その右手にいのちを


【海神島:喫茶楽園にて】


 がらんとドアベルが鳴る音がして、俺は顔を上げた。
 買い出しに行った甲洋が、喫茶店に戻ってきたところだった。

「おかえり、甲洋。おつかれ」
「ただいま、一騎」

 俺が労いの言葉をかけると甲洋は笑い、客用スペースに座っている俺の膝の上を見て驚いたように声を上げた。

「…あれ、総士が来てたのか」
「ああ。さっき父さんが連れてきた」

 俺の腕の中で、総士がすやすやと寝ている。午前から昼過ぎまでさんざん遊んですっかり疲れたらしい。甲洋が戻ってくる音にもまったく反応しなかった。
 今日は休みだという父さんに総士を任せて、俺は楽園の仕事に来ていたけど、ランチ営業が終わった時間になって父さんがここまで総士を連れてきた。
 総士が俺を迎えに行くのだと言って聞かなかったらしい。今日はランチまでの営業だとはいえ、片付けが残っていた俺を大人しく待っているうちに、椅子の上で寝こけていた。
 眠る子供の体温は高い。総士が俺にくっついているところは、まるで湯たんぽを抱えているようなじんわりとした熱を帯びている。

「父さんも、もう少し遅い時間に連れて来てくれたら良かったんだけどな」

 自分は総士を置いてさっさと帰るしと俺が愚痴を洩らすのを、買ってきたものを片づけながら、まあまあと甲洋が宥める。

「しょうがないよ。それよりどうしたんだ、それ」

 甲洋が、テーブル上に広げていたものを指した。それは一枚の画用紙で、紙めいっぱいに色が乗っている。俺が、甲洋が帰ってくるまで眺めていたものだ。

「総士が描いた絵だってさ。父さんが総士と一緒に俺に渡してきた」

 俺がいない家には咲良や遠見が、美羽ちゃんも連れて遊びに来ていたらしい。総士は美羽ちゃんと一緒に絵を描いて遊んだんだという。

「へえ。これ、何を描いたんだ?」
「なんだと思う?」
「手…かな」
「あたり」

 まだ不安定な線がのたくった絵をじっと見つめ、首を傾げながら甲洋が出した答えに、俺は笑って目を伏せた。
 
「俺の、右手だってさ」

 甲洋は目を丸くして俺を見つめ、それからもう一度絵に視線を落とした。

「…そうか」

 俺の向かいに座りながら絵を手に取り、しみじみと眺めて甲洋が目を細めた。その口元に柔らかな笑みが浮かぶ。


「いい線いってるんじゃないか。子供にとって、手を描くってそうとう難しいだろうに」
「俺もそう思う。父さんなんか、額に入れて飾るとか言い出してさ。父さんって割と親馬鹿なんだよなあ…いやこれってジジ馬鹿なのか?」」
「はは。…すごく、きらきらしてるな」

 総士が描いた俺の右手は、甲洋が言うとおり、黄色で塗られていてやたらと光っていた。本人は人間の肌を塗ったつもりなのかもしれないけど、絵だけ見るとそうは見えない。特に俺や甲洋にとっては。

「俺、総士に俺の右腕のこと、まだ教えたことも見せたこともないんだけどな」

 今後話すことになるのかもわからない。左腕で総士を抱えたまま、自分の右腕をまっすぐ前に突き出し、翳す。その腕は俺の意思とともに、人としての色を失って黄金色に輝いた。
 一度失われ、ミールの祝福によって再生した右腕。かつて俺が美しいと感じたフェストゥムと同じ輝きが、俺の右腕に宿っている。
 生と死の循環を越えた。この意味が俺にはまだよくわかっていない。人間でなくなったと、そういう見方もできるのかもしれない。でも、俺にはそんな自覚はなかった。

 ――だって総士は、人間だった。

 フェストゥムの世界から帰還し、その身体を構成するものがほぼフェストゥムと同じだということが分かっても、総士は人間として生きることを選んだ。俺にとっても、総士は総士でしかなかったし、島のみんなにとってもそうだった。
 いなくなる前と同じように食事をして、眠って、また起きて。人として当たり前の日常的なサイクルを毎日繰り返し、喜怒哀楽を顔や身体で表現した。
 総士は最後まで人間であることを手放さなかった。人間として生き、人間として命を終え、そして人間としてまた生まれてきた。
 きっと、俺もそうするのだろう。たとえ、この命が途方もなく引き伸ばされて、俺を知る人がこの世界のどこにもいなくなったとしても。それでも俺は最後まで真壁一騎として生き続けるんだろう。祝福の果てに、総士とまた出会うときまで。
 この島で、俺をもとから知る人たちは、俺をなにか別の存在と見ることはしなかった。
 もし、いつかは異物のように扱われるのだとしても、結局のところ俺は俺で、…俺でしかない。これからも。そういうことなんだと思う。きっと俺は俺以外の何ものにもなれない。
 右腕のきらめきがすうっと消えて、人としてのものに戻っていく。それを見つめながら、俺はぽつりと口を開いた。

「俺の右手は、ずっと奪うものだった…壊すものだった。総士を傷つけた手だ。…翔子を守れなかった手だ」

 甲洋が小さく息を呑んだ。「一騎、それは、」と言いかけて口を噤む。元の甲洋らしさを取り戻したといっても、穏やかで凪いだ姿がすっかり定着した甲洋には珍しい反応だった。それだけ心の奥深いところに、その記憶が刻まれていることの証でもあった。
 きっとお前だけのせいじゃないと言いたかったんだろう。それでも、あの時一番近くで翔子に手を伸ばせる場所にいたのは俺だった。守ると誓ったのも俺だった。そう思わせてくれたのは翔子だった。
 カノンの姿と、そして翔子の姿をまとって俺のもとに現れたミールのことを思い出す。その手から差し出された花も。

「この手が…今はミールと繋がって世界を祝福するものになった。こんなこと、俺は考えたこともなかった」

 そして、生まれ変わった総士をこの手で育てるということも。
 総士が…赤子の総士が最初に掴んだのは、俺の右手だった。正しくは右指だった。
 ニヒトのコクピットの中、シナジェティックスーツに包まれて眠る赤子をおそるおそる左腕に抱き上げて、そっと伸ばした右のひとさし指を無意識のはずの小さな手が掴んだ。まるで命綱だとでもいうように。
 その驚くほど強い力に、俺は震えた。掴まれたと思った。総士は俺の手を離さなかった。そして、今も離さずにいる。
 不思議だった。ずっと命を繋げたらと思っていた。
 食事を作って、器を作って。戦うだけでなく、この手が役立っていることが嬉しかった。
 それでも、守るためならこの腕すべて失っても構わないとも思った。
 戦いの中で、俺の右腕は代償としてザインに食われ、砕け散ったはずだった。
 それなのに再び腕を与えられ、命そのものに触れている。命を…育てることを許されている。
 島のミールに。そして、総士に。
 総士は、自分が去ったあとで生まれてくる命を知りながら、そのことについては触れずに地平線を越えて行った。それでも、お前に託すと言われた気がした。
 未来へ導けと。島を、そして新しい命を次へ繋げと。
 俺の、右手で。俺という存在で。
 俺にそんな資格があるとは、未だに思えない。この手に掴んだものを離さずにいられるのか、守りきれるのか、それすらまだ先の見えない手だ。
 いつか本当に総士に手を伸ばすことができるのかも、まだ分からない。選んだ道のりの先は、あまりにも遠い。総士は間違いなくここにいるのに、それでもやはり先へ行ってしまったのだと感じる。
 喉の奥から何かが込み上げそうになって、必死に堪えた。
 地平線を越えていくあいつを笑顔で見送れたはずの俺は、どうしてそんな風に振る舞えたのか分からないくらい、あれから涙もろくなった。もともと涙腺は弱い方だったけれど、この数年で落ち着いたと思ったのに。
 
「俺の手で、この手でいいのか。本当に」

 ぽつりと声が落ちた。自分でも情けなくなるような声だった。
 腕の中の総士の髪の毛を、額に張りついたそれを指先でそっとかきあげる。
 眠る総士の左目に、傷はない。俺がかつて右手で総士につけた傷。その傷ごと、総士が地平線の向こうに持って行ってしまった。俺の右手もかつてと同じじゃない。俺たちの関係は綺麗に修復されて、新しい命と一緒に新しく生まれたといえるんだろう。
 それでも、ときどきどうしようもなく不安になるのだ。
 絵のお題は『大切なもの』だったらしい。それで総士が描いたのが、俺の手だった。画用紙いっぱいに大きく書かれた俺の右手。その手にはお玉が握られている。カレーを作ってくれるからとか。とにかくすごいと思って書いたらしい。
 それを目にして、途端に怖くなってしまった。
 大切だと、すごいと思ってもらえるような手なのかと。これほどきらきらと輝くものであるのかと。
 この2年、がむしゃらにやれることだけをやってきたけれど、本当にこれでいいのかと。
 腕に感じる確かな重たさ。年々増していくそれに、不意に恐ろしくなる。
 だって俺にできるのは、本当はとても小さく、ささやかなものなのだ。
 総士の、細くて柔らかい亜麻色の髪の毛を指で梳き続けていると、穏やかな甲洋の声が優しく響いた。


「…総士は、お前が作ったものを食べて、お前の手を握って育つ。お前の手で。それをきっと総士も望んだ。それじゃ駄目なのか」

 わからないと、俺は答えた。

「びっくり、したんだ。わからなく…なったんだ。総士には本当に俺の手がこんな風に見えてるのかって」
「…俺には、絵のことはよくわからないけど、すごく安心する絵だ。そういう心を感じるよ」

 そうかな。そうなんだろうか。そう、思っていいんだろうか。総士は俺を選んでくれた。いつだって俺を信じてくれた。だから俺は今もここにいる。ここにいることを選べる。
 なんと言えばいいかわからなくて、総士を抱える腕にわずかに力を込めた時だった。

「…かずきい」
「総士?」

 舌足らずな声が響いて、腕の中の総士が身じろぎした。もぞもぞと身体を動かすのに、落ちることがないよう慌てて抱え直す。

「起きたか。そろそろ帰って布団で寝るか、総士」

 最初は抱き上げるのも覚束なかった手つきが、いつの間にか手馴れたものになった。年月の経過をなんとなしに感じながら、総士の顔を覗き込んで笑いかける。
 そうすると、総士の顔がふにゃりと緩んだ。

「かずきだあ…」

 そう言って、総士は俺の右腕にしがみついた。子供の暖かな体温がじんわりと俺に染み込んでくる。
 そしてまるで離さないとでもいうかのようにしっかりと抱きつき頭を擦り寄せると、総士は再びことんと寝入ってしまった。このうえない安堵の表情を浮かべて。
 
「…なあ、一騎」

 手にした絵をテーブルの上に戻しながら、甲洋が呆然としている俺の名を呼んだ。

「見えてるんじゃなくて、見えてたんじゃないのか。総士には、ずっと」

 甲洋はそう言って笑った。

「ずっと、あいつにとってはそうだったんだよ」

 その右手を厭うなと、穏やかに微笑む彼の姿が浮かんだ。一騎と、名前を呼ぶ懐かしい声とともに。
 少なくとも、今はこれでいいのだと、大丈夫なのだと言われているようで。

「…涙が出るようなこというなよ」

 俺はとうとう堪えきれなくなって、くしゃりと歪んだ顔を見られないように、抱えた総士の…今ここにいる幼い総士の小さな頭に顔を押しつけた。


- end -


2016/01/14 pixiv up
三部作の三。許しと回帰。
それは未来。
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