かずきくんのおむすび【サンプル】

《うめぼしおむすび》

「ほうら、一騎。見ててごらん」
 ほかほかと湯気を立てる炊き立ての真っ白な米を前に、母が笑っている。
 ちゃぶ台の上に置かれたおひつを、ようやく自分の足で歩けるようになったばかりの一騎は、母にしがみつくようにして覗き込んだ。母の濡れた手が、まだ熱々のごはんをそっと手に乗せて一騎に見せてくれる。
「よーく手を洗って、お塩を少し手につけて、お米をこれくらい乗せたら、あとは左手と右手で握るの。ぎゅっ、ぎゅっ、ぎゅ」
 母が米を握るのに合わせて、幼い一騎も口真似をする。
「ぎゅ、ぎゅ、ぎゅ」
「そうそう。そのタイミング」
 母は明るい笑い声を上げた。
 今日は父も休みで、家族三人でお弁当を持って海へ遊びに行くのだ。この日を一騎はうんと楽しみにしていた。
「力は入れすぎないの。きれいに作ろうとしなくてもいいの」
 歌うように母は言う。母の手のひらの中で、ふわふわとした白い粒の集合体が、明確な形に変化していくのを、一騎は不思議な気持ちで見つめていた。あっというまにころりと丸みを帯びた三角形が母の手の上に出来上がっていた。うわあと一騎は声を上げる。
 母はどこか得意げだった。ふっくらとした白い三角形の真ん中に、家で漬けた小さな赤い梅干しをきゅっと押し込む。白い米に、赤い梅干しはよく映えた。まるで口紅をつけた母の顔のようだと思った。
「おいしそうでしょう?」
「うん、おいしそ」
 お椀にそのまま盛ったお米だってもちろん美味しいけれど、こうして母の手で握られたおむすびは、一騎にとってちょっとした特別だった。まだうまく箸を使えない一騎には、直接手にもって食べられるのが良かったし、これを持って出かける楽しさを思えば胸も弾む。両手にずしりと馴染むおむすびは、なんともいえないぬくもりがあった。
「そうね、土を捏ねるのと一緒なんだわ」
 母はいつも何かに触れている。両手いっぱいにすくい上げたそれが何なのかを知ろうとしている。それがどんな形になるのかを見定め、自分でも形作ろうとする。
「でも、これは私たちの中に入って私たちを生かすもの。その、一番シンプルなかたち。あの頃の私たちが、きっと一番欲しかったもの。そして」
 一度口を切り、おむすびを手に取る。
「未来に残したかったもの。生まれてくる子どもたちに、残して与えてやりたかったもの」
 指先についた米粒を、母は一騎の口元に近づけた。一騎は引き寄せられるように指先に吸いつき、米をぱくりと口にする。かすかに塩気のある、あたたかな米の甘さが舌に触れる。歯で噛み潰すと、応じるようにじゅわっと唾液がこみ上げ、米の甘みが口の中いっぱいに広がった。一騎のやわらかな頬をつつきながら、母が茶目っ気たっぷりの表情で首を傾げる。
「一騎、おいしい?」
「うん!」
 こっくりと頷くと、母はそれはそれは嬉しそうに笑った。
「一騎。おむすびはね、二つの手でむすぶのよ」
「なにを?」
「命を」
「いのち?」

 ――未来を。




《しゃけおむすび》

 ひどい言葉を吐いた。
 一騎は自分の部屋で倒れるようにして横になっていた。布団も敷かず、畳の上で身体を小さく丸める。
 全身が、鉛のように重たかった。それ以上に、心が押しつぶされ、ひしゃげて、黒く冷たい点のように感じられていた。ブラックホールとは、寿命を終えた星が自分の重さを支えきれず、中心に落ち込んだ物質が際限なく押しつぶされて光さえも抜け出せなくなった状態のことをいうらしい。心にぽっかりと穴があいた状態というのは、つまり心にブラックホールができたということなのかもしれないと一騎は思った。総士を奪われたときに爆発してしまった自分の心は、そのまま収縮してどこまでも無に引きずられ、光さえも呑みこんで大きな虚(うろ)となるのだろう。
 一騎は左肩を動かし、部屋の壁に立てかけられた松葉杖を無感動に見つめた。
 右腕から始まった麻痺は、もはや半身を浸食している。一騎の意思通りには動かず、身体に何かぐにゃぐにゃとした重たい棒きれがくっついているようだった。指先一つ、ぴくりともしない。意思の通らない肉体とは、こうもままならず煩わしいものだったのか。
 右目もまた見えない。赤く染まって何も映さない。ファフナーが、パイロットを蝕んでいく。生きながら機体に殺されていく。やがて何も考えられなくなり、一騎は一騎ではなくなってしまう。そうなれば、もうファフナーにも乗れなくなる。ファフナーに乗れなければ、総士の仇を取ることはできない。その焦りが一騎を苛み続け、恐慌状態に陥らせていた。それでも理性を失ったわけではない。父親に投げつけた言葉を、一騎は一言一句覚えていた。
 不器用な父だ。必要なことは何も話してくれない。見て覚えろとか、言わなくてもわかるだろうとか、そんなことばっかりだった。でも、愛されていないと感じたことはなかった。育ててくれたことを感謝していた。でも、一騎の口からは勝手に感情があふれ出し、父を傷つけ、一騎を傷つけた。
 ――あいつらを倒すために俺を育てたんだろ、父さん!
 父をこんな形で詰るつもりはなかった。一騎にとって、それは事実でしかない。でも、決してそのためだけに父が、親たちが自分を育てたわけではないこともわかっていた。大人たちが、子供たちを戦いに投入することで、痛みと罪を背負っていることも。
 でも一騎は戦いたかった。ファフナーに乗りたかった。自分の手で総士の仇を取りたかった。そのための理由が欲しかった。
 ――俺は、俺たちは戦うために、武器となるために生まれた。だから、だから、…だから。
 カタンと部屋の襖が開き、のろのろと視線を送ると、そこには父が立っていた。右手に、何かを持っている。
「一騎、食え」
 鬱屈した気持ちも忘れ、一騎はぽかんと口を開けた。父が手にしているのは皿であるらしかった。父が作った歪な皿の上に、何かが乗せられている。それがどうやらおむすびらしいと確認して、一騎は呆気にとられた。
「何も食べていないだろう。食べなさい」
 一騎、ともう一度名前を呼ばれた。
「北極に行くというのなら、そのための力が必要だ。そんな体たらくでは、とうていファフナーには乗せられん。それに、あの機体は今の弱ったお前をたやすく乗せるほど扱いやすい機体なのか?」
 一騎は言葉を詰まらせ俯いた。そんなはずはない。マークザインはいつだって一騎を食い尽くそうと狙っている。中途半端な覚悟で乗ればまたたくまに一騎の方が同化され、その対象は次に島へと向けられるだろう。一騎が斃れることは、すなわち島に害を為すことだった。
「戦うためには、まずお前が生きなくてはいけない」
 父の言葉は、重く楔のように一騎の旨に突き刺さった。
「まず、自分を生かせ。一騎」
 ――その先にあるのが、たとえ死しかないのだとしても。



《おかかおむすび》

 本日の喫茶楽園のまかないは、ランチの残りごはんで作ったおむすびだった。
 海苔はなかったので、梅干しとか味噌とか適当に見つけた具を中に入れて握った簡単なものだ。今日はランチタイム終了間際まで忙しかったということもあって、とにかく手早く腹にいれられて満腹感が得られるものが食べたいということで、暉と意見が一致したのだった。
 米だけは十分にあったので、それぞれ二つずつ握り、少し足りなくて更に一つずつ握って、ランチで出していた野菜のコンソメスープの残りをお供にする。誰もいない窓際の客席に向かい合って腰かけ、二人の昼食が始まった。
「一騎先輩、よくおむすび作りますよね」
 まかないのおむすびを頬張りながら暉が言った。
「そうか?」
 もしかしておむすび以外が良かったのか? と首を傾げながら聞き返すと、そういうことじゃないですと慌てたように返ってきた。
「おむすび、俺好きですし」
 なぜか喧嘩を売るような口調だったが、暉はときどきそういう物言いをするので、一騎は特に気にすることはなかった。言葉をどう続ければいいのかわからない、うまく想いを伝えられずぶっきらぼうな口調になってしまうもどかしさもまた、身に覚えにあるものだった。
「家じゃ作らないのか?」
「あんまり。だから考えたら、あまりおむすび食べることないなって気づいて。俺、多分一騎先輩のおむすびを一番食べてるかも」
 へえそうなのか、と一騎は驚いた。
「うちではよく握るからな。なんとなく米が残ったりしたら全部握るのが当たり前っていうか……あと、俺が最初に覚えた料理だし」
 口にしながら、幼い頃のことを思い出す。小さな手にはおさまりきらない白米を、顔や手のあちこちにつけながらつたない手つきで一生懸命握っていたのが遠い昔のようだ。それが今では後輩にも振舞って一緒に食べているのだからおかしなものだった。
「おむすびって、料理の基本らしい。すごく小さいころ、母さんに教えてもらった。おむすびが作れたら、なんだって作れるようになるって」
 多分、と心の中でつけ加える。もはや身体に染みついたそれが、本当に母から教えてもらったものなのか、料理本で読んだものなのか、一騎に料理を教えてくれた遠見家で学んだものなのか、正直記憶にあやしいからだ。その「最初」は、幼いころに死に別れた母からのものなのだと、覚えていたいだけなのかもしれなかった。
「それに茶碗によそって食べるより、こう握ってあると手に取りやすいだろ。うちの父さん、作業の間に食べること多いし、皿に乗せとけば合間に食べやすいしな。どこか行きたいときも、自分で握って持っていけば外で食えるし」
 なるほど、と暉が呟く。
「俺も家で作ってみようかな……あ、総士先輩だ」
 暉の声に顔を上げれば、ドアベルの音と一緒に見慣れた幼馴染が入ってくるところだった。
 なんでだいたい営業時間外に来るんだあの人、と暉がぼやく。
「キリがついたんだろ」
「身内だからって、みんな甘すぎますよ」
「まあ身内だしな。客っていうより」


(続く)


――一騎、お前の両手だ。




2018/09/14 pixiv up
幻蒼のシャングリラ#8新刊サンプル①
その手で、むすぶもの。
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