繋ぐもの
あたたかい。
一騎は目を見開いた。フェストゥムの森で触れた結晶は右の手のひらにじんわりと暖かな熱を伝えてきた。驚きとともに笑みが浮かんだ。
生きているのだと思った。もっと触れたい。本能的にその先の理解を求めた。共鳴し、一つになる。いや、それだけではない。そこには変化があり、さらなる進化の可能性を孕んでいた。
この森のフェストゥムは静かに、ただある。樹々と一体化し、穏やかに世界と共存している。彼らは憎しみも痛みも持っていない。このフェストゥムの違いはどこにあるのだろう。
フェストゥムでありながら個として生まれ、自ら選択して世界を祝福したフェストゥムを思い出す。
――来主…。
彼なら、この森を見てなんて言っただろう。その心に、境界も天地の概念さえない無限の蒼穹を抱く彼ならば。
「そこまでだ」
制止の声とともに手が引き剥がされ、結晶化した部分が砕け散った。
目を瞬かせ、手首を強く握る手の先を辿っていけば、眉間に深く皺を寄せた幼馴染の顔がある。
あたたかいなと、一騎はもう一度笑んだ。
総士の手はフェストゥムとは違う暖かさを持っていた。自分だって限界を持つくせに人の心配ばかりをしている。その優しさがどうしようもなく好きだった。
握られた熱に懐かしさを覚え、ザインに手を伸ばすのを阻んだカノンの手を思い出した。
カノンの手もあたたかかった。ジクリと胸に刺すような痛みがはしる。カノンは夢で何を示したのだろう。あれは本当に夢だったのか。一騎が見たことのない服を着て、今まで見たどの顔よりも穏やかに優しく笑っていた。彼女はどこに行こうとしていたのだろう。じわりと残る熱を思い返しながら右手を見つめる。
「返すべきだというのなら、返すよ」
奪うことしかできないと思っていた。傷つけるだけの手だと思っていた。
それがこうして許され、受け入れられて、人のためのものを生み出せるようになった。
父に振る舞うだけだった料理を、他の人にも食べてもらうようになった。誰もが美味しいと言ってくれた。あるいは言葉がなくとも口に入れて顔を綻ばせた。
約束通り父の手ほどきを受け、食べるものを乗せる皿を作るようになった。土は温かいのだと知った。
自分の作った皿の上に、自分で作った料理が乗っているのは不思議な感慨を一騎にもたらした。
皿は歪み、厚さも均等ではなかったけれど、それでも確かに器だった。一騎の作り上げたものだった。命は繋がっているのだと思った。
そう。命は、繋がっていく。この右手から。ならば返さなければ。
進む道の上で、たくさんの命が消えていった。
苦しみながらいつか尽きる命に怯えるよりも、フェストゥムの祝福を受け入れた人たちがいた。
墓を作って悼むことさえできなかった。倒れた人々の上に雪が積もり続け、残酷なまでの穏やかさで彼らを覆っていった。砕けるのでも消滅するのでもない、力を持たない人間の本来の死の在り方を初めて目にしているのだと思った。
毎日誰かがいなくなっていった。幼く弱い命、庇護されるべき命から消えていった。
配給の少ない食料を口に押し込みながら、それさえ得られない人たちのことを思った。自分たちは軍人であり、戦うべき立場にあった。守るために生きねばならなかった。そのために食べねばならず、優先的に食料を与えられた。そのために恐らく消えた命もあった。
誰かがいなくなれば、そのおかげで生き延びる命があった。命を守るために、命を犠牲にした。
『生きる限り、僕らは何かを譲ってもらっているんだ。水も命も、平和も』
一騎の向かいで、暉がぼろぼろと涙を流し、えずきながら、ぼそぼそに乾いたパンを無理やり喉に押し込んでいた。
総士の言葉は、残酷なほどに真実だった。
それらすべてを見つめながら、悟った。
命を使っても消耗するだけなら意味はない。残すもの、繋ぐものでなければならなかった。
花が太陽の光と水を受けて芽吹き、育ち、種を生んで枯れ、やがて土へと帰るように。その土から新たな種が芽生え、根を張って息づいていくように。
生存限界を知らされた時からずっと終わりを見つめていた。どこで終わるのかを探そうとしていた。答えは島の外にあるのだと思った。
けれど、島の外に出てそれだけではいけないのだと気づいた。未来を見据えなければその先には届かない。
たどり着けると、カノンが告げた未来が本当にあるのなら。それを、信じても良いのなら。
ならばたどり着くまでだ。たどり着いてやると思った。その代償がどんなものであったとしても。
ある日、竜宮島が移動していることを知らされた。こちらと合流するために。バードから響く父親の声は、二度と帰ることはないだろうと思い込んでいた島への郷愁を一気にかきたてた。
置いてきたと思ったものが目指す場所になる。たどり着く場所になる。
これで何度目だろう。総士のことが知りたくて島を出たとき。総士を救い出すために蒼穹作戦のもと北極へ向かったとき。そして、今。
帰ろうと、その感情は素直に溢れた。遠見と海辺に立っていると、とりわけ島にいた時のことを思い出した。今ここにあるのは、あの青く穏やかな海とはまるで違う、鈍く沈んだ冷たいものだったけれど、それでも懐かしいあの海に繋がっているのだと思えた。
自分に何かあるとき、いつも一騎自身より早く異変に気づいて寄り添ってくれたのが遠見だった。彼女はいつも帰る場所でありつづけてくれた。そうあるために、自分の手を汚すことも厭わなかった。
『遠見は僕らにとっての地平線だ』
――その通りだ、総士。
すべてが変わってしまっても、もう戻れないところにいるのだとしても、それでも遠見はそこにいるだけで、一騎にとって揺らがぬ一つの導べとなった。
総士の隣にいて、そして遠見の生き方を見て、理解できた。
どう、この命を使えばいいのか。
ただ、投げ出すわけではない。残り少ない命だから、そうするのではない。
価値があると教えてもらったこの命だから使うことができるのだ。差し出せるのだ。
それは一騎が今までたどり着けずにいた絶対的な自己肯定だった。
今こそ。命で、命を、繋げ。
「―――ッ!?」
脳の中心に何本もの針を直接突き入れられたような凄まじい痛みと痺れが走った。
ざっと血が下がり、身体が硬直する。
覚えのある痛みだと身体が思い出すと同時に、右腕が指先から急速に結晶化していく。細胞が、骨が走る血管が肉が、瞬く間に結晶となって内から身体を引き裂き飲み込み、広がっていく。
遠見にもらった花が粉々に飛び散るのが見えた。
喰い尽くされると判断するよりも早く、結晶化が進む先を力任せに引きちぎった。その行為がもたらす意味など考えることもしなかった。
結晶が砕ける音に混じり、ブチブチという耳障りな音が響く。
瞬間目も眩むような痛みが身体を引き裂いた。割れんばかりに食いしばった歯の間から、押し殺しきれなかった声が唸りとなって迸る。
だが構わなかった。自分の名を呼ぶ声も耳に入らなかった。
腕がどうした。いつだって何かを失ってきた。誰もがそうしてきた。
俺は例え両手両足をすべて失ったとしても…この身体さえ失くしたとしてもこの先に行く。
人のかたちさえ、最後には失くすのだとしても。
――まだ終わりじゃない。
身体の痛みなどどうでも良かった。
今はただ、その先にあるはずの希望を掴まなければいけなかった。辿り着かなければならなかった。繋いで、残さなければいけなかった。
ビシャビシャと噴き上がる血がコクピットに飛び散り、周囲に赤黒い飛沫を走らせては滴り落ちる。ちぎれた細胞たちがぱきぱきと音を立てながら結晶化し、断面を覆っていく。
失った腕から緑の結晶が突き出すが、だが一騎はそれに目をくれもしなかった。
――まだ戦える。俺はまだ、ここにいる。
目の前に立ち塞がるものだけを見据え、一騎は声を限りに咆哮した。
- end -
三部作の二。転機と光芒。
ただ右手を伸ばした。砕けても、ただひたすらその先に。