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やさしいゆめ


 ある日の晩のことだった。
 いつものように総士と一騎と一緒に三人で夕飯を食べて、総士と風呂に入り、一騎に髪の毛を乾かしてもらって、みんなで歯磨きを済ませてから、そうしは自分の部屋に行って自分で敷いた布団に横になった。
 去年の十一月でもう六歳になったのだから、一人でも寝られるということで、自分の部屋をもらったのだ。南向きに窓が面した、日当たりのよくて明るい六畳間だ。部屋にはまだ、そうしの本や遊び道具を入れた道具箱と、衣装ケースくらいしか置いていないが、ゆくゆくは机と椅子、それに大きな本棚も買ってもらうことになっている。なにせ、今度の春になったら、そうしは小学生になるのだ。ランドセルは、史彦をはじめとして、よくお世話になっている島の大人たちがみんなで買ってくれるらしい。好きな色を決めなさいと言われているけれど、そうしはまだ選べずにいる。
 そんなわけで、そうしは自分がすごく大人になった気持ちになったし、自分の部屋で一人で寝られるようになったことを一騎はえらいなと頭を撫でて何度も褒めてくれた。
 真矢お姉ちゃんも、遠見家に遊びに行ったときに褒めてくれた。そうしが大好きなあの声で、「そうしくん、すごいね」と言ってくれたのだ。真矢の声を聞くと、そうしはいつもうっとりした。その真矢がすごいと言ってくれたのだから、そうしはそれはもう有頂天だった。
 剣司先生や咲良先生にも、自分の部屋ができたことを話したら、やはり二人とも口を揃えて「そうしはすごい」と言ってくれた。二人には去年男の子が生まれたばかりで、そうしは何度も赤ちゃんを見に、近藤家に遊びにいっている。咲良の腕に抱かれて眠る小さな命は、あたかかくてやわらかくて、びっくりするほどかわいかった。「そうし、あんたも昔はこうだったのよ」と言われてもそうしには信じられなかった。この子もやがては大きくなって、そうしみたいに自分の部屋をもらって、一人で寝起きできるようになるのかと思うと、すごく不思議な気持ちだった。
 喫茶楽園でも、たくさん褒めてもらった。一騎と一緒に働いている暉は、俺なんか小学校入ってからも里奈と同じ部屋だったのにと自分の境遇を振り返りながら、それでもやっぱり頭をよしよしと撫でてくれた。楽園で食べた暉カレーに、トッピングでゆで卵とチーズまでオマケしてくれた。特別だからな、と一声添えて。
 そうしが一人で寝ているのに、あいかわらず総士が一騎と同じ部屋で寝ていることだけが不満だったけれど、「総士はぼくよりずっと大人なんだから、早くひとり立ちして一人で寝た方がいいと思います」という意見を原稿用紙に書いて、総士の仕事カバンに突っ込んでおいたので、そのうち総士も一人で寝るようになるだろう。あ、でももしかして一騎の方が一人で寝るのが寂しいのだろうか。そうなると、別のアプローチを考えなくてはいけない。
 カバンに押し込まれた原稿用紙を見つけた総士が、その内容に唖然として固まっていたことをそうしは知らない。
「どう説明すればいいんだ……」
「え……大人だから一緒に寝てる、でいいんじゃないのか」
「そんなことを言えるか。それこそあいつが大人になったときにどう説明するつもりなんだお前は。一緒に寝るのか?」
「そ、それもそうか……」
 原稿用紙を見せられた一騎と総士の間で、ちょっとしたひと悶着があったことも、そうしはもちろん知らなかった。


 お腹も満たされて、お風呂で芯まであたたまった身体をふかふかの布団にくるまれて眠ることは、そうしにとってはもう日常になりつつあった。
 だから、今日もそんな夜になるはずだった。目を閉じて、夢を見たか見ないかのうちに、陽が昇り、朝になる。台所の方から一騎が朝ごはんを作る音が聞こえてきて、総士が飲むコーヒーの香りを嗅ぎながら自分で起きて布団を出て着替える……もし布団の中でぐずぐずしているようなら、一騎か総士が起こしに来てくれる。そんな明日が来る。昔から変わらない、そうしの知っているいつもの朝が。
 そのはずなのに、そうしの目は今日の夜に限ってぱっちりと冴えたままだった。どんなに眠ろうとしても眠たくならない。目を一生懸命瞑っても、寝返りを打って寝心地の良い姿勢を探しても、史彦おじさんの器の数を数えてもどうしてもダメだった。
 途方にくれて、布団をかぶったまま仰向けに真っ暗な天井を見上げる。薄ぼんやりと映る照明がずいぶんと遠い。それもだんだんと暗くなっていく。
 そうしは、自分の寝ている布団が、まるで広い海に置いてきぼりにされた小島のような気持ちがしてきた。この家は、総士と一騎と自分が三人で暮らす家のはずなのに、まるでそうし以外、誰もどこにもいないような錯覚を覚え、ぞくりと背筋が震える。
 闇に沈んだ部屋は、見慣れたいつもの居場所とはまるで違って見えて、だんだんとそうしは本当に怖くなってきた。
 そうしが一呼吸するごとに、闇は暗さと重たさを増していくようだった。部屋の四隅からじわりとした漆黒が滲み出て、じりっ、じりっとそうしの布団に迫ってくる。
 あの闇に呑まれたらどうなるのだろう。
 そうしも真っ黒に塗りつぶされて消えてしまうのだろうか。そうしたら、自分という存在は、どこにいってしまうのだろう。

 ――いなくなる。どこからも。

「やだ!」

 とっさに叫んでいた。

「こっちに来ないで!」

 ばっと布団を頭から被り、身体を縮めて丸くなる。ぎゅうと布団を握りしめ、身を守ろうと……自分の存在を守ろうと身体を固くした。
 ――こないで。あっちいけったら。
 ――帰って。
 だが、どんなに願っても、心で叫んでも、身体に圧し掛かる闇の重たさは消えなかった。このままでは、きっと布団ごと押しつぶされて、そのまま闇に食われてしまう。
「やだあ……こわいよぅ……」
 布団の中で丸まったまま、そうしは恐ろしさに震えた。目尻が熱くなり、じわりと濡れる。耐えきれず、いつもそうしを守ってくれる二人の名前を呼んだ。
「……総士っ……一騎ぃ……」
 でも、返る声はない。
 もう大きいのに。もうすぐ小学生にだってなるのに。こんなのはすごくみっともないのに。
 そう分かっていても、そうしはぽろぽろと零れる涙を止められなかった。
「うえっ、うっ……」
 堪えようとするほどに、しゃくり上げるような声がひっきりなしに喉から零れる。寂しくて、怖くて、どうしようもなく悲しくて、とうとうそうしは声を上げて泣き出した。
「うあっ、あああんん、わああぁああん」
 総士、一騎、と何度も繰り返し名前を呼びながら、そうしはわんわんと泣いた。
「やだあああぁあ、うわぁああああん!!」
 やだよ、こわいよ。助けて。
 ここは暗くて、一人で、誰もいない。
 真っ暗は嫌だ。
 一人は嫌だ。
 いなくなるのは嫌だ。

 ――ねえ、助けて。

「そおしいぃぃ、かずきぃいぃぃぃ‼」

「どうした!?」

 大声で二人の名前を叫んだときだった。
 すぐ近くからバタンガタンと何かが響き、慌てたような声と一緒に、誰かがそうしの部屋に飛び込んできた。パチリと音がして闇が消え去る。
 おそるおそる布団から顔を出せば、そこには眩しい蛍光灯の光を背負い、焦った顔でそうしを覗き込む総士がいた。
「そうし、大丈夫か。何があった」
「あ、ひっく、うっ、ぞうじぃ……」
 そうしは、しゃくりあげながら総士に両手を伸ばした。その腕はすぐに大きな手に掴まれ、包まっていた布団から抱き上げられる。まるでやっと見つけた命綱のように、そうしは、総士にしがみついた。しっかりとした腕に抱えられ、宥めるように背中を繰り返しトントンと叩かれる。荒れていた呼吸と動悸が、少しずつ収まっていく。
「怖い夢でも見たか?」
 よく通る低い声が、優しく尋ねる。
 そうしはぶんぶんと首を横に振った。自分が感じていたのは夢ではない。現実だ。さっきまでここにあった、本物の闇だ。そうしは、本当に闇に呑み込まれそうになっていた。
 あの暗く冷たい漆黒を思い出すだけで、震えがよみがえってきて、そうしはもう一度総士の首にぎゅうっとすがりついた。
 総士は、それ以上何も言わず、黙ってそうしを抱きかかえてくれていた。静かに背中を撫でてくれる。あたたかい腕だ。守る手でありたいと言った人の手だ。だから、そうしが恐れることは何もない。
 そうしがやっとそう思えたときだった。
「そうし、大丈夫か!」
 バタバタと足音が響いて、続いて部屋に顔を出したのは一騎だった。
「お前は部屋で待っていろと言ったのに」
「そんなわけにはいかないだろ」
 呆れた声を出す総士に、一騎がそう反論する。
 それから総士に抱きかかえられたそうしの頭をよしよしと撫で、手にしていたタオルで、そうしの涙と鼻水をぬぐってくれた。
「目も鼻も真っ赤だ……怖い思いしたんだろ」
 すぐ来てやれなくてごめんな、と一騎が言うが、そうしはもう一度首を横に振った。こうして二人とも来てくれたのだから、もういいのだ。寝ていたところだったろうに、ずいぶんと焦って来てくれたらしい。二人とも寝起きのパジャマ姿のままだ。一騎にいたっては、いくつかボタンをかけ違えている。
 そんなことに気づけるくらいには、そうしは冷静になってきていた。
「落ち着いたか?」
 総士の声にこくりと頷く。
「もう寝られそうか?」
 それには首を横に振った。またこの部屋に一人で置いて行かれるのは、今そばにあるぬくもりを手放してしまうのは、あまりにも辛くて寂しかった。
 もう六歳になったのに。子供っぽいと言われるかもしれない。それでも。
「やだ。総士も一騎も、ぼくと一緒にいて」
 総士にしがみついたまま、片方の手を一騎に伸ばす。ぎゅうっと一騎の服の裾を握りしめながら小さな声でそう訴えると、そうかという声が返ってきた。とても優しい声だった。
「じゃあ、今日は三人で寝るか」
 久しぶりだなと一騎が笑う。
「え?」
 いいの? と総士の顔を見上げれば、苦笑しながらも頷いてくれた。
「僕が布団を敷いておくから、一騎は先にシャワーを浴びてこい」
「わかった」
 一騎が急いで風呂場に向かうと、そうしを寝ていた布団にそっとおろして、総士はここで寝る準備を始める。総士が、いつも一騎と寝ている部屋から布団一式を運んでくるのを、そうしは寝ころびながら大人しく見守った。
 本当はぼくも手伝うよ、と口にしたのだが、そのまま待っていろと止められたのだ。今日は特別だ、と総士はそう言って笑った。
 総士が布団を運び終えたところで、シャワーを浴びた一騎が戻ってくる。入れ替わりに総士が風呂場に向かった。気づけば総士のパジャマは、そうしの涙や鼻水やらでぐっしょりとしめっていた。ごめんなさいと言えば、そんなことを気にするなと逆に優しく叱られた。
 総士がシャワーを浴びている間に、一騎が寝床の用意を引き継いで整えた。そうしの布団を挟むようにして、総士と一騎の布団を繋げて並べる。まるで幼いころに戻ったようだった。それが嬉しくて、少し気恥ずかしくて、でもやっぱり嬉しくて。さっき総士にしたように一騎にも両手を伸ばすと、やはり拒むことなく抱き上げてくれた。総士とはまた違う、強くてしなやかな腕が、そうしを守るように抱きしめてくれる。大丈夫だ、怖いことなんかなにもないのだと教えてくれる。
「ずいぶん甘えただな」
 少しして戻ってきた総士が、一騎に抱きついているそうしを見て笑った。
「ずっと一人で寝てたんだからいいだろ」
 一騎がそう言い返す。
 六歳になってから、頑張ってたんだから、たまにはいいんだと。
 まだ真っ暗はこわいというそうしのために、豆電球をつけたまま、三人で横になった。そうしを挟んで、右と左に一騎と総士がいる。身を寄せ合うようにくっついて、でもそうしはちっとも窮屈には思わなかった。首元までしっかりと上掛けで覆われ、その上からあやすように一騎の手が添えられる。総士は、そうしの手をずっと握ってくれていた。
 そうしが寝つくまでの間、ぽつぽつと何気ない会話をかわす。そうしが一人で寝るようになってから、一騎もずいぶん寂しがっていたのだと、初めて教えてもらった。なんでも、そうしが寝たあと、寝顔を見にほぼ毎晩そうしの部屋に来ていたらしい。それは一騎だけでなく、総士も同じようにしていたということだった。
「ここで、暮らすようになってから、ずっと三人で寝るのが当たり前だったから。それが俺はすごく嬉しかったんだ」
 様子を見に来たまま、そうしの隣で寝てしまった一騎を、総士が部屋に連れ帰ったことだって何度もあると教えてもらった。
「そうしの親離れより、一騎の子離れの方が深刻だな」
「子離れって難しいんだなあ」
 ぼんやりと明るい部屋の中で、総士のからかうような声に、一騎がはにかむように笑うのが見えた。
「そうしがいなきゃ、こんな気持ち知ることはなかった。俺も総士も、子供を育てたことなんてなかったし。色んな人に教えてもらいながら、二人でお前を育ててきたんだ」
「お前が、僕たちを『親』という存在にしてくれた」
 一騎と、そして総士の声が静かに響き、そうしの中にじわりと染み込んでいく。
「こうしてお前はどんどん成長して、いつか自分の足だけで歩いていくようになるんだな」
「一騎?」
 その声が少し震えているように思えて、そうしは首を傾げて一騎の名前を呼んだ。
「一騎もなにかこわいの?」
 そうじゃないさと、先に返したのは総士だった。うん、そうじゃないんだと一騎が続ける。こわいことなんかなにもない。ただ。
「お前が大きくなるのが嬉しくて、楽しみで、ちょっとだけ寂しいんだ」
「ぼくはどこにもいかないのに?」
 そうしは驚いて、一騎を見た。
「ぼく、ずっと一騎といるよ?  総士も一緒に、一騎とずーっといるよ?」
 だから寂しいことなんてないよ、と一生懸命伝えるそうしを、一騎はまるで泣き出しそうな、優しい、とても優しい笑顔を浮かべて、そうしの頭をさらさらと撫でてくれた。
「かずき?」
「俺は、お前が幸せであれたらそれでいいよ」
 それが俺の幸せだから。それが見たくてここにいるから。そのために今を選んだからと一騎は言った。
「言っただろ。お前は俺たちの宝物なんだって」
 未来であり、希望。繋ぎ続けた大切な存在。
 その切ないような響きに、胸を引き絞られるような心地がして、思わず一騎に手を伸ばす。
「これは夢だ」
 そう告げたのは総士だった。
「ゆめ?」
「そうだ。皆が幸せに共に暮らす世界をこの目で見て、この手で触れたい。そういう夢が叶ったんだ」
「総士。……一騎」
 一騎が夜目にもわかる柔らかな琥珀色の目を細めて微笑んでいる。総士もまた穏やかな、けれど力強い笑みを浮かべて、そうしの頬に左手を添えた。
「望む限りずっと続いていく、しあわせな夢だ」
 ――ああ、そうなのか。
 すとんと、そうしは納得した。
 それなら、そうしもまた願うだけだ。
 どうか、とどこにいるのかもわからない、見たこともない存在(かみさま)に向かって祈る。心の中に浮かぶそれは風のような果てなく捉えどころのない姿をしていて、あるいは大樹のような揺らぎない姿をしていた。
 ああ、すべてが叶うのなら。どうかどうか。
 明日も明後日も、総士と一騎が一緒にいてくれますように。誰も一人じゃありませんように。ぼくと、いつまでも一緒に笑っていてくれますように。
 二人の願いと想いが、その払い続けた犠牲が報われますように。
 ――叶うよ、とどこからともなく声が響いた。
 鈴を振るような、あどけない少女の声が。
 初めて聞く、それでいてひどく懐かしい声だった。ずっと昔から知っていたような声。
 ――会えるよ。だからだいじょうぶだよ。
 ――恐れないで。あなたの中にあるものを。あなたが与えてもらったものを。
 どこからか風と潮の匂いがした。懐かしい匂い。懐かしい音。どこまでも続く、砂浜に並ぶ足跡。握ったあたたかな手。
 今ここにあるものと同じ、けれど違うぬくもり。
 ――あなたはきっと見つける。
 ――自分で選べる。いつか自分の力で目覚めるときまで。
 だからおやすみ、と優しい声がした。

 そうし、と一騎が名を呼んでくれる。重なるように、総士の声が響く。近くから、遠くから。そうしの外から、そして中から。

 また明日、たくさん話そう。
 俺と、総士と。お前と。
 三人一緒に。
 みんなと一緒に。


 ――しあわせの夢を見よう。


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