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Tabi-hon(ロシア)
【サンプル】


「モスクワ?」
 パリパリに揚げた鶏の唐揚げに伸ばしていた箸を止め、ぽかんとして声を上げた一騎に、総士は味噌汁の椀を手にしたまま神妙な顔で頷いた。
「秋に国際フォーラムがあるんだ。興味のある分野だし、もし行くつもりがあるなら通訳担当として同行していいと誘われた」
「モスクワって、ロシアだよな」
 そうだな、と総士が返してくる。一騎はロシアか……ともう一度繰り返した。
 総士と一騎が、進学のために故郷である竜宮島を出て東京に暮らすようになってから、もう六年になる。あっという間にも思えるし、やっとそんなに経ったのかという気もする。
 進学したのはそれぞれの適性に合った別の大学だ。島で一緒に育った同期も、そのほとんどが東京に進学し、卒業した今ではそれぞれの道を歩いている。東京に残った者もいれば、島に帰った者もいる。総士と一騎は、東京に残ったグループだった。
 大学卒業後の一騎は、最寄り駅から数駅離れた、駅近くの喫茶店で働いている。なぜか故郷にある友人の実家であった喫茶店と同じ《楽園》という名前だ。竜宮島の《楽園》の現オーナーほどではないが大らかな人で、大学在籍中からバイトに来ていた一騎を、そのまま卒業後も正社員として雇ってくれている。
 一方の総士は、そのまま同じ大学の大学院に進んだ。専攻は薬学だ。普段から学会だの研修だのラボ見学だので、総士は二ヶ月に一度は出張に出かける。都内から地方、海外と国内外を問わずあちこちに行くが、確かロシアは初めてだ。国内ならせいぜい日帰りか一泊二日程度で帰ってくるが、海外ともなるとそうはいかない。しかも今回は研究施設視察も兼ねて一週間も留守にするらしい。
 九月から十一月頃にかけては、いわゆる学会シーズンというものらしい。特に九月中はまだ大学が休みということもあって、合宿やら長期出張やらがスケジュールに放り込まれがちだ。確か去年もそうだった。総士がいない部屋で、ときおり携帯に送られてくる総士の連絡を待ちながら、普段通りに食事や洗濯をして過ごしていたことを思い出して、ふと一騎の中に小さな衝動が生まれた。
「俺も行こうかな」
 ぽつりと洩れた言葉に、総士が目を見開く。
「お前も? モスクワにか?」
 啜っていた味噌汁から慌てて口を離したところからして、相当に驚いたらしい。咳きこみながら傍らにあったほうじ茶を飲んでいる。もしかしたら危うく吹き出しかけたのかもしれない。そんなに驚くことはないだろと、一騎は思った。
「だって、行ったことないしさ」
「言っておくが、飛行機や宿は当然別手配だぞ。僕は遊びに行くわけではないし、科研費の出張だから自由時間もほとんどない」
「俺だって、一緒に観光できるとは思ってないぞ」
「……いつもは分かったで済ませるのに、どういった風の吹きまわしだ?」
 まさか寂しいからなどという殊勝でかわいらしい理由でもないだろうと、総士はやや呆れ気味に形の良い眉を下げる。一騎も、確かにそうだなと首を傾げた。実際、今まで総士が仕事で出かける先についていこうとしたことなどはない。そこは総士の領分であって、一騎には関係のないことだからだ。一騎が総士についていくことにした唯一の特大決心は、総士が島を出て東京への進学を決めたときのことだった。自分も同じように島の外に出ようと思った。大学に進むことなんて、中学の頃は考えもしなかった。総士がいなければ、きっと選ばなかった道だろう。
 そんなわけで、確かに普段の一騎なら、気をつけて行って帰って来いよくらいで終わる今日の話だった。でも、モスクワはなんかいいなと思う。いったいモスクワのどこに興味を持ったのだろうかと自分でも考えてみる。とっさには出てこなかった。多分、それくらい一騎にはまったく想像のつかない国だからだ。そこに総士が行く。食べかけのから揚げを口に放り込み、もぐもぐと咀嚼して飲み込んでから、一騎はあっ、と思いついたことを口にした。
「本場のピロシキが食べたい。あとボルシチ」
「……わかった」
 もはや色々なものを諦めたような表情で総士が頷いた。お前がそうしたいなら僕はそれでいい、の意味だ。一騎が自分から何かをしたいと言い出すことはあまりない。だが一度決めると何が何でも実行しようとする。せっかくなら好きにさせてやりたい。だが色々思うところはある、という総士の複雑な心境を一騎が知る由はない。
「休みは取れるのか」
「大丈夫だよ、多分」
 このところはアルバイトの数も安定しているから、前もって予定を伝えておけば、余程の事態でもない限り無理だと言われることはないはずだ。今は、初夏を迎えたばかり。秋まではまだ遠い。梅雨もこれからだというのに、猛暑を過ぎた季節の予定を考えているのだから、一年とは短いものだ。
「……本当に行くつもりなら、僕も予定を考えておく」
「ありがとな」
「それで、今日はどうするんだ」
 どうするかというのは、このまま総士の家に泊まっていくか、それとも自分の家に帰るかということだ。当たり前のように毎日一緒に食事をしているが、総士と一騎は同居しているわけではない。だいたい一緒に食事をするので食費は折半しているものの、基本的な家賃光熱費も別世帯だ。さらに言うなら、所属する行政区画からして違う。総士は世田谷区民、一騎は川崎市民だ。つまり、揃って東京の大学に進学したとはいえ、実際に東京都民なのは総士で、一騎は神奈川県民なのだった。川を一つ越えただけで、ずいぶんいろいろと違うんだなということを、別々に暮らしはじめてから知った一騎である。ゴミの分別の仕方から違っていたので、最初の頃は少しだけすったもんだした。総士が可燃ごみと不燃ごみとに分けているものの分別条件が一騎には分からなかった。総士は、一騎が普通ごみと呼んでいるものがよく分からなかった。「普通」とはなんだ。それも今ではお互いに慣れてしまったが。
 総士の問いに、さてどうしようかなと一騎は少し考えてから答えた。
「うーん、洗濯しときたいものがあるから帰るよ」
「そうか」
「お前の溜まってるようなら、持って帰って一緒に洗うけど」
「そこまでは困っていない」
「そっか。ならいい」
 一騎が暮らすアパートは、総士が暮らすマンションから少し離れた川向こうにある。といっても、一騎の足で走れば五分ほどでたどり着く距離だ。このところは特に総士の家に入り浸ることが多いので、もはやいつ引き払ってもいいようなものなのだが、どこか捨てきれずにいる。橋を渡って毎日総士に会いに行くという習慣がすっかり染みついてしまっていて、もはや一騎の一部になっているからかもしれなかった。
「また明日来るよ」
「ああ。とりあえずお前の予定も含めて僕もいろいろ考えておく」
「ありがとな」
 礼を口にしながら、総士のことだから本当にいろいろなことを考えてくれそうだなと一騎は思った。



「それで、なぜ僕よりお前が早く出発することになるんだ……」
 もはや何度目か分からないぼやきを、総士は成田空港の国際線出発ロビーで口にした。その顔には解せぬという表情がありありと浮かんでいる。
「しょうがないだろ。俺の方が着くのに時間が掛かるんだから」
 総士のモスクワ行きを一週間後に控えたこの日、一騎は日本を発とうとしていた。
 こんなことになったのも、一騎がモスクワまでのルートとして空路ではなく陸路を選択したためである。
 俺も行くと言った次の日から、一騎は本屋や図書館、ネットを使ってモスクワへの行き方やロシアのことを自分なりに調べはじめた。総士の知識や経験も大いに借りつつ、ついでに操にも話を聞きつつ(ただし操の旅行経験はあまりにも計画性がなく、役には立たなかった。面白くはあったが)、とりあえず飛行機の便は自分で押さえようとあれこれサイトを覗いていた一騎の目に飛び込んできたのは、極東ロシアを出発点として鉄道で西側に向かう列車の旅だった。列車でモスクワまで行けるのかと一騎はまずびっくりし、ついでこういうのもいいなと心が傾いた。
 問題は、空路と比較した移動時間の長さだった。総士がモスクワに到着する日程に合わせるには、一騎の方が先にモスクワに向かう必要があった。何せ列車の始発駅となるロシアのウラジオストク駅からモスクワまでは、一週間もかかるのである。六泊七日の間、列車に乗りっぱなしだ。大陸横断のその距離は約九千キロにも及ぶ。これが日本なら、例えば青森から鹿児島まで新幹線で移動するとして、それでも十五~十七時間あれば終着駅に到着する。つまり沖縄や離島を除き、鉄道が走っているところならば基本的に一日以内で端から端までの移動が可能だ。それと比較すると、ユーラシア大陸のとてつもない広大さを感じられる。
 ウラジオストク駅から夜七時に発車するモスクワ行きの列車に乗るため、一騎はウラジオストクに前日入りすることになった。もし飛行機の便が遅れたりしてもリカバリーが効くし、問題なく到着できればウラジオストク市内を少し観光するだけの余裕がある。荷物は機内に持ち込めるだけのものにした。ウラジオストクで一泊し、翌日からは鉄道に乗りっぱなしの六泊七日を過ごす。成田で別れる総士と再会するのは、日本を出て八日後ということになる。
 一騎が持ってきた旅程表を確認した総士は、さすがに絶句した。

(続く)


――俺は、ちゃんとお前のところにたどり着くよ。




2019/06/23
楽園ミュートス#3 悠まひこさんとのケイ素旅行シリーズ企画本・ロシア編。一騎の鉄道一人旅。
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