たったひとつの


「皆城くんはずるいなあ」
 そう言って、ざくっと遠見がフォークでタルトを突き刺した。
 僕の前でタルトを頬張り、もぐもぐと咀嚼しながら、更にざくりとフォークを突き立てる。
「やっぱり皆城くんはずるい」
 一口を飲み込んだあとにもう一度そう言い、またザクザクとタルトを突き刺している。
 いったいどうしてそんなにタルトを突き刺すのか。生地が固めでざっくりしてるからだとかなんとか言っていたが、食べながら口にする僕への言葉が不穏すぎる。
 僕はひたすら無言でコーヒーを飲み続けていた。
 一騎はいない。暉もだ。一騎は一度自宅へ戻ったとかで楽園にはおらず、暉は先ほど買い出しに出てしまった。ランチタイムの終了間際に楽園を訪れた僕は片づけを手伝わされた挙げ句に、一騎が戻ってくるまで遠見と二人で休憩を取っている。
 休憩中の遠見は、僕の前でブルーベリータルトを食べていた。暉の試作品だというそれは、そうとうに気合を入れて作ったものらしく、少なくとも見た目は十分に美味しそうに見えた。ブルーベリーの紫が窓から差し込む光の下でつやつやと輝いている。
 一騎に負けないと常日頃から宣言し、カレーを作っていることは知っていたが、まさか洋菓子にまで挑戦していたとは知らなかった。このところの楽園では、人の出入りが多い週中のデザートはミカド屋の息子である御門零央に依頼しているが、ときどき以前のように一騎が作っていることもある。レシピさえあれば、例えなかったとしても、およそなんでも作ってしまう一騎の腕前には恐れ入るが、そこに食らいついて実地で料理を覚えていく暉も大したものだ。以前、極めて普通と評価したが、それは一騎と比較してのことであって、暉の作るものは平均的に美味しく、おそらく誰の舌にも馴染むものだろう。
 タルト生地は少し焼きすぎたようだが。
「なにがずるいんだ」
 ずるいずるいとひたすら繰り返されるのに、これは反応したら負けなのではないのだろうかと思いつつも、遠見を前にそうも出来ず、僕は観念して口を開いた。
 遠見がちらりと目を上げて僕を見た。やっとかかったと言わんばかりの目つきだった。
「だって、一騎くんは一人しかいないのになあって」
「それは当たり前だろう」
 遠見は、一騎が何人もいてほしいのだろうか。ぞっとしない。あんな男が何人もいたら、たまったものじゃないだろう。僕個人は一騎の人となりを好んでいるが、一騎は一人で十二分だと思う。仮に一騎が二人になったとして、喫茶楽園の二号店が出来て溝口さんが喜ぶことくらいしか利点が思いつかない。
 何人もいる一騎を思い浮かべて眉を顰めていると、遠見が何を馬鹿なことを言っているのかと言わんばかりの目で僕を見た。
「やめてよ、一騎くんは一人だからいいんじゃない」
「…そうだな」
 遠見も僕と同意見だったようだ。だが疑問が残る。
「どうして一騎が一人であることと、僕がずるいことが繋がるんだ」
 遠見がぽかんと口を開けた。
「うわあ、自覚がないんだあ」
 やっぱりずるいなあと同じことをまた言う。
「今、ケーキ食べながら思ってたんだけどね」
「…ああ」
 もはや次にどんな言葉が飛んできても驚かない。一騎もだが、遠見も脈絡のない台詞を唐突に繰り出してくる。一騎と遠見の会話は、おそらく二人の間でしか通じないものだ。遠見の洞察力と、一騎の鷹揚すぎるぐらいの受け身の姿勢が相乗効果を生んだ結果だ。カノンが、二人のやりとりを見ながらなんだかすごいなとしみじみ感心していたのを思い出す。
 もはや諦念の観とともに、僕は遠見の次の言葉を待った。
「一騎くんが皆城くんにってケーキをワンホールくれたら、皆城くんは食べるでしょう」
 飲んでいたコーヒーを喉に詰まらせかけ、僕は数度咳き込んだ。…待て。どうしてそんな話になった。
 そして、一騎から差し出されるワンホールのケーキを想像して僕は沈黙した。しばらく考えてから僕は答えた。
「…いくらなんでもワンホールは多いだろう」
 いったいどんな罰ゲームだというのか。シチュエーションが怖すぎる。さすがの一騎も…いやないとは言いきれないのが一番怖い。とりあえず保存方法から探す必要がある。その上で日数と、一日あたりの消費量を考えなければならない。ケーキがどういうタイプなのかにもよるが。
「皆城くん、今、どうやって食べようか考えてるでしょう」
 悶々と思考していた僕は、その言葉に顔を上げて、遠見をまじまじと見た。遠見の顔は、思いのほか真剣なものだった。
「それは…一騎が作ったものなら」
 当たり前だろうと口にすると遠見は笑った。ほらね、とおかしそうに。彼女がどうしてそんな言い方をするのかわからず僕は当惑する。
「遠見はそうじゃないのか」
「あたしはね、きっともったいないって思っちゃう」
 食べることを考える前にそう思うと遠見は言った。
「嬉しくてびっくりして、ワンホールを崩すのが怖くて、でも食べたくて困っちゃう。でも、皆城くんはそういうふうに困ったりしないでしょう? ワンホールでも食べるでしょう。毎日少しずつ、ちょっと痛んできても、自分に作ってもらったからって全部一人で食べようとする。全部食べて、美味しかったって言えるでしょう? 皆城くんにとっては、それだけ当たり前で自然なことでしょう?」
 だからずるいなあって思っちゃったんだよと遠見は笑った。
「…君は僕をなんだと思っているんだ」
 食べるだろうか。本当にそうだろうか。…食べるのかもしれない。
「皆城くんは、いつも自分用のお弁当を一騎くんに作ってもらってるからその贅沢に気づいていないんだよ」
 だからずるいし、羨ましいと遠見は言う。
「僕は遠見が羨ましいと…思うが」
「そうかなあ?」
 顔を顰めて首を傾げているが、僕からすれば遠見ほど一騎の心に近い人間はいない。なんのしがらみも打算もない、透明すぎるほどに澄んだ関係だと思う。
 遠見はいつも一騎の心の拠り所だった。一騎は僕には頼らない。そして僕は、一騎と遠見がともに並んでいる姿が好きだった。
「皆城くんにそう言われるの、不思議な気分だなあ」
「そうだろうか」
「でも、やっぱりあたしじゃ駄目なんだよ」
「遠見、」
「だって、結局一騎くんは皆城くんと行っちゃうもの」
 遠見は、俯いて残ったタルトをつつきながら、まるで泣き笑いのような顔を浮かべていた。僕は、何かを口にしようとして結局言えなかった。どれだけ思考を廻らせても、遠見に言える言葉は見つけられなかった。
 僕は、遠見がどれだけ一騎を大切に思っているか知っている。僕と遠見は似通った部分があり、それでいてまったく相容れない存在であるがゆえに、わかる。
「遠見は…僕に何を望むんだ」
 ――どうして欲しいんだ。
 遠見が、タルトを食べる手を止めた。ぽつりと呟く。
「…ひとつだけだよ。たったひとつだけ」
 顔を上げて僕を見る。続けられた言葉ははっきりと僕の耳に届いた。
「一騎くんと一緒にいて。ずっと、一騎くんのそばにいてあげて」
 正面から見た遠見の目は、怖いくらいに澄んでいた。
 それは、一騎の生存限界のことを踏まえてのことなのか、それとも僕の…もはや人間とはいえないこの肉体のことを理解した上で口にしているのか。
 遠見が何を見て、読み取ったのか、彼女の表情からはまるでわからない。遠見の鋭すぎる洞察力は、相手が自覚していないところまでを見通してしまう。
 かつての僕は、その遠見の目を恐れ、同時に焦がれてもいた。僕が胸の内に押さえこみ、取り繕ってきたものを、遠見は容赦なく暴いた。シンプルな事実と答えを突きつける。ある意味で彼女は、一騎とは別の次元での僕の理解者だった。それは今も変わらない。彼女はいつでも真っ直ぐだ。その生き方が自分を傷つけるのだとしても。
「あたしは、一騎くんにずっとここにいてほしいの」
 ――生きていてほしい。
 遠見の痛いほどの願いが伝わってくる。
「だから、皆城くんには一騎くんのそばにいてほしい。一騎くんが生きるのには、皆城くんが必要だから」
 それは、懇願というよりも僕に確認をしているかのようだった。
「一騎くんは、皆城くんがいないと駄目なんだよ。もうずっとそうなんだよ。皆城くんがいるから、一騎くんは一騎くんでいられるの。皆城くんがいないときの一騎くんは一騎くんじゃなかった。約束があるから、やっと形を保ってただけで、本当にばらばらだったんだよ。身体も、心も。…皆城くんがそうしちゃったくせに」
 柔らかい声は、だが僕に反論を許さなかった。僕も否定をしなかった。
「だから責任取ってよね」
「…そう決めている」
 僕がそれだけを口にすると、ふうっと大きく遠見が息を吐いた。いつしか張りつめていた空気が一気に緩む。遠見はタルトからこぼれたブルーベリーをフォークで器用に拾い上げながら、ふっと笑った。
「私、一騎くんと皆城くんが一緒にいると、やっぱり安心するんだあ」
 きっと大丈夫、絶対大丈夫って思えるから。
 目を細めて告げられた言葉の意味を僕が深く考えようとしたとき、ガランとドアベルが響いた。振り返ると、一騎が戻ってきたところだった。
「一騎くん、おかえり」
「遠見ただいま。…総士! 来てたのか」
 僕に気づいた一騎が、ぱっと笑顔を浮かべる。まるで太陽の光が射しこんだような顔だった。
 あーあ、と遠見が溜め息を吐く。視線がちくちくと痛い。それでも、一騎がこうして僕にまっすぐにぶつけてくる感情は、僕にとって心地の良いものだったから、言い訳はすまいと考える。
 両腕に下げた荷物と一緒に店内に戻ってきた一騎は、僕と遠見を交互に見ると、眉を下げてふにゃりと笑んだ。ハチミツのように甘ったるい笑顔だった。ひどく幸せそうな顔に思わず尋ねる。
「何を笑っているんだ」
「いやさ、なんか嬉しくて」
「嬉しいの?」
 遠見が首を傾げる。一騎は頷いた。
「俺、総士と遠見がそうやって並んでるの好きだな」
 僕と遠見の動きが止まった。互いに顔を見合わせる。それから二人して一騎の顔を見た。一騎はというと僕たちの様子にまるで気づくことなく、屈託のない様子で続けた。
「二人で何の話してたんだ?」
「…一騎くんのことだよ」
 遠見がぶっちゃけた。一騎がきょとんと立ちつくし、目を瞬かせる。肝心なところで恐ろしく人の機微に疎い男は、いかんなくその性質を発揮した。
「なんでだよ」
 僕と遠見は今度こそ揃って沈黙した。
「あ、総士。コーヒーおかわり飲むだろ。今入れるな。遠見は何飲む?」
「…あたしはミルクティーがいいなあ」
 ありがと、一騎くんと遠見が言う。
「わかった。少し待っててくれ」
 一騎がキッチンスペースに入っていく。僕がその姿を目で追っていると、タルトの最後の一口を口に放り込んだ遠見がもう一度しみじみと呟いた。
「やっぱり皆城くんはずるいなあ」


     ***


「皆城くん」
 馴染んだ声に呼びかけられて振り返ると、そこに遠見が立っていた。
「まだ寝ていなかったのか」
「うん、これから寝るとこ」
 輸送機の方にちらりと目を走らせて、ほんのわずかに微笑む。遠見の顔には疲労の影があった。誰しもが疲弊している。広登はまだいくらか心に余裕を残していたが、暉はかなり追いつめられているようだった。あの溝口さんでさえ、普段に比べればその様子は生彩を欠いていた。
 世界樹アショーカは倒れ、シュリーナガルの街はほぼ壊滅した。ザインとニヒトは、確かに救いとはなったが、それは竜宮島の人間と、この街の一部の人間にとってのものでしかなかった。街は破棄され、残ったミールの欠片とともに、新天地を目指す長い旅路が始まろうとしている。
 ファフナーから下りた僕と一騎を迎えた遠見の顔は、青ざめていた。
 彼女に責められることは覚悟していた。ザインへの搭乗は島の意思であったし、一騎も自身で決めたことだ。それでも僕は一騎がザインに乗ることを止めなかったし、止める気もなかった。遠見がつい口走った言葉も、口走ることでおそらく彼女自身が一番傷ついたであろうことも分かっていたから、せめてその思いだけは受け止めてやりたかった。
「さっき、一騎くんが謝りにきたよ」
「そうか」
「皆城くんに言われたんでしょって聞いたら、そうだって言ってた」
「あいつ…」
 どうしてああも馬鹿正直にすべてを口にしてしまうのだろう。いや、そもそも隠し事や誤魔化すという方法をまったく知らないやつだった。これは僕が自分で招いたことだ。一騎の性格を考えるなら、本当は僕が口出しをすべきではなかった。それでも、言わずにいられなかったということだ。
「一騎くんらしいよね」
「そうだな…」
 脱力気味に答えた僕に、遠見が口を開いた。
「さっきのこと…皆城くんにあんな言い方しちゃったけど、でも嬉しかったんだよ。一騎くんと皆城くんが来てくれて。良かった、助かるって安心した。そう思ったことが悲しかった。結局こうなるんだって」
 自嘲するような笑みが痛々しかった。
「ザインに乗ってる一騎くんを見て、ああ生きてるんだなって思った。今も命を使ってるのに、いついなくなっちゃうかもわからないのに、生きてるんだなって。楽園にいるときより、島にいたどんなときより、今の一騎くんは《生きてる》。それが、嬉しくて…悲しい」
 たったひとつだけなの、と遠見は以前僕に言った。
 一騎くんに生きていてほしい。それだけなのと。
「私には結局何もできなかった。それが悔しくて、皆城くんに八つ当たりしちゃった」
「…遠見がいなければ、一騎はここには来なかった」
 僕が言うと、遠見はくしゃりと目を細めた。ああ、また泣きそうだと思った。遠見は一騎のために泣き、一騎のために怒り、そして一騎のために笑う。きっと、これからもそうなのだろう。
「一騎くんと来てくれてありがとう。二人一緒にいてくれて…ありがとう」
 だからきっと大丈夫。一騎くんも、みんなも。
「生きて帰ろうね」
 遠見は結局泣かなかった。ただ、笑ってそう言った。まだ僕らにとって何も始まってないというのに、遠見は帰ることを口にした。すべてを置いて出てきたばかりの僕に。そしてこの言葉を、遠見は一騎にこそ伝えたいのに違いなかった。
「みんなで島に帰ろうね」
 それは死ぬなと言われるよりも、重く深く、僕の心に突き刺さった。


     ***


 遠見を見送り、一騎を探して歩き出す。案の定、一騎はザインの足元にいた。毛布を肩から羽織り、もたれかかるようにして座り込んでいる。ぼんやりと夜空を見上げている姿に声をかけると、振り向いた顔が柔らかく崩れた。
「やっぱりここにいたか」
 溜め息を零しながら、僕も一騎の右隣に座る。マークザインもニヒトも、美羽ちゃんたちの近くには置けなかった。どちらもリミッターを解除した状態であり、とりわけニヒトにはこれまで機体が食い荒らした人々の怨念が染みついている。憎しみと悲しみ、そして怒り。人の抱くあらゆる負の感情がニヒトを器としている。それらを変性意識でねじ伏せ、支配する形で乗りこなすには、僕の負担も大きかった。これから、どれだけこの機体に乗り続けることになるのか、どれだけ僕と一騎が保つのか、どんなに予測を立ててもわからない。だが、少なくともまだここにいることができている。状況は絶望的であるが、希望が潰えたわけではない。今はそれだけで十分だと思った。
「ザインに問題はなかったか」
「ああ」
 人手も、おそらく物資も足りないであろうことを見越して、僕も一騎もザルヴァートルモデルのこの機体を自分で整備する用意をしていた。出発前の慌しい時間を縫って、ブルクの皆が出来るだけのことをしてくれた。特にカノンが心を砕いてくれたことについては、どれだけ礼を述べても足りないだろう。
「なんか、ぜんぜん眠気が来なくてさ」
「…僕もだな」
 街の上空に射出されるまで意識をブランクさせていたとはいえ、身体を休めていたわけではない。到着早々の激戦で身体を酷使したことで、肉体的には相当に疲弊している。それなのに意識ばかりがぎらぎらと冴えている。
「僕は初めてのファフナーでの戦いだったし、お前もかなり久しぶりの搭乗だ。意識がまだ引きずられている可能性が高い」
「そっか。あと、海の音がしないせいかな…」
 一騎がぽつりと呟いた。
「前に島を出た時はそんなこと意識しなかった。それどころじゃなかったし。考えたらずっとあの音を聞いて育ってきたんだよな、俺たち」
「そうだな」
 一騎の言葉に、確かに島を出てきたのだと今さらながら実感がわいた。そして一騎が先ほどまでそうしていたように異国の夜空を見上げる。しばらく言葉も交わさずそうしていると、次第に高ぶった神経が落ち着いてくるのを感じる。思わず溜め息を零したときだった。
「なあ…総士」
「どうした、一騎」
「手、繋いでもいいか?」
 突然の要望に、僕は思わず驚いて一騎の顔を見た。一騎が自分からこんなことを言い出すのはひどく珍しい。僕の驚きを見て、一騎が途端に気まずそうな表情を浮かべる。
「…変だよな。いきなり」
「いや」
 手がひっこめられる前に躊躇わず一騎の右手を掴んだ。手のひらを重ね、ぎゅうと握り込む。一騎は戸惑ったようだったが、やがて身体の力を抜いて、僕の手を握り返してきた。
「総士の手、あったかいな」と言われて思わず顔を顰める。
「お前の手が冷たいんだ」
「そうなのか」
 同化現象がどこまで影響しているのか不明だが、一騎の感覚が全体的に鈍くなっている気はする。少しでも温めようと繋げているうちに、互いの熱が行き交い、重なったところからゆっくりと熱を帯びてくる。クロッシングをしているのとは異なる、穏やかな感覚の共有に思わず息が洩れた。
 輸送機のある方角に目を向けて、一騎が苦しげに瞳を揺らした。
「美羽ちゃんが泣いてる。ずっと、泣いてるんだ。辛くて怖いだろうな。エスペラントって…言うのか。小さい身体であんな力を持ってそれを受け入れて戦ってる。いっそ代わってあげられたらって思う」
 僕は静かに首を振った。一騎の気持ちは理解できるが、それは不可能なことだった。
「それはできない。可能なら弓子さんが真っ先にそうしていただろう。美羽ちゃんは自分の祝福を受け入れている。だからここにいる」
「わかってる。俺はだから美羽ちゃんが怖がっているものを取り除く。美羽ちゃんが守りたいものを守る。そう約束した。そのためならなんだってする」
「一騎」
 嘆息するのを抑えられず、僕が眉を顰めて名前を呼ぶと、一騎は困ったように笑った。
「俺にできるのは、これだけだ」
「本当に、それだけなのか。一騎」
「総士?」
 一騎は僕がなにを言いだしたのかまるでわからないという顔をした。その顔に少し腹が立った。
「島の外でだって料理はできる」
「ここで?」
 俺が? と目を丸くした。
「万単位の人間が移動するんだ。やれることはいくらでもあるさ。せっかく異なる文化を持つ国にきたんだ。新しい料理を覚えることだってできるだろう」
「…考えてもみなかった」
 お前ってすごいな総士、と感心したように口にする一騎の手にわずかに力を込める。手から僕の変化を感じ取ったのか、一騎の指がかすかに震えた。その指先ごと握り込む。
「お前は、本当に戦うためだけに来たのか」
 どこでだって、どんなときだって、戦うだけがすべてではないはずだ。僕たちに島のために生きる以外の選択肢は与えられなかったけれど、それでも、戦うことだけに心が食いつぶされることのないよう、島の大人たちは必死になって僕たちを助けようとした。それは島で生まれた子供たちの役割を思えば、明らかな矛盾だったけれど、島の平和から学んだものは大きい。それは一騎も同じはずだった。楽園で料理を作っていたことも、家で皿を作っていたことも。
 握る手を引き寄せ、言い聞かせるように口を開く。
「一騎、お前はわりと我儘な人間だ」
「そりゃ、今まで無茶やってきたかもしれないけど」
 いきなりなんだよと口を尖らせた一騎に、僕は続けた。
「別に責めているわけじゃない。僕は我儘でいいと言っているんだ」
「…どういうことだ?」
「我儘な自分を自覚して開き直ればいい」
「俺は、十分我儘に生きてるよ」
 おかしそうに口にする一騎に、更に続けようとして結局僕は口を噤んだ。
 七夕の笹飾りに書かれた一騎の願いを見た。くず入れに捨てられたものも。破棄されたはずのそれがたまたま僕の目に触れてしまう結果になるあたりが、一騎の詰めの甘さではあるけれど、実際一騎の感情が吐露されたものを見たとき、僕は声を失った。そして、腹の内から嘆きとも怒りともつかない感情がこみ上げた。
《生きたい》
 それではだめだ。死を前提にした生は、脆い。
《生きる》
 まだ、弱い。それは点でしかない。生きる道と生きない道、二つ提示されれば、一騎は簡単に生きる道を捨てるだろう。
 望むのは《線》だ。
《生きていく》
《生き続ける》
 先へ、未来へ繋がっていくものとして存在を残すこと。どんな形であっても、何を捨てても、そこに存在し続ける意思。
 ――存在を、選び続ける心。
 それこそが、僕が一騎に望むものだった。
 結局、それもまた僕自身が一騎に一方的に強要しているだけなのかもしれない。
 そうだとしても、そもそもこの世界で強要されない生がどこにあったというのだろう。竜宮島を母胎として生まれ落ちた僕たちに。
 ――僕たちは、道具だ。道具として生まれた。
 それでも最後、自分の在り方を選ぶことはできる。僕は命を選んだ。諦めかけていた僕に、それを選ばせたのは一騎だった。肉体を失い、フェストゥムの側に行くことを選択しながら、それでも生きて島に帰りたいと思った。どんなことをしても一騎のところへ戻ろうと。そのために、どれだけの時間を費やすことになるのだとしても必ず。
 フェストゥムの世界では、一騎とのクロッシングだけが僕と島を繋ぐかすかな糸だった。望み続けることを選ばなければ、すぐに断たれてしまうようなかすかな繋がりだった。それでもぜったいに離さないと決めた。一騎もまた、僕を待ち続けた。僕の帰る場所を守ってくれた。
 その一騎が、今、生存限界を前にして諦めつつあることが、そんな態度を取ることが許せなかった。そうさせた僕が許せなかった。
 僕が、一騎の手で左目の光を失い、代わりに自分の存在を得たとき、一方で一騎から何を奪ったのか、僕は何も理解していなかった。あの日、戦争の始まりの日。ジークフリードシステムからクロッシングをしたときに、初めて一騎の闇を見た。彼のいる海の底を。
 そこは牢獄だった。自らそこに自分を閉じ込め、一騎が自身を断罪し続ける永遠の闇だった。いなくなりたい、消えてしまいたいと願いながらそれも叶わず身食いをするようにして繰り返し自分の心を傷つけていた。
 一騎にとって、生きたいと願うことは罪だった。許されないことだった。光の場所も、優しい世界も、一騎がいてはいけない、望んではいけない場所だった。
 そして今でこそ、ここにいたいと願いながら、それでも一騎は、生き続ける道をどう求めたらいいのかわからないでいる。迷っている。探し続けている。自分がこの先も存在し続ける意味を。
 ――一騎、お前は馬鹿だ。こんなにも望まれて、思われて、求められているのに。誰もお前を終わらせようなどと思っていない。誰もお前の終わりを考えていない。許していない。
 勝手に諦めて、受け入れて、平気そうな顔をしたところで、土台無理な話なのだ。
 仲間が、お前の父親が、遠見が、そしてこの僕が真壁一騎という存在を終わらせない。
 ――祝福ではなく、むしろ呪いなのかもしれないな。
 内心で苦笑する。
 生きろと、ただ口にするのは簡単だ。だが、一騎はきっと首を傾げて笑うだけだろう。自分のことだと受け止めはしないだろう。
 諦めたような顔をして、穏やかに最後の時を見据えながら、そのくせ納得できずにいるのを知っている。三年という生存限界を前に、一騎は「何かをやり始めて、それがやり残したことになるのが嫌なんだ」といった。その時点で、三年ではおさまらないことがやりたいのだと、時間が足りないのだといっているようなものだった。例え自分では気づいていなくても。
 僕を馬鹿にするな、一騎。お前の心を僕は見てきた。ずっと。僕がお前の心にどれだけの傷を与えたのかということ。僕がお前をそうしてしまったのだということ。
 僕はお前に命をもらった。存在をあたえてもらった。僕はそれをずっと返したかった。
 僕は、お前に生きて欲しい。ずっとずっと、笑ってここにいて欲しい。
 ――例え、僕がいなくなっても。
 いや、それはあまりにも都合がよすぎる考えだ。エゴでしかない。本音をいえば、一騎にはずっと僕の隣にいてほしい。
 遠見は、僕が一騎のそばにいてほしいとそう言った。だが結局、一騎のそばを離れられず、一騎を手放せないのは僕の方だった。
 遠見は、僕のそんな浅ましい願いまで見抜いていたんだろう。そして一騎が僕を受け入れるだろうことも。一騎がそうするだろうことを分かった上で、あえて僕が一騎を望むのだということも。
 だから、ずるいと繰り返したのだ。
『責任、取ってよね』
 遠見は僕を許さない。僕を絶対に許容しない。その上で僕を認めようとする。僕に一騎を守ってほしいと言う。遠見は揺らがない。
 ――僕の命も…長くはない。一騎と同じように、いや…ニヒトに乗った今、一騎ほどに僕も持つかどうか。
 自分の身体で繰り返した実験は、同化現象の緩和を探るとともに、自分の人間としての生存限界を図る目的もあった。その結果が、そう遠くない未来に自分の身体もまた限界を超えるという事実だった。
 一騎が残り三年しか生きられないというのなら、一騎がいなくなるのを見届けた上で僕も自分の命を終えるつもりでいた。長く待たせた一騎に報いる方法だと思った。だが、どこかで納得していなかった。一騎を生かす方法を探し続けていた。一騎の心も、身体も、失わせたくはなかった。ニヒトに乗って、一騎の隣でともに戦えるのなら、その上で自分の役目を果たし、島のコアの望みを叶えられるというのなら、それで十分だと思っていた。
 でも、一騎が生きるというのなら、僕もまた命が続く道を選ぶだろう。
 僕だけではだめなのだ。一騎がいなくては僕も選べない。
 だから、待つと決めた。一騎が選ぶのを。一騎が、自分の命の本当の使い道を自分自身で見つけるときも。一騎が自分を待ち続けてくれたように、今は自分が待つべきなのだと理解していた。
 残された時間は少ない。今も砂が零れるように命はさらさらと尽きかけている。焦りがないわけではない。それでも、今は待つのだと決めた。
 そして僕も行けるところまで行こうと決めた。一騎が僕を待ち続け、僕の進む道を歩んでくれたように。僕がこれから選ぶ道も、きっと一騎なら進むのだろう。だから僕は常に一騎の先を行く。一騎に置いていかれる前に、僕が先に行く。追いつかれたら、またその先へ行く。それが、僕と一騎が共に在り続けるための道だと信じることにした。
 心のうちで語りかける。
 ――僕がお前の道を用意してやる。僕が示す。だからお前はお前の力を振るえ。その命の、正しいと思う使い道を掴め。
 一騎は僕を追いかけてくるだろう。その確信があった。
 一騎が差し出すものを、僕がすべてこの身の糧とするように、一騎もまた、僕が差し出すどんなものも喰らってくれるんだろう。僕と一騎はそうしてきた。
 僕を追ってきた場所で、最後、一騎が自分の存在を選ぶことができるのなら。一騎が生きることが、僕もまた存在し続ける道になるのだと気づけたなら。
 ――自分の命を、最後まで生きること。
 ――たったひとつ。そのたったひとつが、この世界でどれほど難しいことか、得難い奇跡であるのか、僕らは今までも知っていたはずだったけれど、今またこの地で改めて噛みしめる。
 遠見が望んだように、僕もまた望み続けるのだ。
「一騎」
「総士?」
「島に戻ったら、遠見にケーキを作ってやれ」
 一騎の手を握ったまま、僕は一騎に話しかけた。一騎が不思議そうに首を傾げる。
「遠見に?」
「ワンホールまるごとだ」
「ワンホール…!?」
 驚いた声に、僕は肩を震わせて笑った。
「そうだ、ワンホールだ」
「それ、遠見が困るんじゃないか」
 一騎が当惑したように眉を下げ、首を傾げる。
「だって、女の子だぞ…いろいろ気にするんじゃないのか…」
 作るのは構わないけど、というのがおかしくて仕方がない。普段鈍いくせに、どうしてそういうことには意識が回るんだろうか。だが、僕は構わずにいった。
「困らせてやればいい」
「総士?」
 一騎と、もう一度呼びかける。
「僕はここにいる。お前の隣に」
「…ああ」
「お前といる」
 俺も、と一騎が小さく答える。
 僕が、ここにいる。お前の隣にいるから。僕の命が続く限り。どんな形であったとしても。
 だから一騎。お前はここにいろ。僕と遠見のために。自分自身のために。
 生きろ。一騎。
 たったひとつ、それだけを口にするかわりに、ただ掴んだ手を強く握りしめた。

 たった、それだけ。
 どうかひとつだけ。
 たったひとつだけ。

 ――君を望む。


2022/07/11 up
2016/01/31発行の短編集『とおりガラスのうちせかい』書き下ろし分より再録。
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