中にひっこめた。今は十一月に入ったばかり。このところ、間もない冬の訪れを教えるように、朝晩は一気に冷え込むようになった。東京の秋冬は、故郷のそれよりひどく冷える。
 もう一度身体に毛布を巻きつけながら、一騎は、また懐かしい夢を見たなと思った。
 最近になってたびたび見ることが増えたそれは、昔一騎がよく見ていたものだ。
光の差さない、星の輝きさえ見えない暗闇の中、白く靄が立ち込める崖のふちに一騎は立っている。目の前には荒れた海があって、その先には行けない。だが、一騎は戻ることもできない。ただ一人いつまでも崖の上に立っている。そんな夢だ。海の向こうは闇に沈んでいて、一騎は何かの引力に引きずられるようにして、少しずつ少しずつ崖の端へと足を進めていく。あと一歩で転落するという直前で、必ず夢は覚めた。
 中学三年の終わりころ、突然、脳動静脈奇形を原因とする脳卒中で倒れ、ほとんど身体が動かせなくなった状態で治療生活を送っていた頃、一騎はよくこの夢を見た。なんの意味があったのか、どうしてこの夢だったのか、一騎には今もよく分からない。ただ、目が覚めて、ベッドのかたわらに大切な幼馴染の顔を見つけたとき、いつも泣きたくなるような気持ちになったことはよく覚えている。手を優しく握る、力強いぬくもりと一緒に。
 手術後は合併症や感染症を何度も引き起こし、麻痺も一部残るだろうと言われたが、懸命な治療とリハビリによって、ほぼ以前と変わらない日常生活に戻ることができた。無尽蔵を誇っていた体力が完全に戻ることはなかったが、それでも人並み以上の運動をしても倒れるようなことはない。家族も友人たちも、無理はするなと口を酸っぱくして言うが、一騎は回復した健康を証明するように、スポーツ推薦で大学に合格した。
 そんなわけで、今の一騎に身体の不調を心配するようなことは基本的にはない。なぜ、今になってまたこの夢を見るようになったのか、一騎にはまったくわからなかった。それなのに、目を閉じると絶壁の上で佇む自分の姿を思い出す。立っている場所が足元からバラバラと崩れて、そのまま底知れぬ深みへと呑まれてしまいそうな感覚に、一騎はぞっと身を竦ませ、夢の残滓を振り払うように頭を振った。
 考えてもわからないことは、とりあえず保留しておこう。
 一騎はとりあえずそう結論した。
 しばらくぬくぬくと布団のぬくもりを味わってから一呼吸し、よし、という掛け声とともに、腹筋だけで勢いよく上半身を跳ね上げる。身体を覆っていた上掛けを引きはがし、布団から立ち上がるとベランダに続く窓辺に向かった。
 カーテンを開き、換気のために窓を開けると、途端に冷え切った空気が流れ込んでくる。一騎は息を止め、ぶるりと身体を振るわせて首をすくめた。吐き出した息が白い。空気を吸い込めば、肺までもがキリリと凍りついていく気がする。
 壁に掛けた時計を見れば朝の五時。日が昇るまでにはまだいくらかある。朝靄でけぶる薄暗い世界の中で、それでも一騎は少し先をゆるやかに流れる多摩川の姿を見ることができた。川上に目をやれば、新二子橋の影がある。一騎が毎日走って行き来する橋だ。
 ―あいつ、起きてるかな。それとも、ちゃんと寝てるかな。
 川向こうに住んでいる幼馴染の顔を思い浮かべて、一騎は小さく笑った。
 一騎の住むアパートから多摩川を挟んだ先、二子玉川駅近くのマンションには総士が住んでいる。皆城総士。故郷の竜宮島で、物心ついたときから一緒に育った一騎の一番。別れていた時期もあったけれど、今もこうしてすぐ近くに総士がいる。総士の家までは、一騎の足で走って五分ほどだ。
 よほどのことがない限り、一騎はほぼ毎日総士のマンションに行く。朝食を作って一緒に食べ、あるいは作り置きだけして、総士の家から大学へ向かう。帰るのも総士の家で、タイミングが合えばやはり一緒に夕飯を食べ、場合によっては課題も済ませて自宅へ帰る。
 総士が一騎のアパートに来ることもあるが、こたつを出さない主義の総士が一騎の部屋のこたつに潜り込むためで、つまりほとんど冬に限られる。ほとんど半分同居しているようなものだが、こうして互いの家を行き来する生活を、一騎は気に入っていた。
 もう一度川に目を戻しながら、今日の予定を頭の中で確認する。今日は語学の授業が二限目からあり、午後にはゼミがある。部活にも顔を出さなければならない。大学三年の夏で一騎は早々に部活を引退してしまったが、後輩の指導だとか、部の運営だとかでなんだかんだと定期的に引っ張り出されている。俺なんかがいても指導になるとは思えないと正直に顧問に伝えたところ、いるだけで後輩の気合が入るということもあるんだとこっぴどく怒鳴られ、そんなもんかと静かに反省した。せっかくなので公式練習などにもできるだけ参加するようにしている。今日は帰りが遅くなるかもしれない。
 ――総士と夕飯食えるかな…。
 このところ、総士もゼミがさらに忙しいらしい。今日のことは互いの予定を確認しないと分からないだろう。
 何はともあれ、まずは日課となっている多摩川河川敷のランニングだ。今日は折り返し地点を少し先に延ばそうかと考えながら、顔を洗って歯磨きを済ませ、軽く水分補給をしてから、スウェットに着替えて家を出る準備をする。そこで総士の家の冷蔵庫の中身を思い出し、コンビニに寄って卵と牛乳を買っていくことを決めた。財布の中身を確認してポケットに突っ込み、ランニングシューズを履く。
 朝方見た夢のことは、いつの間にか頭の中から消えていた。


1章:


「春休み、どこか行きたいところはあるか?」
「へ」
 総士の唐突な問いに、一騎はぽかんと口を開けた。
「春休み?」
 聞き返した一騎に、総士は目を落としていたiPadから顔を上げると、神妙な様子で頷く。その表情に、これはちゃんと考えないといけないやつだと悟り、一騎はベッドに横たえていた身体を起こした。
 情事の気怠さが残る身体をぐっと伸ばしながら、ちらりと目に入った時計を確認すれば、夜の十時を過ぎたところだ。
 いつものように総士のマンションで総士と夕飯を食べ、片づけを済ませたあと、そのままなんとなくそういう流れになって、総士とセックスをした。そんなわけで、二人とも身体にほぼ何もまとっていない。一騎は素肌にシーツを被ったままだし、総士はシャツを軽く羽織っただけだ。結わえていない亜麻色の髪が、肩から流れるように落ちていた。とはいえ情事後のそれらしい余韻というものはあまりなく、猫がじゃれあったあとのような、怠惰で呑気な空気だけが流れている。
 総士との情事はいつもこんな調子だった。特に片方から合図を出すわけでもなく、唐突に、あるいは呼吸をするような自然さで始まる。何かスイッチがあるとすれば、互いの間の空気の揺らぎとでもいうべきか。視線を合わせたときに、ああ欲しいんだなと感じる。それは自分が求めているのであり、つまり求められていることと同義だった。
 不思議なことに、一騎と総士の情動のタイミングはいつもぴたりと一致した。相性がいいといえばそれまでだが、一騎としてはまるで食事のようだなと思う。腹が空くのに似た物足りなさを覚えるとき、身体のどこかにぽっかりと空いた隙間を埋めるように互いを求めている。総士と身体を重ねるとき、一騎はいつも腹が膨れるような満足感を覚えた。
 今日もそんな風にしてひとしきり熱を散らしたあとで、倦怠感とゆるやかな眠気に身体を任せそうになりながら、ベッドヘッドに凭れてiPadを見ている総士を眺めていた。そろそろシャワーを浴びて家に戻ろうかなどとぼんやり考えていたときだったから、総士の質問の意味を考えるのに、多少の切り替えが必要だった。
 もう春休みの話なのか、気が早いなあと一騎は首を傾げた。まだ冬休みの予定も立てていないのに。いや、予定は決まっている。年内最終の授業が終わり次第、島に帰って両親や島のみんなと正月の準備だ。混雑を見越して、総士が早々に飛行機のチケットを抑えている。
 今度のお節は何作ろうかな…と思考を飛ばしかけて、そうだ春休みの話だったと思い出す。
 総士がわざわざ「行きたいところ」と尋ねてきたからには、それはいつもの帰省の予定とは異なるはずだ。週末に少し足を延ばして、横浜や鎌倉の方まで出かけることはあるが、それともおそらく違うだろう。
 首を傾げて考え込んでいると、呆れたような声が横から響いた。
「旅行に行きたいと言っていただろう」
「旅行? 俺が?」
 一騎はきょとんと目を瞬かせた。
 旅行って、あれか。普段行かないようなちょっと遠くに泊りがけで行くやつか。ここではないどこかに行きたいやつか。
 一騎の頭には、駅に貼られた広告でよく見かける煽り文句がぼんやりと浮かんだ。うん。そうだ、どっか行こうみたいなやつだ。
 それをどうやら自分が口にしたらしい。
「ええと言ったような、言わなかったような」
「言った」
 ばっさりと言いきられて一騎は再び目を白黒させる。
 ――言ったのか。じゃあ、多分言ったんだろうな。
 一騎は素直に納得した。総士の方が記憶力がいいのはもちろんだが、小さなことでもないがしろにせず頭と心にとどめておくという点で、一騎は総士をこれ以上なく信頼している。
 しかし、いったいその時の自分がいったい何を考えてそんなことを口にしたのかまるで思い出せないのはまずい。でも旅行というのはなんだかとてもいい響きに思えた。だが、そうなると春休みの予定は、いささか変わってくる。
「竜宮島には帰らないのか?」
 年末年始を別として、夏と春の長期休暇には、竜宮島に帰るのが習慣だ。八~九月。そして二~三月。数週間から一か月以上と、期間はそれぞれに異なるが、この時期は、大学進学のために竜宮島を出た面々がいっせいに帰省して島を賑わせる。もっとも賑わうのは、八月に行われる送り盆の時期だが、期末試験を終えて進級も決まり、課題もひと段落した春休みの帰省は、どこかのんびりとしていて、幼い頃に戻った感傷を抱かせる。
 一騎などは、帰省早々に溝口に呼びつけられ、溝口が経営する地元の喫茶店《喫茶楽園》でのバイトに駆り出されるのだが、それも東京に出た身となってはかけがえのない時間だった。島は変わらない。いつも一騎たちを待っていてくれる。
「旅行のあとに帰ればいいだろう。前でもいいが」
 あっさりと口にした総士に、なるほどそれでいいかと考える。旅行のあとにすれば、土産と一緒に報告もできていいかもしれない。それにしても。
「春休みか…」
 一騎はもう一度呟いた。
「僕らも大学三年だからな。それぞれの進路にもよるが、ゆっくりできる春休みは最後になるかもしれない」
 そういえば、そうなのだった。
 一騎たちは今年の冬に成人式を迎えた。竜宮島での成人式は、島にある鈴村神社できわめて厳粛に行われ、同学年の皆が公式に大人の仲間入りを済ませている。月日が流れるのは早いもので、一騎は今年の九月で二十一歳になった。総士も来月にやはり二十一歳になる。来年の春休みが終われば、大学四年生。一騎にとって、大学生活最後の学年が始まる。再来年の春には卒業だ。
 大学三年の冬ともなると、もう多くの学生が就活をスタートさせている。
 剣司や甲洋は、それぞれ医学部と歯学部であるので、まだ就職先を意識することはないだろうが、医師国家試験を視野に入れたより実践的なカリキュラムをこなしていくだろう。
 翔子はキャビンアテンダントを目指しているらしい。今年の夏は、語学研修も兼ねてカノンと二人でカナダに短期留学をしていた。
 咲良は教員免許取得のため、大学四年に教育実習を控えている。自分たちが卒業した竜宮中学で実習を行う予定で準備を進めているらしい。竜宮島学園では、咲良の母である要澄美が今も教員として教鞭を振るっている。今から緊張するわあと咲良が笑いながら首をすくめていた。
 真矢はというと、短大に通う彼女はすでに就職していた。今年の四月から、羽田空港のグランド・スタッフとして勤務している。持ち前の観察力と機動力で、まだ新人ながらも、とりわけトラブル対応で活躍しているらしいと嬉しそうに話したのは、真矢ともっとも頻繁に近況をやり取りしている翔子だった。
 蔵前と衛は進学。そして総士も進学組だ。総士が在籍する薬学部は四年制だが、そのまま薬学研究科に進むつもりだということを時折口にしている。総士のことだから、もっと広い分野にだって進もうとするのではないかと一騎は思っている。例えば…海外留学とか。総士からまだ聞いたことはない。だが、総士が興味を抱く資格は、日本の大学では取得できないものなのだと剣司に教えてもらったことがある。
 じゃあ、俺は? とそこで一騎の思考はいつも立ち止まる。このままバイトをしている喫茶店での仕事を続け、調理師免許を取ろうかとぼんやり考えてはいる。だが、それが本当に自分のやりたいことなのかと聞かれると、途端に自信がなくなり、曖昧になってしまう。これといった就職活動もしていない。卒業後、東京に残るのか、島に帰るのかも決めていなかった。
 両親はとくになにかを強要してくることはない。もともと大らかな人たちで、やりたいようにやれといつも言われてきた。ありがたいことだと思う。東京にいられなくなったら、戻ってきて器づくりでも手伝えとも言ってくれた。それも一つの道だとは思うが、周りの手を借りるだけの人生でいいのかと囁く自分がいる。
 ――俺はどうするんだろう。
 ――俺は、どこに行くんだろう。
 今は、大学に通うという名目のもと、総士の近くで生活をしている。なら卒業したらどうするのか。まだここにいてもいいのだろうか。これといった人生の目的も持たない自分が?
 不意に胸がちくりと痛んだ。足元が途端におぼつかなくなるような感覚に陥る。気づけば、ふとまたあの崖の上に立っているような気がする。そうだ、夢で見る、あの。
「―一騎?」
 名前を呼ばれて、はっと顔を上げた。総士の切れ長の双眸がじっと一騎を見つめている。日本人にしては色素の薄い、紫がかった灰色の瞳。ついそのまま左目を縦断する傷跡に目を奪われてしまったが、その上の眉がかすかに寄せられているのを見て、一騎は慌てて返事をした。
「ごめんな、ええとなんだっけ」
「旅行先のことだ。どこか行きたいところはないのか」
 総士にもう一度尋ねられ、一騎は、そうかその話だったと再び唸った。
「……総士はないのか?」
 行きたいところ、と尋ねると、思いつかないから聞いているとあっさり返答された。それはずるいんじゃないかと思ったが、そもそも旅行に行きたいと言ったのは一騎だというのだから、ここはやはり自分が考えるべきなのだろう。
 山、海、川…と考えるが、山も海も実家に帰れば嫌というほど見られるし、毎日川を眺めて暮らしている。温泉に行きたいと思うほど、最近疲れがたまっているわけでもない。いや、総士は疲れているかもしれないが。
 うんうんとしばらく考えて、ふと口から零れたのは、突拍子もない言葉だった。
「世界の果て、とか」
 見てみたいかな…と続けた声が小さくなってしまったのは、言いながら自分でもそれはどうなんだと思ったからだ。
 ――なんだそれ。
 世界の果てに行ってみたいだなんて、まるで小学生か、はたまたバラエティー番組の企画かというところだ。あまりにも漠然としすぎている。
 だが、総士は呆れた様子も首を傾げる様子もまるでなかった。
「…世界の果てか」
 神妙に呟くと、iPadの画面を長い指で手早くタップする。
「世界の果てと言われるところはいくつかあるが、お前が想像する《果て》とはどういうものなんだ?」
 真面目に尋ねられて、一騎の方が面食らってしまった。
「どういうっていってもな…」
 なんとなく、本当になんとなく思いついたことなのだ。気づいたら勝手に口が動いていただけで。そんな風に対応されると、むしろ恥ずかしくなってくる。
「なんかこう、端っこっていうか…どこにもなさそうな場所っていうか…」
「こういう場所があるが」
 ――え、あるのか。
 総士にiPadを差し出され、シーツを肩から掛けなおしながら画面をのぞき込む。そこに映し出された写真を見て、一騎は目を見開いた。
「すごい…な」
 絶景としか呼べないような景観が、そこには並んでいた。こんな場所が世界にはあるのか。いや、テレビや写真などで知ってはいるが、今総士と話しているのは旅行先のことなのだ。見るだけの世界と、実際に行けるかもしれない場所とでは、受ける印象がまったく異なってくる。
 ――っていうか、こんなとこ本当に行けるのか?
 断崖絶壁をてっぺんから流れ落ちる長大な滝や、エメラルドの海に浮かぶ宝石のような島、はたまたマグマが噴火する地獄の底のような景色を見ながら、一騎は呆気に取られつつ疑問を抱いた。
 写真がある以上、もちろん訪れたことがある人間がいるわけなのだが、どうにも現実味が薄すぎる。それでも、圧倒的な美しい景色に魅入られ、画面をのぞき込みながら自分でスクロールをする。一つ一つをゆっくり見ているその視線が、不意に止まった。思わずひゅっと喉が鳴る。
 それは、霧に包まれた白亜の崖の写真だった。先端は大きく海に向かって突き出している。崖は切り立っていて、まさに断崖絶壁というものだった。転落すれば命はないだろう。淡い青空と深い海を背景にそびえる崖は、息を呑むような迫力のある美しさだが、どこかもの悲しさも感じさせる。
 その風景は、一騎に夢の情景を思い起こさせた。崖に一人佇む自分の姿。行く手に広がる荒れた海。一騎は、耳の奥でゴォゴォと鳴り響く海鳴りの音を聞いたように思った。
「俺、ここ行ってみたいな」
 どこかぼんやりと呟くと、総士が真横で笑う気配がした。
「じゃあ、行くか」
 あっさりと了承される。
「え、いいのか!?」
 夢見心地だった気分から一気に現実に引き戻され、一騎はぎょっとして顔を上げた。間近で覗き込んでいたから、ほとんど鼻先がぶつかりそうな距離の先で、総士が目を瞬かせている。
 いや、そんな不思議そうな顔をするなよ。それは俺の反応じゃないのか。
 というか、そもそもこんな場所に行けるのか? そんな簡単に了承していいのか、総士。
 当惑しかない一騎に、総士は首を傾げる。
「だって、行きたいんだろう?」
「いや、確かにそう思ったけど」
「なら、行けばいいだろう」
 いったい何の問題があるのかと、ごく当たり前の調子で言われて、なぜかそのままキスをされた。
「――!?」
 鳥が啄むようなそれに完全に勢いを失って、一騎はぽかんと口を開ける。
 そうか? なら行けばいいのか? 行くのか? 本当に? と思考をぐるぐるさせている一騎をよそに、総士はすでにアプリでスケジュールをチェックしはじめている。早い。だが、その耳がわずかに赤く染まっている。
 ――なんで、そこでお前が照れるんだ総士…。
 このままシーツに突っ伏したいのはこちらの方だ。いずれにせよ、だ。
 総士は有言実行の人間だ。これはもう旅行は確定ということだろう。なら一騎も春休みの予定をしっかり考え直さなければならない。部活に顔を出す日とか、バイトだとか。
 ―父さんと母さんにも言わないとな…。
 母などは、せっかくの長い休みなんだから、実家に帰るだけじゃなくてどっかに行けばいいのにと帰省するたびに笑っていたから、喜ぶかもしれない。溝口さんには島でバイトできる日が減るという連絡を入れたほうがいいだろう。そんなことを考えながら、まだふわふわとした定まらない気持ちでベッドから足を下ろし、床に落ちていた自分のシャツを拾い上げたところで、総士に声をかけられた。
「それより、一騎。お前パスポートはあるのか?」
「え? いやないけど」
 一騎は生粋の日本生まれ日本育ちで、生まれてそんなものが必要になったことなど一度もない。当然持っているわけがない。だろうなと、総士も頷いた。
「なら早めに手続きをしておけ」
「手続きって、なんのだ?」
 シャツを握ったまま一騎がぽかんとしていると、総士がiPadから顔を上げて一騎を見た。色素の薄い、紫がかった灰色の双眸がくっきりと一騎を映す。その両瞳がすうっと細められるのに、一騎は、あ、と思った。
 ――これ総士が、面白がってるときの顔だ。
 まるで機嫌のよいときの猫を思わせる仕草で、総士は綺麗な笑顔を見せた。
「だからパスポートだ。僕たちの本籍地は竜宮島だからな。役場の手続きはけっこうかかるぞ」
「…え?」

     ***

「へえ、それで総士と海外旅行なんだ。いいなあぁ」
 飴色の光沢を放つテーブルの上に頬杖をつきながら、操が口を尖らせた。
 授業が終わり、今日は部活に顔を出す必要もなかったので、いつものように総士を待つつもりでTUTAYAで時間をつぶそうとしていたところに、甲洋から連絡が来て、今からそっちに行くからカフェで会おうということになった。なんでも、三茶にパクチー料理が食べられる店があるから、操と覗いてみようという話になったらしい。
 一緒に行くかと誘われ、それならと総士にもLINEを送ってみたが、総士から返ってきたのは、剣司と会うことになったから一緒には行けないという返事だった。店は夜からなので、時間つぶしも兼ねて三人でカフェでだらけている。
 三人がいるのは、この付近でよく待ち合わせに使う行きつけのカフェの二階スペースだ。駅から少し奥まった通りにあるので、人でごった返すことがない。全体的に客層も落ち着いている。コーヒーはこだわりのブレンドで、提供される軽食もどれもおいしく、まさに穴場といった場所だ。二子玉川に引っ越してきて早々に、総士と見つけた店だった。
 総士は、父である公蔵が大のコーヒー好きで、公蔵自ら豆をブレンドしていたという背景もあって、コーヒーにはそれなりの好みがある。その総士が気に入って通う店の一つがここだった。
 もう一軒は、一騎がバイトをしている古民家を改造した喫茶店で、この店からは駅を挟んで真反対の場所にある。十年前まで竜宮島に住んでいたというオーナーは、溝口とも古くからの付き合いらしく、一騎のバイトも快く受け入れてくれた。店の名前も、溝口が経営しているのと同じ《楽園》だ。まったくの偶然でしかないのだが、溝口は《楽園》の都内進出店だなと豪語する。ポジティブに捉えるにも程があるが、なぜか誰も突っ込まない。今日はバイトの日ではないので、客としてそこを使っても良かったのだが、メンツがメンツであるので、つい馴染みの店を避けてしまった。《楽園》はいい店ではあるが、馴染みがありすぎるために、会話からうかがえる様々な事情がそのまま島に筒抜けになってしまうのが長所であり短所なのだった。
 通りに面した喫茶店のガラス窓からは、窓辺に置かれた鉢植え越しに自転車や歩行者がのんびりと行きかう様子がよく見下ろせる。向かいにある中華料理屋の案内板の横から黒猫がひっそりと顔を覗かせ、人目を避けるように路地裏へと滑り込んでいった。
 一騎の向かいでクリームソーダをストローでかき回しながら、操はもう一度いいなあと言った。アイスはすっかり溶けて、澄んだ碧色だったソーダは白っぽいエメラレルドグリーンに変わっている。その隣では甲洋が何喰わぬ顔でアイスコーヒーを飲んでいた。
「いいなああああぁあ」
「うるさいよ、来主」
「だってえぇ」
 さすがにうんざりしたのか、静かに口を挟んだ甲洋に、だって海外旅行だよ! と操が騒ぐ。
 そうだ。海外旅行なのだ。
 頼んだアメリカンコーヒーに口をつけながら、本当にびっくりだよなと一騎はしみじみした。
 まったくアホな話だが、一騎は総士が教えてくれたその場所が日本ではないことをあとから知った。つまりいつの間にか海外旅行に行くことを承諾していたというわけだ。考えてみたら、あの景色は確かにまったく日本ぽくはなかった。ぼんやりとした衝動だけで選んだとはいえ、我ながら肝心なところがすっぽ抜けている。
 総士はというと、もとから海外も念頭に入れて予定を立てていたらしい。一騎が本当に思いつかなかった場合は、イタリアかフランスあたりを提案するつもりだったという。
 そういうことは早く言えよなと、ちょっと思った一騎だ。もとは一騎が行きたいと言い出したことによる旅行だというが、そもそもが総士だって乗り気だったということだ。それもものすごく。
 まさか写真の場所が海外だと思ってもいなかった一騎は、総士にせっつかれ、竜宮島の役場が年末年始の休みに入る前に慌てて必要書類を取り寄せ、新宿の事務局に出かけてパスポートの申請をした。書類に不備はなく、このままなら年明けにはパスポートを受け取れるはずだ。
「しかもイギリスだって。俺、イギリス行ったことないよー」
 操がうらやましいとまた繰り返した。
 行き先がイギリスだというのも、これまたあとから知った話だ。一騎が行きたい場所は、ロンドンから電車とバスを乗り継いだ先にあるのだという。
 一騎からすれば、どのあたりがどううらやましいのか、操に聞いてみたいくらいに現実味がない場所だった。いや、現実にある国だということはもちろん知っている。なんたって、イギリスパンのあのイギリスだ。あとジェームズ・ポンドのいる街だ。この前、総士とDVDを借りていくつかシリーズを観た。あとなんだっけ。ハリー・ポッターもか。
 もっとほかにもあるだろうと突っ込まれそうだが、一騎の頭にとっさに出てきたのはそれくらいだった。総士が一騎の顔を見ながら、呆れたようにまあそうだなと言ったのがリフレインする。
 あとはそうだ。
 ――総士がいた国だ。
 正しくは皆城家が暮らしていた国だ。総士が九歳のときから十四歳になるまでの約四年半の間、皆城家はイギリスにいた。総士の母である皆城鞘が、イギリスでの研究プロジェクトに参加を要請されたのが理由だった。公蔵もイギリスで事業を進めることにし、一家そろっての一時的な移住となった。その頃のことを思い出すと、一騎の心は鋭い刃で突きさされたように痛む。
 総士がイギリスに行ったのは、不意の事故によって、一騎が総士の左目に傷を負わせてしまった直後のことだった。あれはただの事故だと、一騎に罪はないのだと繰り返し言われても、幼い一騎は、自分のせいで総士が遠くに行ってしまったのだと思い込んだ。そしてもうこのまま総士に会えないのだと考えた。そのことが、自分が消えてしまいたくなるくらい悲しかった。
 総士が戻ってきて、以前のように親しい仲を取り戻したあとも、今のような関係になってからも、あのときの絶望は心の奥底に残っていて、不意に闇の奥から結晶のように突き出てきて、一騎の胸を鋭く刺す。
 総士がイギリスにいた間のことを、一騎は知らない。もしそこに行けば、一騎の見たい場所を見られると同時に、過去の総士の欠片に、ほんのわずかだとしても触れられるのかもしれなかった。
「それで、どれくらい向こうに行くんだ?」
 甲洋が尋ねてきたのに、二週間だと一騎は答える。
「へえ、けっこう長いな」
 甲洋は驚いたように目を瞬かせた。
「ああ。総士がせっかくなら余裕をもって滞在したいっていうから」
 そういえば、総士とこれだけ長く二人で出かけるのは初めてだなと一騎は気づく。基本的に、友人たちと一緒になることが多かったし、京都旅行や北海道旅行もそうだ。二人きりで少し遠出をするとしても、長くて一泊か二泊程度だった。
「まあ、往復だけでもかなり時間かかるし、一週間だと慌ただしいかもしれないね。ロンドンで時間がとれるんなら、ミツヒロにも会えるんじゃないか?」
「うん。遠見にも聞いてみてる」
 ミツヒロというのは、ミツヒロ・ジョナサン・バートランドという名前で、真矢の母親違いの弟だ。もう去年になるが、一年間日本に留学していた。今はロンドンの大学に戻っているはずだ。
「もし会えそうだったら連絡するよ。なにか言伝られるかもしれないし」
「うん、会えるといいね」
 そう頷いた甲洋の袖を、操がぐいぐいと引っ張った。
「ねえ、俺たちもどっか旅行行こうよ。甲洋」
「いやだ」
「えー年末年始は? せめて温泉とかさあ」
「絶対にいやだ。そもそも温泉はこの前一人で行っただろ。一人で」
「箱根に行ったけどさあ、温泉ははいらなかったんだよ~」
「なんでだよ」
 箱根に行って温泉に入らないとかありなのかそれはと、きわめてしょうもない言いあいをはじめた二人を、一騎はしみじみと興味深い気持ちで眺めた。
 甲洋と操は、なぜか神保町で一緒に暮らしている。正しくは、甲洋の住んでいるマンションに操が住み着いている。特に親しいとか、まして恋人というわけでもない二人だが、同居歴はそこそこに長い。大学一年の後半からだから、もう二年にはなるはずだ。操は、家賃はもちろんのこと、光熱費や食費もいっさい払ってはいないらしい。誰がどう見てもアンバランスな組み合わせだが、一騎が知る限り、甲洋と操が喧嘩別れするような様子を見せたことはない。些細ないさかいは日常茶飯事で繰り返しているが。
 ちなみに、一人で操が箱根に行ったというのは、勝手に甲洋のロードバイクを拝借して、一週間ほど行方不明になっていた件だ。ある朝、甲洋が大学に行こうとロードバイクを部屋から引っ張り出そうとしたところ、部屋の所定の位置からロードが消えていたのだ。操ごと。結局操は、戻るまで一度も甲洋に連絡をよこさず、ある日、山ほどの箱根土産を背負って帰宅した。なお、購入した土産はすべて自分用で、一騎には買った干物を美味しく焼いてほしい、ついでに一緒に食べようという連絡がきた。釈然としないとぼやく総士も加え、一騎のアパートで干物パーティーなるものが開かれたのは記憶に新しい。
 甲洋と操は、基本各々で好きなように生活しているというが、突然思い立ったように一緒に食事をしに行ったりもする。今日のパクチー料理屋がいい例だ。神保町にて月一で開かれる、竜宮島同期の飲みの席で、都内の立ち食い蕎麦屋は甲洋とほぼ制覇したと操が嬉しそうに宣言していた時には、こいつらマジかという顔で総士が唖然としていた。
 甲洋は、今年の正月は島には戻らないらしい。もっとも彼には、島で待つ家族はいない。甲洋が高校在学中に両親が蒸発し、甲洋は一人身になった。甲洋の後見人になるとともに両親が営んでいた喫茶店を譲り受け、甲洋が東京に進学した今も、彼の帰る家を守る形で経営しているのが溝口だ。冬休みはどうせ短いし、休み明けにはいくつかの試験が早々と待ち構えている。成人式も終えたことだし、バタバタするのがわかっているから今回は東京で過ごすという。その分、春休みには少し長めに帰ると、溝口には伝えているらしい。
 それを聞いた操は、甲洋が帰らないなら俺もいいやと、あっさり東京に残ることを宣言した。この前など、せっかくだから料亭でものすごくお高いお節を注文しよう! とかうきうきカタログを広げていた。一騎のアパートで。ちなみにそのお高いお節のお金を払うのは、もちろん操ではない。とりあえず本当にお節を注文したら、中身と味の感想だけ教えてくれと一騎は操にお願いしている。
「とにかくお前との旅行はなし」
「甲洋のけち~」
「どのくちがそれを言うんだ」
「いひゃいよ、こうよう!」
 容赦なく操のほっぺたをつねり上げる甲洋と、ひゃんひゃんわめく操を眺めながら、一騎はそういえばと思い出した。
「操は海外旅行したんだろ」
 操が、結果的に甲洋の家に転がり込むことになる原因を作った旅行だ。出奔といった方がいいかもしれない。
 滑り込みで都内の私立に受かっていた操は、一騎たちと一緒に東京での大学生活をスタートさせるはずだった。実際、最初の二ヶ月ほどは問題なく始まった。だが、ある日突然操は姿を眩ました。誰に何の連絡もなく、文字通り消えたのだ。最近、皆が操の姿を見ないと思っていたら、操の保証人である皆城家に大学から連絡が行き、大学も住居も放り出して行方知れずになったことが判明した。すわ事件かと、竜宮島含めて騒ぎになったが、その後行方を調査したところ、出国してペルーまで飛んでいたことが判明し、皆が唖然となった。
 一騎の質問に、つねられた頬をさすりながら操はうーんと唸った。
「旅行っていうか。俺にとってはちょっと違うんだよね」
 確かに、旅行というにはあまりにもサバイバルすぎるだろう。何せ、半年もの間行方を眩ませていたのだ。なんでも滞在ビザの期限もぎりぎりだった。本人が語るには、帰りの飛行機代が足りず、向こうの日系人が経営する食堂でアルバイトをしていたというのだから恐れ入る。
 それでも操には、彼なりの理由があったのだという。
「どうしても行かなきゃって思ったんだよ」
 図書館で一冊の写真集を見て、その景色に一目ぼれをした。そして気づいたらバックパック一つを背負って、パスポートと航空券を握りしめて成田空港にいたのだという。
「それで、行けたんだろ」
「うん。空に浮かぶ都市と、空が映る湖を見てきたよ」
 一騎の確認に、操はにっこり笑って頷いた。
 操は一枚も写真を撮らなかった。そんなこと、頭にも浮かべなかった。そもそもカメラも持って行かなかった。ただ自分の目で、心を奪われた景色を見るために日本を飛び出していった。
 操の見た景色は、操だけのものになった。だから、その景色を操が小さな断片でも一騎や総士に正確に伝えることは難しい。本人もそのつもりはないのだろう。操が見た景色を証明するものはどこにもない。それでもあの時見た景色は、その色と空気は、たしかに操の中に記録されていて、彼を構成する一部になっている。
「だからさ、やっぱりあれは旅行じゃなかったんだよ」
 操の瞳はひどく澄んでいる。血縁ということもあり、総士によく似た面差しを持つ操だが、その総士よりもさらに色素が薄く、黄水晶を連想させる黄みの強い双眸は、光の加減によっては金色にも見える。蒼穹を照らす太陽の光を閉じ込めたようなその色を煌かせて、操は言った。
「俺が生きるために、必要だったんだよ」
「そのかわり、今を自力で生きる手段全部を失くしたわけだけどね…」
 甲洋が苦い笑みをこぼす。
 帰国した操を待っていたのは、退学処分通知と、学生寮の立ち退き通知だ。学生身分も住まいも、ついでに貯金もすべて失くした操が頼ったのが、とくにそれまで仲が良かったわけでもない甲洋だった。ある日甲洋が大学から帰宅したら、部屋の前に操が座っていたのだという。そして不思議なことに、甲洋は操を放り出さなかった。
 どうして甲洋が操と暮らし続けているのか、その理由を一騎は未だによく知らない。知らないことくらいあってもいいよなと思っている。もしかすると、甲洋にもわからないのかもしれない。
 以前こんなことを口にしたことがある。
『俺が、実習でへとへとになって部屋に帰るだろ。そうすると、あいつが俺のデータを勝手に使って居間でゲームしてるんだ。部屋には牛丼の匂いぷんぷんさせてさ。それで俺に言うんだよ』
 ―甲洋おかえりー。あ、甲洋の分も牛丼買っといたよ。紅ショウガ多めのつゆだくだよー。
『気が抜けるだろ。バカバカしくて』
 だいたい牛丼だって俺の金で買ったものなのにさ、と言いながら細めた目元がどこか柔らかかったから、そういうことなのだろうと思う。
 甲洋は、頭がずば抜けて良く、仲間思いで心優しい青年だ。昔からそうだった。人が笑っているのを見るのが好きで、仲間を守るためにいつも必死になれる人間だった。一騎は、そんな甲洋をすごくてかっこいいやつだなとずっと思っている。それでいて、彼が心の奥底に、決して誰にも触れさせない脆い何かを抱えていることも一騎は知っていた。その繊細で柔らかな部分に踏み込める人間は誰もいなかった。一騎もまた、甲洋を傷つけることを恐れた。けれど、操は頓着しなかった。来主操という青年は、まるで人の心の中身が見えているかのように、その深いところへひょっこりと現れ、直接扉を叩く。
 こんにちはー、聞こえてますかー。俺は来主操っていいます。どうぞよろしく!
 操はときどき思い立ったように一騎の家にきて、甲洋がさあ! とあれこれ文句をまくしたてるが、そのまま一騎の家に泊まったことはない。総士の家に行くこともない。必ず神保町の甲洋の家に帰っていく。そして、操と接する甲洋の姿に、一騎はいまだ知らなかった友人の一面をいくつも見ることになった。
「生きるため、か」
 すごいな、来主はと一騎が言うと、すごくはないだろと甲洋が呆れたように口を挟んだ。
「まあ、ある意味すごいけど」
「でも、俺の心臓が動いて、俺が呼吸をして、俺が歩くためには必要だったんだよ」
 操は揺らぐことなく主張した。どこか誇らしげに。
「だからさ、ねえ。一騎」
「なんだ?」
 一騎も見つけられるといいねと、操は突き抜ける蒼穹を思わせる、曇りのない笑顔を浮かべた。





     ***

 神保町には古い喫茶店がいくつもある。路地裏に佇む、夜にはカフェ&バーを経営する一軒で、総士は剣司とコーヒーを飲んでいた。
 授業が終わったあと、古本を探しに神保町に寄ったところ、ちょうど週末にかけて咲良のところに来ている剣司から、どこかで会わないかという連絡があった。なんでも、咲良の方に大学の用事が入ってしまい、時間が空いたのだという。
 同じタイミングで、一騎から甲洋や操と食事に行くがどうするかと連絡がきており、総士は少し考えてから、剣司と会うことを優先させることにした。思えば、剣司と二人でゆっくり話すことはなかなかない。せっかくの機会だった。
 店内では、適度に落とされた照明の中、潮騒のように緩やかにジャズが流れている。ときおりカウンターからかすかに響く食器のぶつかる音やコーヒー器具の立てる音さえこの空間に溶け込んで、まるでパーカッションのようなリズムを生んでいる。使い込まれて飴色になった木製のテーブルの上には繊細な蔓草の紋様が描かれたカップとソーサーが二つ。中に注がれたコーヒーは、照明を受けてとろみのある光沢を放っていた。カップを持ち上げて口をつければ、芳醇な香りとともにコクのある苦味が舌の上に広がり、喉を伝ってじんと胸に沁みていく。
 昭和の時代からまるで時を止めてしまったかのような空間。総士が知るはずもない時間であり世界のはずなのに、なぜか懐かしいと感じるのは、ここに満ちているのが置いてきた故郷の空気とどこか似ているからなのかもしれない。現在からも都会の喧騒からも切り離され、郷愁や回想を瓶詰めにして閉じ込めた、まるでアクアリウムのような場所。それでいて閉塞感はなく、むしろ訪れた人間に、やっとここで息ができる、やっと帰ってきたと思わせるのだった。
 そんな店で、別々の大学に進んだとはいえ、幼い頃からともに育った友人と、今も島にいた頃と同じようにこの都会の一角で当たり前のように話せることが、総士にはひどく不思議に感じられた。
 バーであるのでもちろん酒も提供しているし、互いに合法的に酒を飲める年齢でもあるのだが、なぜかそんな気持ちにはならなかった。それは剣司も一緒だったらしい。
「居酒屋で仲間とビールや酎ハイってならいいんだけど、こういう店で酒を味わうっていうのはまだ早いような気がしちゃうんだよな…」
 剣司の言いたいことが、総士にもよく理解できた。年齢に未だ追いついていないもどかしさと焦燥を、総士もときおり強く感じる。
「ほんと、変な感じだよな。成人式迎えたのにまだ大人になりきれてないっつうか、一人前じゃないっつう感じ。もし大学っていう選択肢がなきゃ、逆にもっと色々真摯になったのかなとか考えるんだよ。とりあえずは俺たちみんな、将来なりたいもの決めて、そのための道も選べてるわけだろ。まあどこかでつまずくこともあるんだろうけどさ、それで死ぬっていうわけでもないし」
 うまく言えねえけど、と剣司は肩をすくめる。親がいて、友人もいる。今の状況をある程度保障され守られていて、大きな責任を負わされることもまだない、ぬるま湯のような優しい時間。社会に出るまでの狭間のような世界を、自分たちは生きている。
「遠見は先に大人になったって感じだよな。やっぱ先に就職したからかなあ。俺なんか一人前の医者になるまでどれだけかかんのかって感じだよ」
 大人として、まだまだスタート地点に立ったばかりでしかない。それは総士も同じ思いだ。それでも、剣司はこの数年でひどく大人びたと思う。咲良の存在も大きいだろう。
 互いにしばらく何も言わず、時間をかけてゆっくりとコーヒーを口に運ぶ。流れるジャズが次の曲に切り替わったところで、そういえばと剣司が口を開いた。
「総士さ、一騎と旅行に行くんだって?」
「ああ。もともと旅行に行きたいと言っていたし」
 もっとも、本人は口にしたことをすっかり忘れていたようだが。
「長期で旅行に行ける機会も、そろそろ限られてくるからな」
「ふうん。つまり一騎のためってことか」
「……ああ。まあ、そうなるな」
 直球で投げつけられた言葉に、胸のうちで驚きながら肯定すると、ふぅんそっかと剣司は納得したように頷いた。
「一騎のやつ、このところちょっと様子がおかしいもんな。もともと騒ぐタイプじゃねえけど、どっかぼうっとしてるっていうか。や、一見普段通りだけどよ」
「剣司にもそう見えるのか…」
 総士は剣司の眼力にしみじみと感心した。剣司は人の心の機微に敏い。その原因にまで思い至らずとも、変化や不調によく気づく。医者は剣司の天職だろう。剣司なら、自分よりも先に一騎の抱えるものに気づいたかもしれないとさえ思って、いやと首を振る。せめてそれは自分が先でありたかった。
「進路のこととかもあるのかもな。一騎は将来どうするのか、総士聞いてるか?」
「いや、特には」
 一騎は、今後についてはっきりしたことを何も口にしなかった。先月の仲間内での会合のときもこれからのことが話題にのぼったが、一騎は聞き手に回っていただけのように記憶している。
 自分たちだけではない。一学年下の後輩たちも進路を決めている。広登は、ジャーナリストを目指すべく、政治経済学部が有名な大学に進学した。放送研究会に所属し、毎日を忙しく過ごしている。暉は、調理師免許を取るといって専門学校に入った。授業の合間に、一騎と同じ《喫茶楽園》でバイトをしている。できれば、海外で研修もしたいと言っていた。もともと失語症を抱えていた少年が、今や「いっそ、インドに行ってカレーでも極めたいです」と真顔で口にするレベルだ。あいつの作るもの、優しくて安心するんだよなと一騎が褒めていた。
 芹と里奈は、大学に行くことも専門学校に行くことも選ばなかった。島を出ることなく、それぞれの家業に携わっている。芹は鈴村神社の巫女を、里奈は西尾商店の売り子を。芹は大学で生物学の研究をするのかと思いきや、勉強はいつでもできるし大学もいつでも行けますからと進学しなかった。里奈も、資格なら通信でも取れるし、と口にした。西尾双子の祖母である行美は、双子が別の道を選ぶとはねえと感慨深げにしていた。島なんて古臭くて退屈と叫び、本土から取り寄せたファッション雑誌を読むのが好きな里奈が東京に行かないことに誰しもが驚いたが、暉は、里奈は家が大好きですからと小さく笑っていた。誰よりも育った家を大事にし、守りたいと思っているのは里奈なのだと言った。暉もゆくゆくは島で料理店をやりたいという。
 その下の世代たちは、まだ将来のことなど考えてもいないようだが、先輩たちの背中にそれなりに思うところはあるようだ。きっと、それぞれがそれぞれにふさわしい道を、試行錯誤しながら見つけていくのだろう。
 だが、一騎が目指すものは総士にも見えない。
 剣司はソーサーを指でなぞりながら、うーんと唸った。
「一騎、あいつ就活はしてなかったよな」
「調理師免許は取るつもりでいるらしいが」
「島に帰るのか」
「さあ、それも聞いていないな…」
 聞いていないというより、実のところ総士自身が一騎に確認するのが怖いというのもある。一騎が、大学を出たあとどうするのか。どうしたいと、考えているのか。
 総士は内心でため息を吐いた。口にするコーヒーが、さきほどからひどく苦い。
「あいつ、部活も早々に引退したしな…」
 ある日、今日で部活引退してきたとあっさり報告された。周囲にそれとなく様子を聞いたところ、惜しまれながらの、早すぎる引退だったという。顧問にもあと半年は残れとずいぶん食い下がられたらしい。そのころから、一騎はときどき遠くを見ることが多くなった。いや、本当はもっとその前。成人式を終えたあたりから、その兆候はあった気もする。
 流れていく時間の中で、一騎だけが同じ場所で静かに立っている錯覚を覚えることがあった。毎朝欠かさず総士のところを訪れ、すぐ近くに必ず感じる存在は、総士を安心させるものではあるが、同時に何とも言葉にしがたい違和感があった。
 ――まるで、大人になるはずではなかったのに、大人になってしまったかのような。
 そんな考えが不意に浮かび、総士はぞっとしてその思考を頭から振り払った。
 剣司はちらりと総士を見やってから、一拍置いてへらっと笑った。
「まあ、旅行はいい気分転換になるんじゃねえの?」
「そうならいいんだが」
 とうとう堪えきれず、あからさまに大きな吐息をこぼした総士に、宥めるような笑みを寄越す。
 昔、落ち着きがないと散々大人たちに言われた少年の面影は、今の剣司の言動にはあまり見当たらない。それでいて軽やかな明るさは残っていて、強張った肩をぽんと叩いて一息つかせてくれる。基本的になんでも生真面目に重たく考えがちな総士にとって、剣司という男は一騎とはまた別の意味で貴重な存在だった。
「しっかし、いいよなあ。俺も咲良とどっか行きてえよ」
「この前の秋の連休は金沢に行ったんだろう?」
「ああ。すっごく良かった」
 そのときのことを思い出したのか、剣司はくしゃりと目を細める。良かったというのは金沢のことであり、そしてそれを喜んだ咲良のことなのだろう。
「でもさすがに海外旅行ってのはねえな。仕事始まったら絶対行けねえからなあ…俺も今から計画すっかなあ。で、どこに行くんだ。一騎からはイギリスとしか聞いてないんだよな」
 っていうか、冬にイギリス行くとか寒すぎるんじゃないのかと、半ば呆れたように言われる。それはもはや覚悟の上だ。オフシーズンだから混雑は避けられる。夏季に比べて諸々が安くつくのも学生身分としてはありがたい。
「まずはロンドンにしばらく滞在して、市内を見て回ろうかと思っている。それから三日ほどサセックスの方へ行く」
「サセックス? 南の方だっけか」
「ああ。セブンシスターズを見に」
「それ、一騎が見たいって言ったのか」
「一騎にどこに行きたいかと尋ねたら、世界の果てが見たいと言われた」
「また唐突だな」
 まあ、一騎らしいっちゃ一騎らしいけどなと剣司は小さく笑う。
「僕もそう思ったんだが、行きたいなら連れていってやりたいし、それでどういうところが見たいのか該当しそうな写真をいくつか見せたんだが」
 目を丸くしてiPadの画面を眺めていた一騎が目を止めたのが、セブンシスターズだった。白亜の絶壁。ここに行きたいと、ぽつりと呟いた。そして食い入るような、それでいてどこか夢見心地の眼差しで、その写真を見つめていた。その様子が微笑ましいと同時にひどく気になって、なら絶対に連れて行こうと決めた。
「セブンシスターズって、あれだろ。海に向かって白い崖が続いてる」
「ああ。なぜそこがいいと言い出したのかは僕にもわからないが」
 セブンシスターズは、高さ百五十メートルの高さにもなる、灰白色の石灰岩の絶壁がイギリス海峡に面して延々と連なっているイギリスの名所だ。一騎は知らなかったようだが、世界的にもよく知られた景勝の一つで、その絶景を目にするため遠方から訪れる人間も少なくはない。剣司も何かで目にしたことがあるのだろう。
 そっか、と剣司が呟いた。
「世界の果て…な」
 減ったコーヒーに添えられていたミルクをつぎ足し、スプーンでぐるりとかき混ぜる。柔らかなクリィム色に変化したコーヒーがゆるやかな渦を描くのを見下ろしながら、剣司はぽつりと続けた。
「あいつ、今も果てにいる気持ちなのかな」
「……今も?」
 ――果て?
 コーヒーを口に運ぶ手を止め、総士は目を見開いて剣司を見た。
「病気のときさ、一騎、もう駄目かもって何度か言われてただろ」
「……ああ」
 一騎が倒れた日のことを、総士は今でもよく覚えている。その日付も、天気も、気温さえも。あれは中学三年生の冬だった。授業中に頭痛を訴え、嘔吐してそのまま昏倒した。昏睡状態が続き、その後も麻痺で口を聴くことはおろか、意識が混濁したまま周囲で何が起きているのか判断することもできなかった。手術で一気に低下した体力により免疫力も落ち、感染症を防ぐために、家族以外は長期間面会することも許されなかった。
「やっと見舞いに行けたときにさ、一騎が言ったんだよ」
 ――ここが果てなんだな、きっと。
「果て…」
「そう。自分は崖の端にいるんだってさ」
 動かない身体と思考もまだはっきりしない状態で、それでもまっすぐに窓の外をただ見つめながら、十六歳の一騎が口にした言葉だった。
『なあ…この先には何があるんだろ』
「やたら澄んだ目でそんなことを言ってた。それからこう続けたんだ」
 ――その先でも、俺は総士に会えると思うか?
「俺は正直、こいつは何言ってんだって思った。あの世とかのことについて言ってんのかと思ったけど、総士はここにいるしさ。もしかしてまだ意識が曖昧で、夢でも見てたのかもしれねえけど」
 未だに忘れられないんだよなと剣司は言った。そして黙り込んでしまった総士を見て眉を下げる。
「わりい。なんかちょっと思い出しちまったんだよ。一騎、今は元気だし、過剰に心配することもないんだろうけど、このところの様子見てたらなんとなく、さ」
「ああ…」
 やはり剣司は人をよく見ていると、総士は思った。
 最近見せるぼんやりとした様子と、倒れてからの一時期のおぼつかない状態は、少し似ている気がした。夢でも見ているようなというのは、言いえて妙だった。
「…一騎ってさ、わりと考えすぎだよな」
 ソーサーに添えられていたカラメルビスケットをかじりながら剣司が笑った。ふわりと、シナモンの香りが総士の鼻を擽る。キャラメリゼされた砂糖の濃い甘さがコーヒーにも紅茶にもよく合うと、一騎もよく買い込んでくるものだ。おかげで頭脳労働のときにも、コーヒーと一緒につい手元に置くようになってしまった。総士のパソコンデスクに転がっている薄いビスケットの包装を見つけて、一騎が笑ったのを思い出す。
「なんでっていうようなことでも、じっと貝みたいになってさ」
 まるで、一人海の底にいるようにして自分の思考に沈む。
「周りなんか目に入ってないって感じでさ、クラスのやつらに喧嘩ふっかけられてもいつも平然としてたっていうか、当たり前みたいにしててさ。こいつ俺のこと見えてんのかよって、よく思ってたよ。それで腹が立ったっていうか、まあヤケになって、俺もあいつに勝負かけてたんだけどな」
「僕は、今でもたまに腹が立つときがある」
 一緒にいるはずなのに、そのために今ここにいるはずなのに、時折まるで一人きりのような顔をする。
「ときどき、僕の声さえ届いていないんじゃないかと思うことがある」
 穏やかに笑いながら、ときどきひどく不安そうな目をするのはなぜなのだろうと思う。
「僕は、どうしたらあいつを本当に安心させてやれるんだろうな」
 旅行に行くことで、同じ景色を見ることで、心にあるわだかまりを少しでも払ってやれたらと、そう思っているけれど。
 再びため息をついた総士に、剣司が苦笑交じりの笑みをこぼす。
「ああ見えて頑固だしなあ。自分で決めたこと、けっこう譲らねえもんな」
 お前と同居しなかったこととか、と続けられ、お前もけっこう苦労するよなと労われて、総士としてはなんと反応したものかわからなくなる。
 一騎と総士に、同居すりゃいいだろと何度か口出ししたのは剣司だ。一騎は、「いや俺が総士のとこに行けばいいし」と口にするばかりで、それ以降誰も何も言わなくなったが、やはり思うところはあるのだろう。
「…そういや、なんで二キロだったんだ?」
 ふと思い出したように、剣司が尋ねた。
 二キロというのは、東京で一騎と別れて暮らすにあたって、総士が一騎に出した条件だ。いわく、自分の住むマンションから二キロ以内に住むということ。どういうことだと、第三者が頭をひねりたくなるような条件を一騎は二つ返事で承諾し、実際、総士の家から一・五キロ以内のアパートを見つけてきた。多摩川を挟んだ川沿いに。
 剣司はその数字がずっと不思議でいたらしい。総士はああそのことかと頷いた。
「僕が休憩せず全力疾走できる、最低距離だ」
 はっきりと断言すると、ふはっと剣司はふきだした。そのままけらけらと笑いだす。
「…なんだ剣司」
 なにか問題があるのかと、総士がやや憮然として尋ねると、いやそうじゃねえけど、と剣司はなおも肩を震わせながら答えた。
「なんだ、お前走って行く気なのか」
 ―― 一騎のところまで。
 ――お前もまっすぐ走って会いに行くつもりだったのか。
 総士は、何を言われているのかわからず、剣司を見つめたまま目を瞬かせる。だが、剣司はひどく楽しそうに笑うばかりだ。
「じゃあ大丈夫じゃねえの」
 ―大丈夫だろ、きっと。
 そう言うと、冷めきった残りのコーヒーをぐいと飲み干した。

(続く)



2016/09/06 pixiv up
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