こんどうさんちのお味噌


 よお、一騎。
 散歩の帰りか? 身体、かなり調子がいいんだってな。少しずつ外に出るようになったって、遠見先生や遠見から聞いてたけど本当だったんだな。ははっ、ショコラも一騎のお守りごくろうさん。
 でも目は……やっぱあんま見えてないんだよな。いや、今も目を閉じながら歩いてたからよ。ショコラもいるけど、本当に大丈夫なのかよって思ったりしてさ……あー…俺がちょっと前から後ろついて来てたの分かってたって? 足音で? うっわマジかよ。俺がすげえ恥ずかしいやつみたいじゃねえか。へえ、明るいとこなら少しは大丈夫なのか。いやそれあんまり大丈夫じゃねえだろ。んーまあお前はそうかもしんねえけどよ……あんまり遠見とカノンのこと心配させんなよ。
 ああ、俺か? 俺は咲良の様子見てきたとこ。あいつも元気だぜ。もう家の中なら車椅子なしで歩けるんだ。まだゆっくりだけどな。今度会ってやってくれよ。咲良のやつ俺の相手ばっかで退屈してんだ。
 カノンもよく来てくれるけどな。ときどきお前の話になるんだ。なんでって……そりゃ話すだろ……。
 お前のこと、咲良も気にしてた。だから顔見せてやってくれよ。お前の都合がつくときでいいからさ。
 あ、そうだ。一騎……お前さ、俺の母ちゃんが作った味噌、持って行かないか? お前昔からずっと自分でメシ作ってるだろ。俺はやっと慣れてきたとこだけど、少し前からお前に味見てほしいって思っててさ。俺んちすぐそこだから、良かったら寄ってけよ。
 ははっ、すんげえうまいんだぜ。うちの味噌。それで作った味噌汁とか最高だよ。うちの味噌はずっと母ちゃんが手作りしててさ、毎年仕込んでたんだ。朝と夜は、いつも白飯と味噌汁って決まってた。俺は今もそうだよ。
 この前も保さんが酒飲みすぎてたみたいだったから、母ちゃんの味噌でシジミ汁作ってみたんだ。美味いって、保さんも喜んでくれた。なにせ、うちの母ちゃんが作った味噌だしな。
 一騎のとこっていつも味噌汁は何入れるんだ? 豆腐とワカメ……ふぅん普通だな。ああ、大根と油揚げも美味いよな。春はタケノコ入れたりな。うちも似たようなもんだよ。結局、普通が一番美味いんだよな。
 うちの母ちゃんはさ、いつもすっげえたくさんネギ入れるわけ。めちゃくちゃ辛いんだよ。でも母ちゃんはそれがいいんだって。
 俺はもう少し煮た方が好きだったんだけどさ、何度言っても切ったばかりのネギを椀に注いだ味噌汁の上からバラバラって乗せるんだ。でもなんかあのシャキシャキしたネギ見てると、すげえ母ちゃんのこと思い出すよ。母ちゃんもネギみたいな人だったよなって。お前もそう思わねえ? 母ちゃんって、授業もけっこう容赦なかったよなあ。
 おっと着いた。ちょっと待っててくれよな。玄関座っててくれたらいいから。ああ、そこそこ。ショコラはほんっとに賢いな。なにせカノンのあの訓練を乗り切ったんだから。俺なら途中で音を上げてるぜ。 あ、一騎喉乾いてるか? そっか、大丈夫か。ならいいや。……遠慮すんなよ?
 えーっと、タッパーに分けといたやつがあるんだよ。前からお前にもらって欲しかったっつうか。その、さ。まあタイミングが無くてさ。だからちょうど良かったよ。……っと、あったあった。これだ。持てるか?
 ちょっとだけで悪いな。あんまりもう、残ってなくてさ。
 でもお前には、なんか知ってほしかったんだ。うちの味噌のこと。自慢したかったんだ。俺の……俺だけが知ってる母ちゃんのこと、多分憶えててほしいのかも、な。
 ……なあ、一騎。あのとき…母ちゃんがいなくなったとき、もし要先生……澄美さんが家に来いって言ってくれてなかったら、多分俺ダメになってたと思う。蒼穹作戦だって生き残れてなかったと思う。それからカノン。カノンも俺のとこに来てくれた。俺の代わりに自分がマークアハトに乗りたいって言って。俺が動けずにいるのに、カノンは戦おうとしてた。きっと、自分ができること、自分のいる意味を探してた。俺は戦わなくていい、俺の分まで戦うから俺はここにいていいって。母ちゃんみたいなこと、カノンが言ったんだ。
 俺は、そんなものなにも分からなくなっちまってた。家からも動けずにいた。動きたくなかった。俺の場所。俺を守ってくれる、平和な場所。そんなの、もうとっくに無くなっちまってたのに。俺は……守れなかったのに。
 澄美さんもすっごかったんだぜ。自分だって咲良のこともあって大変なのに、アルヴィスもひどい状況だったってのに、直接うちに来て、ぐちゃぐちゃになった台所でうずくまってぼんやりしてる俺のことを見つけてくれた。俺を引き取りに来たって。母ちゃんが望んだように、俺のことを守ってくれるつもりだったんだと思う。そんで家に連れて帰ってくれて、時間もないのにもうこれでもかっていろいろ食べるもの用意してくれて。
 俺はぼんやりしたまま出されたもの食べて、せっかくの食事だったのに味も憶えてねえや。何作ってくれたのかも実はあんまり憶えてない。俺と澄美さんしかいないのに、すごい量だなあって思ったことだけ。
 結局量もあんまり食べれなくてさ。でもそれでいいって言ってくれた。少しでも食べられたのならいいって。
 で、そこからだよ。咲良もいないのに俺と澄美さんだけがあの広い和室にいるのがどうにも落ち着かなくてさ、俺はそわそわしてたんだ。今思うと、ずっと混乱してたんだろうな。自分の状況がちゃんと呑み込めてなかった。そしたら、目の前にいる澄美さんが、これから私はお酒を飲みます! って言い出して、いきなりテーブルの上に一升瓶が出てきたわけ。いや、酒飲んでる場合じゃねえんじゃないか? ってさすがに俺も思ったよ。アルヴィスの仕事もあったはずだし。でも澄美さん、グラスに注いだ酒を一気に飲み干してから、怒り始めたんだ。目にいっぱい涙貯めながら。もうすんげえ剣幕でさあ。そんで、ずっと繰り返してた。
 彩乃、あなたにまで置いて行かれたって。女として、人間として先に行かれてしまったって。大事な一人息子残して何してるんだって。なんであなたがいなくなるんだって。
 澄美さんとうちの母ちゃん、付き合いが長いんだよな。親友っていうかライバルっていうか、そういう関係だったっていうのを、俺はぼんやり思い出してた。
 澄美さんのこと、俺も最初はおろおろしながら宥めてたんだけど、だんだん視界がボヤけてきて、気づいたら涙がボロボロこぼれてた。気持ちはぐちゃぐちゃのまま、涙だけが止まらなかった。そんで、俺はいつの間にか気を失うように眠ってた。
 澄美さん、咲良の父ちゃんが亡くなったときはこんなふうじゃなかったのにさ。悲しくても辛くても、それをぶちまけるようなことはなかった。グッとこらえて俺たちの前ではいつも通りの澄美さんだった。咲良が言ってた。あたしの母さんは強いの。そういう人なのって。
 だから、その分も咲良は戦おうとしたんだろうな。自分がさ。あいつも、自分の父ちゃん死んだとき、ぜんぜん泣かなかったっけ。俺はそれがすごく……気になって、不安でさ。せめて傍にいなきゃって思ったんだよな。
 だってさ、辛くわけがない。悲しくないわけがねえんだ。大人たちも俺たちに見せないけど、ずっとずっとそうだったんだ。
 その澄美さんが、俺と俺の母ちゃんのために、俺の前で泣いてくれた。だから俺はこれは泣いていいことなんだってわかった。これは悲しいことなんだ。俺は、今を悲しんでいいんだって。
 あのあと、また家に帰ったんだ。家の中はめちゃくちゃだけど、もう一度ちゃんと様子を見たかった。持ち出せるものがあれば持っていきたかったしな。そのときも澄美さんが時間をとってついてきてくれた。
 俺、一人で行くって言ったんだよ。すぐ戻るからって。でも、絶対に一人で行かせません! ってすんげえ怒られた。
 そう怒ってくれた意味が、どんだけ俺を心配してくれてたからかってこと、家についてわかったよ。
 ただいまって、口にして帰ったんだ。いつもみたいにさ。それが当たり前だったから。
 だけど、玄関開けて中入ろうとした瞬間、俺動けなくなっちまった。
 足が震えて、そうしたら身体もがくがくしてきてさ。
 だってさ、いないんだ。何も返ってこないんだ。声も気配も。家は真っ暗で、相変わらず家の中のもの、道具とか破片がたくさん落ちて散らかったまんま。
 母ちゃん、ホントにもう……いなかったんだ。
 俺、どこかでまだ母ちゃんに会えるって思ってたんだよな。なんで母ちゃんここにいないんだろうってずっと頭の隅では考えてた。
 だって死んだところを俺は見てない。死体だってない。母ちゃんがいなくなった……どこにも見つからないって聞かされただけだ。それがどういうことかって、俺はいやってくらい知ってたのにな。
 耳をすませたら、すぐにでも母ちゃんの声が聞こえてきそうだった。
 剣司、あんた何してたの。ごはんできてるよ。まったくこのバカ息子は。剣司、剣司って。
 あんなに毎日声を聞いて、顔も見てさ、ときどきうぜえなあなんて思ったりしてさ。
そんな日が、すぐにまた戻ってくるような気がしてたんだ。今は戦争で忙しいから、母ちゃんもずっとアルヴィスで仕事してるんだろうな。終わったら、また帰ってきて一緒に飯食うんだろうなってさ。おかえりっていう母ちゃんの声がそのうち聞こえてくる気がしてた。
 でも、もうそんな日はこないんだって俺はようやくわかったんだ。
 ほんとはずっとわかってたよ。でもそう思い込もうとしてた。思いたかった。苦しいのも悲しいのも今だけだって。今がおかしいんだって。少ししたら、また俺の日常が帰ってくるって。咲良も衛も隣で笑ってる俺の日常が。
 そんなわけ、ねえのに。俺の母ちゃんはもうどこにもいない。俺のこと、馬鹿息子って怒って笑ってくれる母ちゃんは、本当にどこにもいないんだって。これが、現実なんだって……受け入れた。
 なあ、一騎。俺はファフナーに乗りたくて乗ったわけじゃない。ずっとずっと怖かった。逃げたくて仕方なかった。でもそんなことできないのもわかってた。しょうがねえから怖くてたまらない自分を騙しながら無理矢理機体に乗ってた。俺はお前みたいな能力も技術もない。いつかあいつらに同化されて死ぬんだろうって毎日怯えてた。生き残る方法も、誰かを守る方法も分からなかった。それがまた怖かった。そうして衛がいなくなって、咲良が倒れて、そのときも俺は何もできないままだった。もう無理だって思った。自分がひどい卑怯者で臆病者なのは分かってた。でも、あのときの俺はどうしても動けなかった。
 そんな馬鹿野郎に戦わなくていいって言ってくれたの、母ちゃんだけだったよ。母ちゃんがアルヴィスでどんなにすごい人なのかとか、そんなの俺は今だってちっともわかんねえ。ただ、あの人は俺のたった一人の母ちゃんだったんだ。俺だけの。
 ありがとうも言えないまま、母ちゃんはいなくなっちまった。もう会えない。
 息がうまく吸えなくて、がたがた震えて崩れ落ちそうになる俺の肩を、澄美さんが支えてくれてた。
 澄美さんの手も震えてた。それから俺はもう一度、今度こそ大声を上げて泣いた。寂しくて悔しくて悲しくて苦しくて、ただただ心も身体も痛かった。
 澄美さんはそのときもずっとそばにいてくれた。ずっとずっといてくれたよ。
 お前もいてくれたよな。あのあと、俺の挑戦を受けてくれた。今よりもっと動かない身体で、半分見えてない目で、俺と真剣に勝負してくれたよな。何度も、何度も、何度も。
 あのとき、俺にはお前が本当に壁に思えた。悔しかった。自分がみっともなくて、情けなかった。でも絶対に負けたくなかった。お前にじゃない、自分に。俺自身に。初めて、強くなりたいって思った。もう逃げたくない。誰かを守って生き残れるくらい、強くなりたかった。衛みたいに強くなれるかって聞いたら、なれるってお前ははっきり言ってくれた。それがどれだけ心強かったか。
 俺、今でもすげえ感謝してるんだ。そんで、お前はすげえやつだって思ってる。そんな顔するんじゃねえよ。いいか、一騎。お前はすげえんだよ。北極で戦って、最後はちゃんと島に帰ってきた。今もここに……竜宮島にいる。
 多分さ、母ちゃんもいるんだ。俺にはもう見えないけど、きっとこの島には母ちゃんの残したものがいっぱいある。この味噌みたいにさ。だから俺は一人じゃねえんだ。
 なあ、だから一騎。お前もさ、一人になるなよ。それは駄目なんだ。絶対に、やっちゃいけないんだ。あのときだって、俺たち一人じゃなかっただろ。北極に行く前。全員で生きて、守りあうって決めた。だから生き延びられた。
 もしお前が一人になろうとしたって、俺も咲良も許さねえからな。遠見も、カノンも、それに総士だってそうだ。
 総士は、一人の辛さって多分一番わかってたんだろうな。今になって思うんだよ。親父さんも蔵前も同じ日に亡くして、それでも前を見て踏ん張ってたあいつのこと。泣き言一つ、恨みごと一つ俺たちの前で口にしなかった。絶対引き下がったりもしなかった。多分、あいつはそうするしかなかったんだ。でも、それがどれくらい必死で、つらいことだったのか、考えるんだ。やっとそう考えられるようになった。あいつの痛みも、強さも。
 だからさ、帰ってくるよ。帰ってくるんだ、総士は。そう約束したんだろ。遠見に聞いたよ。俺も信じる。あいつはお前のこと一人にしたりしねえよ。だって自分の言ったことは……約束は絶対守るやつだ。俺たちみんな知ってる。そうだろ?

 引きとめて、わざわざ寄らせて悪かったな。ショコラ、一騎のこと家まで頼むな。そんなに心配するなって? それくらい別にいいだろ。ははっ、お前の方がショコラみたいな顔すんなよ。
 なあ一騎。母ちゃんの味噌使ったら、感想くれよな。使うなら、やっぱ味噌汁かな。
 俺も、澄美さんや西尾のばあちゃんに聞いて新しく自分で味噌仕込もうかって思ったんだけど、いまいち塩梅がわかんねえんだよなあ。この味っていうのは分かるんだけど、どうやったら母ちゃんみたいな味になるのかさっぱりだ。まあ、すぐに思ったようにやれるようなもんじゃないんだろうけどさ。
 もし、一騎が気づいことあったら教えてくれよ。お前の舌、信じてるからよ。
 母ちゃんはきっと、俺が味噌作り始めたなんて知ったら笑うだろうなあ。
 あんたが同じもの作ろうとしなくていいなんて、言うんだろうなあ。この馬鹿息子ってさ。
 でもさあ、ときどき飲みたくて飲みたくてたまらなくなるんだ。せめて、ずっと憶えておきたいんだ。
 母ちゃんの味噌汁。ネギのいっぱい入ったやつ。辛くて、あったかくて。

 ああ……本当に美味かったなあ。


- end -


2019/01/25 up
剣司と一騎は、ときどき献立トークしたりレシピ交換していたらいいんじゃないかと思っています。
2019/06/23発行の短編集『その手のひらに■を灯し』へも収録。
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