やさしいらくえん


 あれは18歳の夏だった。
 誰もがそこにいた。
 たった一度きり、もう二度と戻らない夏の日。
 穏やかな、幸福の日々だった。



  ***



 からん、と涼しげな音が耳に触れる。
 里奈は、はっとして落ちかけていた頭を上げた。
 自分がうたた寝をしていたのだと気づくのと、カウンター越しの人物と目が合うのは同時だった。相手からふっと笑いが零れ、思わず頬が赤らむ。
「あ、一騎先輩…」
 一つ上の先輩である黒髪の青年が、カウンターの中で目を細めて里奈を見ていた。耳に響いたのは、一騎が新しい客のために水を入れたグラスを用意したものだったらしい。
 昼下がりの喫茶楽園で、里奈は店内のカウンター席に座っていた。ランチタイムでバイトが終わる暉を待って、一緒に帰るつもりだったのだが、暉は夜用に仕込む料理の材料が足りなくなり、里奈が来るのと入れ替わりに急きょ買い物に出たという。お詫びにとクリームソーダを出してもらって、カウンターで足をぶらつかせながら、暉の帰りを待っているところだった。
 週末は楽園に来る人もそれほど多くはなく、ランチタイムのピークも過ぎた今の時間は数人が珈琲や紅茶を片手に本や雑誌を広げているばかりだ。日当たりの良い店内でのんびりと過ごしているうちに、ついつい眠気に襲われてしまったのだろう。くあっと欠伸が洩れそうになるのを、慌てて噛み殺す。傍らを見れば、せっかくのクリームソーダは、上に乗ったアイスクリームが半ば以上溶けだしていた。
「ごめんな。暉、もうすぐ帰ってくると思うんだけど」
 客に水を出したあと、カウンター内に戻って洗った皿を拭きながら、一騎は申し訳なさそうに言う。
「けっこう細かいものを頼んじゃったからな…」
「いいんですよ!それがあいつの仕事なんだし!じゃんじゃんこき使ってください」
 里奈の口調に一騎は軽く笑い声を上げてから、ふっと目を細めた。
「助かってるよ。俺も、溝口さんも、それに遠見も」
「そうです、か」
「そうだよ」
 真正面から身内を誉められて気恥ずかしくなった里奈に、一騎はもう一度はっきり繰り返すと、今度はコンロにかかった大鍋へと身体を向ける。夜用に仕込んでいるものなのだろう。鍋の蓋を開ければ、ブイヨンと煮込まれた野菜の匂いがぶわりと立ち上った。
 里奈は鍋の中を確かめている島のエースパイロットの姿を、カウンターに肘をつきながらぼんやりと眺めた。
 ―― 一騎先輩、髪伸びたなあ。
 横から見ると、とりわけ感じる。後ろ髪がもうすぐ肩に届いて、そろそろ一つに結べそうだ。男性で髪の毛を伸ばすのは島では珍しい。前に、何故髪を伸ばしているのか尋ねたことがあったが、「なんとなく?」と笑って返されたのを覚えている。
 里奈が見ている前で鍋の中身を小皿に取ると、一騎はすっと目を閉じて味を確かめた。そして目を閉じたまま、傍らに並ぶ調味料を片手だけで探し当て、必要な分を足していく。その仕草に躊躇いや無駄はいっさいない。流れるような手際だ。目が見えるようになってからも、この方が感覚が掴みやすいと、目を閉じて作業することが多々あるのだと暉が言っていた。
 暉が楽園でバイトを始めたのは、つい一ヶ月前ほどからだ。里奈と暉が他の同期達より先に18歳の誕生日を迎えた日、暉は祖母にバイトを始めたいと願い出た。
 楽園のマスターである溝口にはすでに許可を取り、卒業したら本格的に働きたいという。それを聞いた里奈は激昂した。
『うちの店番はどうすんのよ! あたし一人にやらせるわけ!?』
 それに対し暉は、手が空いたときは店番も手伝うし、料理も覚えて家の家事も頑張ると宣言して食い下がった。どうせ遠見先輩が目当てのくせにと思ったものの、まっすぐな目は決意に満ちていて、最後まで反対していた里奈も、結局渋々聞き入れることになった。今では高校の授業が終わったあと、生徒会の用事がないときや週末にバイトに入っている。
 去年のあの夏から、少しずつ口を開くようになった暉は、自分の主張をはっきり押し出すようになってきた。それでもまだ、自分が面倒を見てやらねばならないのだと思っていた。それがいつの間に卒業後の進路までも決めていたのか。
 双子の兄弟だというのに、まるで自分だけ置いて行かれてしまったような、寂しくそして悔しい気持ちは今も里奈の胸に燻っている。
 グラスの中のアイスはすっかり溶けてしまって、鮮やかな色をしていたはずのメロンソーダは、緑と白のマーブル模様に変わっていた。ストローでグラスをかき回し、完全にアイスクリームを混ぜてしまうと、幾らか薄くなったそれをずずっと啜る。カウンターのテーブルに、グラスの色がきらきらと反射してとても綺麗だった。
 平和だなと思う。二年ほど平穏を保っていた竜宮島が一艘の船の訪れと共に敵の襲来を受けてから、もう 10ヶ月が経とうとしていた。春が過ぎ、初夏に差し掛かろうとしている。窓の向うに映る緑は鮮やかだ。今日は歩いていると少し汗ばむくらいの陽気だった。
 島は穏やかで、平和だ。まだ記憶も新しい去年の夏、島ごと消え去る可能性をぎりぎりで回避したとは思えないほどに。
 ずっとこんな毎日が続けばいいのにとぼんやり思って、不意にぞくりと身体が震えた。同時に胸の奥がざらつくような感覚を覚える。

 ――なんだろ…嫌な感じ…。

 どうしてこんな風に思うのか、分からなかった。分かりたくないとも思った。
 浮かび上がった不穏な感情ごと飲み下すように、ずるずるとストローを啜る。頭がぼんやりとする。追い払ったはずの睡魔が、また里奈に忍び寄ろうとしていた。暉を待っていないといけないのに。
 気を散らすために、あえて家のことを考える。祖母は今日家にいない。出かけた先を里奈は知っている。アルヴィスだ。戦争が始まり、激化する前までは商店で駄菓子や雑貨を売るだけだった祖母が、今では定期的にアルヴィスへ出向くようになった。今もそれは続いている。
 アルヴィスには里奈も時折呼び出される。ファフナーパイロットとしての訓練と、それに伴う検査のためだ。検査が終わると医者である遠見千鶴がにこやかに笑む。
『大丈夫。今回も数値に問題はなかったわ。お疲れさま。ゆっくり休んでね』
 にこやかに、なごやかに。学校の定期検診とまるで変わりないそれ。
 ざわりと、再び胸の奥がさざめく。…違和感。そう、違和感だ。このところ里奈はずっとそれを感じている。島はやはり平和だった。それなのに、里奈はその安寧に身を委ねることができないでいる。
「里奈…里奈!」
「え?」
 ぐいっと肩を引かれ、里奈はひぇっと声を上げた。いつの間にか視界いっぱいにクリームソーダのグラスがあった。引っ張られなければ、グラスに顔から突っ込んでいただろう。その惨劇を思って背筋が冷えると同時に安堵したが、傍らを振り向いてもう一度叫んだ。
「って、うわっ」
 一騎の顔がすぐ傍にあった。明るい茶色の双眸が、まじまじと里奈を覗き込んでいる。その眉は心配そうに顰められていた。
「大丈夫か?」
「も、もちろん、大丈夫ですよ!なんかすいません!」
 里奈は仰け反りながら慌てて両手を振ったが、内心では冷や汗をかいていた。
「ちょっと寝不足だったからかな、意識飛んでました…あはは」
 確かに、里奈はこのところ寝不足だった。カウンターでうたた寝をしてしまったのも恐らくそのせいだ。だが、なんとなく誰かに知られるのは嫌だった。心配をかけるなどもっての外だ。必死で笑い飛ばしたが、一騎は眉を寄せたままだった。
「顔色、あんまり良くないぞ」
「そう…ですか…?」
「もう先に帰った方がいいんじゃないか。暉には俺から伝えておくし。でも一人も心配だよな…」
「いや、一騎先輩気にしないでください。っていうか、ほんとに大したことじゃ」
 何とか里奈が一騎を安心させようとしていたその時、カランとドアベルが鳴った。
「…総士!」
 店内に誰かが入ってくるのと一騎が声を上げるのはほぼ同時だった。振り返れば亜麻色の髪を長く伸ばして一つに結んだ青年が立っていた。右手にパッドを抱えている。このところよくかけているメガネがドアから射し込んだ太陽の光を受けてちかりと光った。
 ――総士、先輩?
「まだランチはあるか。無ければ軽食でも、」
「総士、里奈のこと家まで送ってやってくれないか?」
「は?」
「え?」
 唐突な提案に、低い声とひっくり返った高い声が重なる。里奈はぎょっとして傍らの一騎を見上げ、ついでドアのところで口を開いたまま立ち尽くす総士を見た。一拍遅れて総士と目が合う。メガネ越しにじっとこちらを見返されて、里奈はひえっと胸の中で悲鳴を上げて思わず視線を逸らしてしまった。
「いや、あのちょっと一騎先輩…総士先輩も困っ…」
 一騎のエプロンの端を引っ張って小さく抗議するが、一騎は聞いていない。むしろ名案だと言わんばかりに目が輝いていて里奈は頭を抱えたくなった。
「里奈、ちょっと体調悪そうなんだ。暉は戻るまでにもう少しかかるだろうし、遠見と溝口さんは夕方から来る予定だし、俺も店空けるわけにはいかないし」
 な、いいだろ、頼むと一騎は続ける。ちっともよくはない。総士はというと、相変わらずこちらを見ながら眉を寄せて黙ったままだ。見慣れているつもりでも、整った顔立ちは黙っているだけで凄みがある。居心地の悪さに里奈は内心ばかりでなくたじろいだ。
「いえ、あたしは」
 一人で大丈夫、と言いかけたのだが、一騎は駄目だと首を振った。
「途中で何かあったら大変だろ」
 ばっさりと断定する。こうと決めたら全く譲らないのが真壁一騎だった。
 だから総士、よろしくなと笑んだ顔はあっけらかんとしている。この笑顔に勝てる人間はいるんだろうか。いないだろうなと里奈は思った。
 それを証明するかのごとく総士は頷いた。
「わかった。家まで送ろう」
 里奈は、くらりと眩暈を覚えた。
「昼食まだなのに悪いな。戻るまでに何か用意しとくから」
「頼む」
 当人を置き去りにしたまま、いつしか話は決着していた。今度こそカウンターに突っ伏したくなっている里奈に一騎が微笑む。
「よかったな、里奈」
「はい…」

 ――冗談でしょ。

冗談などではなく、本当に総士を保護者としてつけられ、里奈は楽園を出て帰路に着くことになった。
 総士の後ろを数歩離れて歩きながら、里奈は内心で大きく溜め息を吐いた。
 ―― 一騎先輩、ぜんっぜんわかってない。
 遠見先輩だったら良かったのに。自分のためとはいえ、つい勝手に愚痴りたくなる。
 里奈は皆城総士と接点がほとんどない。芹は、進路をドクターコースに決めたとかで、アルベリヒド機関で研究をしているという総士と接点が多いらしいが、里奈にそんなものはない。アルヴィスで働きたいと祖母に訴えているものの、仮にそれが叶えられたところで、総士と親しく話すようになるとは思えなかった。
 里奈にとって、皆城総士という人間は近寄りがたく遠い存在だった。遠見たちが彼の指揮のもとでファフナーに乗って戦っていたのをCDCで見ていたから、余計にそう思ったのかもしれない。一度肉体を失い、死んだと思われていたのに島に帰還した。その信じられないような事実も、総士を他とは一線を画した存在に思わせた。
 けっして苦手というわけではない。だが、これまで特にこちらから近づいて会話するような機会はなかった。もし、自分が彼の指揮下で戦っていたら、また違う印象を持ったのだろうか。
 ――いい人…なんだよね…きっと。
 一騎に押し切られていた姿は、こんな言い方をするのもどうかとは思うが、ひどく人間臭かった。何となく苦労性のタイプだなとも感じる。
 視線の先で、背中の中ほどで一つに括られた亜麻色の髪の毛がゆらゆらと揺れている。その柔らかな色合いと真っすぐ伸びた背筋が、不思議な調和を生んでいる。
 あまりこちらを振り返ることはしないが、ゆっくりとした歩みは里奈の歩調に合わせてくれているのだろう。辿る道はわずかな日陰を選んだものだった。初夏の日差しの思わぬ強さに、帽子をかぶってこれば良かったと、家を出てから後悔したことを思い出す。分かりにくいが、確かに気遣われている。申し訳ないような胸の奥がくすぐったいような、どうにも落ち着かない気持ちのまま、これといった会話もなくただ黙々と歩く。
 総士の手には、一騎が持たせてくれた紙袋がぶら下がっている。夕飯の足しにと賄いの残りを包んでくれたものだった。
 同期のファフナーパイロット達の中で真っ先にファフナーを降りた一騎は、それまで常にどこか張りつめたような空気をまとっていたのが、ずいぶんと柔らかくなった。後輩である里奈でさえそう感じるのだから、昔から近くで見知っていた人たちは、より顕著に感じているに違いない。もともと屈託のないタイプなのだろう。断片的で単語を並べたような口調であったのが、いつしか口数も増え、こちらを遠ざけるような壁が目立たなくなった。弟が同じ店で働かせてもらっているからとはいえ、先ほどのように気負うことなく会話をする日が来るとは、少し前の里奈であれば想像さえしていなかったことだ。
 エースパイロットが明るい店で美味しい料理を作っていることこそが平和の証だと、そういう大人たちがいる。
 一騎が料理を作っている様子は、確かに穏やかで平和な情景そのものだ。料理が好きで、楽しんでいることが伝わってくる。美味しいものを食べることが好きなのだとは誰に聞いたのだったか。一騎の作るものはいつだって美味しい。そしてどこか懐かしい。「一騎君の半分でも上手に作れたらいいんだけどねえ」と遠見真矢はよく肩をすくめて笑った。暉が最近家でも食事作りに力を入れているのは一騎への対抗意識からだ。
 それでも、楽園に流れる優しい時間を目にするたび、里奈はときどきぞくりと震えることがあった。
 こんなんじゃない。正しいけれど、何かが違う。
 何が違うと思うのか、どうしてそう思ってしまうのか、里奈には分らなかった。ただ、一騎について感じることを芹にだけこっそり告げたことがある。
「一騎先輩見てると、たまにどきってする。…なんかこわくなる。一騎先輩、いつも穏やかな感じだけど、たまにどこも見ていないだもん。捉えどころがないっていうか…ううん違う、どこを見たらいいのかわからないって顔してる。気のせいかもしれないけど」
 鈴村神社の境内に続く石段に座り、胸元まで垂れ下がる、丁寧に編んだおさげを指先で弄りながら、ぼそぼそと零す里奈の声を、巫女姿の芹は箒を手に横に立ったまま聞いていた。すらりと背の高い芹に、白と緋色の巫女装束はよく似合っていた。首の後ろで一つにまとめた黒髪が、夕暮れの風にさらりと棚引いた。肩を越した真っ直ぐなその髪は、芹の生き方や心そのもののようで、里奈は綺麗だと内心羨ましく思っている。芹は優しく触れるように通り過ぎていった風を身体に染み込ませるようにして吸い込み、ふっと吐き出すと里奈の顔を見て笑った。
「ふうん、里奈はそういう風に思うんだ」
「芹は違うってわけ」
 同意を得られなかったことに小さく落胆し、つい拗ねるような物言いになった。だが芹は、宥めるような笑みを里奈に向けた。
「うーん、里奈の言うこともわかるんだけど、私はどこも見ていないっていうより、一つしか見てないって気がする」
「一つしか?」
「そう、なんとなくだけど。待ってるんじゃないかな」
 ――待ってる?
「何を?」
 目を瞬かせて里奈は尋ねたのに、芹は困ったように笑っただけだった。
「なんとなくって言ったでしょ!そこまではわからないよ。そうだね…神様でもないかぎり」
 そう言って芹は空に目を向けた。青い、青い空だった。
 ――待っている。何かを。
 何故芹がそう思ったのか、里奈にはわからないままだった。
 ぼんやりとそんなことを思い出しながら、総士の後ろを歩いていると、分かれ道にたどり着く。迷うことなく左へ向かおうとする総士に、思わず、あっと声を上げて里奈は立ち尽くしてしまった。
「西尾?」
 総士が訝しむように里奈を振り返る。
「いや、あのそっちはちょっと」
「西尾の家はこちらの方が近道だろう」
 ぼそぼそと訴えると、いよいよ総士は不思議そうに首を傾げた。だが、里奈の足はぴたりと道路に縫いつけられたように止まってしまった。
 総士の言うことは正しい。西尾商店に向かうなら、左の道を通った方が近い。海岸を望む細道は階段が多く急ではあるが、商店がある通りに直接繋がっている。一方、右の道は、民家に囲まれた道を緩やかに下っていくルートで、家に戻るにはかなりの大回りだった。
 左の近道を通れば、嫌でも広い海原と海岸が目に飛び込む。その道を、里奈はこのところずっと避けていた。
 里奈は海を見たくなかった。とりわけ、去年の夏からそうだった。島なのだから、海を見ずに暮らすことなど不可能だ。それでも里奈は帰り道に関わらず、海が大きく見える道を出来るだけ避け続けた。誰にも理由をはっきり告げたことはない。ただ、暉だけは里奈の想いを察していた。だから二人で帰るときは、なんとなしに緩やかで、海が目に入りにくい道を辿っていた。こういうとき自分たちは双子なのだと思う。
 海を見たくない理由は単純だ。
 恐ろしいものは海から来る。いつだって。
 ここは島だ。島だから全方位を海に囲まれている。だから怖いものは必ず海から来る。
 そして海の向こうから来るものは人ではない。人であったとしても人の形をした何かだ。何か途方もなく悪いものだ。島に、島の人々に害を及ぼすものだ。だって、ずっとそうだった。
 平和で。穏やかで、優しい見慣れた風景。そのすべてを壊すもの。それがやってくる。雲を裂き、光をまとって降りてくる。
 
 ――フェストゥムが。

 それがやってくる時、鼓膜に突き刺さるようなサイレンの音が島中に鳴り響く。その瞬間、穏やかに日常を送っていた島民たちはすっと表情を切り替えて 「本来の」仕事へ当たり前のようにして「戻って」いく。平和などまるで最初からなかったかのように。あの日々のように、また。いつか。

 ――いやだ。そんなの、いや。

  ぎゅっとこぶしを握りしめる。声もなく立ち尽くした里奈にふっと影が差した。顔を上げれば、少し先を進んでいたはずの総士がすぐ横に立っていた。その口元がかすかに緩み弧を描く。
「少し、休むか」
 脇道から住宅地へ上る急な階段。日陰になったそこを示されて、里奈はこくりと頷いた。



 *



 下げていた紙袋を傍らに置いて総士が階段に腰掛ける。少し間を開けて里奈も隣に座った。自然と小さく縮こまるような体勢になる。抜け道でしか使わないような石段には人気がまるでなく、確かに休憩には適していたが、自分のせいだとはいえ、里奈の居心地の悪さは最高潮に達していた。
 しばらくの間はどちらも無言だった。総士は左脚を前に投げ出し、立てた右脚の上に肘を置いていた。その目は遠く先へと投げかけられている。総士の視線の先には民家が立ち並び、その更に向こうにはきらきらと反射するものが覗いていた。里奈はそれが光を弾く海面の輝きなのだと知っていた。そっと視線を伏せ、窺うように隣の人物に横目をやった。総士先輩、脚長いなとどうでもいいことを思う。どのタイミングで出発を切り出せばいいのか分からないまま、じりじりと伸びていく足元の影を見つめていると、唐突に声をかけられた。
「西尾」
「え、あ、はい!」
 反射的に背筋を伸ばし、裏返った声で返事をする。総士は特に気にした様子もなく、続けた。
「一騎も言っていたが顔色が悪いな。眠れていないのか」
「少し、だけ」
「遠見先生には」
「言ってない…です」
「何か、思い当たる理由はあるのか」
 顔は前を向いたまま、ただ視線だけがこちらに寄越され、静かに尋ねられる。問診を受けているような気持ちになりつつ、里奈はなんと答えたものか躊躇った。
 眠れないのは事実だ。とくにこの数週間はひどかった。
 暗闇の中で目を閉じると、日中心をざわつかせていた形のない不安が、急に重力を持って身体に圧し掛かってくる。耳の奥では、ざあんざあんという波の音が鳴り響く。波の音は前面に広がる真っ青な海の情景を呼び起こす。手足が冷たくなり、全身がじっとりと汗ばんでいく。海を見ていたはずなのに、いつの間にか海の中に引きずり込まれている。そして里奈は海の中に炎を見る。燃え盛る炎が、里奈自身を、里奈の大切なものを呑み込み、焼き尽くしていく…とそこで、声にならない悲鳴を上げてベッドから跳ね起きた。
 結局明け方までまんじりともせずに過ごし、気を失うようにして数時間を眠る。その繰り返しだった。
 そんなことを説明して、いったい何になるというのか。遠見先生に相談して薬をもらうのが早いだろうか。だが、ファフナーパイロットとしての心理面に問題があるなどと言われて、大事になるかもしれないのも嫌だった。
 なんと返したものか悩む里奈を、総士は黙って待っていた。凪いだ水面のように静かな態度に、ふっと言葉が滑り落ちた。
「あたし、嫌なんです」
「嫌?」
 はじめて総士が顔をこちらに向けるのが分かった。しまったと思う。まるで答えになっていない。誤魔化して終わらせるつもりだったのに、何故こんなことを口走ってしまったのか、里奈には自分がわからなかった。普段と違う状況にいるからか。あまり話したことのない人物が相手だからか。
 だが、零したのは、里奈が抱える正直な思いだった。いっそ吐き出してしまえと思い、俯いたまま小さく続ける。
「…だって、おかしいから」
「何がおかしい」
「だって…おかしいじゃないですか。今はこんなに毎日穏やかで、平和で」
「西尾は、今の平和がおかしいと思うのか」
 里奈は思わずかっとなった。
 総士の声はやはり淡々としていて、問いはあまりにも事務的だった。自分の方がおかしいのではという気持ちになってくる。顔を上げ、腹の底からいら立ちがこみ上げるまま、つい詰るように声をぶつけた。
「総士先輩は、どうしてそんなに普通なんですか」
「西尾?」
「普通にしていられるんですか。だって、こんなの本当の平和じゃない。みんなで平和なふりをしてるだけじゃないですか。そんなのおかしいです」
 そうだ。おかしい。こんなものはおかしいのだ。
 総士が目を見開いて里奈を見ているのが分かったが、里奈は構わなかった。まるで坂道を転がり落ちるかのように、感情が言葉になって溢れ出す。
「一騎先輩だって、あんなの嘘。綺麗に笑って優しそうにそこにいて、みんなのために料理を振る舞ってくれるけど、あたしは、一騎先輩のこと好きだと思うけど、――でも、あんなの全部嘘」
 ――まるで皆が皆、楽園という名の偽物の檻に囲われているみたいに。
 下を向いていると何かが溢れてしまいそうで、ぐっと首を反らして空を見上げた。目に飛び込んできた青さに思わず顔が歪む。
 偽装鏡面。島全体を覆い、その姿を外部から隠すステルス機構。あの向こうに本物の空があることを知っているのに。今ここにあるのは偽物なのだ。すべてが嘘で出来ている。平和を装った偽物の世界だ。ここだけが楽園なのだと、口にしたのは誰だったろう。
 ――偽りの「楽園」
 そんな単語が脳裏に過り、霧散した。
「ねえ先輩。楽園ってなんですか。それ、どこにあるんですか」
 震える声で尋ねる。答えが返ることなど期待していない。ただ頑是ない子供のように駄々を捏ねているだけなのだと頭のどこかで理解していた。それでも口にせずにはいられなかった。
「だって嫌だ。こんなの。ぜんぶ、嘘っぱちだもん。だって、あたしは…」
 ぐっと息を飲みこみ、けれど飲みこみきれなかった。膨れ上がった感情が、腹の奥で弾ける。

「あたしは、ファフナーに乗ったのに…!」

 悲鳴のような声が喉を突いて出た。一度溢れた感情はもはや止めることができなかった。
 そうだ。あの時全部がひっくり返ったのだ。オペレーター任務についているときでさえ現状を理解していなかった。言われたまま仕事をこなしながら、すべてをどこか遠くから冷めた目で見ている自分がいた。いや、違う。本当には現実を受け入れていなかった。まだ自分が普通の女子中学生であると思っていた。思っていたかったのだ。
 それは、いつか来る戦いに備えてファフナーパイロットとしての訓練を受けるようになってからも同じだった。異常な体験をしていると頭の隅で思いながら、まだ日常の延長であるような気がしていた。例えるなら部活動の一環のような。
 その全てがひっくり返ってしまった。ファフナーに乗って、実際にフェストゥムと戦ったときに。自分が今、どこで何をしているのか、やっと思い知った。これは戦争だった。身近な人たちが次々と死んでいくだけではない。奪われるだけではない。自らが巨大な兵器となり、武器を手にして敵を殺し、相手から奪い尽くす戦争だった。殺すのは自分で、殺されるかもしれないのも自分だった。
 事前にシミュレーションを受けていたけれど、そんなものは本当の戦争の前には、何の意味も持たなかった。
 戦いにおけるあの壮絶な痛み。あれを、いつかまた、味わう。――いつか、必ず。
 海の向こうから金色の敵が来るとき。サイレンが響くとき。ファフナーに乗るとき。
 かつての体験が、その記憶が呼び起こされるとともに、海からの湿度を多分に含んだ生暖かい初夏の空気の中で、里奈の身体だけが冷えていく。じわじわと足元から這い上がってくるものが里奈を覆い、うちに入り込んで心を絡めとろうとする。寒さを覚えながら、里奈の身体はじっとりと汗をかいていた。
 ニーベルングシステムに十本の指を嵌め込み、ファフナーと一体化するための機械が身体に叩きつけられたときの、あの接続の痛みがよみがえる。フェストゥムが呼びかける恐ろしいほど澄んだ声。ファフナーそのものとして攻撃を受け、腕をねじ切られたと感じた恐怖と、気を失いたくなるほどの壮絶な痛み。攻撃を受けるたびに、身体の奥底から御しきれない怒りが沸き起こり、ただ我武者羅に武器を振るった。自分が自分でなくなっていく、あの恐ろしさ。身体の組織が結晶化し、めりめりと肉を割き、皮膚を切り裂いて表に突き出た、鮮やかな緑の色。
 身体がびくりと震える。ひゅっと喉が鳴った。呼吸をするたびにひゅうひゅうと浅く息が漏れる。喉の奥が細く狭まり、おかしいと思った時にはうまく息が吸えなくなっていた。
「あたしっ…」
 コントロールが出来ずに喘ぐ。自分の呼吸で溺れそうになる。息が苦しい。息が、できない。がたがたと震えながら里奈はなんとか声を出そうと必死になった。もはや頭の中はパニックだった。
「あたっ、あたしっ、」
「西尾。落ち着け。静かに息を吸って、それからゆっくり吐くんだ」
「先輩、あたし、はっ」
「西尾!」
 強く名前を呼ばれる。いつの間にか背中を支えられていた。無理をして話すんじゃない、ゆっくり呼吸をしろと繰り返される。首を振り、それでも必死に訴えた。今胸にあるものを吐き出さなければ、抱えたものに押し潰されてそれこそ死んでしまいそうだった。こんなものを抱えていたのかと自分で気づく。
 わななく身体を両腕で押さえつけ、息を荒げながら腹の底から声を絞り出した。

「死にたくないっ…」

 叫んだつもりの声は、掠れてひどくちっぽけなものだった。自分の両腕で自分を抱きこむようにし、ぎゅうと身体を竦めて里奈はもう一度声を上げた。

「あたし…っ、死にたくないっ…!」

 頭を膝に埋めて、血を吐き出すかのような苦しさとともに叫んだ。
 そうだ。死にたくなかった。いつか死ぬかもしれない未来が、この先必ず来るだろうことが怖かった。
 ずっと、ずっと怖かったのだ。
 全部が嘘だと、周りの人たちを弾劾しながら、この平穏な時間が終わることを何よりも怖れている。
 死にたくなどないのに、死ぬような状況も二度と味わいたくないのに、今は平和で、あまりにも穏やかで。まるでそれがずっとこの先も続くかのような暖かさに満ちていて。でも、大人たちはその中で今も戦いの準備を続けている。里奈もまたファフナーに乗るための訓練を受けている。フェストゥムは世界から消え去ったわけではない。今も人間を脅かし続けている。その事実は、今存在する島の平和がいつか失われる未来を…逃げようのない現実を教えていた。優しい時間も笑いあう人達の姿も、それがいつか全部なくなるかもしれない未来を。
 ――この島だけが、楽園なの。
 島の外は地獄だ。炎だ。いつか燃え盛るその炎に、自分も大切な人達も飲み込まれて、灼かれながら海の底に沈んでいく。その幻想が脳裏から消えない。
 現実と、仮定の未来が里奈の中で交錯し、じわじわと里奈の心を蝕んでいった。堪えていた涙が、ぼろぼろと零れていく。

「こわいんです…こわいよぉっ…」

 しゃくりあげながら里奈は泣いた。顔がぐしゃぐしゃになるのも構わずわんわんと泣いた。喉奥でひゅうひゅうと音を立てながら訴えた。
 ぎこちなく背中を撫でる手があたたかい。それに安堵し、促されるようにして里奈は泣き続けた。




「落ち着いたか」
 里奈が泣くのを黙って見守っていた総士は、呼吸が安定するのを待ってからそう尋ねてきた。里奈は何とか頷いた。自分で何とか取り出したハンカチはぐしゃぐしゃになっている。まだ涙は止まらなかったが、衝動のような波はどこかへ去っていた。
 里奈の様子を確認してから、総士はゆっくりと口を開いた。
「誰も、今の平和が永遠だとは思っていない」
「総士、先輩?」
「だから、今を生きている。悔いのないよう懸命に」
 息を吸い込み、そして吐きだす。少しの間を置いて更に続けた。
「怖いのは当たり前だ。死ぬのが怖いのも当たり前だ。それでもお前たちを戦いに追いやらなければいけない矛盾と悔しさを皆が感じている。分かっている。だからといってすまないなどと言えたことじゃない」
 一定の速度で紡がれる声は穏やかだった。言葉の内容よりも、その声が里奈の心を落ち着かせていく。何故この人がジークフリードシステム搭乗者であったのか、里奈はその理由の一つに触れた気がした。
 総士は里奈の顔を正面から見ると、はっきりと告げた。
「怖くていいんだ、西尾」
「怖くて、いい?」
 腫れぼったい目を擦りながら、ぼんやりと繰り返す。
「そうだ。ファフナーに乗って恐怖を覚えないパイロットなどいない。それは当たり前のことだ。怖いと、死にたくないという気持ちを、押しこめなくていい。隠す必要はないんだ」
「でも、先輩たちは…あんなに強くて…一騎先輩なんて…」
 マークザインを駆る、一騎の姿を思い出す。同化したルガーランスを右手に携え、フェストゥムを貫く絶対的な力。どんな時でも後退せず、相手に立ち向かって確実に敵を消滅させる。あの強さがあれば、これほどの恐怖を感じることはないのかもしれない。強くさえあれば。
「一騎は、」
 不意に、総士がぽつりと零した。淀みなく語る声が、一騎の名前を出した途端に言葉を選ぶように躊躇う口調になるのが不思議だった。
「一騎は言わなかった」
 過去を思い起こしたのか、視線を宙にさ迷わせ、聞いているこちらが苦しくなるような声で、総士は言った。
「…あいつは嫌だとも辛いとも怖いとも、一言も口にしなかった。恐怖を感じていても、すべてを自分の中に抑え込んだ。僕が一騎からそれを言う機会を永遠に奪った。戦いから逃げるどころか俺を使えと…叶うなら自分だけを戦わせろと言ってきた。自分の命すべて僕に委ねてそれでいいと笑う」
「でも…それは一騎先輩はエースパイロットだから…」
 ゆっくりと首が横に振られる。
「それは一騎が選んだ道の、ただの結果でしかない。僕は一騎のようなパイロットは他には一人もいらない。一騎一人で、十分だ」
 里奈には、その言葉をどう捉えていいのか分からなかった。何を思って総士がそんな言葉を口にするのか、理解できなかった。ただ途方もない…言葉にすることもできないような感情がそこに込められているような気がした。
 何を言えばいいか分からず躊躇っていると、総士は何かを振り切るように一瞬目を閉じてから、ふっと里奈に笑いかけた。驚くほど柔らかな笑みだった。この人はこんな風に笑うのかと里奈は息を飲んでまじまじと総士を見つめる。左目を額から目の下まで縦断する傷跡が、くっきりと浮かび上がっていた。その傷の名残を、風に揺らぐ前髪が優しく撫でていた。紫がかった灰色の目が細められ、里奈を正面から緩やかに射貫く。呼吸も忘れて、里奈は総士の声を聴いた。
「痛みと恐怖は、生きていることの証だ。お前が感じているものは間違っていない。だから西尾は、仲間やこれからファフナーに乗ることになる後輩たちに伝えてやれ。恐れていいと。ここにいていいんだと。死ぬためにファフナーに乗るわけじゃない。生きるために、今。ここに存在するために乗るのだと」
「あたしが、ですか」
 ――死ぬな。怖いと思っていい。ただ命にしがみついて足掻け。必ず戻ってこいと。
「そうだ」
 ――新しい、後輩たち。
 総士の口元に一瞬浮かんだのは、確かに苦笑と呼べるもので、誰もが望んでいないことながらも、それがすでに決定事項なのであることを里奈に教えていた。島の守り神は引き継がれていく。これからも。
 自分が先輩になるのだと、とうてい実感できない。そんな実力はないし、何かを教えられるような経験もない。ただ言われるがままファフナーに乗ってきた。それだけだ。
「そういうのはやっぱり、総士先輩とかの方が…」
「戦ってきたパイロットだからこそ、言えることがある」
 総士はきっぱりと言った。その言葉は、ひどく重く里奈の胸に落ちた。
「西尾。今の状況は嘘だという、その言葉を僕は肯定してやれない。正しいと、言ってやれない。だが、お前はお前の感じたものを大切にしろ。そして忘れるな。いつかまた、戦いは始まる。誰もがそれをわかっている。その時、何を選ぶかは分からない。僕たちには選ぶ自由さえ与えられないかもしれない。思う所があるのはわかる。だが今は…」
 言葉を切ってから、総士は里奈を見てもう一度微笑んだ。
「今は、この幸せを感じていろ。この限られた楽園での平和を享受しろ。何カ月か、何週間後か、あるいは明日か。平和は破られる。再びの戦いの日々を生きるために、今の時間は必ず明日のための力になるはずだ」
 この人は、先を見据えているのだと思った。悲しいほどに今の平和の向こうにあるものを見ているのだと思った。安穏と平和をただ享受することなど決して許されていない人。そう、きっとずっと昔から。
 ――総士先輩にも希望があるのかな。
 この人にも、今を、そしてこれからを生きるよすがとなる大切な記憶と時間があるのか。だから前を向いていられるのか。みんなが、そうなのか。この島の大人たちも、ここで育った子供たちも。
 里奈の心を読んだかのように、総士は言葉を重ねた。
「西尾、お前ひとりじゃない。みんなが一緒だ」
 ――全員で生きて帰るぞ!
 もう駄目だと思った時に、絶望と苦境を切り開いた信念と声を思い出す。里奈の命を掬いあげてくれた手があった。生き残ることを諦めない強い意思があったから、今もここに存在していることを思い出す。
 里奈は噛みしめるように呟いた。
「暉も、芹も、広登も」
「ああ」
「剣司先輩も、咲良先輩も、カノン先輩も、遠見先輩も」
「そうだ」
「…一騎先輩も」
 総士は、一瞬苦し気に眉を寄せたがすぐに微笑んだ。それは胸が痛くなるような柔らかい笑みだった。
「…ああ、そうだ。昔から約束している。僕が連れて行くと。楽園に」
 その言葉に思わず息を呑む。連れて行くと、言った。つまり今ある楽園ではないのだ。総士は里奈から目を離し、すっと海のある方向に視線を向けた。小さな呟きのような声が洩れる。里奈に向けられたのではないだろうそれを、里奈の耳ははっきりと拾い上げた。
「次は、一緒に行くと決めている」
 まるで自分に言い聞かせるような、静かで確固とした声だった。
 ――待ってるんじゃないかな。
 一騎についてそう告げた芹の言葉を思い出す。
 ああ、そうか。あの人も待っているのか。あの優しい場所で料理を作りながら、そこから連れ出される日を望んでいるのか。穏やかに微笑むそのうちに、潜む激情を押し隠して。
 声を待っている。戦いに誘い駆り立てる声を。本当の楽園にたどり着くための道が開かれる時を。
 里奈は、顔を上げて目の前の景色を見た。視線の先では、相変わらず海面が光を受けて輝いている。
「大丈夫だ。必ず希望がある。希望が繋がって今の僕らがある。これからも続いていく」
 総士は穏やかに、だがはっきりと告げた。
「だから、大丈夫だ」
 その声に記憶を擽られる気がして首を傾げる。そして思い至った。ああそうだ、この人は。

 ――…乙姫ちゃんの、お兄さん。

 繰り返された声は、胸が痛むほどに優しかった。

『大丈夫だよ、里奈』

 微笑む彼女の声が風に乗って耳に触れた気がした。誰よりもここにいたいと望み、島のためにすべてを受け入れ、自分の何もかもを捧げてミールと一つになった少女。何もかも見透かしたような、それでいて全てを内包する海を思わせる…その深く穏やかな眼差しが二人ともとてもよく似ているのだと、里奈は知った。


 
 *



 その夏、里奈は仲間たちと一つの季節を存分に楽しんだ。広登の企画した夏休み特集番組に、暉と一緒に出演することもした。先輩たちと一緒に肝試しもやったし、砂浜で花火大会もした。喫茶楽園が古くなったというかき氷の機械を譲り受けたと聞いたときは、楽園に集まって新しいかき氷メニューを皆で考えた。
 合間には相変わらずファフナーのシミュレーション訓練と検査があったが、それさえも必死に取り組んだ。戦争が再び始まったとき、後悔することのないように。自分たちの後輩となるだろう、新しいファフナーパイロットが選出に入ったことを知ったからだった。
 訓練が終わると、パイロットたちでラムネを飲み、楽園で一緒に夕食を食べた。
 賑やかな夏はあっという間に過ぎ去り、秋を迎え、やがて冬に入った。
 季節が移り変わる中で、暉はいつの間にか自分を「俺」と呼ぶようになったし、芹は髪を切ることなく伸ばしていった。日を追うごとに大人びていく一方で、相変わらず一人で虫を探しに行くことは変わらなかった。捕まえた虫を、島のコアに見せに行っていることを、里奈は知っていた。広登の方は身長がぐんぐんと伸び、時折隠れて成長痛に泣いていたが、いつの間にか芹の背をも追い抜いていたことに里奈は驚いた。その一方で、幾つもの企画案を作ってアルヴィス広報部へ売り込み、大人たちを呆れさせていた。彼はこのまま希望通りに広報部の配属になることだろう。子供じみた落ち着きのない言動は鳴りを潜め、ゴウバインのヘルメットを手に未来の希望を語るのを何度も聞かされた。また広登が同じことを言っていると仲間たちで笑いつつ、彼の揺るぎない理想に救われたのも確かだった。
 一つ一つの変化が、小さなものもの大きなものも積み重なって、時間を紡いでいた。
 平和を楽しめと、あの日総士に言われた言葉を胸に、今出来ることは出来るだけやろうとした。あの時の自分たちは、ただ懸命にがむしゃらに生きていたと今でも言える。里奈にとって最初で最後の、 18歳の夏だった。



 ***



 そして、その日はやってきた。
海の向こうから、来訪者を連れてきた。希望と呼ばれたもう一人の少女と、金色に輝く、あの懐かしく恐ろしい敵を。
 皆城総士が告げたとおり、平和は短かった。たった二年の楽園(へいわ)だった。正式に新しいファフナーパイロットが決定し、訓練が始まった。
 それは戦いの日々の始まりでもあった。おそらく最後となるだろう激戦の日々だった。
 暉が島を出ると決めたとき、目の前が真っ暗になった。暉が言葉を封じ込めていた時期の恐怖がよみがえる。置いて行かれると思った。置いて行かれて、今度こそ一人になってしまうと思った。どんな目に合うのかも知らないで、海の外へ向ける真っ直ぐな眼差しが怖かった。それでも、最後は送り出すことを決めた。
 派遣部隊は飛び立ち、それから少しして、皆城総士と真壁一騎が彼らの救出のために飛び立った。すべてが先へと動きだし、もう二度と戻りはしないのだと里奈に教えていた。
 そして今、里奈は身体を引きずりながらゆっくりと道を歩いていた。一歩一歩が重たい。気を抜けば崩れ落ちてしまいそうになる。汗が滴ってこめかみを濡らすのを、緩慢に腕で拭った。顔に張りついた髪の毛が鬱陶しい。かつて胸元まで伸ばし、毎朝丁寧に結い上げていた髪は、今は肩までしかない。あの夏の終わりにばっさりと切ってしまった。それはやはり正解だったと、鈍く回転する頭の隅で思う。
 新しい同化現象は、日に日に重症化していた。寝ても寝ても、睡魔が身体にまとわりつき、里奈を支配しようとする。かつて不安から睡眠不足に陥った日々が嘘のようだ。眠りは恐ろしい 死と同じだ。意識が途切れるそのとき、里奈は世界から消えている。いつか本当に永遠にいなくなる。命がまだ残されているとしても、「人」としてのかたちを失っていく。少しずつ。砂が零れ落ちるように。この瞬間も。今、超次元現象SDPによる新しい同化現象を発している全員が、その現実を突きつけられていた。

「ったく、動けっての…!」

 自分の身体を叱咤する。呻きながら、力が抜けそうになる足を踏みしめ、更に一歩を踏み出す。ガードレールを伝いながら緩やかな傾斜をひたすらに上った。
 どこで昏倒するか分からないからと、一人で出歩くことは禁じられていたが、それでも今里奈には見たいものがあった。確認したい場所があった。

「つい…た…」

 息を切らし、ガードレールに縋るようにして身体を支え、目的地に目を向ける。
 そこは、入り口に《非常事態のため閉店》と書かれた黒板がかけられたままの喫茶楽園だった。
 楽園には、もう誰もいない。明かりの灯らない真っ暗な建物を見ながら それでも里奈はかつての痕跡を見つけようと目を凝らした。ここにあったのは、いつも穏やかで優しい時間だった。僅かな平穏の日々、皆で憩った場所。例え仮初だったとしても、ここは確かに楽園だった。あの日々を思い出すだけで知らず笑みが零れた。
 この場所を同じように目を細めて見ていた人を知っていた。傷の走った左目は何を思って世界を映していたのだろう。今は何を見ているのだろう。そして暉も。遠見先輩は、広登は。島の人たち…そして一騎先輩は。
 きっと今もファフナーに乗っているのだろう。里奈の知らない土地で。守るべきものを守るために、彼らはそれを選んだ。
 そして里奈も選んでいる。選び続けている。
 ファフナーに乗れば、どんな時でも目が覚めた。ほぼ昏睡状態でコクピットに収納され ニーベルングシステムに繋がれ痛みとともに目覚める。そんな日々に慣れようとしつつある。大人たちは分かっている。里奈の境遇に哀れみを覚えたとしても戦力である貴重なファフナーのパイロットを手放すことはしない。彼らは何を優先すべきかを弁えている。弁えることを学んだ。途方のない時間と犠牲の中で。
 そう、「楽園」は犠牲の上に立つ。誰かが倒れれば誰かが立つ。そうして繋いできた。死者の存在を踏みしめて。
 それが竜宮島だった。里奈の生まれた世界だった。
 いつか自分もいなくなる。その日が来ることがずっと恐ろしい。今だって怖くてたまらない。
 振り切るように心で叫ぶ。胸の内に言い聞かせる。

 ――死ぬもんか。絶対に死ぬもんか。私は生きるんだから。みんなで、みんなと一緒に生きるんだから。あの子たちは帰ってくるんだから。そのためにみんなでこの場所を守るんだから。

 暉のことだ。どうせ泣き顔で戻ってくる。自分と同じで、そんなに心が強いわけではない。そんな片割れが先に進むために背伸びをして育った島から出た。きっと辛い思いをしたはずだ。戻ったら一番に近寄り、ここが楽園よと言って暉を抱きしめてやるのだ。だから外に行くんじゃなかったのにと。バカねと罵ってやる。そうしておかえりと言ってやるのだ。
 そのために今里奈ができることはひとつだけだった。
 歯を食いしばり、繰り返し自分に言い聞かせた。

 ――私はここにいる、ここにいるの、ここにいるのよ。

 選ぶのだ。そして選んだのだ。どんなに現実が苦しくても、痛くても、死んだ方がマシだなどと決して言うものか。思うものか。死んでいった者たちを前にそんなことは言えなかった。
 誰かの代わりなどいない。誰かがいなくなるたびに、みんなで悲しみ、墓を作り、その死を悼んできた。彼らがいたことを忘れないよう、夏が来るたびに灯籠を流した。この島の人間は誰も痛みを麻痺させていない。それがどんなに辛いことでも、彼らは痛みを痛みとして受け入れる。慣れようとしなかった。痛むことも務めなのだというように。涙を枯らさなかった。全ての島人がそうではないと知っているけれど、少なくともそういう大人たちに育てられた。そんな島で生まれた。愛された。ちゃんと。
 辛かったけれど、同じくらいたくさん笑った。みんなで笑いあった。あの夏の日を今も鮮やかに覚えている。かけがえのない幸福のかたちを知っている。だから先へ進んでいける。進んでいくだろう。これからも。


 身体を引きずりながら歩き続けているうちに、いつの間にか海が見える場所に出ていた。海から吹きつける風が里奈の髪を揺らし、汗ばんだ身体を冷やす。
 立ち止まり、飛び込んできた鮮やかな青に思わず目を細める。身体が一瞬竦んだけれど、里奈は頭を振って重たい瞼を押し上げた。睨みつけるように空と海の青を見つめた。
 戦争が始まったときから、そしてファフナーに乗った日から、海が恐ろしかった。今も恐ろしいけれど、もう逃げたりはしない。
 今はもう知っている。海の向こうから来るのは恐ろしいものだけではないからだ。
 空と海が繋がるあの場所から、あの地平から希望が昇る。

 ――あそこから、総士先輩も「帰って」きた。

 ただ一人その帰還を待ち続けた人を知っている。砂浜に立って海を見つめる姿を何度か目にした。口を引き結び、果てなく広がる青の更にその先を、逸らすことなくいつまでも見ていた。色彩を失い、輪郭さえもほぼ認識しないはずの赤く染まった瞳で。
 満ちてきた潮が足元を濡らし、いつの間にか傍に来ていた遠見真矢にそっと手を取られるまで、彼はずっとそうしていた。その様は孤独でとても儚げで、それでいて力強かった。ただ、そこにいた。そこにいなければならないのだという意思が、身体から静かに立ち昇るようだった。まるでしるべの星のように、揺らぐことなく立っていた。事実そうだったのだろう。皆城総士は彼のいる場所へ戻ってきたのだから。
 真壁一騎が、波打ち際に立ち続けたその想いを、今ならほんの少しだけ理解できる気がするのだ。
 そう。帰ってくるからだ。必ず戻ってくる。希望を携えて必ず。今はそれを信じることだけが里奈のすべてだった。
 信じられると、里奈は決意していた。皆で過ごしたあの楽園での日々があるから、そうできるのだと感じていた。

 空が青かった。海の色は痛いほどに澄んでいた。
 霞む意識の向こうで、里奈は両腕を空に差し伸べて笑った。


- end -


2015/10/09 pixiv up
はじめてpixivにあげたファフナー小説でした。
人類軍を前に楽園で泣きじゃくった里奈ちゃんと、彗くんを叱咤する里奈ちゃんが大好きです。おかしいをおかしいと言える里奈ちゃん。
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