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おべんきょうびより


「だから、『1』は一分なんだよ一騎」
「ええ……?」
 そうしの主張に、さきほどから一騎は頭を抱えていた。二人の前には、ちゃぶ台に置かれた掛け時計がある。いつもは居間の壁にかけてあるものを、わざわざ下ろしてきたものだ。目下、一騎はそうしと時計の見方について勉強中だった。
 そうしは好奇心旺盛な子供だ。賢いし、探求心もある。だが欠点もある。自分が考え、こうと決めた意見を絶対に譲らないのだ。それはもうきっちり納得するまでだ。さっきからずっと、時計の『1』は一分を指すのだと言い続けている。『1』は五分であり、さらには一時間でもあるのだと、一騎はどうやったらそうしにうまく伝えられるのかわからず、途方に暮れていた。
「でも、『1』と『2』の間に、メモリが見えるだろ。『1』から数えたら『2』は五つめだろ。えーっと、だから五分じゃないのか?」
「でも、このメモリにはなんの数字も書いてないよ? だからこのメモリが一分かどうかなんてわからないよ」
「た、たしかにな?」
「でしょ?」
 明らかにおかしいとは思うのだが、そうしの声には謎の説得力がある。そもそもなぜ自分は、一分を一分として認識できているのか、それさえもわからなくなってきた。一時間は六十分。そして一分は六十秒だ。ええと、だから、それで? つまり?
 ――駄目だ。もう、そうしの説明でいいような気がしてきた……。
 そうしは自信満々で、目の前に座っている。
「じゃあ、一時間は十二分でいいか……」
「いいわけがないだろう」
 一騎ががっくりと頷きかけたところで制止の声が割って入り、振り返ればそこにもう一人の住人が立っていた。
「あ、総士」
「総士、おかえりー!」
「ただいま」
 どっと疲れたような顔をして部屋の中に入ってくると、総士は一騎に呆れた声をかけた。
「なんでこんなごり押しの理論に呑まれてるんだ、お前は」
「だって……」
「だってもクソもあるか。だいたい、小さいころにお前に説明してやった記憶があるぞ僕は」
「そうだっけか……」
「……仕方ないな」
 総士はやれやれと大きくため息をつくと、ちゃぶ台の前に腰を落ち着けてそうしに言った。
「最初からやりなおしだ」
「え?」
 先ほどまで自分の主張に胸を張っていたそうしが、きょとんとして総士の顔を見上げる。
「時間の数え方だ。僕が一から教えなおす」
「えええ」
 やだあ! と上げた声は、ぎっとこれから始まるスパルタ授業を予感してのことだ。ことさら厳しいわけではないのだが、総士はそれこそ、そうしが納得してきちんと理解できるまで終わらない。相手に説明できるようになって、初めて理解したと言えるんだと主張する男である。ちなみに、そうしの「説明」を主に聞かされることになるのは一騎である。
 しかし総士の気持ちはわかる。
 ――まあ、そうだよな…。
 そうしのやり方が通っては、この先日常生活で大いに支障を来す。家の中だけならともかく、このままでは家と外とで時間の流れが変わってしまう。それは大変にまずい。
「さっそく始めるぞ」
 メガネを綺麗に拭いて掛けなおした総士はやる気だ。それはもうやる気満々だった。目が完全に据わっている。そしてどこか楽しそうだ。
 これは長くなりそうだなあと悟った一騎は、二人のためにお茶を淹れてくることにした。
「一騎ぃ」
 情けない声を上げるそうしには可哀想だが、ここは総士の適格かつ論理的な説明によってきっちり時計の見方を学んだ方がいいだろう。
「がんばれ、そうし」
 ――お前のためなんだ……。
 あとでおやつも美味しいの出してやるからと、心の中でつけ加える。
 なにせ一騎では、年々口達者になるそうしにまるで太刀打ちができないのだ。最近では、ご意見申し立てと称して、言いたいことがあると原稿用紙に書いて提出してくる。遠見家に遊びに行ったときに、美羽が学校の宿題として使っていたそれにいたく興味を示し、自分もそれに何か書きたいと言ってもらってきたのだ。
 かずき、あのね、から始まる出だしは、大変子供らしく微笑みがこぼれるものだ。ひらがなで大きく、めいっぱいに原稿用紙にいろいろ書いては、一騎や総士に渡してくれる。
 それも少し前なら「おやつはかすてらがいいです」とか、「こんど、みんなでうみにいきたいです」などという可愛らしい文面だったのだが、最近はそれを目にする総士がこましゃくれすぎだと眉間に皺を寄せるレベルなのだ。
 この前はなんだったか。確かカレーに入っているニンジンについてのことだった。最後まで目を通した一騎はぶはっと吹き出して、思わず台所で蹲った。
『かずき、あのね。
 きょうは、みさおとふたりで、どっちがすききらいがおおいかそうだんしました。ぼくがニンジンとセロリで、みさおがニンジンとピーマンとタマネギとグリンピースでした。ぼくのほうがすききらいがすくなかったので、きょうのカレーのニンジンはみさおのほうにいっぱいあげてください。
                そうしより。
 ついしん、ぼくはかずきのカレーがだいすきです。あと、かずきもだいすきです。』
 最近では、そうしに影響された操までが原稿用紙を一騎に持ってくるようになっている。どうも操は、そうしを自分の弟分かなにかだと思っているようで、なにかにつけてやたらと張り合うのだ。そうなると、そうしも負けじと操に立ち向かう。総士はそうしに、操は甲洋によく制止されている。
 まあ、操はともかくとして、そうしのそんなこましゃくれた態度ですら一騎にしてみれば愛おしいものだ。そうしからわがままを言われると、なんだか嬉しくなってしまうのだ。
 もちろん、むやみやたらとわがままを通させるわけにはいかない。そこは甘やかすなと総士にきつく言われている。それはわかっているので、さあどうしようかなという気持ちでわくわくするのだ。
 結局、カレーに関するご意見申し立てについて一騎がとった手段は、ニンジンをすりおろしてカレーに入れるというものだった。目に見えてニンジンが入っていないことに気づいたそうしは、自分の主張が通ったのだと安心していたが、結局は操にも自分にも苦手な食材が平等に入っていたことを知って愕然としていたのだった。アレルギーでもない限り、基本的にこの家で好き嫌いは許されない。一騎も総士もそうしもだ。
 そうしがくれた原稿用紙は、すべて大切にとっておいてある。一騎の宝物だ。ときどき見返すと、その成長を感じて胸がいろんな感情であふれそうになる。
 そうしにはいっぱい考えて、いっぱい悩んで、いっぱい選んでほしい。考える方法が、選択する道が多ければ多いほどいい。それがたわいのないものであればいい。いつだって一騎はそう思っている。
 二人のために紅茶を淹れて持っていけば、総士の授業は白熱しているところだった。
「いいか、まずは長針と短針を覚えろ。この二つは役割が違う」
「うー」
「うーじゃない。はい、だろう」
「はあい」
 なるほど、そこから教えればいいのかと感心しつつ、今まさに二人がのぞき込んでいるその時計の時刻を見て、一騎は「ん?」となった。もう五時を過ぎている。あと一時間もすれば夕食の時間だ。だが。
 ――これ、終わるのか?
 総士の授業は始まったばかりだ。頑張るそうしのために、午前中に焼いておいたクッキーもあとで出してやるつもりだったが、そんなことができる時間ではないことに、一騎はようやく気付いた。
 ――というか、俺夕飯作んないと。
 今日はタンドリーチキンのつもりで、カレー粉とヨーグルトを混ぜたものに漬けた肉をあとは焼くだけだから手間はそんなにかからない。残りはサラダとごはんと昨日の残りのポトフだ。
 問題は、夕食を前にこの二人が授業を切り上げられるのかということだった。
 総士もそうしも、いったん熱中しはじめると、その集中力がなかなか途切れない。一度興味が向いたものは、解決するまでのめりこむ。このままだと、授業をしながら夕飯を食べることになりかねない。
 なにせこの前も、背の高い細いガラスのコップと、それより背の低いどっしりした陶器のカップを並べ、どちらのコップがたくさんの水が入るかということについて、食事中に解説が始まったのだ。体積がどうこうと、おかずそっちのけで盛り上がる二人に、「食べるのか食べないのかどっちかにしろ!」と、珍しく一騎が腹を立てたのだ。そうしはもちろんびっくりしたし、総士まで明らかにびびっていた。そうしは、ちゃんと食べるからぼくのこと嫌いにならないでと泣き出すし、総士もあのあとやたらと一騎に気を遣っていた。
 ――びびりすぎだろ。俺だってそりゃ怒るし。
 だって、食事は食事として、家族一緒に楽しみたいものだ。食べるのもそっちのけで「べんきょう」をしている二人に疎外感を感じたことも否定はしないけれど。
 そうしは、段々と時計の見方に納得しつつあるらしい。でもやっぱりこれだけは言っておかなくてはいけない。二人とも、見ている時計の時刻に早く気づいてくれ。
「お前ら、食事中にそれやったら怒るからな」
 以前のことを思い出したのだろう。
 愕然と、こっちを見て目を見開いた二人の顔がそっくりで、一騎はついこらえきれずに吹き出した。

- end -


2018/02/04 発行同人誌再録。
元ネタはそうかんとくの「こそうし記」です…。
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