かわいいひと
「あ、一騎先輩!」
アルヴィスでの午前の検診が終わって、今日は楽園での仕事もないし、買い物だけして帰ろうと寄った八百屋を出たところで声をかけられた。振り返るとそこには見覚えのある女の子が立っていた。中学三年生で、咲良の教え子の。
「…水鏡か」
「美三香です!」
にこっと花が開くみたいに笑いかけられて、俺もつられて口元が綻んだ。
「美三香」
そう呼び直すと、美三香は「はいっ!」と満面の笑みを浮かべて返事をした。
「おつかいか?」
手にかごを持っているのを見て尋ねると、お手伝いです!と言ってにっこり笑う。
「お母さん、今お昼寝してるから」
「ああ、朝早いもんな」
美三香の母親である有子さんは竜宮島でも名うての漁師だ。潮の流れを読むのが得意らしく、それに取れた魚の美味しい食べ方にも詳しい。そこで思い出した
「そうだ。この前教えてもらったやつ、すごく美味しかった」
「この前…あ、余ったお刺身の食べ方!」
ぽんっと美三香が手を叩く。
「ああ。それ」
時々刺身が余ることがあって、どう食べたら美味しいか楽園で意見を聞いていた時に、ちょうど店に来ていた美三香が、後日「お母さんのレシピです」と言ってウサギのキャラクターがあしらわれたメモ用紙を俺にくれたのだった。
レシピはものすごく簡単だった。刺身の切れ端を、醤油とみりん、日本酒、生姜それから青ネギとミョウガ、たっぷりのゴマを一緒に合えて漬け込むだけ。だけど、これが本当に美味しかった。そのまま食べてもいいし、一晩漬けてもいい。食べる前に卵黄を落とすとまろやかな味わいになる。わさびや柚子胡椒で和えても美味しかった。
父さんも溝口さんもすっかり気に入ってしまって、刺身を食べるときには、わざわざこれを作るために別に取り分けておくようになったくらいだ。
父さんたちは完全に酒のつまみにしてるけど、俺はご飯に乗っけたり、そのまま茶漬けにして食べている。
難を言えば、父さんたちの酒が進みすぎることくらいか。というか、最近溝口さんはうちに入り浸りすぎじゃないだろうか。
でも美味しい食べ方を新しく覚えるのは俺にとっても嬉しいことだった。
「また、何か聞くかもしれない」
「えへへ、ぜひ!うちのお母さんのお魚料理、ほんっとーに美味しいんですよ」
ほんっとーに、のところで胸元で両拳を作り、美三香は力を込めて宣言する。お母さんの作るごはんが大好きだということがたくさん伝わってくる。なんだか眩しくて、思わず目を細めた。
「それは本当に美味しいんだろうな」
「今度食べに来てくださいね」
拳を握ったまま、ぶんぶんと首を縦に振る。
前から思ってたけど、とにかく動きの一つ一つが大きくて元気な子だ。身体を動かすのが大好きで仕方ないんだろうな。昔の俺に似てるって言ってたのは咲良だっけ。身体能力がってことなんだろうけど。
俺も子供の頃は、学校の体育の授業や放課後の海野球くらいじゃ身体を動かし足りなくて、無駄にひとり山のてっぺんまで走って登ったり、朝早く起きて島をぐるぐる駆け回ったりしていた。逆立ちでどこまで歩けるか試したこともある。
確かやってる途中で咲良に見つかってドン引きされ、翌日話を聞いた剣司が俺もやるって言いだして、じゃあ逆立ちでひとり山を登るかってとこまで話が盛り上がったところで、総士に止められた。代わりに校庭逆立ちレースになったんだっけ。結局俺が勝った。勝ったというより、気づいたら横で剣司がへばっていた。
さすがに女の子がそんなことまではしないだろうな。多分。ひとり山を一人でフリークライミングする遠見の例があるから、何とも言えないけど。
美三香の、高く二つに結んだ髪の毛が動くたびにゆらゆら揺れて、ウサギの耳みたいだなって思った。そう思ったら、本当にウサギに見えてくる。
「一騎先輩のごはんも、美三香大好きですよ!」
全身を使ってそう言うものだから、また髪の毛が元気に揺れて、俺はつい吹き出してしまった。拳を口に当てて、俯きながらくっくっと笑っていると、美三香が目を丸くして俺を見ているのに気づいた。「どうした」と尋ねる前に、うわあと美三香が声を上げた。
「一騎先輩が笑ったあ!」
――は?俺が笑うと何かあるのか?
俺は笑っていたのも忘れて、ぽかんと口を開けた。俺の当惑をよそに美三香はすごいすごいとはしゃいでいる。
「あのね、一騎先輩の笑顔ってすごーくレア扱いなんですよ。零央ちゃんも言ってました」
――零央が?
「何を」
「かわいいって」
ぐらっと視界が揺れた
――なんだそれ。俺がかわいい?
微妙すぎるだろ。
「それ、零央か。ほんとに」
「ほんとですよぉ」
「…何かの聞き間違いじゃないのか」
「えー零央ちゃんだけじゃなくてけっこうみんな言ってますよ。クラスメイトの子とか」
――どういうことだ。
もはや呆然としている俺に、美三香はにこにこ笑っている。その顔はどこまでも無邪気だ。
「かわいいっていいじゃないですか!」
「そ、そうか?」
「そうです!つまりね、」
「みんな一騎先輩のことが大好きってことですよ」
美三香があっけらかんと言った。きらきらした笑顔を振りまいて。そして続けた。
「美三香も大好きです!」
「あ…」
なんと返したものか迷う。お前もかわいいな?…違うな。違わないかもしれないけど俺が言ったらなんか怪しくないか。頬に熱が上っているのがわかる。嬉しいというにはいたたまれないし、恥ずかしい。でも、胸の奥がじわじわと熱い。
ぽつぽつと人が行きかう商店街で、大根とネギとニンジンが入った買い物袋をぶら下げたまま立ち尽くした俺は、さんざん考えて、それからやっと口を開いた。
「その…ありがとな」
「えっへへ…零央ちゃんに自慢しちゃお」
「それはちょっと、」
――やめてくれ
「…ってことがあってさ」
総士が俺の目の前で無言でコーヒーを飲んでいる。急遽アルヴィスに泊まることになった父さんのために着替えを届けてから、帰りに総士の部屋に寄った。こちらを向いてデスクチェアに座る総士を見ながら、俺はソファの上で昼間あったことを話した。
総士は俺の話を聞き終えると、11歩の距離にある自販機で買った缶コーヒーを手にしたまま口を開いた。
「お前はかわいいが」
「は?」
想定外の返事に俺は唖然とした。ええと、なんだって? 今なんて言った?
意味がわからないという顔をした俺に、総士は続けた。
「昔から」
「いや、そういうことじゃなくて。総士お前大丈夫か」
「至って正常だ。数値的に心身ともに健康だし、思考に乱れもない。安心しろ」
そうなのか。いや、そうなのか? ええと、つまりどういうことだ。俺がかわいいっていう話は今も続いているのか。総士が? 少し考えてから、おそるおそる確認してみる。
「俺がかわいいって?」
「そうだ」
「…何がだよ」
「なんだ、理由が知りたいのか」
二度ほど瞬きをしてから、総士は首を傾げた。その口調は妙に楽しげだった。俺は反射的に首を振った。
「いやいい。別に知りたくない」
知ってどうするんだ。いたたまれなくなるだけだろ、それ。
俺は単純だから、言われたことをそのまま意識するに決まっている。それで遠見にもばれる。
総士は澄ました顔でコーヒーを啜ると、おもむろに俺に言った。
「理屈じゃないということだ」
もったいぶった口調で告げてから、ゆっくりと繰り返す。
「一騎はかわいい」
総士のはっきりとした声はどうしたって聞き間違いようがなくて、俺は口に手のひらを当てて呻いた。ダメだ。なんだか顔が熱い。昼間の比じゃないくらい熱い。
「お前、からかってるだろ…」
「心外だな。僕はいたって正常だ。一騎は昔からかわいかった。最近言い始めた人間にはわからないだろうが」
おい、待て。さっきも言ってたけど昔からってなんだ。
「お前父さんかよ」
いや父さんだって言わないだろ。ぜったい。想像しようとして失敗した。ありえない。
俺がそう口にすると、総士が不思議そうな顔で首を傾げた。
「何故そこで司令が出てくる。司令は確かに尊敬すべき人だが」
「尊敬…ああ、うん。まあ俺たち部下ってことになるしな。お前にとっても上司なんだもんな」
もはや何の確認なのかもよくわからない俺の言葉に、総士は頷きながら重々しく告げた。
「それだけじゃない。お前を育ててくれた人だ」
俺は反射的に後ろの壁に頭をぶつけそうになった。
だから何目線なんだそれ。まさか俺には父さんが二人いるのか。お前は俺の父さんだったのか。いや俺も…生きてたら総士の親父さんに伝えたいこといっぱいあるけど…でもだからといって総士を育ててくれてありがとう…ってなるだろうか。いや気持ちとしてはあるけど口には出せないぞ。総士、お前ってすごいな。
総士は、最近こっちがびっくりするようなことを真顔で言う。なんか言えるうちに言いたいことは出来るだけ伝えるようにしたいんだという。俺は嬉しいんだか恥ずかしいんだかよくわからない気持ちでいっぱいだ。総士は慣れろ一騎とかいって楽しそうにしている。無理だろ。遠見が最近ツッコミさえしない。暉がものすごい顔をしているときがある。あいつ最近遠見に反応が似てきてる気がする。なんとなくだけど。
肩まで伸びてきた髪の毛に片手を突っ込んでガシガシとかき回す。今さらだけどこんなときばかりはこの長さが鬱陶しい。あーとかうーとか声にならない声をあげている俺を見て、総士がまた言った。
「かわいいな、一騎」
「もうそれやめろよ…罰ゲームをしてる気持ちになってきた」
「僕は嘘は言わない。僕を信じろ一騎」
何を信じろっていうんだ。でも、総士があんまり楽しそうに言うから、俺もそれ以上は何も言えなくなってしまった。
総士は、よく笑う。もともとそういうやつだっていうことを、俺は本当はずっと知っていた。あの一時期、俺が笑うことを自分の中に封じ込めてほとんど忘れてしまったとき、いや俺が総士を傷つけたあの少し前から、総士の笑顔は俺の知らないところで、俺より先に歪んで凍りはじめてしまったんだろう。総士が果たさなければいけなかった役割が、総士に笑うことを許さなかった。俺たちを前線に送り出して戦わせるために、冷徹な指揮官の仮面をはりつけていたときもそうだった。
でも、やっぱり総士は総士だった。島に戻ってきてから、総士は当たり前のように笑うようになった。
総士のすっかり成長したようでいて、昔から変わらないところ。俺は今になってそういうものを見つけられるようになった。
俺の名前を呼ぶときに目を細めるところとか、話が通じないと拗ねたように眉を顰めるところとか、少し不安げな表情を浮かべるところとか。
「一騎」
総士がふっと笑って俺の名前を呼んだ。低くて優しい、春の陽だまりみたいな声だった。
―― 一騎。
記憶の向こうから、幼い総士のまだ声変わりをしていない柔らかな声が響く。その朗らかな笑みが今の総士の顔と声にぴたりと重なった。
きゅっ。
途端に胸が締めつけられた。きゅっ。多分絶対音がした。
うわっ。
心臓に手を当てると、どっくんどっくんと鼓動が打っている。いつもより力強くて早い。なんだこれ。ひとり山を全力で駆け上がった時だって、ここまで心臓が鳴ったことはない。
胸を押さえたまま俯いた俺に、総士が椅子から立ち上がった音がした。驚いたような声がかけられる。
「どうした一騎」
うわ…っ。
顔を上げて総士を見たら、また一つ心臓が跳ねた。きゅっと。
紫がかった総士の柔らかいグレーの目が俺を真っ直ぐ見ていた。このところかけている眼鏡を今は外しているから、その色がよくわかる。眉根は深く寄っていた。
総士が焦っている。俺が心配だと顔に書いてある。 いくらなんでも、そんな表情まであからさまに見せなくてもいいんじゃないか。なんていうか、めちゃくちゃ恥ずかしい。
俺はちっとも治まらない心臓の鼓動を必死に押さえながら、それでもなんでもないように返事をした。
「いやうん。平気だ」
「本当か」
「本当だ。嘘じゃない」
身体に不調はない。気分も悪くない。ただ心臓がうるさいだけだ。いやそれって不調なのか。でも不調というよりもこれは、
「元気すぎる、くらいだ」
「なら、いい」
なんとか返した俺の返事に、総士がまた笑う。気負った様子のまるでない、どこまでも柔らかい笑みだった。その顔にまたぎゅうと締めつけられる感覚があって、それと同時にすとんと胸に落ちるものがあった。
あ、うんなんかわかった。ちょっと、わかったぞ。
自然と声に出していた。
「お前かわいいな」
総士の動きが止まった。ぴたりと。見事な停止ぶりだった。凍りついたってこういうことを言うんだろうな。
缶コーヒーを持って立ち尽くしたまま、口をポカンと開けて俺をまじまじと見ている総士を、俺はやっぱりかわいいと思った。だから思ったことをもう一度繰り返した。するとみるみる総士の顔色が変わっていった。色の白い頬が赤く染まっていく。
さっきまでの落ち着いた態度はどこへ行ったのか、何か言おうとして出来ないのか、ひたすら口をぱくぱくと開閉している。総士がこんなに動揺することって珍しい。
俺は、言った意味が伝わらなかったのかもしれないと思ってもう一度ゆっくり言った。
「総士はかわいい」
総士の身体がぐらりと揺れた。
「おま…っ!」
え、と叫びかけて、我に返ったのか口元を自分で押さえ、ガタンと大きな音を立てて椅子に腰かける。手にしたままの缶コーヒーがめきっと音を立てた。中身は大丈夫なんだろうか。
数度深呼吸を繰り返したあとに、総士は何故か俺を恨めし気な眼差しで見上げ、腹の底から絞り出すような声で言った。
「お前のそれは…禁句だ」
――なんだよそれ。
俺は小さく憤慨した。
お前が俺に言うのは良くて、俺が駄目なのは不公平だろ。理屈じゃないって言ったのは、総士のくせに。
でもそんな不満と反発を吹っ飛ばすくらいに、総士の反応は俺の心を揺さぶった。ほんの少しだけ意趣返しができた気分だったし、口にすることで心から自分がそう思っていることに納得した。
ついで腹の底からこみ上げてきたのは笑いだった。くっと思わず声が洩れる。
「かわいい、総士」
――『大好きってことですよ』
ああ、本当にそうだな。そういうことなんだ。
総士はとうとう額を押さえたまま机に突っ伏して、俺はそんな総士がやっぱりかわいくて、声を上げて笑い出した。
- end -
カズキは「かわいい」を理解した!
そしていろんなものに「かわいい」を連発しはじめる真壁。
「遠見先輩…なんか一騎先輩、この前マリネ用のタコに向かって『かわいい』って言ってましたけど、あれどうしたんです…」
俺、すげえ怖かったんですけど。
「一騎君、タコ大好きだもんねえ」