右手の功罪
いったい自分が何をしでかしてしまったのか。
そのことを本当に思い知るのは、何気ない日常が一騎に牙を剥きはじめてからだった。
「おはよう、一騎」
あの日、あの瞬間。己が何をしたのかこれからどうなるのか、その全てが決まってしまった。
犯した罪がすぐ目の前にありながら、断罪されず、罪を償う機会さえ与えられず、一騎の世界は暗転し、真っ逆さまに暗い海へと落ちた。
左目を真新しい包帯で覆い、総士がこちらに向かって綺麗に微笑んでいた。
全身の血が引いた。一騎は愕然と目を見開き、凍りついたように総士を見つめたまま、何も返すことはできなかった。ただの一言も。
総士を置いて自分だけが逃げ出した日から、一騎は総士に会うことを怖れ続けていた。それと同時に顔を見たくて仕方がなかった。布団にくるまって己のしでかしたことに震えながら、自分の罪が早く公になることを望んでいた。総士に詫びたいと、思っていたのだ。
それなのに。
一騎は、自分が永遠に自分から許される機会を失ったことを知った。もはや償うことさえできないのだと。
総士の左目は二度と戻らず、犯した罪の事実は決して消えることはないということを。
あれからどう学校での時間を過ごしたのか、一騎にはもう思い出すこともできない。
ただぼんやりとしたまま授業を終え、ふらふらと自宅に戻った。帰り道の途中で誰かに声をかけられた気がしたが、それが誰で何を言われたのかもわからなかった。
一階から自宅に入り、作業場で轆轤を回す父に、上の空でただいまと口にしたことは覚えている。作業をしている父がいつものように、振り返ることなく「ん」と返してきたことも。
習慣通り自分の部屋に戻って鞄を置き、出された宿題を片づけようと、一騎は課題を引っ張り出して居間に向かった。
身体は勝手に日常を繰り返そうと動いていた。あとから思えば、そんなものはとっくに崩れ去っていたのに、まだ一騎は気づいていなかった。
ちゃぶ台に教科書とワークブックを広げ、宿題を半分ほど進めたところで、鉛筆の先が丸くなっていることに気づいて、一騎は鉛筆削りを手に取った。鉛筆を穴に押し込み、がりがりと先を削る。手ごたえがなくなるまで鉛筆を回してから引き抜いたそれは、とても綺麗に尖っていた。
ぞっと、一騎は鳥肌が立つのを感じた。思わず手にしていた鉛筆をちゃぶ台の上に放り投げる。広げた紙の上を、ころころと鉛筆が転がっていく。一騎の心はざわついた。
だが、一騎の頭はそれ以上思考することを拒絶した。落ち着かない気持ちのまま、宿題の続きをする気にもなれず、部屋を見回し時計に目を留める。時刻は夕方の五時を回ろうとしていた。
「そうだ。夕飯の準備しなきゃ」
一人呟き、ふらふらと立ち上がると台所に向かう。隅に置いてある自分用の足台を運んでくると、その上にのぼって夕食の準備にとりかかった。
片手鍋に水を張り、昆布を入れて火にかける。味噌汁用の出汁を取りながら、副菜を作る用意を始めた。
小学校に上がる前あたりから、一騎は自分から食事を作るようになった。興味が湧いたというのもあるし、父親が時折料理をするさまが、息子から見てもあまりにも危ういものだったからという理由がある。
最初にごはんを炊けるようになって、次に味噌汁を作れるようになった。家で父がたまに炊くごはんはいつもべったりとしているか、芯が残って固かったから、自分で様子を見ながら炊き上げたごはんが、色もつややかにふっくらと仕上がったのを見たときは、その美味しさとも相まって、心が浮き立つような達成感を抱いたものだった。
知り合いの大人たちに教えてもらったり、自分で本も読んだりして、今では主菜や副菜のレパートリーも増えた。
今日の夕飯のメインはブリの照り焼きにするつもりだった。魚の下処理は、魚を購入した店でやってもらっている。一騎は、焼き加減と調味料の調合さえ間違えなければ良かった。焼くのは父の仕事がひと段落ついてからでいいだろう。
いつしか染みついた習慣が勝手に身体を動かす。
味噌汁の具は、油揚げとネギにしようと決めて、冷蔵庫から具材を引っ張り出した。あとはほうれん草でおひたしでも作れば、ひとまずの食事としては十分なものだろう。今度は煮物でも作ってみようと思いながら、一騎はネギをざっと洗ってからまな板の上に乗せると、適当な大きさに切るために戸棚にしまってある包丁を取り出した。
9歳の一騎の手のひらにもおさまる小ぶりな包丁は、料理を覚え始めた息子のために、父が用意してくれたものだった。まだ自分で研ぐことまではできないが、一騎はそれを大切にしていた。
一つ間違えれば、自分も誰かも傷つけるものだ。慎重に扱えと口を酸っぱくして言われたことを今も思い返しながら、ネギを揃え、ざくりと野菜に刃を入れた時、一騎はひどい違和感を覚えた。同時に、さきほど削った鉛筆のことを思い出した。
鋭く尖った、その先端を。
どんなものでも貫けそうにも思える、鋭利な切っ先を。
一騎は動きを止めて自分の右手に目をやった。自分が手にしている包丁と、その刃先を。そしてまな板の上のネギを見た。そこには切り分けられ、ばらけたネギがその断面を晒していた。
ひどく静かな思考が自身に問いかけた。
俺は、何を握っているんだ?
ガンっと音を立てて、手にしたものが落ちた。ざっと血の気が下がり、怖気が全身を包む。
包丁が刃を晒したまま床に転がるのを気に留めることもできないまま、一騎は脚を震わせ、立っていられなくなって崩れ落ちた。
踏み台から転落し床に叩きつけられる。起き上がることもできず、自分に何が起きたのか分からないままもがいているうちに、ぎゅうと腹の奥が引き攣れたように痛み、むかつきを覚えたと思う間もなく、胃の中のものを吐き戻していた。
と同時に、愕然とこちらを見つめる総士の姿がフラッシュバックする。
――かずっ、き…。
左目を大きく見開き、顔の左半分を手で押さえている。
その左指の間から、どろりとしたものが伝っている。
後から後から滴り落ちて総士の手を腕を、服を染めていく。
赤い…目が覚めるような真っ赤な。
――いたいよっ、かずき…!
ひくりと、一騎の喉が引き攣った。
そうだ。
あれは、自分がやった。
総士の左目を、自分が傷つけた。
この、右手が。
それをやった。
――細い木の枝の、切っ先で。
「あ…」
かたかたと、一騎の指が、身体が震えはじめる。
そうだ、どうして鉛筆が握れた。あんなもの、握れるわけがない。
尖ったあの切っ先でまた誰かの目玉を突いてしまったら?
顔に突き立てて、あるいは切りつけてしまったら?
ああ、きっとそんなのは容易い。自分には容易いことだ。
あれだけ簡単に総士の左目を切り裂けたのだから。
柔らかな弾力のあるものに、深々と切っ先を突き立てる自分が浮かぶ。
ブツンと破れて中身が弾ける。
割れ目から流れ出すのは赤い色だ。
赤い…赤くて鮮やかな。
総士の左目から流れ落ちたたものと同じ、血の色の。
「う…えっ…」
一騎は再び嘔吐した。
自らの吐瀉物にまみれるのも構わず、震えの治まらぬ身体を自分の両腕で抱きしめて床の上に蹲る。
苦しい。ひたすらに苦しかった。ぼろぼろと涙が溢れる。饐えた臭いが更なる吐き気を呼び起こす。
床に這いつくばったままなおも吐き続け、とうとう胃液しか出なくなったとき、涙で歪んだ一騎の目の端に、床に落ちたままの包丁が映った。
刃先が、鋭く光っていた。
「ひっ…」
あ、あ、と声にならない音が洩れる。
さきほどまで自分が握っていたもの。
間違いなく、簡単に誰かを傷つけるもの。
次の瞬間、押し殺し切れない悲鳴が一騎の喉から迸った。
「っっああああぁぁああああああああ!!!!!」
「一騎!!?」
二階のただならぬ異変に気づいたのだろう。作業場にいたはずの父が慌てた声で駆け寄ってくるのが分かった。だが、一騎は悲鳴を抑えることができなかった。
「ああああぁあああぁぁあ…!!」
「一騎!!? 一騎!!!」
「あああああぁあああぁあぁあああ!!!!」
ただひたすらに意味のなさない声を上げ続けながら、まだ泥のついた父の手で、痙攣する身体を強く抱きかかえられたのを感じた。
父は一騎が吐きだしたものに服が汚れるのも構わず、錯乱状態に陥っている息子を抱きしめて、自分の胸に一騎の顔を強く押しつけた。そして宥めるように一騎の背中を大きな手で上下に擦る。
「一騎、落ち着け! 一騎!!」
「うっ、あああうあ、っうう」
「一騎…」
「ふっ、うう、うぐっ…ああああああ…!!」
「一騎!」
繰り返し名前を呼ばれる。馴染んだ父の声。
くぐもった声でなお嗚咽を洩らしながら、父の腕の中で一騎は涙を零した。土の臭いがすると思った。声を振り絞り、縋るように呼びかけた。
「とう…さ…」
ごめんなさい。
もはや誰に向けたものかもわからない。
最後にそれだけを呟いて、一騎は意識を手放した。
ごめんなさい。
俺を許して。
違う、許さないで。
ぜったいにゆるさないで。
そうし。
***
ピッ…ピッと規則的な電子音が聞こえる。
ぼんやりと目を開くと、真っ白な天井があった。ついで消毒液の臭いが鼻を突く。ああ、ここは家ではないのだなと、一騎はぼんやりと認識した。
みじろぎすると身体に掛けられていた上掛けが衣擦れの音を立てる。ベッドに横たえられているのを自覚したのと、声を掛けられたのは同時だった。
「一騎くん」
「とおみ、せんせい?」
「一騎くん。気が付いたのね」
安堵の色を顔いっぱいに浮かべて、一騎の顔を覗き込んだのは遠見千鶴だった。よく見知った姿に、ここが遠見医院であることを理解する。
いまだぼんやりとしながら、一騎は千鶴に問いかけた。
「ここに…だれかいた…?」
千鶴以外の、ほかの誰かが。
名前を呼ばれた気がする。手を握られたように思う。泣いていた…気がする。泣くなと言いたかったけれどそんな資格は自分にはない。そのことに絶望した。そんな夢を見た気がする。
「…いいえ、誰も。誰もいなかったわ」
なんで先生は泣きそうな顔してるんだろう。何かをこらえるみたいに。とても辛そうに。
一騎が不思議に思っていると、千鶴が部屋の入り口を示した。
「お父さまがそこにいらっしゃるわ。…真壁さん。一騎くんが目を覚ましました」
「とお…さん」
顔を傾けて見つけた父の顔は、ひどく憔悴していた。眉は顰められ、口元はきつく引き結ばれている。そんな顔を、一騎は今まで見たことはなかった。
父さんが泣いてたのかな。なんでだろう。ああ、きっとやっぱり夢だ。そんなことあるはずがない…。
頭がぼうっとして考えるのがおっくうだった。それでもなんとか身体を起こす。
「一騎、大丈夫か」
気遣うように短く問われ、こくりと頷く。少しぼんやりとはするが、それ以外は問題なかった。
父は一騎が家に帰った時とは違うタンクトップを身に着けていた。そういえば自分もいつの間にか服を着替えさせられていることに一騎は気づいた。
どうしてこんなところで自分は寝ていたのだろうと思い、首を傾げていると、千鶴が屈んで下から一騎を覗き込んだ。その真摯な顔に思わずたじろぐ。千鶴はじっと一騎を見つめて口を開いた。
「一騎くん、少し確認させてね。これ、握れるかしら」
鉛筆を手渡される。一騎は不思議に思いながら、それを右手で握った。普段、自分がそうしているように。
「じゃあ、今度は名前を書いてみて?」
スケッチブックを差し出され、言われるがまま「真壁一騎」と、最近ようやくバランスよく書けるようになった画数の多い自分の名前を、漢字で書く。
鉛筆、これは文字を書くもの。わかる。何も問題などない。
父と千鶴は一騎の様子に息を吐くと、互いに顔を見合わせて頷きあった。一騎にはその意味がまったくわからなかった。
「じゃあ、次はこれを使ってみて」
今度は紙と一緒にはさみを手渡される。一騎は首を傾げながらも、身体が促すままにはさみを手にしてザクザクと紙を二つに切った。
はさみは切るもの。使い方を知っていれば間違えることはない。これも当たり前のことだった。
他にも箸や物差しなど、幾つかの道具を持たされたが、一騎は問題なくそれを求められるままに使用した。
千鶴がほっとしたように笑う。だが、そのあとにすぐ顔を曇らせた。
「あとは…」
「あとは、家で面倒をみます」
千鶴が言いかけた言葉を引き取ったのは史彦だった。千鶴はしばらく躊躇っていたようだったがやがて頷いた。いつものように一騎に笑いかける。
「…わかりました。一騎くん、もうおうちに帰って大丈夫よ。気分が悪くなったら、すぐにお父さんに言うのよ」
「はい」
一騎はやはり理解できないまま、ただ返事をした。
後になって思えば、千鶴が…大人たちが一騎の精神を和らげるなんらかの処置を施したという考えに至っただろう。だが、このときの一騎は何も知らずにいた。その処置を施された理由も、島の大人たちの意図も。
遠見医院を出たところで、父は一騎に告げた。
「すまん、一騎…すまない」
重たい石を無理やり吐き出すような声だった。
一騎は、なんで父さんが謝るのだろうと思った。父は何も悪いことをしていないというのに。
それより自分こそ言うべきことがある。どうしても、言わなければならないことが。
「父さん、おれ…」
呼びかけたところで、父が膝を折って腰を屈めた。突然目の前にひろがった背中に驚いて、一騎はぽかんと口を開ける。
「なんだよ…」
「いいから乗れ」
「いいってば」
「いいから」
乗れと、腰を屈めたまま動かない父に、一騎は困惑した。
いったい、俺をいくつだと思っているんだ。こんな姿、知り合いの誰にも見られたくない。もう9歳になるのに。
さんざん迷ったものの、結局一騎は父の背中に手を伸ばした。がっしりとした首に手を回し、身体を預ける。すぐに両脚を抱えあげられ、一騎は軽々と背負いあげられた。一気に視界が高くなる。
こうして背負われるのはいつぶりか、ついこの間のことのようでもあり、遠い昔のようにも思えた。
いつの間にか大分と日も暮れて街灯だけが照らす道を、自宅へと向かう。
「何か食って帰るか」
途中、父の背中に揺られながら、背中越しに響く声を聞いた。ずきりと頭の奥が痛んだ。そして胸も。一騎はしばらく考えてから首を振った。
「いい」
「そうか」
「作りかけの、あるし」
「…そうだったな」
「俺が、作る」
その声に、父親が一度歩みを止めた。躊躇うように名前を呼ばれる。
「一騎」
「作るよ」
一騎は頑なに主張した。自分がやらねばいけないという思いがあった。
「…そうか」
史彦は、それ以上何も言わなかった。
***
帰宅後の台所に、一騎は立っていた。
床はきれいに片付けられていたが、コンロの上やまな板は一騎が夕食の支度をやりかけたそのままだった。
父の背中に負われている間に、一騎は自分が遠見医院で目覚めることになった経緯を思い出していた。
思い出しはしたが、あの時身体の中を嵐のように渦巻いた混乱と衝動はどこかに消え去っていた。
ただ、身を切られるような痛みと苦しさだけがあった。
それなのにひどく頭は冷静だった。その事実がつらかった。まるで犯した罪から自分が逃げ出したような気持ちだった。忘却という安易な許しに逃げようとしているように思えてならなかった。
あんな目にあったのに、父も千鶴も、結局その理由を尋ねなかったのだった。そのことが、一騎を改めて絶望させていた。いっそ笑い出したい気分だった。自分はああして我を失ったのに。その理由はたった一つしかないのに。手当をされ、優しく様子を確認され、それだけだった。
そんなのは、駄目だ。それではいけない。
――俺は、俺だけは覚えていなきゃいけない。
誰もがなかったことにするのなら、自分だけは。
「一騎。無理ならやらなくていい。父さんがやる」
まな板を見下ろして立ち尽くすだけの一騎に、背中から父の静かな声がかけられた。気遣いが滲むその口調に、一騎は空虚に笑った。
「できもしないくせに、何言っているんだよ」
「…お前の母さんが死んでから、お前の手が作るものを、俺はずっと食べてきた」
だからなんなのだと思った。父はいつだって言葉が足りていない。
「…一騎。人はみな何かを奪って生きている。他者から命を譲ってもらうことで、生きていける」
そうかと一騎は言っただけだった。
父は、何も知らないからこんなことを言う。分かっていないから言えるのだ。
包丁を握れるはずがない。こんなものを持てるはずがない。自分が手にしていいはずがない。
これは奪うものだ。命あるものから命を奪い、自分たちの糧とする道具だ。
正しく用いればそうだ。でも、
――俺は、間違えた。
自分の右手は、壊すものだ。奪い、傷つけ、破壊するものだ。
木の枝一本で、自分は総士を傷つけたのだ。自分はそんな風に相手を傷つけられる人間なのだ。
そんな人間が、どうして包丁なんて握れるだろう。
この右手は総士から光を奪ったのに、何かを生み出すことなんてできるんだろうか。そんなことが許されるんだろうか。
――いやだ、いやだ、いやだ!
一騎は、心の中で声なき悲鳴を上げた。
胃が捻じ切られるようだった。いっそばらばらに砕けてどこにもいなくなってしまいたかった。
それでも今、この右手を動かすことが、この右手が何をしたのかを刻みつけることが、自分の贖罪なのだと思った。
何度も躊躇いを繰り返してから、一騎は震える手で包丁の柄を握りしめた。ハサミでもない鉛筆でもない。少し間違えれば確実に対象を傷つけるもの。
震えを抑え込むように力を込め、一騎は自分に言いきかせた。
俺は罪深い人間だから。醜い人間だから。
俺はこの右手が何かを奪うこと、奪ったことを忘れちゃいけない。
魚を捌いて、肉を裂いて、野菜を刻んで。
命であったものを切り刻んで血肉とする行為を、
俺は日々繰り返すことで、自分の中に刻むのだ。
それは、一騎が自分にかけた呪いだった。がんじがらめに自分の右腕を、そして心を縛る鎖だった。
束ねたネギに包丁を入れる。ざくり、と立てた音に震えが走り、腹の奥から吐き気がこみ上げる。
一瞬閉じた瞼の裏で赤が散った。血の色。総士の左目から溢れた色。
叫びだしそうになるのを吐き気と共に堪えながら、一騎は再び目を開くとネギを切り続けた。
ざくり、ざくり、ざくり。
包丁を動かすたびに、耳障りな音が響く。細胞を押し潰し、断ち切る音が。
一騎は耳の奥で、聞こえるはずのない生き物の断末魔を聞いた。
***
ようやっと作った味噌汁を少しだけすくって椀に注ぎ、一騎はそれを無言で父に手渡した。
父はあれから黙って一騎の後ろに立ち、ずっと動きを見守っていたが、やはり黙って椀を受け取り、中身を啜ると頷いた。
「…うまいな」
うん、うまいともう一度繰り返す。一騎は呆気にとられた。
面と向かって味付けを褒められることなどほとんどなかったのに、こんなときに寄越される言葉を、どうすればいいのか一騎にはわからなかった。
だが一つ分かったことはあった。
――父さんは俺の父さんだから、この俺が作ったものも食べてくれる。
例え罪深いこの手が何を生み出そうが、父だけはそれを食らってくれるのだ。たとえその一部だけだとしても、この父だけは自分の罪の幾らかをきっとともに負ってくれるのだ。
それが単なる自分の思い込みなのだとしても、その考えは今の一騎の心をほんの僅かだけ掬い上げた。
「父さん、俺明日からまたちゃんと作るから」
「一騎」
ずっとずっと、作るから。今日も、明日も、これからも、ずっとずっと。
手のひらを合わせ、目を閉じて祈りの形を取る。
震える唇を引き結び息を吸いこむと、一騎は再び瞼を押し上げ、自分が作った食事を見つめて口を開いた。
「……いただきます」
- end -
三部作の一。転落。
この右手で己の罪を喰らう。