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Ortus
【サンプル】



■Achilles――再録

■Senkulpeco――私に罪はない。

――無垢な笑みは翳りてなお
春日井 甲洋/来主 操

 海神島の喫茶楽園は、甲洋の勤務先であり、そして島における自分の家のようなものだ。
真壁史彦は、海神島での生活をスタートさせるにあたり、甲洋にも当たり前のようにアルヴィス職員としての第二種任務の希望を尋ねてきた。とっさに答えられなかった甲洋に、例えば喫茶店の店長などがいいと思うのだがと神妙な顔で続けたので、いよいよ甲洋は目を瞬かせた。
まっさきに同意を示したのは史彦の横に立っていた溝口だった。
「いいじゃねえか、喫茶店。海神島の喫茶楽園だ。胸が躍るねえ!」
 美味い珈琲を入れてくれよ、という言葉に、自分が「はい」とはっきり返せていたのかはわからない。断る理由もなく、甲洋はその提案と任務を受け入れた。
どうしようもなく胸があたたかかった。それは、懐かしい痛みごと優しく押し包むようなあたたかさだった。彼らが甲洋のこと、その家族と家のことまで憶えていてくれていることが嬉しかった。
 竜宮島の喫茶楽園がそうであったように、海神島の喫茶楽園もまた、海をよく望む場所に建てられた。島の中心街からは少し離れた場所に位置しており、少し小高くなった丘の上にある。海神島の一般家屋が洋と和の両方を取り入れた設計デザインであるのと同じく、新しい喫茶楽園も内装がアンティーク調で、木の深い色合いが全体的に落ち着いた印象を与えていた。
少しおしゃれすぎて俺ァ逆に落ち着かねえなあ、などと溝口は笑っていたが、彼は開店早々、一番乗りでコーヒーを飲みに来た。もともと焙煎や入れ方に興味があり、こだわりも知識も持っている溝口は、実は喫茶楽園で提供するコーヒーのアドバイザーでもある。置かれたランプの光もあたたかく、ゆっくり読書を楽しむのに向いていそうだと言ったのは遠見真矢で、実際、閉店後に店内のカウンターに座り、メニューを考案したり読書をするのが新たな甲洋の楽しみとなった。
 甲洋が喫茶店の経営を担当したことを、一騎もまた喜んだ。まだ子育てにかかりきりの一騎はあまり喫茶店に顔を出すことができないが、もう落ち着けばまた調理師として勤務してもらえたらと思っている。一騎の作る料理に親しんできた竜宮島の人間だけでなく、シュリーナガルから辿りついた人たちにも一騎の料理を味わってもらえたらいい。甲洋はそう思っている。
 そして、この喫茶店を自身の居場所としたのは甲洋だけではなく、来主操もだった。
「俺にも任務があるの?」
 それは喫茶楽園の手伝い見習いといったものだったが、史彦によって正式な手続きで任命書を与えられた操は、島での自分の《仕事》にひどく喜んだ。そこにはエレメントである操の監督管理を甲洋に任せる意図もあったのだろうが、操が様々なことを島で学ぶにはこれ以上無く適した環境だった。
本来の学習能力の高さと、実作業における彼の手際がどうも食い違っているため、操が調理そのものを担当するのはまだまだ要修行といったところだが、甲洋にとって操が少しずつ生活に関わる色んなことを覚えていく様子を見るのは楽しかった。
操はすべてに興味を示し、何よりすべてを楽しんでいた。
 操が制服以外を身につけるようになったのも、喫茶楽園で働くようになってからだ。そしてその普段着は、羽佐間容子が用意してくれているものらしい。初めて私服を着て喫茶楽園に出勤してきた操が、「見てこれ! おかーさんが僕に選んでくれたんだよ!」と得意げに両腕を広げて着ている服を見せたのだ。新しい服は操によく似合っていて、容子のセンスの高さを感じるものだった。
フェストゥムであり、ボレアリオスミールのコアである操だが、その姿は少年のものであり、生まれ変わってからの年数でいえばまだ幼児といっていい。島で暮らす上での保護者として羽佐間容子が候補に上がり、それを容子が受諾したことは甲洋にとって驚きだった。だが、彼女ならそうするだろうという納得もあった。操が彼女の娘によって選び取られた未来の一つであり、彼女が乗っていたファフナーを受け継いだこととも無関係ではないだろう。操は、自分が受け継いだ赤い機体を大切に思っている。その操に抱く容子の感情には、複雑な痛みと悲しさを根底に抱えつつ、確かな優しさと気遣いが現われていた。翔子とカノンを受け入れ育てた羽佐間容子という人の強さがそこにあった。その容子に操は心から懐き、彼女を慕っていた。「おかーさん」と呼ぶほどに。

 今日の開店準備を始めながら、甲洋は操の出勤が遅れていることに気づいた。
操は時間の概念を学習している。それどころか喫茶楽園での任務に張り切るあまり、予定よりもかなり早い時間に出勤してくるので、せめて二〇分前にしてくれと注意したレベルだ。開店二時間前から居座られては、さすがの甲洋も困る。その操が喫茶店に早く到着しこそすれ、予定より遅れるというのは少しおかしかった。
 容子さんに電話しようかと甲洋が店の電話に手を伸ばしたとき、ドアベルの澄んだ音を響かせて操が店内に入ってきた。
「どうしたんだ、来主。今日は遅刻だよ」
「うん。ごめんなさい」
「来主?」
 操は俯いたまま入り口で足を止めている。甲洋は遅刻したからといって頭ごなしに叱るつもりはない。操が手伝いでいくつかトラブルを起こしたときにも注意してきたが、それでもこんな反応をしたことはない。操の様子はおかしすぎた。
甲洋は厨房からカウンターの外に出て操に近づく。そして彼の心が大きな悲しみで張り裂けそうになっていることをはっきりと知った。
一騎と操との間で、島で普通に生活しているときは互いの心を読まないように決めている。伝えたいことは言葉を使って相手に話すこと。そう約束した。
だから甲洋は操に尋ねた。
「来主、何があったの」
 操は黙ったままだ。けれど、辛抱強く待っていると顔を上げないままぽつりと言った。
「僕ね、女の子を泣かせちゃったんだ」
「女の子?」
 容子の家を出て喫茶楽園まで来る途中で、操は同じ外見年齢くらいの女の子に出会ったらしい。その子は道ばたで蹲っていて、近くにはその子が履いていたらしい靴が転がっていた。きっと歩いていて転んだのだろうと気づき、操は近くに落ちていた靴を拾ってその子に近づくと、靴を差し出した。大丈夫? と声をかけて。
操の声に彼女はありがとうと顔を上げ、だがそこで操の顔を見て凍りついた。そして靴ごと操の手を振り払い、悲鳴を上げたのだった。

――罪を重ね、命を重ねる
溝口 恭介/真壁 史彦

「足りねえな」
「溝口」
 窘めるような上官たる友の声に、だが溝口はもう一度告げた。
「なあ真壁。ちっとも足りてねえ。この島を守るだけの資材も人材も、何もかもだ」
 一度折れたアショーカは、やっと根付いたばかり。
 新たに第三アルヴィスに入植できたはいいが、軍人もしくは技術者がほとんどだった竜宮島とは異なり、海神島の人口を多く占めるのはシュリーナガルから辿りついた一般人だった。竜宮島の人員だけでアルヴィスを機能させ、今後の戦闘に備えるにはかなり厳しい状況にある。
 しかも人々は怯えていた。必死に日常を取り戻そうとしながら、やっと得た安寧を奪われることを怖れている。これが仮初めの平和だということを知っている。アルヴィスという戦艦の上に自分たちがいることを。兵器たるファフナーがこの島にあることを。


――白き衣の下の軋み
或る女の告解

 どうして、こんな目に遭わなければならないのだろう。女はずっとそう思っている。
 エスペラントのための神殿で、彼女は跪いていた。
 彼女がアショーカに祈りを捧げるためには、その心の内を吐き出さなくてはならなかった。渦巻く疑念を一人胸に抱え込み続けるには女は弱く、どこにも寄る辺ない身だった。
「あなたの痛みはなんですか? 何があなたを苦しめますか?」
 島のコアである少女の声が凜と響く。まるで鈴を鳴らすように澄んだ声だった。
 対して、女の口から漏れたのは呻きのような濁音だった。
 フェストゥム、と女は喘ぎながら口にした。
「フェストゥムが憎い。あの金色が、私を苦しめるのです」
「フェストゥムのすべてが憎いのですか」
 少女の問いに、女は腹の内で笑った。すべてが憎いだと? 憎いに決まっている。なぜフェストゥムを憎まずにいられるだろうか。やつらはある日地球にやってきて、神々しい黄金の光で世界のすべてを変えてしまった。彼らこそが元凶だ。彼らさえいなければこんな災いははじまらなかった。
 女の中で、人類同士の争いによる血なまぐさい歴史は葬り去られている。彼女にとって、すべての憎しみはフェストトムに集約されていた。
 奪われた記憶、恐怖と悲しみから女は震え、叫ぶ。
「宇宙から来たのなら、宇宙に帰ればいい! なぜあの金色が地球に留まり続けるの。地球はフェストゥムのための場所じゃない!」

――不安も希望も両腕に抱く
御門 零央/水鏡美三香

「お母さんたち、いっつも同じこと言うね」
あーあ、と美三香が星の見えない夜空を見上げながら洩らした。
夜の浜辺に並んで座りながら、零央も「だな」と短く返す。
 結婚式はどんな形にするんだい、と美三香の母は今日の夜も口にした。最近、将来のことを聞かれることが増えている。
『島の伝統なら紋付き袴に白無垢に決まってるけど、ドレスを着たっていいんだよ。きっとどっちも似合うだろうねえ』
 どこか興奮した口調で次々と理想や希望を口にする鏡子を、美三香はけろりとした顔で、そして零央自身は適当な相づちで返していた。
 鏡子のそれは、焦りだということを零央は見抜いている。海神島の大人たちはずっと不安定だ。そんな、気がする。とりわけアルヴィスの面々が抱えるそれは、この島がやはり自分たちの故郷(島)ではないからなのだろう。いつか帰る場所を思いながら、ここでの暮らしを続ける。いつまでそうすればいいのか、本当に帰ることができるのか、希望を抱きながら絶望の予感におののく。
 彗くんと里奈ちゃんもあんなことになっちまったし……と眉根を寄せる美三香の母は、確かに彗と里奈のことを心配しているのだろう。だが、同時にそれが自分の娘でなくて良かったとも思っているのに違いなかった。
 あの二人は自分たちよりも早く結婚するのではと周囲から思われていた。もっとも、零央が当人達からそんな話を聞いたことは一度もなかったけれど。「俺は、里奈さんの望むようにしたい」と彗はいつだって言っていた。けれど、西尾里奈の望みは彼女の眠りの向こうにあるのか、別に外的要因があるのか、彗がどれだけ呼びかけ続けても里奈が目覚める気配は未だにない。
 美三香の母の不安は、いつ自分の娘が、あるいは未来の息子が同じような目に遭うか分からないという現状にもあるのだろう。決して他人事でないことは零央も理解している。だが、それは結婚という答えで本当に解決するものなのか? とも思う。
「あたしは、零央ちゃんと一緒にいられたらそれでいいのにな」
「そうだな」
 海に向かって投げ出した足をパタパタと揺らし、頬を膨らませる美三香の手を右手で握ってやる。美三香の仕草、手の暖かさは、小さなころと何も変わっていない。少し力を込めると、同じだけの力が返ってくる。こうしているだけで、零央の中にるわだかまりも少しだけ綻んでいくようだった。


――無垢の嘆きに返る声なく
日野 美羽

「ごめんなさい、ごめんなさい」
暗い部屋に、泣き声が響いている。
「ごめんなさい」
 美羽は一人、ベッドの上で身体を小さく丸めて泣いていた。
 島を裏切ったマリス。連れ去られた子供たち。――皆城総士。島の払った犠牲はあまりにも大きく、グリムリーパーは敵に奪われ、西尾里奈は眠りについたまま目覚めない。
 力があるのに、いつもうまく使うことができない。もっとできるはずなのに。美羽はもっと、できたはずなのに。
 いつも泣きながら詫び続けている。何に対して謝っているのか、美羽自身にも、もうよくわからなかった。許しを求めているのではない。仮にそう願ったところで、いったい誰が美羽を許してくれるのだろう。あるいは責めてくれるのだろう。美羽は、ただ美羽であることしかできない。自分の至らなさがこんなに苦しいのに、こんなに悲しいのに。
それもまた未来への選択に必然なのだと言われてしまえば、美羽はただそう在ることしかできないのだった。
 ――美羽は、美羽だけのものじゃないから。
 自分という存在について、それは当たり前のように、生まれたときから彼女の中に根付いている事実だ。生きているのではない。生かされているのだと知っていた。


――花、ほころびる
フロロ

眠る幼い子どもを、フロロは見下ろしていた。
マリスの手配で島から奪われた子どもは、今は何も知らず厚い布にくるまれて目を閉じている。その顔はとても穏やかで、まるで夢でも見ているかのようだった。
「記憶を奪ったの?」
「ああ。不要なものだからね。あの島の時間は総士に犠牲を強いる。だから真っ白にしたんだ。僕たちの平和をこの子に教えてあげよう」
「それって、いいこと」
「もちろん」
にっこりとマリスは笑った。その笑みを真似るように、フロロも顔の筋肉を動かし、まだぎこちない笑みをつくる。そうすると彼が嬉しそうに目を細めるのを知っていた。


■Ortus――今、翼を広げ、飛翔せよ。

――希望を信じる強さを求めて
遠見 真矢/真壁 一騎

遠見家での夕食後の団欒中、一騎の姿が見えないことに気づいた。
――一騎くん。
食べることを思い出したいと微笑んだ彼は、遠見家の食卓で嬉しそうにスープを口に運んでいた。皿は綺麗に空っぽになり、すでに片付けられている。今の一騎が、スープを味わえていたのか、そこに入れられた具材を識別できていたのか、考えるほどに胸が苦しくなる。それでも、一騎が食べるという行為を捨てようとはしないこと、誰かとの食事を変わらず大切にしていることがわかるから、十分嬉しかった。
 でも、真矢やほかの誰かが、何度一騎に手を差し伸べて、自分たちの輪に引き入れても、そこに留まるのは一時だけで、一騎はいつの間にかそこから抜け出してしまう。まるで、それが今の自分の当たり前だというように。総士を奪われてからこの三年、とりわけずっとそうだった。捜索と戦闘を経てとうとうあの子どもは戻ってきたが、一騎の場所はもう戻らないのだろうことも頭では分かっていた。
心臓につきりと刺さる小さな棘を感じながら、それでも真矢は一騎の姿を探そうと立ち上がった。きっとまだ近くにいるはずだった。
椅子を立つ真矢に、ソファに座ってお絵かきをする美羽を見守っていた史彦が目を上げる。一騎の父親である彼もまた、一騎のことを案じていた。頼むというように向けられた視線に、真矢は頷きだけで答え、家の外に出た。
一騎は、思ったよりもすぐ近くに見つかった。ゆっくりと一騎に近づき、呼びかける。
「一騎くん」
海岸を望む道ばたで、一騎は一人、ガードレールにもたれかかるようにして左手を見つめていた。その姿は、夜の闇にほとんど溶け込んでいたが、それでも真矢には一騎がちゃんとそこにいることがわかる。安堵を覚えながら、真矢は一騎の様子に首を傾げた。
「一騎くん、どうしたの」
怪我の可能性はない。一騎の身体はもはや普通の人間のそれではない。残り三年と言われていた寿命のその先を今生きる一騎の代償はあまりにも大きかった。
――食べることを思い出したい。
微笑みながら告げられたあの言葉をもう一度思い出し、胸がずきりと痛む。
それでも、一騎はここにいる。


――光をつかむ
皆城 総士

違和感を覚えたのは、ページをまた一枚めくったときだった。
広げていたのは遠見真矢から借りた一冊のアルバムだ。
そのほんのかすかなひっかかりは、答えに思い至った瞬間に総士の心を突風のように吹き荒らした。

あなたの思い出の写真を、少しでいいから見せて欲しいと頼んだとき、遠見真矢は目を瞬かせて総士を見つめた。
総士は、彼女の双眸にたじろぎそうになる心を押さえ込み、目を逸らすことなく顔を上げたままでいた。もとから断られることも覚悟していた。それでも、美羽から話を聞くより、写真という形での記録を自分で確認したかった。
総士の前で、あまりはっきりと感情を見せることの少ない真矢のその瞳に浮かぶ不安、躊躇い、困惑。その中に滲んでいたのは、紛れもなく総士を気遣う感情で、総士は自分の選択は間違っていないと確信できた。写真はきっと彼女が見せたいものであり、同時に見せたくないものであるのに違いなかった。その上で、彼女はちゃんと総士を、総士の心を見てくれていた。
「……いいよ」
「あ、ありがとうございます!」
「どういうものが見たいの?」
「あ……」
彼女は、きっと自分が幼いころの写真も持っている。そこにはきっとあの男も映っているだろう。それを目にするのは、まだ躊躇われた。
「遠見さんの、……遠見さんと家族の写真がいいです……」
「うん。わかった」
一度部屋に入った彼女が再び出てきたとき、その手にあったのはノートほどの大きさの冊子だった。
そっと手渡されたそのアルバムに、総士は見た目以上の重たさを掌に感じて息をつめた。動揺を押さえ込みながらそろそろと触れた表紙は経年を感じさせるもので、少なくとも真矢の手元にあって数年以上は経つと思われた。きっと竜宮島から持ってきたのだろう。丁寧に扱われてきたものだと、触れただけでわかる。彼女が、手を加えた偽りをここに収めているとは到底思われなかった。


――われは死神なり、世界の破壊者なり
小楯 保

 パネル越しでも視界を灼かれそうなほど、眩い閃光が海上に炸裂した。
 距離を考えればそんなはずはないのに、今居るブルクが揺れたように錯覚する。すさまじいエネルギー体がそこに君臨し、命あるものすべてを圧倒していた。


2021/10/10
楽園ミュートス#6 既刊「Achilles」の再録を含むTHE BEYOND覚え書き本。多大な個人の解釈を含みます。
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