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ぼくとそうしとかずき


 ぼんやりとした意識の向こうから、トントントンとリズミカルな音が聞こえる。何かが木の板を叩く音だ。それが止んだと思う間もなく、ジュワッという賑やかな音もした。続くパタパタと響く軽い音。多分、スリッパだ。それからすぐに香ばしい匂いが鼻を掠めた。何かがグツグツと煮立っている。
 おいしそう…と思ったところで、パチリと意識が覚醒した。かけ布団をはねのけて、ひょこりと身体を起こす。枕もとの時計を見れば、七時にセットした目覚ましが鳴るより少し前。
 寝覚めはすっきりとしていた。目覚める直前まで、何か夢を見ていた気がするが、まるで思い出せない。でも、すごくしあわせな夢だった気がする。胸の奥がじんわりとあたたかい。
 春先の朝はまだ肌寒かったが、それに臆することなく布団の上からはい出し、自分が寝ている和室の窓のカーテンを大きく開けた。ついでに窓も開き、ひんやりした空気に身震いをしながら、空を見上げる。
「お天気!」
 それを確認すると、急いで着替えて部屋を飛び出した。
 廊下を小走りにかけて居間に向かい、続く台所でこちらに背を向けて料理をしている人物を見つけて声をかける。
「おはよう一騎!」
 鮮やかな黒髪が揺れ、右手にお玉を持ったままの一騎が振り返る。一瞬驚いたようにそうしを見つめると、二十歳そこそこの青年にしか見えない優しい顔立ちを緩ませてふわりと笑った。
「おはよう、そうし」
 この家で一番の早起きは一騎だ。寝つきがよく寝起きもいい。何せ、そうしに頼まれた本の読み聞かせをしているうちに、自分が先に眠ってしまうこともあるくらいだ。
 二番目と三番目はときどき入れ替わる。
「今日は僕が二番?」
 再び鍋に目を向けた一騎の隣に立ち、確認する。
「そうだよ。今日も一人で起きれたのか? そうしはえらいな」
 もちろん一人で起きられる。何せこの前六歳になったのだ。それでも一騎に褒められることは嬉しい。
 もっとも、自分が二番目であることを、そうしは居間に来る前から気づいていた。もう一人が先に起きていた場合は、かならずコーヒーの香ばしい匂いが漂っているのだけれど、今日はそれがない。焼き魚の香りと、あとは一騎が前にする鍋から立ち上る、味噌の香りだけだ。
「今日は何のおみそ汁?」
 鍋の火を止めて味噌を溶かしている一騎の手もとを覗き込む。
「玉ねぎとじゃがいも」
「やったあ!」
 ほくほくとしたじゃがいもと、きれいに透き通ったやわらかい玉ねぎの入った甘みのある味噌汁が、そうしは一番大好きだった。その次は油揚げと豆腐の味噌汁だ。
 味噌汁が出来上がれば、朝ごはんは完成だ。ちゃぶ台の上には、焼いたサバの塩こうじ漬けや、葱を入れただし巻き卵、菜の花のおひたしなどが並んでいる。この家の朝食は、だいたいが和食だ。見ていたらお腹が空いてきた。早く食べたくて仕方がない。だが、まだ食べるわけにはいかない。何せ家族が全員そろっていないのだ。
「ねえ、起こしに行った方がいいかなあ?」
「もう起きてくるだろ」
 一騎とそんな会話をかわしながら、そうしは人数分のお箸を食器棚の引き出しから取り出して、ちゃぶ台の上に並べていく。これは食事のときのそうしの役目だ。横にまっすぐ、歪むことなく並んだのを確認したところで、この家の最後の住人が居間に入ってきた。
「総士、おはよう!」
 そうしが声をかけると、かすれ気味の低い声がおはようと返ってくる。普段の声より数段低い。朝はいつものことだ。寝間着から着替えてはいるが、まだ眠たそうで、そうしと同じ亜麻色をした長い髪はいつものように背中で一つに結わえてはいるが、あちこち跳ねてボサボサだ。メガネの奥の眼を、眩しそうに何度も瞬かせている。これも毎朝のことだ。
「今日は、総士がビリ!」
 念押しのように言うと、そうみたいだなと苦笑しながら、そうしの頭をくしゃりとかき回し、総士は自分の席に腰を下ろした。動きが鈍い。
 味噌汁の入った人数分のお椀を乗せたお盆を持ってきた一騎が、総士の様子を見て苦笑する。
「おはよ。コーヒー飲むか?」
「頼む……」
「了解」
 味噌汁をちゃぶ台に置くと、すぐに一騎はコーヒーの準備を始めた。そうしは炊飯器の前に行き、炊き立ての白ご飯を茶碗によそう。ちゃんと三人分。これもそうしの仕事だ。ちなみに片づけは総士がやることになる。そんな風に役割分担が決まっていた。
 この家は、総士と一騎とそうしの三人暮らしだ。そうしが生まれた時に、三人で住みはじめたらしい。だから、そうしは物ごころがついたころから、ずっとこの家で暮らしている。
 三人分の洗濯物と布団を干して、その横でそうしが走り回っても大丈夫なくらいの大きさの庭と、十畳の居間と台所、それから六畳の和室が二つと小さな洋室が一つある平屋建ての和式建築だ。玄関は引き戸で、すぐ目の前は急な階段。坂の下の方に目を向けると、そこにはきらきらと水面を輝かせる海と対岸の島が見える。庭からも垣根越しに海が見えるが、階段から見下ろす景色が、一番美しかった。
 一騎がコーヒーを用意したところで、全員がちゃぶ台の前に揃う。総士の左側に一騎、右側にそうしが座る。いただきますと手を合わせていつもの朝食が始まった。
 お米の粒が一つ一つピンと立ったつややかな炊きたてご飯をほおばりながら、そうしは、今日の予定を確認する総士と一騎を眺めていた。
 そうしは二人のことを、お父さんと呼んだことはない。そもそも、そうしには「お父さん」と「お母さん」というものがいない。いわゆる「生みの親」としての存在を、そうしは持っていない。普通の人にはいるらしいが、そうしにはよくわからない。そうしにいたのは、「総士」と「一騎」だけだ。二人が自分を赤子のころから育ててくれたこと。今も一緒に暮らしていること。二人が自分を大切にしてくれているということ。それしかわからない。そして、それで十分だと思っている。
 自分の生まれが特殊なものであることだけは、教えてもらっていた。お前は限りなく僕に近い存在だから、と総士は言った。僕をもとに生まれた命なのだと。難しいことはまだよくわからない。もしかしたらこの先、もっと成長すれば、その意味も理由も深くはっきりと理解できるのかもしれない。そのときには、今とはまた別の気持ちを抱くことになるのかもしれない。
 名前が二人とも「ソウシ」なのもおかしな話だった。だから、前にそうしは、総士に聞いたことがある。
『ぼくは大きくなったら総士になるの?』
『いいや』
 総士は即答した。きっぱりとした声だった。
『姿形は似るだろう。だが、お前は僕にはならない。たとえ同じ道を行き、同じ選択をすることになるとしても、それは僕と同じ過程を辿ることにはならない。お前が自分で選び決定した結果だ』
 総士の物言いはいつも固く、難解だ。けれど、不思議と安心したことは覚えている。
 それに、総士とそうしが別の存在だということを誰よりも何よりも証明してくれる人がいる。それが一騎だった。
 二人も「ソウシ」じゃ、名前を呼ぶときにややこしいんじゃないの? なんていう人もいるけれど、そうしは、一騎が自分と総士を呼ぶ声を聞き間違ったりはしない。一騎はいつだって、総士は総士、そうしはそうしと分けていて、その声や態度も決して同じものではないのだった。そうしはそれが嬉しくもあり、少し悔しくなるときもある。一騎がそうしを呼ぶ声は、いつも優しくて安心するものだけれど、総士を呼ぶときのような甘さを含んだものには絶対ならないからだ。総士と一騎はいつも仲良しで、ときどきツッコミを入れながらもお互いを大切にしていて、そうしだって間に入れないときがある。入るなと言われたわけではないけど、二人でそっとしてあげた方がいいんだろうなあ、なんてコドモゴコロながらに思ってしまう空気が漂っているのだ。
 ずっと離れずそばにいて、一生一緒にいる相手。
 そういうのをなんて言うんだっけ?
「一騎と総士は『ふうふ』なの?」
「へ?」
「は?」
 つくだ煮やのおばさんが、総士と一騎のことを仲良し夫婦とか言っていたことを思い出して、そうしは尋ねてみた。一騎がぽかんと口を開け、総士もサバに伸ばしていた箸を止める。
「いったいどこでそんな単語を聞かされてくるんだ」
 総士が呆れた声を洩らす。
「んーーそういうふうに思ったことはないな?」
 オットでもツマでもないしなあと一騎は首を傾げている。
「だいたいそんな風にくくる必要もないだろう」
「俺は俺で、総士は総士だしなあ」
 総士と、一騎。
 そうしにとって二人がそうであるように、総士と一騎も互いにそう認識しているということだ。
「そうだな……あえてどういう存在かって言われたら、総士は俺の全部だよ」
 さらりと一騎はそう口にした。まるで当たり前のような口調だった。
「そういうことだ」
 総士もあっさりと同意する。二人とも、息をするようにお互いをそう表現してみせる。それは揺らがぬ事実なのに違いなかった。
「じゃあぼくは?」
 ぼくはなあに? ぼくは二人にとってどういう存在?
 そうしはそれが知りたかった。誰よりも身近な二人に、自分を定義してほしい。受け入れてほしい。そんな欲求に突き動かされる。
 一騎は箸を置いて、真正面からそうしを見た。琥珀色の瞳の中にそうしが映っている。穏やかな、けれどはっきりとした声で、一騎は言った。
「そうしは…未来だよ。俺たちの」
「みらい?」
「希望でもある」
 一騎を引き継ぐように、総士も告げた。灰色がかったまるで夜明けを感じさせるような紫の双眸。そうしと同じ色が、優しく、そして力強くそうしを見つめている。
「きぼう?」
「大切な宝物だってことだよ」
「龍が守る宝だ」
「俺たちの生きてきた証だ」
「大事な存在だ」
「それって、ぼくが大好きってこと?」
 目を瞬かせながら、そうしは確認する。
 一騎が破顔した。
「そうだよ。俺も総士も、お前が大好きだ」
「僕も……!」
 そうしは嬉しくなって、一生懸命声を張り上げた。
「ぼくも一騎が大好き。総士も大好き」
 どんな事実があっても、それだけは揺らがないのだと理解できる。
 だからしあわせだと、そうしはいつだって胸を張って言えるのだった。



- end -


2018/02/04 発行同人誌再録。
強めの幻覚を打ってくれ、いますぐにだ。という気持ちで作りました。レトロ印刷さんにお願いして、本文はわら半紙にオレンジと紫の2色刷り、緑と紫の糸で綴じた本でした。しあわせなゆめのおはなしです。
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