ボレアリオス星の王子さま



【プロローグ】

「駄目だな……」
 そう呟くと、一騎は身体に巻きつけていた砂避けのマントで全身を頭から包みこみ、周囲より少しだけ窪んだ砂の上に身体を丸めて転がった。
 突如おそった激しい砂嵐は、一騎がいた隊列を飲み込み、引き裂き、バラバラにして、気づいたときには一人きりだった。呼吸もままならず、身体に打ちつける砂の痛みに耐えながらふらふらと彷徨い歩き、運よく岩陰に隠れることはできたものの、それ以上動くことは叶わなかった。
 いっそ、このまま砂に埋もれていなくなってしまうのもいいかもしれないとちらりと考える。
 オオオオと、唸るような声を上げて砂が啼いている。ときおりそれは悲鳴を思わせる轟音となって、一騎の耳を打ち叩いた。
 嵐はいまだに止む気配がない。一度砂嵐がはじまると、しばらく収まらないのだとは誰に教えてもらったのだったか。風が吹きはじめて、どれだけの時間がたったのかもわからなかった。一緒にいた人たちはいったいどうしただろう。周りは砂が吹きすさぶばかりで、何がどうなっているのかまるで見当もつかない。こうなると、目が見えていても見えていなくても同じだなと思う。
 どんなに目を凝らしても、砂に覆われた空は何も映さない。暗く重たく、まるで闇に呑み込まれたように感じる。
 一騎は諦めて、すべてに背を向けるように目を閉じた。
 本当の闇へと、意識が引きずり込まれていく。
 もとより、何かを見ようとすることを一騎はとっくに止めていた。あの日、総士を失ったときから。




【1】


 一騎が故郷の島を出て、もう一年が過ぎようとしていた。
 一騎が育ったのは、海にぽつんとに浮かぶ小さな小さな島だ。島の名前を竜宮島という。人口はわずか二千人ほど。漁業とほんの少しの農業が、島の人間の生活を支えている。
 竜宮島は、孤立した島だ。幾つかの小島が本島に寄り添うように点在する他は、他に島は見あたらない。島に流れる時間は潮流のように緩やかで、生活もまた穏やかで何もない。古い木造建築が多数を占め、急な斜面に張りつくように家々が並ぶ。移動は急勾配の坂と階段を使用しなければならなかったが、それは島で暮らす人々にとっては当たり前のことだった。
 人口の少なさゆえに、島にある学校は小学校から高校までが同じ敷地の同じ建物にある。中学校の隣のクラスが高校だ。中学を卒業した先輩たちのうち、何人かは島の暮らしに飽きて、船に乗って島を出た。あるいは必要に迫られて島の外を求めた。島民のなかにも、ときどき島から出るものがいた。誰か見あたらなくなると、あの人は島から出たんだよと教えられた。そして、島を出た人間は誰一人帰ってこなかった。きっと島の外で幸せに暮らしているのだろうと、漠然と信じているしかなかった。
 島と外を繋ぐのは船だけだ。島の食生活を支える要は漁業だったから、漁師を生業としている家は多い。島には漁港が一つだけある。そこで新鮮な魚が引き揚げられ、島の商店や料理屋、各家庭へ直接届く。
 そして、多くの家では自分の家の船を持っている。子ども達は幼い頃から、自分で船を漕ぐことを覚える。沖合に出て、ボートレースをして遊んだりもする。一騎は、島の子ども達の中で、誰よりも早くボートを漕ぐことができた。
櫂で小さなボートを動かしながら、この船でどこまで行くことができるのだろうと、一騎は考えたことがある。だが、結局船が進み続けて、どこに辿り着くのかを知ることはなかった。大人たちでさえ知らなかった。知っているのは島を出たことのある人間だけだ。彼らは帰ってこない。だから謎は謎のままだった。
 いや、謎を知る人間が一人いた。
 島の外から戻る人などいない中で、ただ総士だけが特別だった。皆城総士。一騎の幼馴染み。島を統括する皆城家の一人息子であり、一騎より三歳年上の彼は、物心つくころから一騎のそばにいた。亜麻色の髪を背中まで長く伸ばし、理知的な面差しと紫がかった灰色の双眸が印象的だった。一騎が持つものとはまるで違う色。優しい、どこか憂いを帯びた瞳が、一騎は好きだった。
 総士の二つの瞳のうち、左目はほとんど光を映さない。立てに切り裂くようにして走る傷のせいだ。それは、一騎がつけた傷だった。そして、その傷は一騎と総士の魂を繋ぐ枷であり、絆のようなものだった。
 総士は、島と外を繋ぐ船に、唯一乗ることを許された存在だった。その船には、島から出ることを望む者も同乗することができる。だが、島の外へと出かけ、戻ってくるのは総士だけだった。島に戻ってきた船には、いつも総士しか乗っていなかった。
 船は、ほぼ半年に一度外へと出る。十二月と七月。船が出るのは夜明け前だ。島の皆で灯籠を手に携え、浜に集って船と、それに乗る者たちを送る。太陽が昇る頃には、船の姿は見えなくなる。そうして一ヶ月たつと、船は戻ってきた。総士を乗せて。総士が十二歳を過ぎたころから、それが島の…一騎の知る習慣だった。総士の年齢は、そこに理由をもたなかった。総士が船に乗る前はどうだったか…一騎には思い出せない。
 一騎は、総士が船で旅立つ間、総士に会えないことをひどく悲しんだが、それが総士の役目なのだと言われれば、従うよりほかはなかった。それになにより、総士自身が船に乗ることを受け入れていた。
 船が島を発ったあと、一騎は、学校と家の用事が終わると、毎日島の浦辺にある常夜灯に走り、石段のところに座って総士の帰りを待った。総士を待つ一騎の様子は、島の人間にとっても見慣れたものだった。幼い頃から総士に懐く一騎と、一騎を常にそばに置く総士。そうしてずっと一緒にいる彼らを、島は一対のように扱った。父も、そのことでなにか口にしたことはない。それが不思議だともおかしいとも思ったことはない。それはあるべくして正しい、当然のことだった。
 この場所にある常夜灯は、古く頑丈なものだ。灯籠にはいつも火が絶やされることなく燃えている。ちらちらと揺れる炎は、海からも見えるのだという。漁師の男にそう聞いた。だから、島で年に一度行われる灯籠流しも、この常夜灯のそばで行うのだ。
――わたしはここよ。ここにいるのよ。
――ここであなたを待っている。ずっとずっと、ずっと。
 炎は絶えず揺れながら、海へとそう呼びかけている。
 だから、きっと、島に戻ってくる総士にも、この灯籠の火が見えているのに違いない。総士に、尋ねたことはなかったけれど、一騎はそう信じていた。
 日が落ちて海が闇に覆われはじめてからやっと腰を上げ、家に戻るのが一騎の習慣だった。
 船が島を出てから約一ヶ月がたち、島の見張り組から船影が見えたと声が上がると、一騎は真っ先に港に駆けていった。声を限りに名前を呼ぶ。
「総士!」
 そして、総士は自分を出迎える一騎の姿を認めるや、必ず嬉しそうに微笑んだ。島に足を下ろすなり飛びついてきた一騎の勢いに少しだけ蹈鞴をふみながら、それでもその身体をしっかり抱きとめると、一騎の手を取り、自分の左目に導いて傷をなぞらせた。自分はここだと。ここにいると教えるように。
「ただいま、一騎」
総士の声に、一騎もまた頷き、答えるのだった。
「お帰り、総士」
 総士は、島の外で見たものについて一言も語らなかった。大人たちからも口止めされているのだろうと一騎は考えていた。それでも一騎は構わなかった。総士が今ここにいて、そして何度島の向こうにと必ず一騎のところへ帰ってくるのなら。
『一騎は島の外に出たいと思うか?』
 そう、総士が尋ねたのは、いつのときだっただろう。
『一騎は、島の外に何があると思う?』
 二人手を繋いで、ひとり山の頂上から海を眺めていた。一騎の目に見えるのは、蒼い空と、同じように青い海だった。その狭間、二つが溶けあった境界に、一本の深い色の線が見える。その先に何があるのかなど、想像もできなかった。けれど、不意に呼びかけられているように感じることがあるのだ。その声なき声は、あの地平線を越えた向こうに、なにか新しい世界が広がっているのではないかと一騎に思わせる。こことは違う、別の世界が。
 と思ったところで、一騎は目を伏せた。総士にはこの感情を悟られてはいけないような気がした。総士には。一騎は俯いたまま、小さく答えた。
『わからない』と。
 一騎にとって、総士は絶対だった。一騎には父がいる。今はもういないが母もいた。だが、一騎には総士が一番大事だった。一騎にとって、竜宮島が総士だった。
『俺は、ここにいるよ』
 一騎が最後にそう答えたとき、総士は静かに微笑んだ。そして小さくありがとうと言った。
 それは、ひどく海が荒れた晩だった。夜の海岸に、一騎と総士は立っていた。
 年が明けて二週間がたった頃。総士はその翌日にまた船に乗って発つ予定になっていた。総士は十六歳を迎えたばかり。一騎は夏に十三歳になっていた。
 オオオオという唸り声を上げて、波が荒れ狂う。岩塊に叩きつけられた飛沫が細かく砕け、高く跳ね上がって一騎と総士を濡らした。
「僕は、また行かなくちゃいけない。今度こそ、長く」
 その言葉に一騎は全身を打たれたかのように震えた。何故と考える間もなく叫んだ。
「総士、いやだ。行くな!」
 海がうねる。ざんっという音とともに、一際高く水飛沫が上がった。
「一騎、僕は」
「総士?」
「それでも、お前のいるところに戻る……必ず」
「総士っ!」
 あれほど荒れ狂っていた海が、不意に凪いだ。そして一騎の目の前から、総士の姿は消えていた。まるで海に飲み込まれてしまったかのように。
「総士……っ、総士!?」
 一騎は叫んだ。だが、返る声はない。一騎は総士を探し、その名前を呼び続けたが、結局総士の姿を見つけることはできなかった。
 その晩を境に、総士は島から消えた。どこにもいなくなってしまった。一騎の前から消えてしまった。
 不思議なことに、総士が乗るはずだった船もその姿を消していた。翌日、日が昇るまで、誰もそのことに気づかなかった。何の音も気配もしなかったという。見張りも、鳥の影ひとつ見なかったと証言した。総士がどのようにして一人きりで船ごと姿を消したのか、島の誰にもわからなかった。
 一騎は泣いた。泣いて、泣いて、涙を流し続け、どれだけぬぐってもあふれる涙は止まらず、ようやっと涙が止まったとき、一騎の目からは光が消えていた。治療の甲斐あって、わずかに光を取り戻しはしたが、視力そのものが極端に低下し、人も物もぼやけた影でしかなくなった。色彩は失われ、一騎にはもう空の青も、海の青も分からない。顔を極端に近づければ、まだ文字を確認することはできたが、それは苦痛と苦労を伴った。
 一騎の目を診察した、島唯一の医師である遠見千鶴は、悲し気に首を振った。一騎にはその様子は見えなかったが、気配で察していた。
 すべてはのっぺりとぼやけた灰色で、かつて総士と見つめた空と海の境界線がどこにあるのか、一騎は判別することができなかった。
 それでも、一騎は毎日、島の常夜灯のところに立った。日が暮れ、常夜灯に灯りがともるまで。
 胸のうちで、一騎は海にむかって叫んでいた。総士を返せと。もはや一騎にとって、海は総士を奪った存在だった。いや、ずっと前からそうだった。海は総士を向こうへと連れていく。そうして今度こそ飲み込んでしまった。
――返せ、返せ。総士を返せ。
 同時に、海の向こうにいるはずの総士に向かって呼びかけていた。
――総士、総士。島はここだ、お前の帰る場所はここだ、俺はここにいる。
果ての見えない水平線に向かって、総士に向かって呼び続けた。だが、一騎の声に答えるものは、なにもなかった。一騎の怒りと嘆きを、ただ海はのみこむだけだった。
 一ヶ月、二ヶ月、半年が経ち、一年が過ぎた。それでも総士は戻らず、二年が経った。
 総士がいなくなってからも、島を出る船はあった。島の何人かが船に乗り、島を出て行った。そしてどの船も戻ってこなかった。島を出て、戻ってくることのできる船は、総士の乗っていたあの一艘きりだったからだ。総士と一緒に船も消えてしまった以上、誰も島を出て帰ってくることはできない。船を新しく建造する意見もあったが、そもそも乗り手が存在しない。結局先延ばしにされたまま、時間だけが過ぎて行った。
 総士が消えたのと同じ日、一騎は決めた。ここに…常夜灯に立つのはもう終わりにしよう。待つのではなく、自分から総士を探しに行こうと。島の外で、今も必ずあいつは生きている。帰り方を忘れてしまったのか、帰れない事情があるのかそれはわからない。総士は、一騎が帰る場所だと言った。ならばそれは、自分がどこにいようとも同じことではないのかと。
 一騎は、どうしても島の外に出たかった。
 大切な幼馴染が…総士が一騎の前から姿を消して、もう二年もたったのだ。彼はいつだって一騎に待っていろと告げた。お前のいる場所に必ず帰るからと。だから一騎は待ち続けたのだ。それでも戻らないというのなら、一騎に出来るのはひとつだけだ。
 一騎は、今度こそ自分から彼の手を掴みに行きたかった。どこかで苦しんでいるのなら助けに行きたかった。
 それに。
 ――この目はいつか本当に見えなくなる。
 一騎はそのことを自覚していた。そして焦っていた。まだ、少しでも目が効くうちに、彼の姿を見つけ出したい。それが朧な影でもいい。彼に辿りつきたい。会いたい。…総士に。
 島を出ると口にした時、周囲はそれは強く反対した。出て行ってどうなるのだと、島にいることが最善なのではないのかと繰り返し一騎を諭した。
 彼らは一騎のことを心配していた。その身体と、そして目のことを。一騎の視界はほとんど色を失っている。一時は完全に失明したと思われていた目だ。それが渾身の治療の甲斐があって、幾らかは回復した。だが、それも一時しのぎでしかないと一騎には分かっていた。
 燻る思いを抱えながら、常夜灯からの家路を歩いていたときだった。自分を待ちうけるように佇む影に気づいて、一騎は足を止めた。相手の気配を探り、首を傾げて尋ねる。
「甲洋か?」
「一騎」
 名前を呼ばれ、一騎は自分の判断が正しかったことを知る。視力をほぼ失ってから、一騎は周囲の気配を探ることがうまくなった。もっとも、人の心理を理解することはちっとも上達しなかったが。
 一騎に向かって、甲洋は尋ねた。
「島を出たいのか、一騎」
 そう問われ、そういえばと一騎は思い出した。島を出て戻ってきた人間はいない。総士以外に。だが、その例外がもう一人いた。甲洋だ。甲洋は、かつて一度島を出ようとしたことのある人間だった。そして結局戻ってきた。
「甲洋は……一度だけ船に乗ったんだよな」
「ああ」
 そのときは、ひどく海が荒れて、結局向こうに辿りつくことができなかったのだという。
 甲洋は、ずっと島の外に出たいと言っていた。だから、またやがては島の外に行くことを選ぶだろうと思っていたが、帰ってきた甲洋は、意外にも再びの離島を口にすることはなかった。
 一騎は口を開いた。
「出たい。俺も、島の外に」
「総士を探しに行くのか」
「うん」
 一騎は頷き、うつむいた。また止められるのかと思った。ほかの多くの大人達と同様に。だが、続いて聞こえてきたのは、思いの外穏やかで優しい声だった。
「外に出る方法、知ってるのか?」
 ああ、そうだ。島を出る方法を一騎はまるで知らないのだった。ただ船に乗ればいい。そう思っていた。甲洋は笑ったようだった。どこか悲しげで、切ない空気を漂わせていた。
「漁船でもなんでもいい。お前が操縦できる船を見繕うんだ。そしてそれに朝早く乗る。太陽が東から上る前に」
「朝早く。夜明け前」
「そう。そしてそのまま西を目指せ。太陽が真上にのぼりそして沈む頃に、やがて金色の明るく輝く星が見えてくる。かつて豊かな水をたたえ、楽園があると思われていた星だよ。その星を十一回見たあとに、お前の行きたい場所に辿りつく。……今の一騎の目じゃ、見えないだろうけど」
 外の世界には十日以上かかるのだと、初めて知った。遠いとも思ったし、近いとも思った。視力が衰えた自分が、どこまで一人の航海をすることができるのか分からないが、太陽が沈む方向を目指すというのなら、出来るような気がした。
「一騎はただ西を目指すだけでいい。あとは潮と船がお前を向こうに連れて行ってくれるよ」
 海が荒れて、島に戻されない限りはと甲洋はつけくわえた。
「船は片道だ。帰りの船はきっと見つからないだろう。帰り道は総士しか知らない。総士を見つけられなければ、お前もきっと戻ってこられないよ」
「それでもいい。かまわない」
「一騎は、総士はまだどこかにいるって、信じてるんだな」
「当たり前だろ」
 間髪入れずに答えた一騎に、甲洋は笑った。
「……俺は行けなかった。多分、まだ行くときじゃなかったんだ。だから、俺はその時が来るまでまだ島にいるよ」
「甲洋?」
 一騎には甲洋の顔が見えない。その表情も。だが悲しげな声だった。それでいて、すべてを受け入れている声だった。
「太陽が昇る前だよ、一騎。太陽が昇ってからでは、島の外には出られない。みんなそうして島を出た。お前が総士を見つけられることを願ってるよ」
 ――戻ってこい、一騎。
「ありがとう、甲洋」
 そう告げると、甲洋の気配は柔らかくほどけた。そして、足音とともに消えた。
 そしてある日の夜明け前を選び、一騎は島を出ることにした。少しずつ準備を整え、島を出る日を待った。太陽が昇る二時間も前に家をそっと抜け出し、島唯一の小さな港に向かった。
 だが、誰にも見つからないと思っていたそこに、もう一人の幼馴染がいた。幼い頃からずっと馴染んだその気配を、一騎は目を凝らすことなく悟った。
「とおみ……」
「一騎くん」
 おはよ、とまるでいつもと変わらぬ調子で、遠見は一騎に呼びかけた。一騎が遠見真矢と出会うのは、いつも学校の登校時だった。そのときの挨拶とまったく同じだった。
「なんで……」
「一騎くんは、きっとこの時間にここを通るだろうって思ったの」
 思えばいつだって彼女はそうだった。彼女に隠し事ができるだなんて、どうして思えたのだろう。
 彼女は一騎に笑いかけ、手を差し出した。
「なんだ……?」
「これ、真壁のおじさまから」
 暮れる夕日のような色の髪を煌めかせて、彼女は小さな包みを手渡してきた。
「とうさんが?」
 驚いて立ちつくした一騎に、遠見は微笑んだ。一騎は包みを抱えてうつむいた。昨日の夕飯のあと、無言で食事を口に運んでいた父の姿を、そのあといつまでも作業場で轆轤を回していた背中を思い出した。父は、すべて知っていた。知った上で一騎の行動を許してくれたのだろう。自分がひどい勝手で飛び出してきた自覚はあった。周りの助言も耳に入れず、男手ひとつで育ててくれた父さえ突き放して島を出ようとする自分に、もう帰るところなどないと思っていたのに。
 紡ぐ言葉もなく立ちつくしていると、ふっと笑う気配があった。遠見とともにいるもう一人の存在についても、一騎は最初から認識していた。朝焼けのような鮮やかな髪色を持つ、音楽の名前を持つ少女。
「…ショコラ、行け」
 その声とともに、ワォンと短い咆え声がして、一騎の足になにかがまとわりついてきた。
「駄目だ……っ、駄目だカノン!」
 一騎はとっさに叫んだ。絶対に駄目だ。
「ショコラは、駄目だ……!」
ショコラを……カノンの……島の大切な存在をつれていくわけにはいかない。だって、本当にここに戻ってこれるかなどわからないのだ。一騎は、総士を見つけずに島に戻るつもりはなかった。見つかるまで探し続けるつもりだった。もし見つからなければ、島にも帰らないつもりだった。そういう、覚悟だった。
 だが、カノンは「いいんだ」とそう言っただけだった。彼女が穏やかに微笑んでこちらを見ているのが、一騎には感じられた。
「これが、私からの贈り物だ。餞別だ。ショコラが一騎の目になってくれる。向こうの場所ではきっと必要だ」
 ねえ、一騎くんと、遠見の声がした。傷ついた心を抱きとめて労わるような、優しく慈愛に満ちた声だった。
「必ず二人で帰ってきてね。私が……私たちみんなが、代わりにここで待ってるからね。絶対だよ」
 ――絶対に、帰ってくるんだよ。
「うん…行ってくる」
 真矢とカノンの声を背中にして、一騎はショコラと一緒に船に乗った。船の操縦の仕方は心得ている。
 船の中で、父が寄越したという包みを開いた。中にはいびつな形をしたやたら大きなおむすびが二つ入っていた。それと不恰好に切り分けられたたくあんが三切れ。おむすびの米は芯が残っていて硬く、塩気も具も何もない 米の味だけがする白いかたまりだった。 ぎゅうぎゅうと力まかせに握られたおむすびは、かじりつくたびに硬い米粒がぽろぽろと落ちた。それを一騎は一粒残さず食べた。工房で轆轤を回す父の背中が浮かんだ。おむすびには父の手のひらのぬくもりがあった。必ず生きて戻れと言われた気がした。
 ――俺、ちゃんと帰るよ。あいつと一緒に。
 一騎は必ず約束を守ると誓った。甲洋に言われたとおり、西の方角を目指し続けた。そうして船に揺られて十一日が過ぎた頃、船はゆっくりと浅瀬に乗り上げた。やがて広大な大地に足を下ろした。



【2】


 一騎が船から下りると、乗ってきた船は独りでに岸を離れた。ゆっくりと影は遠ざかり、ぼやけて見えなくなった。まるで、役目を終えたとでもいうかのようだった。これで帰りの足はなくなった。一騎は先へと進むしかなかった。
 ショコラの案内を頼りに、浜沿いと思われる場所をただ進む。島の外の様子を聞いたことなどなかった。でも、外に行く人間がいるのだから、誰かしら生活をしているのだろう。昔は、大きな島にたくさんの人が住んでいたという。きっと、この場所もそんな島の一つのはずだ。歩いていれば、どこかの港に辿り着くだろうと考えた。それに、視力のおぼつかない自分と違い、ショコラの方が行くべき場所をよくわかっているようだった。
 もしかして、実際には人などいないのではないかと疑いはじめていたが、それは杞憂だった。しばらく歩き続けると人が多く集まる場所にたどり着いた。どこかの港のようだった。気配を探るにそこは活気に満ちていた。島の人口に比べても、今まで一騎が味わったことのないほどの人で溢れている。ここに辿り着くまで感じていた潮の臭いが、人の体臭と埃っぽいくすんだ香りに紛れていく。香草のような、なにかスパイスのような嗅ぎ馴れない香り。ああ、本当に違う世界に来たのだと、一騎は知った。
 雑多に賑わう港の人混みに紛れながら、とりあえず街へ向かうことにした。人がいるところへ行けば、総士のことを知る人がいるかもしれない。
 だが、当然ながら、頼る者も当てもない一騎はすぐに彷徨う羽目になった。
 視界がほとんど効かない身では、生計を立てることさえ難しい。それでも持ち前の身体能力で降りかかる危険を何とか凌ぎながら、一騎は街から街を移動し、総士の消息を尋ねつづけた。
 だが、誰一人として、亜麻色の長い髪と、左目を縦に走る傷跡をもった少年の姿を知る者も、見かけたことがある者もいなかった。
 必死に辿り着いた島の外は砂に満ちていた。そこは砂の世界だった。砂が吹かない日はなく、一騎は砂がすぐに嫌いになった。細かな粒子顔を叩き、はりつき、服のあちこちから身体に入りこむ。目は乾いて、砂が入るたびに涙がこぼれ、口の中は砂利でざらついた。進む足を砂が掬い取るようにまとわりつき、一日の終わりには靴の中も砂で重たくなった。ここには水の気配がどこにもない。水は貴重で、緑もまた貴重だった。
 街を彷徨いながら渡り歩いていると、懐かしい顔に会うことがあった。それは、かつて竜宮島を出た人たちだった。
「一騎か?」
 その声を聞いたとき、一騎は本当に驚いた。快活で、すこしおどけた響きを持つ特徴的な声を、一騎はよく覚えていた。思わず大きな声を上げて、相手の名前を呼んだ。
「道生さん?」
「お前……どうしてここに」
 彼……日野道生もひどく驚いたようだった。一騎は、自分が島を出ることになった理由を道生に話した。道生はいったん唸ったあと、案じるように一騎に言った。
「お前、島にちゃんと戻るつもりなんだろうな」
「それは」
 アォン! と一騎の足元でショコラが声を上げた。
「なんだ、ショコラも連れて来てたのか。ああ、それなら安心だな」
 ショコラを見失うなよと、屈んでショコラの頭を撫でながら道生は言う。
「こいつをお前につけたのはカノンだな」
「はい」
「弓子や……美羽は元気にしてるか」
 懐かしむような声だった。
「はい」
 道生が島を出たのは、美羽がまだ妻である弓子のお腹の中にいるときだ。誕生を見ることができないまま、道生は島を出た。やむに已まれぬ事情だったとは聞いている。さぞ気がかりだっただろう。
「俺はまだ会いにいくことができないが……いつかは必ず家族三人で暮らすつもりだ。俺は……そのときを待ってる」
「美羽ちゃんにも、弓子さんにも、そう伝えます」
 一騎がそう答えると、大きな手のひらで髪の毛をかき回された。加減もなくぐしゃぐしゃと髪を乱される。
「道生さん!」
 一騎は抗議したが、道生は笑っただけだった。最後にぽんぽんとあやすように撫でられた手のひらは、とてもあたたかかった。
「お前が信じる道を行け。大丈夫だ。お前は見失わない」
 ちゃんと、見つけられるさと最後にそう告げられた。そして。
「一騎くん」
 次に訪れた場所のおそらく街角で、鈴を振るような声がした。一騎は、その声を聞いたとき、無性に泣き出したくなった。胸がしめつけられて、呼吸が苦しくなった。
「……翔子」
 喘ぐように洩らした名前に、目の前の少女がこぼれるような笑みを浮かべたのを一騎は感じた
 肝臓が正しい形をしていなかったために、全身を貫く苦痛と日々闘いながら生きていた少女は、今、一騎に駆け寄ってくることが可能なほどに、健康を回復させたようだった。島の外でなければ、適切な治療は受けられないと言われ、覚悟を決めて一人で島の外に渡ったのが羽佐間翔子だった。
「翔子……元気そうだな」
「そうなの。この場所が、わたしにはあってるみたい。お肉もね、たくさん食べれるの。こんなに大きなお肉よ」
 翔子は一騎の両手をとって、大きくぐるりと回してみせた。
「こんな大きなの、お腹が苦しくなっちゃうだろ」
 思わず一騎が笑うと、翔子も笑った。
「そう。苦しくなっちゃう。でもね、それ以上にしあわせなの」
 苦しいくらい、わたし幸せなのと翔子は微笑んだ。
「だから一騎くんもしあわせを探して。辿り着いて」
 私はそれを信じているからと彼女は言った。
 それからも街を尋ね回り、何人もの知り合いに会うこともできた。それなのに、総士には出会えなかった。総士の姿だけは、その痕跡さえ掴むことができなかった。
 落ち込む一騎に、やはり途中で出会った小楯衛が慰めるように肩を叩いた。
「大丈夫だよ。総士は特別だもの」
「特別?」
「総士はわかりにくいけど、仲間想いのいいやつだから。俺たちみんなそのことを知ってる。そんな総士だから一騎も傍にいたいって思ってるんでしょ。それに総士は理由もなく一騎を置いていったりしない。総士はちゃんといるよ」
 ちゃんといる。だから信じて、と衛はいった。衛こそ、誰よりも仲間想いの少年だった。彼が言うのならそうなのだろうと一騎は思った。衛はもう一度一騎の肩を叩いて笑った。
「島に戻れたら、剣司と姉御によろしくね」


 あるとき、砂漠を行く部隊に拾われた。ペルセウス隊と名乗る彼らは、沙漠の町々へ物資を運んでは生計を立てる人たちだった。彼らは、砂を渡るのが仕事らしかった。一つの場所に留まらず、砂の海を旅し続けるのだ。
 その一団の中に、幼い少女もいることに一騎は驚いた。身長や声の高さから予想するに、年は十二歳ほどだろうか。癖毛を長く伸ばし、こちらを見透かすような不思議な眼差しを投げかけてくる少女だった。
 旅を続ける生活は辛くはないのかと一騎が尋ねると、すべてを悟っているような、それでいて夢を見るような溶けた灰色の眼差しで、彼女は答えた。
「いつか、辿りつく場所があるって信じているんです。そのために私たちは歩き続けます」
「どこにいくんだ」
「新天地に」
少女は微笑んだ。エメリー・アーモンドと、彼女は名乗った。一騎は目を瞬かせた。
「俺は君の名を知ってる」
 そうだ、道生と弓子の娘、日野美羽がずっと口にしている名だ。彼女は、島の外に友達がいるのといつも口にしていた。きっと彼女がそうなのだろう。
「エメリー……君は美羽ちゃんの友達だ」
 一騎がそういうと、エメリーは花が綻ぶような鮮やかな笑みを浮かべた。
「はい、そうです。美羽の声はずっと私に届いている。だから私は旅を続けられるんです。たどり着いた場所で、いつか美羽と出会って、そしていっぱいおはなしをするのが私の願いです」
 きっとそれはかなうのだろうと一騎は思った。
 ペルセウス隊の人たちは一騎の境遇に同情し、一団に加えてくれた上に、仕事もくれた。一騎は彼らの食事当番になった。陽気で人情に厚い彼らとの旅は楽しかった。彼らは、一騎の話に耳を傾け、そして旅の目的を知って励ましてくれた。必ず探し人に会えると言ってくれた。
 砂嵐に襲われたのは、彼らと旅をするようになって、二ヶ月が過ぎようかというときだった。
 逃げろと、誰かが叫んだのを覚えている。
 激しく吹きつける砂の中で、一騎はショコラの名前を呼んだ。今、ショコラだけは失ってはいけないと思った。自分が戻れなくても、ショコラだけは島に返してやりたかった。それでも掴んだはずの手は虚しく空を掻いた。砂に呑まれながら、一騎は繰り返し声を上げた。必死に名前を呼んだと思う。ショコラと、そして何より大切な名前。一騎の命綱の名前。けれど、砂は一騎の声さえ掻き消し、飲み込んでしまった。
 嵐の中、一騎は、今度こそ一人になった。誰もいない、砂の世界で。


【3】


 背負っていた荷物は、なんとか身体から引き離されずに、死守することができたようだった。荷物の中には、一人分の水と食料が入っている。とはいってもせいぜいが残り五日分。それが尽きれば一騎は飢えと渇きで死ぬだろう。それまでにどこか街に辿りつければいいけれど、視界がほぼきかない一騎が、どんなに優れた運動神経と感覚を持っているとしても、ショコラやほかの人間の案内なしに、どこかの街へ辿りつける可能性は低かった。
 ショコラのことを思い、一騎は唇を噛んだ。ショコラを託してくれたカノンの姿が浮かぶ。遠見も、そして父のことも。
 他の隊員たちともきっとはぐれてしまっただろう。この砂漠の土地で、一度道を見失えば、見つけてもらうことは難しい。それに、所詮一騎はよそ者でしかない。多大な犠牲を払ってまで、彼らが自分を探してくれる可能性は低いだろう。むしろそんなことがあってはならない。彼らには世話になった。これ以上足を引っ張る真似はごめんだった。
 ごろりと身体を丸めながら思う。
 このまま総士に会えないまま死んでいくのは嫌だった。彼が言ったように島で待っているべきだったのか。でも、一騎にはただ待っていることなどできなかった。信じていなかったわけではない。ただ今度は、今度こそは自分から見つけに行こうと、そう思っただけなのだ。心が、魂が叫んでいた。すぐにでも海の向こうへ駆け出そうとする身体を止めることなんてできなかった。なぜ今度こそと思ったのか、理由はわからない。
 一騎は折りたたんだ足をぎゅっと引き寄せながら、強く目を閉じた。今は何も考えたくなかった。彼がいないことも、自分もまたいなくなるかもしれないことも。ただ悲しかった。
 ――総士……総士。
懐かしい、何より大切な名前を呼びながら、いつしか一騎は眠りに落ちていった。


 ふいに名前を呼ばれたような気がして、一騎は瞬きをくり返しながら瞼を開けた。衰えた瞳は、周囲をぼんやりとしか移さないが、眠りに落ちたときよりも、世界が明るいことに気づく。なにより、ゴオゴオと鳴り続けていた砂の唸り声がどこかに消えている。辺りは静寂を取り戻していた。
 そして、一騎のそばには、誰かが屈みこんでいるようだった。黒い影が手の届くところにいる。
 ――総士……?
 なぜ、そう思ったのかわからない。眠っているうちに、一騎はここが砂の地であることさえすっかり忘れていた。夢現に、懐かしい場所に帰ってきた気さえしていた。まだ総士が島にいたころの。
 ゆっくりと唇を動かす。
「そ……」
 懐かしい名前を呼ぶために、口が動きかけたときだった。

「ねえ、空の絵を描いて!」

 突如響いた声に一気に意識を覚醒させられ、一騎は身を横たえていた状態から飛び起きた。眠っている間に積もった砂が身体からさらさらと落ちていくが、一騎はそれを払うどころではなかった。
 ――なんだ? 誰だ?
 頭が混乱している。まるで聞き覚えのない声だ。岩陰にいるために光が遮られ、一騎からは相手の姿もよく見えない。目に映るのは黒い靄のような影だけだ。その影を凝らすように見つめて、一騎は落胆した。
 ――違う…。
 とっさに一騎の口をついて出たのは、非難の声だった。
「なんでお前なんだ、なんで……っ!!」
 ――総士じゃない……!
 一瞬でも彼なのではないかと思ってしまったことが悲しくて悔しくて、一騎は大きく叫んだあと、ぎゅっと瞼を握ってうつむいた。自分がとんでもなく理不尽で、身勝手なことを口走った自覚はあった。だがどうしろというのだ。ここは砂の世界の真ん中で、総士はおらず、かわりに得体の知れない存在がいる。
目蓋が熱を持ち、目じりがじわりと濡れたときだった。
「ごめん、泣かないで」
 やはり聞き覚えのない声が、途方に暮れたように言った。まるで迷子の子どものような、幼さの残る声だ。青年ではないだろう。おそらく少年だ。その声は更に続けた。
「怒られるのも俺は嫌だよ。ねえ一騎」
 びくりと一騎は身体を震わせた。目の前に立つ人影に対し、改めてまじまじと目を凝らす。
「……俺は……名前を教えたか?」
 それとも声に聞き覚えがないだけで、やはり面識がある相手だったのだろうか。自分が見たことがないだけで、ペルセウス隊に混じっていたのかもしれない。……いや、だがまとう気配に覚えがない。一騎は座ったまま、じりっと少しだけ後ろに下がる。
 だが、一騎の警戒にまるで気づいていないのか、その人物は屈託のない様子で答えた。
「ううん。教えてもらってない。でも知ってるよ。君は一騎でしょう」
「そうだけど……」
 教えていないのに、知っている。これはとんでもないことだ。どう考えてもおかしい。これが竜宮島ならば分かる。狭い島では、島民の情報などすぐに出回る。面識がある前から相手を知っていることもざらではない。もしかして、自分はまだ夢の中にいるのではないだろうかと、一騎は思った。
 それなのに少年は不思議そうに言うのだった。
「君が一騎だってことを俺は知ってる。ならそれでいいじゃないか。なにがおかしいの?」
 彼は、心底そう思っているようだった。
「ねえそれより一騎。君は空の絵を描ける? 俺はどうしても空の絵が欲しいんだ」
 最初に要求してきたことをもう一度繰り返す。空の絵を描いてと。
「ここの空が綺麗だから、どうしても持って帰りたいんだけど、空をまるごとなんて大きすぎて無理だ。だから俺の両手におさまるくらいの空を描いてほしいんだよ」
 どこかせっぱ詰まった、切なささえ感じられる様子で頼んでくる。彼の言うことが一騎にはまったく理解できなかった。そもそも、空は持ち帰るものではない。
「本当はこの空を全部持って帰りたいんだけど、俺の星はとっても小さくて空を収めきることが絶対にできないから」
 一騎の当惑をよそに、少年はひどく悲しそうにそんなことを言う。俺の星、という言葉に、一騎はいよいよ首を傾げた。
「星って……お前……星からきたのか?」
 尋ねると、ふふっという笑い声と一緒に「そうだよ」という返事が返ってくる。
「ねえ、だから空を描いてよ。一騎」
 まったく意味がわからない。わかるのは、目の前の子供…こんな物言いと態度をとるのはきっと子どもだ…が、ここにある空を気に入っているということ。そして、どうしても絵に描かなければいけないということだけだった。
それにしても、と。いったいどうしたものかと一騎は困惑した。空を描いてといわれても、ここにはなんの画材もない。紙もペンも、そして絵具も一騎は持っていない。なにより、空を…空の蒼をどう表現したらいいのかわからなかった。絵具があったところで、一騎の目では蒼を描くことができないのだ。
 ――ああ、空か。
 そういえばそんなものを一騎はすっかり忘れていた。何せ、頭上を見上げても、一騎の目には灰色しか見えないのだから仕方がない。
 今も思い出すのは、総士と見た蒼だ。忘れもしない、あの日。
 暑い、暑い夏の日。鮮やかな緑が揺れる一本の樹の下に、総士と一騎はいた。一騎は九歳で、総士は十二歳だった。シュワシュワと重なる蝉の声がうるさかったが、総士を前にすれば自然と音は引いていった。一騎は右手に木の枝をもっていた。その先は鋭く尖っていた。なぜあんなものを持っていたのか、どうしてあんなことをしでかしたのか、一騎には今もその理由が思い出せない。
「一騎」
 呼ばれたそれが、合図だった。一騎は手にしていた枝を、総士に向かって振り上げた。
 あのとき、振り下ろされる木の枝を、総士が受け入れるようにして微笑んでいたのは幻だったのだろうか。総士はいっさい避けることをしなかった。
 きっさきが、ぷつりと皮膚を裂き、肉を抉るのを感じる。同時に、自分の心のどこかがめりめりと裂ける音を一騎は聞いた。凄まじい痛みが一騎の心臓を貫いた。そして、それは総士の痛みだった。
 総士の左目から血が噴き出して、白い頬を伝い、滴りながら服と地面を汚していく。
 耳障りな悲鳴が響き渡った。それを上げたのが自分であることを、一騎は遅れて知った。
 恐怖と混乱に喚く一騎を抱きしめたのは総士だ。総士は泣き声はおろか、呻き声一つ上げなかった。
 すまないと、総士は繰り返した。
 これは必然なのだと総士は言った。すまないと繰り返しながら一騎に告げた。
 ――これでまた僕は僕でいられる。これが目印だ。お前と僕の。この島にお前がいて、僕はここにいる。決して見失うことはない。これは目に見える証なのだと総士は言った。
 一騎には、総士のいうことが理解できなかった。総士から流れた血が、一騎にも滴り落ちて、滲んでいった。血はあたたかいものなのだと知った。一騎は総士に抱きついたままひたすら泣き続けた。
 しゃくりあげ、泣きながら、自分と総士はずっと一緒なのだと、ぼんやりと思った。これからもずっと。
 いつのまにか蝉の鳴き声が、喧噪を取り戻していた。総士に抱きしめられながら肩越しに見上げた空が、痛いくらい蒼かったのを覚えている。一騎を抱きしめる、総士の腕の強さと一緒に。
 ああ、総士が島を出るようになったのは、あの日から間もないことだ…。
 そこまでを思いだし、一騎はため息を一つ零した。胸の奥がじくじくと痛む、それを振り切るように身体を起こし、指を伸ばして、砂の上を引っ掻いた。さらさらとした熱い砂はすぐに指を飲み込んでしまう。指先を取られながら、一騎はなんとか曲線を繋いだ。
 少年は、何も言わずに一騎のすることを見守っていた。そして一騎が砂に描いたものを見て尋ねた。
「これはなに?」
「雲」
 一騎は短く答えた。
「空には雲があるだろ」
 抜けるように蒼い空。そこにたなびく白い雲。コントラストの美しいその色が、一騎の思い描く空だ。懐かしく思い出すもの。今はもう見ることのできない景色。
「雲が多すぎると世界が暗いけど、雲のあいだから太陽の光が差し込んでくる景色はすごく綺麗だ」
「ふうん?」
 よくわからないといった様子に、一騎は首を傾げた。
「雲、見えないのか?」
「うん、見えないよ」
 ただ、淡い色の青が、どこまでも広がっているだけだと子どもは答えた。ああそうかと一騎は気づく。ここは砂が支配する土地だ。一騎が生まれ育った水が豊かな地とは違う。きっと、見える空もまったく違うのだろう。
「雲かあ」
 少年はうんうんと頷いた。
「うん、雲はいいね。そこに空があるってわかるし、俺の星にも浮かべられる。でもひとつだけじゃ寂しいよ。もっと雲を描いて」
 こいつうるさいやつだな、と一騎は思った。だが、確かにぽつんとひとつだけ雲が浮かぶ空は寂しいものかもしれない。きっと雲だってさびしい。一人は、寂しい。
 一騎は、もう一度砂に指を沈ませた。さっきは、綿アメのような雲をイメージしたが、今度は細く流れるような雲を描いた。砂の上で、どれだけイメージを形にできているのかわからないが、雲だといえば、それは雲のはずだ。
「こんなのはどうだ」
「うーん、なんだか元気のない雲だね」
 一騎はだんだん腹が立ってきた。こいつは注文をつけるだけなのに、なんだってこんなにうるさいんだろう。ここはどこかもわからないし、食料も水も限られた分しかない。どこから来たのか、誰かもわからない少年と、のんびり砂の上でお絵かきなどしている場合じゃないはずなのだ。今動けば、せめてショコラだけでも見つけられるかもしれない。そうでなければ、総士を探すのがまた難しくなってしまう……。
 焦りと苛立ちを感じながら、だがどうする方法も見つけられず、一騎は大きく息を吐き出すと、今度はやけくそのように砂に手を突っ込んだ。指先だけでなく、手をつかって雲を描く。大きな雲、伸びる雲。海からどこまでも伸びて蒼穹へと届く雲。総士と夏の日に見上げた懐かしい雲を、一騎は描いた。
 少年は無言で一騎の動きを見つめていた。一騎も何も言わなかった。
 やがて、少年はうわあと嬉しそうな声を上げた。
「すごい、すごいよ一騎!」
 少年はさきほどの不満げな様子はどこへやらといった様子ではしゃいだ。
「これだよ、俺がほしかったのは。夏の暑い日に見える雲だ。真っ青な海から真っ青な空にぐんぐん伸びていく雲。そうだね、一騎!」
 一騎は呆気に取られて少年を見た。
「嬉しいな。俺はずっと、こういう空が欲しかったんだ」
 一騎が砂の上に描いた雲に、この少年がいったいどんな空を見たのかわからない。だが、一騎が思い描いた蒼穹と、それはよく似たものなのかもしれなかった。


 一騎は立ち上がることを諦め、ここでしばらく少年と過ごすことにした。他に選択肢がなかったともいう。大きな砂嵐は止んだものの、しばらくするとまたどこからともなく風が吹き始める。完全に沙漠が静寂を取り戻すには、まだ少し時間がかかりそうだった。
 少年が何者で、どこから来た存在なのか、一騎が理解するには大変な時間を要した。そして結局よくわからない。少年は常に自分の興味が向いた順番で話し、語る内容も断片的だったからだ。物覚えがあまりよくないのか、あるいは記憶が混濁気味なのかもしれない。
 おおまかなところを把握すると、少年はこことは違う星からやってきて、彼の住む星はとてもとても小さいらしいということだった。一騎が父と住んでいる、器屋を営んでいるあの一軒家より大きいかどうかだ。
 ――つまり、こいつは宇宙人ってことだな。
 一騎はそう納得した。
 一騎は星のことに詳しくない。総士が星座の名前を教えてくれたことがあったが、それも今となっては朧気だ。それに、そんな小さな星では、ここから見えるのかどうかもあやしい。
 どうして少年が一騎のいるここまで一人で辿りつけたのか、考えるほどに不思議になってくる。一騎が、部隊と一緒に街を発ったのは四日前のことだ。ここは街から相当な距離が離れている。それなのに、少年は道を失った様子でも、疲れてくたくたになった様子でも、飢えや喉の渇きで死にそうになったりしている様子でもない。沙漠を恐れておらず、これから自分がどうなるのかについて不安ひとつ感じていないようだった。
「お前は誰なんだ。どうしてここにいる。どうやってここにきたんだ」
 一騎がまくしたてるように問いかけたときも、少年はそれには答えず逆に問いかけてきた。
「ねえ、君は空が綺麗だって、思ったことある?」
「は、空?」
 一騎は間抜けな声をもらした。
 いったいこいつはなんだって、そんなに空にこだわるんだろう。
 空を描いてくれといったことといい、今の質問といい、一騎には理解できないことばかりだった。溜め息をついて答える。
「あると思う。でも、今の俺にはよくわからない。俺には、もう空が見えないから」
「一騎には、空が見えないの?」
「ああ、見えない」
 少年は驚き、そして落胆したようだった。
「何も? ここにあるものも全部? 俺のことも見えない?」
「まだ少しは見える。明るいところなら。でももうすぐ何も見えなくなる。その前にどうしても見つけたいものがあったけど、俺にはその時間がもうない」
 今こうしている間にも、さらさらと砂のように時間がこぼれていく。それを一騎は知っていた。砂の上についた手を持ち上げて目の前にかざす。
「見えないけれど、でも俺の目の代わりに俺の指が、そこにあるものを教えてくれる。だから、もし本当になにも見えなくなっても、きっと俺は見つけられる」
 最後は、自分に言い聞かせるかのようだった。
 一騎の言葉に、少年はしばらく考え込んでいたようだったが、やがて思いついたように口を開いた。
「……ねえ俺に触ってよ、一騎」
「お前に?」
「うん、俺がなんなのか、一騎に知って欲しいから」
 再びの唐突な要求に首を傾げたが、一騎はおそるおそる目の前の存在にむかって指を伸ばしてみた。ぼんやりとしたその影にむかって。届くか届かないかのところで、手を取られたのを感じた。反射的に手を引こうとして、なんとかその衝動を抑える。恐ろしいと思う以上に、相手を知りたいという欲求が強かった。とんっと何かが指先にあたる。そして手のひらが相手に触れた。
「夢じゃない」
 一騎は呟いた。触れたものは確かな形と、熱を持っていた。
「お前、ちゃんとここにいるんだな」
 少年は嬉しそうに笑った。
「君と同じ形をしているでしょう?」
 最初こそおそるおそる触れていたが、だんだんと大胆になってきて、一騎はべたべたと両手で相手を触った。途中から相手が「うわあ、やめてよ。くすぐったいよ一騎!」と喚いていたが無視をした。
 猫の毛のような柔らかい癖毛に、すべらかな肌。くっつくほどに顔を間近に寄せて顔もまじまじと見たが、少年の身体を構成するパーツは、彼が言うとおり自分とまったく同じものだ。目が二つ。鼻が一つ。口も一つ。耳は尖っていないし、背中に羽根が生えているわけで頭に角が出ているわけでもない。つまり、宇宙人ではあるが、見た目だけは人間らしい。言動から小さな子供のようにも思っていたが、こうして触れてみると自分とさほど年が変わらないのではないかと思えてきた。
 一騎は満足するまで少年に触ったあと、身体を離して尋ねた。
「お前、いくつなんだ」
「うわあ……髪がぼさぼさだよ……」
 少年はうううと悲しそうな声をあげながら、しばらく自分の髪の毛を整えていたが、一騎の問いに手を止めて、「いくつって?」とオウム返しに聞いてきた。
「年齢のことだ。おまえが生まれて何年たつのかってこと」
「知らない。俺は気づいたら俺だったし……。そもそも年齢は必要なもの? 数字って大切? 俺は数えることをしらないんだ」
 必要かと聞かれて一騎もまた首を傾げた。確かに、数字はそんなに重要だろうか。島を飛び出し、総士を探し続けてもう一年がたとうとしていることを思う。その数字が一騎の心を滅入らせてきた。一日が終わるたびに失望した。彼を探すのだという決意さえあれば、自分はどうでも良かったはずなのに。
 少し考えて、一騎はそうだなと答えた。
「そうだな。お前の年がいくつかなんて、大した意味なんかない」
 ふふっと相手が笑った。あどけない……ひどくかわいらしい声だった。
「俺と君は一緒のものだよ。だから俺はここにたどり着いたんだ。ねえ俺と話そう。ずっと誰かと話したかったんだ。もうしばらく誰とも話せていないから。俺は君に会えて嬉しい。君は違うの?」
「俺は……」
 一騎はうつむいた。そうだ。ずっと寂しかった。島を出てこの場所にたどり着いてからも、誰にも心を開けずにいた。この砂ばかりの世界を彷徨いながらただ一人。寂しいのも悲しいのも当たり前だと思っている。だって総士がいないのだから。だが、この得体の知れない少年は、不思議と一騎の心を騒がせ、同時に落ち着かせた。久々に、感情の波というものを思い出した。理解できないことばかりを口にするが、よく耳を傾ければ、それは彼の見方が穿ったところのまるでない、澄んだ結晶のようなものであるからだった。
「嬉しいと思う、多分」
 少年はまた笑ったようだった。そしてポンと手を叩いた。
「ああ、そうだ。俺は君に名乗ってなかった」
 とても大切なことを忘れていたというように、突然声を上げる。
「数字の必要は俺にはわからないけど、名前が大事ということは知ってるよ。俺はそう教えてもらったから」
 そういえば、まったく名乗られなかったなと一騎もまた思い出した。一方的に名前を呼ばれただけだ。自分は知っているとかなんとか言って。今思い出しても、つくづく失礼なやつだなと一騎はしみじみとした。
「お前、名前があるのか?」
「あるよ。名前があるんだ、俺には」
 一騎が尋ねると、それは嬉しそうに少年は答えた。
「俺の名前は操。来主操。あらためてよろしく、一騎」


【4】


 一度は静まったはずの砂嵐は、いつまでも止まなかった。ザアザアと岩の外で砂が舞う中で、一騎は操と話し、ときどき無言で暴れ回る砂を眺め、少し歩き回ってから、その晩は何をすることもなく寝た。
 翌日、目が覚めて周囲を探ったが、そこには一騎の隣でぐっすりと眠りこけている操の姿があって、やっぱり夢じゃなかったんだなと妙な感慨を抱いた。
 この沙漠のど真ん中で、まったく緊張感のないよくわからないやつが一緒にいるのはどう考えても不思議だった。のんきにもほどがあるだろと、そう考えたらまたなんだかむかむかしてきて、一騎は眠る操の顔をぺたぺたと触り、鼻を探し当てるとぎゅっとつまんでやった。
「ふがっ!?」
 操は素っ頓狂な声を上げて飛び起き、一騎は思わず笑ってしまった。操はしばらく憤慨していたが、一騎はしばらくぶりに自分が零した笑いに、少しだけ驚いた。
 操は目を覚ましたあと、一騎から離れて周囲を探索していたが、それでも数時間後には一騎のいる岩陰に戻ってきた。そして「なあんにも見えない。砂ばっかりだよ!」というまったく役に立たない報告を寄越した。
 もっと具体的な情報はないのかと呆れたときだった。ぐうと、一騎の胃から音がなった。ああ、腹が減ったのかと遠く思う。時刻はわからないが、周囲の明るさからしておそらく昼近くなのだろう。
 思えば、砂嵐に巻き込まれてから何も口にしていなかった。水で少し喉を潤しただけだ。残りのことを考えればあまり食べないようにとも思うが、まったく食べないわけにもいかない。こんな場合でも腹は減る。身体が生きようとしている。そのことが少しおかしかった。
 一騎の腹から響いた音は、操には未知のものだったらしい。
「ねえ、一騎。今のなんの音?」
 一騎のお腹にはなにか住んでいるの? と無邪気に尋ねられて、一騎は一瞬吹きだしそうになった。何か住んでいたら一騎が困る。
 なるほど、操はこの音を知らないのだと気づいた。。思えば、出会ってから操がお腹がすいたとか、喉が渇いたと口にしたことはない。ああ、確かにこの少年は人間ではないのだろう。宇宙人だから、人が食事をするのとは別の方法で栄養をとるものなのかもしれない。
 一騎は、一つ咳払いをしてから操に教えた。
「俺が、生きてるってことだ」
「生きてる?」
 お腹がなると、生きているの? と操は不思議そうに言った。
 そうだよ、と答えて一騎は身体の下に敷いていた荷物を引きずり出すと、口をあけて中身を取り出した。乾いたパンとチーズ。干し肉。それから缶詰。
 残りを確認しながらそれらを手にとって、ふと一騎は考えた。
「…お前も食うか?」
 そう聞くと、嬉しそうに頷く声がした。どれだけ食べるものなのかわからず、とりあえずパンを少しだけちぎってかけらを手渡す。
「なんかもそもそするね」
 それが彼の感想だった。それでも嫌いなものではなかったらしい。もぐもぐと咀嚼しながら、操は一騎に尋ねた。
「ねえ、一騎はカレーを知ってる?」
「は? カレー?」
 唐突な単語に、一騎は驚いてかじっていたパンの欠片から口を離した。注意していなければ、手から貴重な食料を取り落とすところだった。砂にまみれた程度なら、落ちても食べられるだろうけれど。
 それよりも操が口にしたことのほうが驚きだった。
 ――なんでこいつはカレーを知ってるんだ。腹がすくことも知らないのに。
「そう。カレーだよ。一騎は食べたことある?」
「あるっていうか、作ったこともある……けど……」
「ああ、そうなんだ。一騎はやっぱり作れるんだ!」
 やっぱりってどういうことだ。
 当惑する一騎をよそに、操はカレーを作ってほしいとねだってくる。
「作れるけど……ここじゃ無理だな。材料も道具もない。街にたどり着けば用意できるかもしれないけど」
 そもそも、自分たちは街を見つけられるのかもあやしいのだ。
「そっかあ」
 操はひどく落胆したようだった。
「俺、食べてみたいなあ。一騎カレー」
 妙な名前をつけるなと思った。
「だって、一騎がつくるカレーなんでしょう? だったら一騎カレーだよ」
 そうなんだろうか。そう言われればそうかもしれないが。……いけない。だんだんとこのノリに流されつつある。
 悩む一騎をよそに、操は繰り返した。
「俺も一騎カレーが食べたい」
「いつか食べられるだろ」
「ほんとに? 君はほんとにそう思う?」
 適当に相づちをうったのに、思いのほか真摯な声が返ってきた。一騎は一瞬声をつまらせたが、同意を込めて頷いた。総士を見つけて、島に戻れたら、まっさきにカレーを作ろうと思った。そこにこの少年が一緒にいるのかはわからないが、そしたらカレーを食べさせてやろうと思った。
 軽い食事を終えて一息吐く。操はまたどこかへ様子を見に行ったようだった。砂嵐はまだ収まっていないというのに、まったく落ち着きがない。ここが沙漠のど真ん中で、自分たちは取り残された存在だということをわかっていないとしか思えない。どこか楽しんでいるような雰囲気さえ感じられるのだ。
 どうしたものかと一騎が唸ったときだった。悲鳴が聞こえた。
「来主……?」
 思わず立ち上がった。声の大きさからして、五十メートルは離れていない。
「どうした、来主!」
 大声で呼ぶと、砂を踏む慌ただしい音が近づいてきた。それと操の叫び声が。
「うわあ! 助けて! 助けてよ一騎! 俺、犬は嫌いだよ!」
 ――犬?
 まさかと思った。沙漠に犬は生息しない。いるとすれば、人間が連れてきたものだけだ。一騎は疑念が確信に変わるのを感じた。とっさに叫んでいた。
「ショコラ!!」
 ワンっと声が返ってくる。その聞きなれた鳴き声に、一騎は泣き出しそうになった。
「え、なに? 一騎はこいつを知ってるの? うわああ!」
 どっという音がした。操が砂の上で転倒したらしい。それと同時に、ハッハッという息遣いが聞こえてきて、それが近づいてきたと思う間もなく、何かが一騎の腕に飛びこむ衝撃があった。一騎はそれを必死に抱き留め、名前を呼んだ。
「ショコラ…っ」
 ワンっと返事をして、ショコラは一騎の顔に鼻をすり寄せた。
「良かった…もう会えないかと思った…ショコラ…ごめんなショコラ…」
 一騎は繰り返しながらショコラを抱きしめ、砂にまみれてボサボサになった毛並みを何度も梳いてやった。


 操が不貞腐れたように座っている。その表情までは一騎には確認できないが、彼から漂う空気は、自分は大変機嫌を損ねているのだと主張していた。しかも、操は一騎からけっこうな距離をとっている。岩陰から飛び出さないギリギリの場所だ。
「ひどいよ。一騎を最初に見つけたのは俺なのに」
 そんなことをぶつぶつ繰り返している。一騎からすれば、操の態度の方が理解できない。何に対しても屈託なく対応しそうな操に、まさか苦手なものがあったことが驚きだ。
「お前、犬がこわいのか?」
「こわいっていうか……よくわからないもん」
「はあ?」
 一騎はその返事こそが理解できなくて、ついまぬけな声をもらしてしまった。だが、操の声は真剣だ。
「四本足で歩くし、毛があるし、言葉も通じないし、声は大きいし…」
「お前の星には、犬はいないんだな」
「いないよ!」
 こんな生き物がいたら、俺の星が大変なことになっちゃうと、操は涙声で叫んだ。その大声にショコラが反応し、ワンっと吠える。操はふたたび悲鳴を上げた。
 ショコラの頭を撫でで宥めながら、一騎はため息を吐く。
「こいつは何もしない。お前が怖がるから、ショコラも警戒するんだ。別にお前を嫌ってるわけでも、襲おうとするわけでもない」
「ほんとに?」
「ああ」
「ほんとに……?
「お前、しつこいぞ」
「ううう一騎が冷たいよ……」
 ぐすぐすとしょげる操を、一騎は手招きした。
「ほら、こっちこい。そこだと砂がかかるし、太陽があたって熱いだろ」
「うん……」
 ずり、ずりっとゆっくり操が近づいてくるのが分かる。ショコラとの距離を測りかねているのだろう。一騎のかたわらでショコラは大人しくしている。しっぽがぱたぱたと揺れ、そのたびに一騎の身体に触れた。
 やがて、人一人分の間を空けたところまで近づいて、操ははあっと溜め息を吐いた。
「その犬は……ショコラは、一騎にとって大切なものなんだね」
「俺の友達が託してくれたものだから」
 一騎はそう答えて俯いた。
「こいつがいなきゃ、俺はここまで来ることなんてできなかった」
 ショコラの存在は、一騎と島をつなぐ糸のようだものだった。何度も諦めそうになった。島に帰れなくてもいいと思うときさえあった。けれど、ショコラの声をきき、足元にすりよる毛並みを撫で、そのぬくもりに触れると、ちゃんと帰ってきてねという少女達の声が聞こえる。そして、一騎が島に帰るには、総士を見つけなくてはならなかった。だから、完全に絶望することなく、ここまで歩いてこられたのだ。
「ショコラも、俺の大切な友達だ」
 本当に、本当に一番大切な存在は、まだ見つけ出せてはいないのだけれど。
「友達か」
 ぽつりと、操が呟いた。
「うん、俺知ってるよ。友達が大切なものだってこと。教えてもらったから」
「教えてもらった?」
 一騎は、思わずショコラを撫でる手を止めた。そういえば、出会った時から操は、不思議と色んなことを知っていた。一騎の名前もそうだ。それに、名前が大切だということも知っていた。食べたことのないカレーのことも。そして、星にはいないという、犬のことも。
 操は、そうだよと頷いた。
「俺にも友達がいるから。ここに来て、最初に出来た友達だよ。彼が俺にいろんなことを教えてくれたんだ」
「そいつ…どんなやつなんだ」
 一騎は胸がざわつくのを感じた。一騎の気配が変わったことに気づいたのか気づいていないのか、操はその《友達》について口を開いた。
「俺は最初、キツネがいるんだと思った。砂キツネ。その名前を教えてくれたのも彼なんだけど。動物の毛並みみたいに綺麗で、キツネの尻尾みたいに長い髪をしていたから、そう思ったんだ。顔を見たらちゃんと人間だって分かったけど。紫みたいな、灰色みたいな、そんな色の目をしてた。でも、左目はあまり見えないみたいだった。彼のそこには大きな傷があったから」
 一騎は息をのんだ。
 ――ああ、総士だ。
 ――操の語るそれは、総士だ。
 誰も知らなかった。誰も見ていないといった。亜麻色の長い髪も、灰紫色の双眸も、そして左目に走る傷も、見たことも聞いたこともないと誰もが言った。本当は、総士はこの世界のどこにもいないのではないかと思いかけていた。それが。
 ちゃんといたのだ。この世界から消えたわけではなかった。総士はまだどこかにいる。
 紡ごうとする声が、震えた。何度も呼吸を繰り返しながら、一騎は尋ねた。
「お前、そいつに会ったのか。ここで」
 うん、と操は答えた。一騎には操の顔が見えない。顔立ちも、表情も。だが、今操の眼差しがはっきりと正面から一騎を捉えるのを、一騎は感じた。
「総士。皆城総士。彼が、この星で出会った、俺の最初の友達だ」
「っつ!!」
 気づけば立ち上がって、操の肩を掴んでいた。
「総士はどこだ、今どこにいるんだ! 教えろ……教えてくれ来主!」
「い、痛いよ一騎」
 操の悲鳴に、掴んだ手に思った以上の力を込めていたことに気づき、一騎ははっとなって手を離した。だが離した手をどうすればいいのかわからず、彷徨わせた挙げ句にぎゅっと自分の胸もとを掴んだ。ぎりぎりと音を立てるほどに握りしめる。何かに縋っていないと、平静を保てそうになどなかった。
「…悪い。俺、ずっとそいつを探してて…でも見つけられなくてもうすぐ一年になる。どんな手がかりでもいいから知りたいんだ」
 操は、しばらく一騎を見返していたようだったが、やがてごめんとぽつりと呟いた。
「彼が今どこにいるのかはわからない。もう声が聞こえなくなって大分たつから」
「そうか……」
 一騎は肩を落とし、力が抜けたように砂の上に座り込んだ。ショコラが慰めるように身体をすり寄せてくる。その毛並みを言葉もなく撫でていると、操が言った。
「でも、彼はいるよ。ちゃんと。俺にはわかる。それだけはいえるんだ……」
 それが真実のことなのか、操が慰めに口にしていることなのか、一騎には判断することができない。ただわかるのは、総士の手がかりはここでも見つけられず、彼を見つけられる可能性はどこまでも低いということだった。せめてと思い、操に尋ねる。
「総士のこと……出会ったときのこと、俺に教えてくれないか」
 操はいいよと答えて、一騎の隣に座り込んだ。
「ここに落ちて、どこまでも続く砂の上を歩いていたときに見つけた。俺は、誰でもいいから人間に出会いたくて、人間を探してたんだよ。俺と同じように、空が綺麗だって思ってくれる人間を。でも、人間なんてどこにもいなくて、俺の心も少しくじけそうになってたときだった。不意に、真っ青な空のイメージが見えたんだ。そのビジョンを辿っていったら、彼がいた。でも、見つけたとき彼はとても弱っていて、今にも砂に飲まれて消えてしまいそうだった。だから俺はしばらく彼といっしょにいることにしたんだ」
「一緒に?」
「そう。一緒にいれば、俺は彼が消えないように助けることができたから」
 一騎は呆然と呟いた。
「お前が……総士を助けたのか」
「この星の、とりわけここの地軸はときどきとても不安定になるんだって。少し間違えるだけで、行き先がぶれてしまう。俺がここに落ちてきたのも、地軸が不安定なときに起こった偶然のものだって言っていた。そして、彼は俺にたくさんのことを教えてくれた。あまりにもたくさんで、それを全部話すことなんでできないんだけれど、その中でもとくに大切なのは、君たちが暮らす島、そして一騎、君のことだった。それから友達のことを教えてくれた。俺は、彼に俺の友達になってくれる? って聞いたんだ。彼はいいよって言った。だから、彼と俺は友達なんだ」
 ああ、でもと操は言った。
「友達になるっていうのは、絆を結ぶということだとも彼は言っていた。そして、絆を結んだ相手には、永遠に責任を持つんだってことも。俺には、まだその意味がよくわからない。ねえ、一騎。総士は最後に教えてくれたよ。ものごとは心で見なくてはよくわからない。本当は大切なものは目には見えないんだって」
 総士らしい言葉だと一騎は思った。でも、本当に大切なものは目に見えないとは、どういうことなのか。なら今、目の見えない自分は、大切なものにずっと近づけているはずではないのか。だが一騎には見つからない。ずっと見つけられないままだ。大切な存在を。
 黙ったままでいる一騎を、操は伺うように覗きこんだ。申し訳なさそうに頭が揺れる。
「彼のことを最初に教えなくてごめん。今ならわかるよ。皆城総士がどうしても帰らなきゃいけない場所があるっていった意味が。そして彼は今帰れずにいる。だから一騎が、総士を探すためにここに来たんだね」
 一騎は無言で頷いた。
 総士はいる。まだこの世界のどこかにいる。だが、どこにいるのかはわからない。それでも、総士がいるとわかった以上、一騎のやるべきことは決まっていた。総士を探す。それだけだった。
「一騎にとって、総士は本当に大切な存在なんだ……」
 操がしみじみと呟いたが、大切だと一言であらわせるものなのかもわからなかった。
「ねえ、俺にも教えてよ。総士のこと。それに一騎のことももっと知りたい。君たちが生まれた島のことを教えて」
 一騎は頷いた。総士を助けたこの少年がそれを望むなら、かなえてやりたいと思った。総士は彼にたくさんのことを話したという。なら、きっと一騎もそうするべきなのだろう。
 一騎も彼に話したい気持ちだった。聞いてほしかった。ここに来てからずいぶんと朧気になってしまった島の記憶を、薄れていきそうになる帰郷の決意を、語ることで思い出そうと思った。
 一騎はあまり話すことが得意ではない。きっととても拙いものになるだろう。それでも、操なら一騎の話を聞いてくれる気がした。
 一騎はゆっくりと話しだした。
「俺が生まれたのも小さな島だ。お前の星よりは大きいけれど。空と海がよく見える、とても綺麗な場所だ――……」
 一騎の話に、ずっと操は耳を傾けていた。ときどき相づちを打ちながら、いつまでも耳を傾けていた。
 ――そして。
 騒がしかった砂が静かになって、日が落ちて辺りが暗くなったころ、操が空に星が見えると言い出したころ、一騎は自分もまた操に尋ねた。
「来主。お前はどうしてここにきたんだ?」
 一騎の問いに、操は少し黙っていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「俺の星、とても小さいっていったでしょう?」
「ああ」
 小さな小さな彼の星。一騎が住む一軒家くらいしかない、操が生まれた場所。
「昔、俺の星はもっともっと大きな星だったんだ。けれど昔に大きな戦いがあって、そのせいでもとの星はバラバラに砕けて、ものすごく小さい星になってしまった。たくさんいた仲間もみんないなくなった。俺一人だけがミールの欠片と一緒に星に残された」
「ミールってなんなんだ?」
「俺にとって大切な存在だよ。かけがえのないもの。ミールを守らなければ、俺の星も、俺自身もいなくなってしまう。俺はミールの願いを叶えるためのものだ。そのために俺がいる」
 小さな小さな星に、やっと残された大切なミールが失われてしまわないよう、操は毎日ミールの世話をした。風に吹かれて飛んでしまわないよう、凍えてそのまま砕けてしまわないように、頑丈なガラスの覆いも被せてやった。毎日、ミールに話しかけ、少しずつでも大きく成長できるように願った。だが、ミールは育たず、いつまでも小さな欠片のままだった。
「この世界にあまりにも悲しくて痛みが大きいから、俺のミールは俺からも心を閉ざしてしまったんだ。だから、俺はミールに美しいものを見つけてあげたくてここにきたんだ」
 自分の小さな星を出て、船のようなものに乗って、ここまでやってきたのだという。一騎と一緒だった。果てのない宇宙を、ただ一人船に乗って、そうして操はこの星に落ちてきた。
「ここに来るまでたくさん旅をしたよ。いろんな星をめぐっていろんなものを見た。そうするうちにこの星を見つけた。青くて、綺麗だと思った。ここに行きたいってそう思った。そうして気づいたらこの星に落ちてたんだ。そして頭の上一面に広がる真っ青な空を見た。俺は、こんなに広い空を見たのははじめてだったんだ。俺の星には、こんな色の景色はない。綺麗だと思った。きっと、これを見たらミールの心も癒されると思った。でも、どうやってこれをミールに見せたらいいのかわからない。だから、人間に聞こうと思ったんだけど」
 誰にも出会えなかったのだと、操は言った。
「ここは辺り一面砂ばかりだった。生き物はどこにもいなくて、こんにちはって繰り返しても、返る声はなかった。俺はずっと一人で彷徨ってた。だれかいませんか? って呼びかけながらずっとずっと歩いていたんだ。そうしたら出会えたんだ。総士と、そして君に。……一騎」
 きっと、操は諦めなかったのだと、一騎は思った。この世界のどこかに、自分のように空が綺麗だと思ってくれる人間がいて、そしてその空を自分の星に持ち帰ることができるよう助けてくれる存在がいることを諦めなかったのだ。そして彼は自分の望みを叶えた。
 それなのに、今、操の声は沈んでいた。
「俺が見つけた空を、ミールは綺麗だって思ってくれるのかな」
 俺は少しわからなくなってしまったと、操は悲しげに言った。
「ミールは痛がってる。それに悲しがってる。いつも嘆いてばかりで、俺の話を聞いてくれない。このままじゃ、きっとミールは周りのすべてを憎んでしまう。俺はもう憎むのも戦うのも嫌なのに」
 一騎は静かに尋ねた。
「ミールが憎むものをお前も憎むのか? ミールが憎めといえば、お前はそれに従うのか?」
「違うよ。俺は、そんなことしたくない。でも、ミールの望みをかなえたいのも俺の気持ちなんだ。言ったでしょう? ミールは俺の絶対だ。俺にとって、君たちでいえば神さまみたいなものなんだ」
 操の言うことが、一騎には痛いほどよく分かった。一騎にも絶対の存在がある。総士に逆らうことなど、彼の意志に反するような行動を、自分がとるなど考えたこともなかった。操にとって、星を飛び出してきたことだって、途方もなく大きな選択だったに違いないのだ。島で待つことができずに、ここまで総士を追いかけてきた自分のように。
「お前はどうしたいんだ」
「俺はミールに教えてあげたいんだ。空が綺麗だっていうこと。痛みだけじゃない優しい世界があること。総士や一騎…君たちのことも話したい」
「お前もお前のミールと話せばいい。きっとわかってくれる。お前の見たものを理解してくれる。お前が綺麗だと思ったものを、きっとミールも綺麗だと思ってくれる」
「そうかな」
 そうだといいなと、操は呟いた。


【5】


 操は相変わらずほとんど何も食べず、飲むこともしない。それはやはり、彼が別の星からきた存在であるからなのだろう。空を見て、太陽の光を浴びさえすれば、それで十分なのかもしれなかった。だが、操が雀の涙ほどのものしか口にしないとしても、一騎には必要だ。そしてショコラにも必要だった。
 さらに三日がたったとき、とうとう手にしていた食料と水が尽きた。
「水がなくなったんだね」
 最後の一滴を飲み干し、空っぽになった水筒を手にした一騎を見て、操が言った。
「ああ。これで、俺とショコラを生かすものはなくなった」
 食料はまだなくても少しは生き延びられる。けれど、水がなくては駄目だった。
「人間には、水が必要なんだね」
俺は知ってるよ、と操はいった。
「水が君たちを生かすんだ。一騎の生まれたところには、水がたくさんあるんでしょう? 島の周りにも水がたくさんある」
「あれはただの水じゃない。塩や他にもいろんなものを含んでる。海っていうんだ」
「海!」
 一騎の言葉に、操は嬉しそうな声を上げた。
「お前の星には、海はないんだな」
「うん。星はとても小さいからね。そんなにたくさんの水があったら、俺もミールも、星も沈んじゃう」
だから見たことはないと答えた。
「でも俺知っているよ。海のこと。彼にも教えてもらった。空と一緒に、どこまでも続いているんでしょう。その中ではたくさんの色んな生き物が暮らしているんだ。ねえ一騎、人間が海から生まれたって本当?」
真実はわからないが、一騎もその話は聞いたことがある。命をはぐくむ場所であるのは間違いないだろう。
「まだこの目で見たことはないけど、俺はきっと海が大好きになるよ。だって空と同じ色をしているんだもの」
 どこかうっとりとした様子で語る操に一騎は小さく笑い、それからぽつりと呟いた。
「俺は、ずっと嫌いだったよ」
「そうなの?」
 一騎はずっと、海が嫌いだった。大嫌いだった。海があるから、一騎はどこにもいけなかった。海は生み出すものなのかもしれないが、一騎にとっては奪うものだった。総士を呼び、連れていくものだった。そうして今も返してはくれない。総士を返せと、海に向かって繰り返し叫んだことを、一騎は思い出す。あの胸が張り裂けるような痛みとともに。海の向こうにいけば、空と海が溶け合うその境界を越えれば、総士に会えるはずだと信じていたのに、その希望さえ今はほとんど尽きかけている。
 海は、一騎になにも与えてはくれない。
 それなのに、今、海が見たいと、一騎はふいに思った。胸を掻き毟りたくなるような切なさがこみ上げて、潮のようにひいていく。戻っておいで、帰っておいでと遠く呼ぶ声がする。それは、遠見の声であり、カノンの声であり、父の声であり、他の懐かしい誰かの声にも思えた。
 ――でも、俺は帰れない。まだ、帰れない。
 海に抱かれ、蒼穹の下にある島。一騎が生まれた場所。今、そこがこんなにも遠い。
 ここには水の匂いがない。どこまでも乾いた砂の世界。それでいて、海と同じように、すべてを砂の下に隠して、一騎に大切なものの在処を教えてはくれないのだ。
 黙りこくってしまった一騎に、操は言った。
「でも、とりあえずは水が必要だね。探さなくっちゃ」
 川か、池、湖。あるいは井戸。誰かが掘った井戸が見つけられれば、水を手に入れることができる。
「お前は、見つかると思うのか」
 きっと見つからないと、一騎は思うようになってきた。総士も見つからないのに、どうして水が見つけられるんだろう。この砂の中の、いったいどこに。
「でも、このままだと君は死んでしまうよ。一騎は死にたいの?」
 操の問いに、一騎は黙り込んだ。死にたいと、思ったことはない。でも、総士がいない世界で、自分は死んでいるも同然だった。一騎にとって、総士は水のようなものだ。なければ生きていけない。
 俯きながら一騎はぽつりと声を落とした。
「俺は、総士を探さなくちゃいけない。お前は総士の声が聞こえないと言ったけど、この世界にまだいるとも教えてくれた。だから、俺は総士を探すためにも生きなきゃいけない」
 うん、と操が頷いた。
「行こう、一騎」
 手に触れる感触があって、手を握られたのだと知る。
「どこへ?」
「水を探しに」
「お前には必要ないだろ」
「俺も、喉が渇いたんだよ、一騎」
「お前も?」
「そうだよ。ああ…水は、心にもいいのかもしれないね」
 操の言葉の意味が、一騎にはまるでわからなかった。だが、操の声はどこまでも優しかった。まるで水が土に染みこむようにして、一騎の心に落ちていく。
「俺はここで空を見つけた。だからきっと水も見つかるよ。一騎となら探せる気がする。だから行こうよ」
 わかったと、一騎は頷いた。気配を察したのか、ショコラも立ち上がり、一騎の足元にまとわりつくように身体をすり寄せる。ワンっと小さく咆えるが、その声にもう操が驚いたり騒ぐことはなかった。
そして、二人と一匹は初めて岩陰をあとにした。


 何時間も砂の上を歩いているうちに、あたりは暗くなり夜になった。星がたくさん見えると操が言った。真っ黒な空からチカチカとした光が絶え間なく降ってくるようだとはしゃぐ。一騎の目には見えないが、砂が横たわるだけでどこまでも遮るもののない世界で見上げる星空は、さぞ美しいのに違いなかった。
 そして無数の星の中に操の小さな星があり、雨の一滴が降るようにして、ある日操はこの場所に落ちてきたのだろう。
 そういえばと、気になって一騎は操に尋ねた。
「お前は、自分の星に帰らないのか?」
「そうだね、いつかは帰らなきゃ。俺にはやらなきゃいけないことがあるから。帰る方法も俺は知ってる。でもまだそのときじゃないんだ、一騎」
 操の言うことがやはり一騎にはわからなかったが、彼が言うのならそうなのだろうと思った。操の言葉は、いつも一騎には見えない真実を持っている。
 頭がぼうっとしていた。長いこと水を口にしていないせいで、熱が出ているのかも知れなかった。
 さらに歩き続けてから、二人と一匹は砂の上に座り込んだ。夜の沙漠はしんしんと冷える。自然とみなで寄せ合って休憩を取った。ショコラを間に挟み、二人で抱きかかえるようにして暖を取った。
 視界のきかない一騎には、ただ闇の中を歩き続けている感覚に等しい。月の光も、星の光も、一騎を照らすには幾らか弱すぎた。今も不意に、本当は自分はこの真っ暗な空間でただ一人きりでいるんじゃないかという錯覚に襲われる。誰もいない深く昏い闇の底で、一人蹲っているだけなのではないかと。だが、操の存在とショコラの気配が、一騎は一人ではないのだと敎えてくれる。
 一騎は息を吸い込んだ。渇いた砂の匂いがする。一騎が暮らした場所はいつだって水の匂いに満ちていたのに、ここにはどこまでもそれがなかった。潮の匂い…全てを抱く海の匂い。それが遠い。それなのに、一騎は今、ひどく心が穏やかだった。風に吹かれ、さらさらと砂が音を鳴らす。砂の一粒一粒がぶつかりあい、微かな音を立てる響きに、一騎は耳を傾けた。なにかとても優しいものが、この場所には満ちているように思えた。
 熱に浮かされた頭で、ぼんやりとそう思っていると、操がぽつりと呟いた。
「ねえ、一騎。沙漠も綺麗なんだね」
 月の光を受けてぼうっと輝く砂の地は、空とはまた違って美しいと操は言った。
「俺、気づかなかった。ねえ、一騎」
 操が微笑んだのが一騎にはわかった。
「沙漠がこんなに綺麗なのは、どこかに水を隠しているからだね」
 俺はわかったよと操は続けた。
「空も一緒だ。俺が空を見てあんなにも綺麗だと思ったのは、感動したのは、あの空の向こうには俺の小さな星があって、そこには俺の大事なものがあるからだったんだ」
 その言葉を聞いて、一騎は不意に思い出した。
 一騎が育った島には、一つの言い伝えがあった。この島のどこかに宝物が隠されているのだと。そしてその宝物を、大きな竜が守っているのだと。竜に出会った島の人間はいないし、一騎も宝物を見つけたことはない。実際にあるのか、ただの伝承なのかもわからない。あるいは総士は見たことがあるのかもしれず、真実を知っているのかもしれない。それは一騎にはわからない。
 だが、その言い伝えが、竜宮島を特別なものにしていた。島のすべての人間にとって、もちろん一騎にとっても。一騎が生まれた場所は、その見えない中心のその奥に、特別な秘密をひとつ隠していたということだ…。
 そのとき、一つの真実が一騎の心の中に落ちてきた。大きな星の光が降るように。
 空の美しさも、海の美しさも、今操が告げた沙漠の美しさも、その理由はすべて同じだった。そして、竜宮島をかけがえのない存在にしているものも。彼らを特別にしているものは、すべて目には見えない。
「そうだよ、一騎」
 操は、一騎が、自分と同じ考えに辿りつけて嬉しいと言った。
「だから総士は言ったんだね。大切なものは、いつだって目には見えないって」
 ああ、この砂漠のどこかにたったひとつの井戸があると信じられるなら。
 そうだ。この世界にたったひとつ、かけがえのない大切なものがあると知っているだけで、世界はこんなにも美しいのだった。たとえ目が見えなくても、そばに彼がいなくても、この世界のどこかに総士が必ず存在しているのだという事実が、一騎をここに留め生かすのだった。
 一騎の心を汲み取るように、操が囁いた。
「総士はちゃんといるよ、一騎」
 俺の星が今もどこかに存在しているように、と操は言った。
 そうだな、と一騎もまた答えた。
「だから俺はまだ生きている。歩いていける。そうなんだな、来主」
 一騎たちは、それから立ち上がってふたたび月が照らす沙漠の中を歩き出した。そしてどこまでも歩き続け、やがて夜明け前に一つの井戸を見つけたのだった。


【6】


 一騎たちが辿りついた井戸は、沙漠で普通に見かける井戸とは異なっていた。沙漠の井戸は、砂を掘っただけのただの穴であるはずだ。だが、この井戸は一騎が島で見たことのあるものに似ていた。
 一騎は見つけたそれに近づいてあちこち手で探ったが、掘った穴の周りを詰んだ石で囲ってあり、綱も滑車も桶もすべて揃っていた。
「本当に、井戸だ」
 一騎は呆然として呟いた。沙漠の真ん中にこんなものがある。周囲に村や街がある様子もないのに、本当に不思議なことだった。操が綱をつかみ、ひっぱると滑車は問題なく動くようだった。滑車は、ひさしぶりに風を受けた風見鶏のように、ぎこちない音を立ててギイギイと軋みを上げた。
「井戸が目を覚ました。ねえ、聞いて一騎。井戸が歌ってるよ」
 操は嬉しそうにそんなことを言った。ショコラも喜んでいるのか、しきりと井戸の周りを駆け回っているらしい。忙しなく足音を響かせながら、ワンワンっと楽しげな声を上げていた。
「来主、貸してくれ。俺が汲むよ」
「でも一騎」
「目が利かなくたってこれくらいできる。今は明るいし。それにお前、水の汲み方なんて知らないだろ」
「それもそうだった」
 一騎は井戸に近づき、綱を掴んだ。そうして桶を井戸の中に沈ませるとゆっくりと引き上げていく。手に掛かる確かな重みに、水の存在を確信して心臓が高鳴った。そして、桶を井戸の淵まで引き上げ、落ちることがないようしっかりと置く。ちゃぷんと音を立てて跳ねた水が、少しだけ一騎の手にかかった。
 一騎の耳の奥では、歌っていると操が表現した滑車の軋みが、ギイギイと楽しげに響き続けている。桶の中をみた操が歓声を上げた。揺れる桶の中に太陽が見えると、操は言った。
「ほら、来主」
 桶の水を飲むように、操を促す。
「お前も、喉乾いてたんだろう」
「うん。一騎も。俺たち、みんなカラカラだね」
 操と、そしてショコラと、組み上げた水で喉を潤した。口にした水は、心に沁みていくようだった。あてもなくただ歩き、探し続けた末に見つけた水は、身体を潤す以上に、一騎の心を癒した。
 ――水は、心にもいいのかもしれないね。
 そう口にした操の言葉の意味が、やっと一騎には理解できるような気がした。それはまるで、贈り物にも似た、祝祭の喜びを思わせるものだった。
 一騎は、井戸も、汲み上げた水も、はっきりと自分の目で見ることはできなかったが、確かに辿り着くことができた。
「心で探したからだよ」
 一騎の心を読みとったかのように、操がそんなふうに言った。
「大切なものは目には見えないから、心で探さなくちゃいけないんだ」
 君はもうとっくに知ってるねと、操は笑った。
 それからまた水を飲み、十分に潤ったところで、一騎と操はショコラを連れて休む場所を探した。幸運なことに、井戸の近くにはくずれかけた石の壁があった。それは岩陰ほどに一騎たちを砂と太陽から隠すものではなかったけれど、少し身体を寄りかからせるには十分なものだった。
 しばらく無言でいた。明るかった空はまた暗くなろうとしていた。夜が来る。今日という日が終わろうとしている。
 並んで壁にもたれていると、不意に操が口を開いた。
「俺、思い出したよ。一年前に、俺はこの近くに落ちてきたんだ」
 一騎は驚いた。一騎もまた一年前に島を出て、この場所にたどり着いたからだ。そして、操は落ちてきてから総士に出会ったという。そして一騎に出会い、自分が最初に落ちてきた場所に戻ってきた。すべては偶然などではなかったのかもしれない。
「明日が、俺がこの星にきた日だよ。ちょうど一年。そして、明日、俺が落ちてきた場所のこのちょうど真上に俺の星がくる」
「来主?」
 操の言わんとしていることが掴めずに、一騎はおそるおそる名前を呼んだ。ひどく不安な気持ちが一騎の中で生まれはじめていた。
 一騎の不安を吹き消すような明るい声で、操は言った。
「ありがとう一騎。明日、俺は帰るよ。俺の星に」


「帰るって……しかも明日?」
 突然のことに、一騎は呆然として声を失った。
「うん、明日だ。今日はもうすぐ終わっちゃうから、あとほんとうに少しで明日がきてしまうね」
 出会うのも突然なら、別れも突然だ。あまりにも唐突すぎた。お前はなんて勝手なやつなんだと、一騎は内心で憤慨した。だが、憤慨とよぶには、わきおこった感情はあまりにも苦しくて胸を刺すものだった。操がいなくなる。そのことに、一騎は急激な寂しさを覚えはじめていた。
「お前はどうやって帰るんだ」
「簡単だよ。本当にすごく簡単なことなんだ。でも少し難しい」
 操は笑い、それから悲しそうに呟いた。
「ただ、ちょっと……俺がちょっと怖いだけなんだ」
「来主、おまえ……」
「おかしいなあ。俺は最初から分かってたはずなのに。俺の星に帰る日のこと」
 一騎は思わず隣にいる操の手を探り、右手で包み込むようにぎゅっと握りしめた。遅れて、操もわずかに握り返してくる。
「この身体、俺の星に持って帰るには重すぎるんだ。だから返さなくちゃいけない。俺は最初からちゃんとそのつもりだった。それなのに怖いなんておかしいね」
「おかしくなんて、ない」
 一騎はそれだけを必死に伝えた。握る操の手のひらから、彼の不安が伝わってくるようだった。操が、途方もないことを選んだのだということを一騎は感じとっていた。
「大丈夫だよ。俺には一騎が描いてくれた空がある。綿アメみたいな雲も、細長い雲も、むくむくと膨れる元気な雲も、全部ちゃんとここに持ってるよ。きっとミールに見せるよ。ミールに伝えるよ」
 そうしたらきっとなにかが変わるはずだと操は言った。それを信じると言った。操の声を耳にしながら、一騎も決めていた。操が帰るのを見届けたら、また総士を探そうと。きっといる、見つけられると信じていようと決めた。自分たちは、砂の中に井戸を見つけられたのだから、きっと総士も見つけられる。
 ねえ一騎、と操が口にした。
「俺が帰ってしまっても、俺のことを忘れないでね」
「忘れるわけ、ないだろ」
 お前みたいなよくわかんなくて、ちょっとめんどくさいやつを、忘れるわけがないだろうと一騎は答えた。
「この目が空を映さなくても、お前の星が見えなくても、俺は上を見上げてお前のことを思い出す。お前の星を探すよ」
「そうだね。俺の星はとても小さいから、きっと一騎には見えないだろうね。でもそれでいいんだ。例え目には見えなくても、俺はちゃんとそこにいる。それに君は空を見るたびに、俺がいる場所を探すし、そうしたら空に映るものすべてを好きになってくれるかもしれない。空を見上げるのが好きになるね。空を綺麗だって思ってくれる。俺がいる空を。それって、なんて素敵なんだろう」
 おそらく空を見上げながら、夢を見るような口調でそう語る操の手を、一騎はもう一度つよく握りしめた。今にも一人で空へと飛び上がってしまいそうだったからだ。
「俺は、お前といるよ。お前がお前の星に帰るときまで、一緒にいる」
「すごいな。俺と一騎、まるで友達みたいだ」
「友達だろ」
 いつの間にか、絆を結んでいた。目には見えないそれを、きっと出会ったときから繋いでいたのだ。
 ありがとう、と操は小さく呟いて笑った。


【7】


 瞬く間に、朝がきた。操の告げた、彼の星へ帰る日が。
 一騎から少し離れた場所に、操は立っていた。井戸の傍にある、くずれかけた石の壁のそばに。
ショコラもすべてを見守るように、一騎の足元にいる。操が立つ場所との距離をもう縮めることはできないのだと、一騎は分かっていた。彼は、今から帰らないといけないのだから。
「泣かないで、一騎」
 そう言われて、一騎ははじめて自分が泣いているのだと知った。自覚すれば、涙はあとからぼろぼろと零れて一騎の頬を伝った。
「ねえ、駄目だよ。言ったでしょ。俺は、一騎に泣かれるのも怒られるのも嫌だよ」
 お前がいきなり帰るなどと言うからだ。しかも、それをこわいと言ったからだ。操がここから帰るためには、きっとおそろしい何かを乗り越えなければならないのだ。ああ、総士はどうだったんだろう。島から出て、そしてまた戻ってくるとき、総士はどれだけの思いを味わったのだろう。今までそんなことを気にしたことはなかった。本当はもっとはやく考えるべきだったのだ。それに今さら気づくなんて。
「大丈夫だよ。俺はもうこわくない。こわいけど、それ以上に嬉しいんだ」
 一騎、と名前を呼んで操は笑う。
「俺も選んだんだ。君たちがそうしたように。君は……君たちはいつだって俺に選ばせるんだ」
「来主?」
 その言葉の意味を、操は口にしなかった。一騎もそれ以上尋ねなかった。操はもう行かないといけないと言った。不安と寂しさがこみ上げてきて、一騎は奥歯を噛みしめる。
「お前も行くのか。俺を置いていくのか。また俺は一人になるのか。この世界で」
 まだ、自分は総士を見つけることができていないのに。
 操は微笑んだようだった。あどけない、けれど柔らかな声が一騎を包むように響く。
「ねえ大丈夫だよ、一騎。君は一人じゃない。君は、大切な探し物をきっと見つけられる。君が信じることを決めたからだよ。心で探すことを君はちゃんと知ってる。……ありがとう、一騎。俺をここに存在させてくれて。俺を、見つけてくれて」
「お前は、何を言って……」
 見つけてくれたのは来主だ。一騎はただ砂の中で自分の存在さえ見つけられずに立ちすくんでいただけなのに。
「ミール」
 操は空に向かって呼びかけた。このはるか頭上に、操の星があるのだという。目には見えない。だが、確かにそこにある。小さな星で待つ、彼の大切な存在へと、操は告げた。
「ミール。俺は帰るよ、君のところへ。すべてを返してそこに帰る。そして、もう一度生まれよう。そしていつか一緒に、この美しい蒼穹を見上げよう」
 その声とともに、風が舞い起こり、ざああと砂が吹き上がった。
「来主!」
 唸る風の音の中で、一騎は、操が笑う声を聞いたように思った。耳の奥に、彼のあどけない声が残響のように響く。
「この蒼穹の向こうに俺の暮らす星があるから、一騎は空を見上げて、雲の先の星にいる俺が笑っているところを想像して。一騎に空が見えないといけないから、その目は俺が治していくね」
 ――これが、君への贈り物。空と水をくれた君へのお礼だ。
 アォン! とショコラが咆えた。
「来主!!」
 叫んだ一騎の身体を、剥き出しになった顔の皮膚を砂礫がビシビシと打つ。同時に瞼を灼くような閃光が…黄金色の輝きが一騎に降り注いだ。
 そして、それらが過ぎ去ってしまうと、何も聞こえなくなった。
 本当に何も聞こえなかった。彼がいたはずの音も。いなくなるはずの音も。ああ、それはきっと周りが砂だからだ。砂がすべてをのみこんで、音さえも掻き消してしまったのだ。
 こわいほどの静寂の中で、一騎は震えた。
「来主……? 本当に……いなくなったのか……?」
 一歩、そして二歩と足を踏み出す。そうして操の名を繰り返し呼んだ。
「来主……来主!」
 だが、返る声はなかった。一騎は、総士を失った日のことを思い出した。こんなふうに、こんな簡単にあっさりといなくなってしまうのだ。探すのには、とてもつらい思いをするのに。
 前も、もっともっとしがみつけば良かった。置いて行くなと言えば良かった。名前を呼べば良かった。喉が裂けて血が吹き出たって構わなかった。総士、俺はお前に会いたい。会ってもう一度話したい。
 ――いやなんだ、もう置いていかれるのは。
 宙へ手を伸ばし、更に足を進める。そのままがむしゃらに走り出そうとしてバランスを崩した。ショコラが危険を告げるように高く咆えたが間に合わない。
 砂に足を取られ、そのまま真っ逆さまに身体を投げ出される感覚に陥ったところを、ぐっと腕を掴まれた。そのまま強く引かれて抱き込まれる。
「来主?」
 おぼろな視界で起きたことに頭がついていかず、一騎は不安を覚えて名前を呼んだ。だが返事はない。ただ一騎を抱きしめる腕にいっそう力が込められる。
 吹きつける砂の間に、海の匂いを嗅いだ気がした。一騎は慄きながらもう一度問いかけた。
「来主…お前なのか…?」

「彼は帰った。彼の星に」

 よく通るその声に、ぶわりと全身が震えた。
 それはあまりにも懐かしい声だった。一騎が、ずっとずっと聴きたいと探し続けた声だった。視力を失ってもなお求め続け、砂の中をさ迷いながら望んだものだった。
「あ…あ……」
 一騎を抱きしめた腕は解かれることのないまま、ただ低く通りの良い声が身体越しに一騎の中に染み込んでいく。瞼が熱いと思った。灼けるように熱い。その熱が溢れて頬を伝った時、一騎は自分が泣いているのだと知った。
 腕が解かれ、身体が離れる。涙で霞む向こうにおぼろげな光と影が見える。瞬きをして涙が溢れるたびに、その影は輪郭をはっきりと浮かび上がらせていく。
「そおし」
 一騎は名前を呼んだ。震える声で。探して求めた姿が、そこにいる。鮮やかな色彩をまとって。
「総士、お前が見える。総士。お前の顔が」
 ずっと薄闇の中にいると思っていた自分が、目の覚めるような蒼穹の下にいたことを一騎は知った。
 その眩いばかりの下で、総士が一騎をまっすぐに見つめて微笑んでいる。記憶より背が伸び、髪も長くなった。すこしパサついてゆるやかにうねる亜麻色の髪は背中で一つに束ねられ、風を受けてなびく様は確かにキツネのしっぽを思わせた。白かった顔はいくらか焼け、砂と埃をまとわせている。身体にまとうごわついた砂よけの外套も今の一騎が身につけているものと大差ないとはいえ、島にいた頃の服装からすれば見慣れないものだ。だが総士だった。間違いなく、一騎が探し続けていた皆城総士だった。
 一騎、と名前を呼ばれる。存在を認識する声に心臓が跳ね、痺れのようなものが全身に伝う。
 一騎と更に繰り返し呼ばれた。存在を確かめるように、心に刻みつけるように。
「お前、ここにいるんだな」
 総士の傷の走る左目が柔らかく細められる。一騎がそれに指を伸ばすと、添えるようにして手を包み込まれ、優しく傷痕に触れさせた。総士の証。一騎がつけた互いの目印。一騎にとっての唯一のもの。ほかのどんなものとだって取替えることのできない大切なもの。
「ありがとう、一騎。僕を探してくれて。僕の帰る場所で在り続けてくれて」
 再び一騎の目から涙が溢れた。
「当たり前だ。お前が帰る場所に俺がいる。そう約束した。だから……」
 しゃくりあげながら一騎は総士を抱きしめた。
「帰ってきてくれて、ありがとう。総士」
 一騎は総士の肩越しに、空を見上げた。どこまでも蒼く高く澄みきった空は、鮮やかに一騎の両瞳を射した。
 一騎は、空の向こうに操の笑う声を聞いたように思った。ああ、彼は確かにそこにいる。彼が好きだと言った、蒼穹の向こうに。
 ――ああ、俺もきれいだと思うよ。
 一騎は操に向かい、胸の中で噛みしめるようにそう告げた。


【エピローグ】

「彼はずっと、僕の存在を守ってくれていた」
 総士はそう言った。
「お前と別れたあの日、僕が消えるようにして島を出た日、僕は本来とは異なる形で海の向こうへ……この場所に来てしまった。そのズレは僕の存在を消滅させかねないものだった。なんとか存在を保とうとはしていたけれど、僕を構成するすべての要素、あらゆる感覚がゆっくりと失われつつあるのがわかった。このまま消えるわけにはいかないと抗う中で、僕は繰り返し思い浮かべていた。青い、海。蒼い空。竜宮島のこと。そしてお前のこと」
 懐かしい場所。かけがえのない場所。総士の、帰る場所のことを。
そのとき、不意に頭の中に澄んだ子供の声がした。
『君も、空を綺麗だって、思うんだね』
 ――だれ、だ。
『ねえ、君はもうすぐいなくなるの? このまま消えてしまうの?』
「彼が何者なのか、どうしてここにいるのか、疑問は幾つも浮かんだが、僕はただ、消えたくはない、まだここにいたいという思念を繰り返すことしかできなかった。そしてそれを彼は汲み取った」
『君はまだいなくなりたくないんだね』
 ――ああ、そうだ。まだ死ぬわけにはいかない。戻らなくてはいけない。会いたい。一騎に。戻りたい。彼の傍へ。約束したのだ。必ず帰ると。
『俺も、多分このままだといなくなる。この世界は俺のような存在を排除しようとするから。でも、俺もまだここにいたいんだ。知りたいことがたくさんある』
 ねえ、俺と一つになろうと、操は総士にそう告げてきた。
 ――それは、僕がお前になるということか。
『そうだけど、違う。俺と君は別のものだけど、共有するんだ。その身体を。そうすれば俺はここにいられる。俺は君のその身体をここに留めることができる。ちょっと記憶とか時間とかあやふやになってしまうかもしれないけど。でも大丈夫。俺は君たちより、多分少し頑丈にできているから』
『俺は、君に消えてほしくない』
 そして総士は、彼と長い時間を過ごした。総士は、彼が知るすべての知識を、できるかぎり操に伝えた。島のことも。一騎のことも。
「僕が、こうして存在を取り戻せたのは、彼のおかげた。本当に大切なものは目に見えない。僕は彼にそう言った。だが僕自身は、目に見える大切なものさえ見失っていたんだ」
 だから、島に帰る道を見失ったのだと総士は言った。
「あいつの名前、来主操…お前がつけたって言ってた」
「ああ、そうだ」
 個別の名前を持たないという存在に、名前を与えたのは総士だった。
『名前ってなあに』
 彼がそう尋ねてきたとき、総士はとても驚いた。彼には《個》であることの概念が存在していなかった。
 ――お前がここに降ってきたのは、冬の日だな。
 十二月二十四日。その日に、彼は金色の光と一緒に空からやってきた。総士の命を救い、守った。操と話しているうちに、彼が見つけ、目指そうとする道は、彼も知らないところで何かを芽生えさせようとしている。それはおそらく、人間が生き延びる道に繋がっている。そのはずだと総士は信じていた。それは奇跡とも呼べるひとつの希望だった。
 その知識のもとにつけた名前が《来主操――クルスミサオ》だった。そして総士は、あえて操ではなく、苗字としてつけた来主の方を呼んだ。それこそが総士にとって、彼が見つけた希望そのものだったからだった。
 彼は名前を付けられたことをひどく喜んだ。飴玉を転がすように、何度も自分で自分の名を呼んだ。総士の知識をもとにこの砂の地を回り、そして一騎のことも知った。
「なあ、総士」
「どうした、一騎」
「お前は、あいつの顔見たのか」
 一騎の問いに総士は頷いた。
「見たというわけではないが、知っている」
「教えて、あいつのこと。あいつにまた会えたときに、あいつのことすぐにわかるように」
 きっと、一騎は総士の説明をきくまでもなく、来主のことを悟るだろう。それでも知りたいと願う想いに、総士は応えた。
「金色の瞳をしていた。光に透かした、蜂蜜のような色だ」
「それって、太陽みたいだな」
 青い空と、太陽。あいつそのものだと一騎は笑った。
「……なあ総士。本当は、もうお前に会えないと思ってた。希望を見失いかけてた。 お前は本当はもうこの世界のどこにもいないんじゃないかって。そしたらあいつが現れた」
 操は、一騎にいろんなことを教えてくれた。分かっているようで、気づけないたくさんのこと。
「俺は、お前が行ってしまうことばかり考えていて、お前は島を出て戻るたびに、どんな思いをしていたかなんて考えもしなかったんだ。お前も怖かったんだろ。だって、俺はここにくることが怖かった。砂以外、ほとんど何もない場所で。それでも、お前は俺のところに戻ってきてくれてたんだ」
 そう語った一騎を、総士はしばらく無言で見つめていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
 ――一騎、と総士は名前を呼んだ。
「ここにある、この砂の一粒一粒が、すべて人の記憶だといったら、お前は信じるか」
 一騎は躊躇うことなく頷いた。この世界がなんなのか、海を越えて辿り着いたこの場所がどういう意味を持つものなのか、多分一騎は最初からわかっていた。みんなも知っていた。それでもここへ来た。
「信じるよ。総士が言うなら、俺は信じる」
 目に見えるものだけがすべてではないと、今の一騎は知っている。
「僕は、一騎」
「うん」
 だから、総士の躊躇うような声にも、返事をすることができた。
「知ってるよ。総士は、俺と一緒に島に戻る。そしてまた島を出るんだろう。そうするのが総士の役目なんだ。俺は分かってる。でも、もし……もしまたお前が戻って来れなくなることがあれば、」
 一騎はいったん言葉をきって、総士を見上げた。
「俺は、いつだってお前を待つけれど、お前がもし戻れなくなったとしたら、俺が探しに行く。待つだけじゃない。何度だって探しに行く。お前に会うためなら、どこにだっていく。何度だって、お前に会うために俺はお前を見つけに行くよ」
 だから総士、と続けた言葉は、総士の顔をみたときに途切れてしまった。総士は今にも泣き出しそうな顔で微笑んでいた。
「……ありがとう。一騎」
 一騎は思わず総士の身体にぎゅうとしがみついた。そして優しい腕に抱きとめられながら、一騎は尋ねた。
「総士、俺はまたあいつと会えると思うか」
 ――あいつに。来主に。
「会えるさ。僕とも出会えたのだから」
 総士ははっきりと頷いた。
「空が澄んで美しい日は一緒に彼の星を探そう。僕とお前で。きっと見つけられる。二人でなら」
 それがどんなに小さな星でも、きっと見つけられるだろう。そして操の星の空には、一騎が描いた雲が浮かんでいるはずだ。
 そういえば、と雲のことを思い出して、一騎ははっとした。総士から身体を離し、どうしようと慌てる。
「どうした、一騎」
「俺、あいつに教えてやらなかった」
「なにをだ」
「雲だよ。雲は成長したら、雨を降らせる。俺、あいつに入道雲も描いてやったから、雷も起こしちゃうかもしれない。そしたらあいつの星は水浸しだ。あいつのミールも」
 大丈夫だろうかと不安にかられる一騎に、総士は心配ないと笑った。
「彼は、ミールをとても大切にしている。頑丈な覆いで風にもあてないようにしていたんだ。だから、きっと雨からも一生懸命守るだろうさ」
「そっか。そうだよな」
 そして、雨が降ったあとの空の美しさを、その鮮やかな蒼を、きっと操は知るだろう。空にかかる虹の煌めきも。操の上げる歓声が聞こえてくるようだ。
「彼は彼の星に帰った。だから一騎、僕たちも帰ろう。僕たちの島へ」
「うん。その前に総士」
「一騎?」
 一騎は両腕を伸ばして総士の首の後ろに腕を回すと、倒れこんできた身体に顔を寄せる。その肩に顔を埋めるようにして一騎は囁いた。
「おかえり……おかえり、総士」
 息を飲む音がしたあと、伸びてきた両腕に全身を強く包まれる。ついで、耳にあらゆる想いを込めた声が触れて、一騎はもう一度涙を零した。
「ただいま……一騎」



FIN



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