むかしむかしのこもりうた

総士が熱を出したと一騎が聞いたのは、久方ぶりに島に戻って翌日のことだった。
「まあ、いたって普通の夏風邪ってところだな」
アルヴィスに顔を出した一騎に、剣司は総士の症状をそう教えてくれた。よく食べ、学び、遊んで睡眠し、そして当たり前のように風邪を引く。総士は、そんな普通の子どもの成長過程を経ているのだと一騎は知った。それをちゃんと見守られているのだということも。だが、「ただな……」と剣司は続けて苦笑した。なんでも、真矢が新国連との対談準備に忙しく、ほとんど家に帰れない状況だという。美羽一人に看病を任せるわけにもいかず、総士は遠見医院の病室で過ごしているということだった。美羽は近藤家で世話になっているらしい。
「総士のやつ、治るまでアルヴィスの部屋でしばらく隔離してもらえればいいからなんて言ってたんだけどな、あのなんもない部屋に病気のやつを一人で置いとくなんて、俺がしたくねえんだよ。遠見医院なら、俺もすぐ様子を見てやれるしな」
 剣司は、今ではすっかり遠見医院に拠点を移して日々の診療を行っている。すでに何度か訪れたその場所の安心感を思い出しながら、一騎は頷いた。
「そうだな。……ありがとう、剣司」
 一騎は、とうに総士の保護者ではない。関わる機会も、最低限のものだ。それでも口をついて出た感謝の言葉に、剣司が目を細めた。
「総士の様子、少しお前も見てくか」
 断ることなく頷いたのは、やはり総士のことが心配だったからだった。剣司は、本当に人をよく見ているものだなと一騎は思った。

 少し前に薬を飲んだからまだ寝ているはずだと、案内された病室はカーテンを下ろされて薄暗かった。病室といっても、住居部分を改装したその部屋は、病室に連想する無機質さが無い。そこに置かれたベッドに、総士は目を閉じて横たわっていた。熱が高いのか、薄暗い中でも顔の紅潮と額の汗が見て取れる。少し躊躇ったが、椅子に腰かけ、傍らに置いてあった濡れタオルでそっと汗を拭ってやる。すぐに良くなると聞いてはいても、苦しそうに呼吸をしているのを見れば胸が痛んだ。だが、ここにいたところで一騎にできることなどない。気づかれる前に立ち去ろうと考えたときだった。
「なんで、お前がここにいる……」
 総士が、目を開けて一騎を見ていた。掠れた声が唸るように漏れる。声を出すのも億劫なのだろうに、その視線は逸らすことなく一騎に向けられ、答えを求めている。
「お前が風邪を引いたって、聞いた。でも、もう行くよ」
「逃げるのか」
腰を上げようとした一騎に、総士は言った。見上げるその表情に一騎は目を瞬かせる。熱で朦朧としたその顔は、怒ったようでいて、今にも泣き出しそうにも見えた。
「勝手に来たくせに、勝手にいなくなるな」
 熱に冒された身体のその心の中に、一騎は確かな心細さとさびしさを見つけた。それはこの先、どれほどの時間を経ても、決して拭い去られることはない、この子どもが背負い、そして一騎が背負わせたものだった。普段の総士であれば、自分の意思で跳ね飛ばし、一騎に気取らせることなどなかっただろう。夏風邪が、総士にこんなことを言わせているのだろうと分かっている。それでも一騎は頷いた。
「……逃げないよ。お前さえ良ければ、ここにいる」
 もう一度、傍らに座り直した一騎の服の裾を、ベッドから伸びた手が引っ張った。
「僕が眠るまで、そばにいろ」
 驚きに固まった一騎に構うことなく、すでに微睡みはじめながら子どもは言った。
「何か話してよ、真壁一騎……歌でも、なんでもいい…そうだ、歌が…いいな……勝手にいなくなったら…許さない…ねえ…一騎、歌をうたって――」
――うたを、うたってよかずき。
懐かしい声がふいに響いた気がした。もう失われたはずの、小さな子どもの声。
 舌っ足らずに要求する総士の顔を一騎は暫し見つめていたが、やがて小さく頷いた。
「――ああ、お前の言うとおりにするよ。……総士」
 その声に、目を閉じた子どもが安堵したような笑みを口元に浮かべる。しばらくして、部屋の中には柔らかな優しい歌声がゆっくりと流れ出した。
 ――むかしむかし、せかいのはてに……
 それは、とあるうつくしい島と、いのちの物語を紡ぐ、幼い子どもための歌だった。


「総士くんがね、夢を見たんだって」
 後日、真壁家にやって来た真矢がそう言った。
「熱でよく覚えていないけど、歌を聴いた気がするって。すごく、懐かしい歌」
「そうか」
 器屋の作業場に腰かけ、手のひらでそっと土に触れながら、一騎は目を伏せて静かに微笑んだ。


2022/06/18
BEYOND再録集発行の際のピコ通販用ペーパー

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