ひとりでも散っていけるよ


 規則正しい機械音が響く。
 重篤な同化現象発症者の延命治療に使われるICU。無機質でがらんとした部屋の中心には生命維持装置が設置されている。その中は真紅の液体で満たされ、装置に収められた人物の命をかろうじて繋ぎ止めていた。
 総士は一人装置を見下ろしていた。上半分に嵌めこまれた強化ガラスが、装置の中にいる者を露わにする。その人物は黒髪を液体に揺らめかせながら眠りについている。いつ覚めるともしれない眠りに。

「…一騎」

 重たい唇を押し開き、総士はようやっと名前を呼んだ。

「一騎」

 返る声はもちろんない。

「帰ってきたぞ、一騎」

 ――島に。お前が望んだ場所に。

 状況からおおよそを悟り、覚悟もしていた。同化抑制剤を打ち、一通りの検査を終えてからすぐにICUに向かったが、それでも横たわる現実に声も出なかった。同じく無言で装置を見下ろす、一騎の父である真壁史彦と共に立ち尽くすことしかできなかった。
 その後訪れたナレイン将軍に史彦が言葉少なに答えているのをどこか遠くで聞きながら、ただ静かに拳を握りしめていた。
 そして、改めて訪れたこの場所で、今は史彦が立っていた場所…装置の右側から一騎を見下ろしている。
 一騎の右腕は、上腕部から下が失われていた。こちらから見ると腕の状態がよくわかる。切断面は同化結晶に覆われている。断面の結晶は、同化を押しとどめているようにも更なる浸蝕を図ろうとしているようにも思える。淡く緑色に発光するその輝きは、まるで腕から結晶の花が咲いているようにも見えて、総士は自分の発想にぞっと鳥肌を立てた。
 一騎を回収したブルグ班の報告によれば、コクピットの中は夥しい量の血痕が残されていた。一騎自身のものに他ならなかった。察するに一騎は、同化キャンセルの限界を超えて進んだ同化現象を、自らの意思で物理的にキャンセルしたのだろう。推測するに…引きちぎった。

――あるいは、くれてやったというべきか。

 そんなことが可能なのかはわからない。だが一騎はやってのけた。そして右腕を失いながらも、《無いもの》を《在るもの》として受け入れ、ザインである自らの《右手》でもってルガーランスをふるい続けた。一騎の右腕は、まさしくそのままザインのものとなった。
 一騎の右腕。ファフナーに乗ることで解放され、そして今一騎が犠牲として差し出したもの。
 痛みも恐怖もそこにはなかった。おそらくは。あったとしても全てをねじ伏せた。一騎を動かしたのは、ただひたすらに前に進もうとする強靭な意志だけだった。その底知れぬ受容力と強靭すぎる精神には、一騎の人となりをよく知っているはずの総士をしても戦慄させる。

――必要ならば必要なだけ、ザインに食わせたとでもいうのか。お前は。

 深く息を吐き、総士はしみじみと一騎の姿に目を落とす。
 眠る一騎の顔は幼い。つい一月半ほど前に20歳を迎えたのだとは信じられないほどだ。目的地を目指して希望の見えない荒野を進み続けた皆がそうであったように、強いられる覚悟と緊張に張りつめていた顔は、今は全てから解き放たれたように穏やかだ。夢みる子どものあどけなささえ感じさせる。本人の代わりに総士が短く切ってやった髪が、余計に幼さを引き立てるのかもしれなかった。
 伸びた部分を切ることで隠されていた輪郭が露わになり、ほとんど昔から顔立ちに変化がないことがよくわかる。まるで14歳のころみたいだなと鏡を見た一騎が苦笑したのを思い出す。あまり成長がうかがえない顔に、本人は少しばかり不満のようだった。それらをつい昨日のことのように思い出しながら、総士は液体に沈む一騎を硝子越しに撫でるように触れた。
 ずっと問いたかったことを、ようやっと口にする。

「お前は、そこにいるのか? それとも…いないのか。一騎」

 一騎は答えない。目覚めの兆候はどこにもない。
 今まで一騎の存在を感じない時などなかった。関係が断絶していたときでさえ、肉体を失ってフェストゥムの側にいたときも一騎の存在を感じていた。島から出ていった時も、島の向こうで生きる一騎の存在を灼かれるような想いで信じていた。だが今、眠る一騎に総士は無を感じている。人の身として禁じていたクロッシングを試みても返ってくるものがまるでないのだ。
 無…まさか、と思い当たる。

「やはり、そうなのか」

 愕然として一騎の顔を見下ろす。その顔は相変わらず穏やかだ。まるで夢を見ているようでさえある。

「触れたというのか、フェストゥムの世界に。コアを通じて」

 コアを滅ぼすのではなく同化することを選んだ。ポラリスの意思を同化したときと同様に。その代償を顧みることもなく。
 戦うだけでは、命を使うだけでは辿りつけないと語ったその答えがこれだというのか。相手に触れるために、理解するために。

「何をしようとしているんだ、お前は」

 語尾が震えた。腹に力を入れ、きつく拳を握りしめる。
 総士のすぐ目の前にいながら、一騎は徹底的な距離の向こうに飛んでしまった。今の一騎に総士の手は届かない。

「お前は、あのとき何を考えていた」

 一騎が敵を同化しようとしていると悟った時、とっさに制止の声を上げていた。無理だとわかっていた。今度こそ一騎の身体は耐えられない。ペルセウス中隊の他の兵士たちのように、これまでファフナーに乗り続けてきた多くのパイロットたちのように、同化現象の末期症状によって砕け散る。その幻想に震えが走った。
 あのとき、自分は今度こそ一騎を失ったのだと思った。いつか失うのだとわかっていた。それが一騎が先か自分が先かの違いだった。それなのに、土壇場にして抱いた心が引きちぎられるような感覚に、まるで覚悟などできていなかったのだと知った。
 熱と共に溶けはじめたザインを感じ、声を限りに名前を叫んだとき、ふと一騎の意識に届いた気がした。こわいほどに凪いで、澄みきった一騎の心に。だがそれは本当にかすかなもので、全ては炎と、その後の凄まじい閃光に飲みつくされた。

「お前は今、島にいる。やっと辿りつけた。願いをかなえたんだ。遠見と約束をしただろう。それなのに、お前の心はここにはいないんだな」

 一騎が島に帰るのだと明確な願いを口にしたとき、心が晴れる思いがした。一騎の願いを知らなかったわけではない。その目的も。だが、常に自分の命が終わる場所を探しているようで、まるで命を惜しむことをしない戦い方とも相まって不安を感じずにはいられなかった。遠見の覚悟に触れて、更に過酷な旅を続けて、そうして辿り着いた願いが島に戻ることだと、未来に辿り着くことだと告げたとき、総士は本当に安堵したのだ。

「剣司と咲良が結婚した。式は神社で行ったそうだ。みなに見て欲しかったと言っていた…」

 一騎の顔を見ながら、島に帰りついて知ったことをぽつりぽつりと話す。島でも多くの戦いがあったこと。それでも希望を信じて進み続けたこと。払った大きな犠牲があったこと。

「…僕らが向かう座標を島に教えたのは、カノンだそうだ」

 彼女はもうどこにもいないのだと教えられた。ああそうなのかと思った。
 愕然とし、何も知らず何もできなかった自分に歯を噛んだ。悼む言葉など何も出てきはしなかった。手の届かない場所で大切な仲間を失っていたことがただ悔しく、悲しかった。

「一騎、お前は、知っていたのか?」

 カノンの夢を見たと言っていた。このところ目立って感情を波立たせることのなかった一騎が瞳を揺らしながらそう告げてきたのを覚えている。
 伸ばしていた髪を突然切るなどと言い出したのも、まさかそれが関係していたのだろうか。
 一騎は、ときどき総士にも見えないものを見、感じているようだった。空の向こうにある…おそらくは宇宙空間に存在している敵の存在を感知したのも一騎だ。
 一騎のそれは、単に感が良いというにはあまりにも人間離れしている。唯一無二の機体であるマークザインに乗り、はたからみて奇跡とさえ呼ばれるような力を振るう一騎は、もはや人間とは呼べない存在になっているのかもしれなかった。それでも総士はそれを認めたくなかった。
 一騎は人間であり、そして人間でしかないのだと覚えておきたかった。一騎と人としての命を終えることが、総士の願いだった。自分に残された時間もさほど長くはないと理解した時に。
 だが、その願いさえも手放さなくてはならない時が近づいている。エメリー・アーモンドに示されたときは笑って流したその可能性を、今、総士は受け入れつつある。それが、何よりも優先する存在…島のコアが示したものであるからこそ。

――僕の祝福。一騎の祝福。

 その意味するものを繰り返し噛みしめる。織姫は一騎は島の祝福を受けると告げた。それを一騎が望むならと。
 一騎が受けるという祝福がどういうものであるのかを、織姫は総士に告げなかった。もとより知る権利などない。一騎の祝福は一騎だけのものだ。
 その中で、総士自身の未来を告げたことが、島のコアの…皆城織姫としての最大譲歩の特例であることは分かっていた。

――僕は、きっと僕の祝福を受けるだろう。

 今度こそ、一人きりの戦いをしなくてはならないのかもしれない。一騎のいない、遠見や他の仲間たちもいない、いつ終わるともしれない…終わることもないのかもしれない戦いを。命を続かせるということを。
 織姫は旅立つ前に総士に告げた。『信じていい未来だよ』と。穏やかに微笑んで。ならば、それは真実なのだ。代償に払うものがなんであれ。
 眠る一騎に語りかける。

「島のコアに、島を出る許しをもらった。遠見と広登を取り戻しに僕は行く。だからお前は…」

 そこまで言って声がつまった。ここで眠っていろと言いたかったのか、早く目を覚ませと言いたかったのか、とっさには総士にもわからなかった。一騎の身体は限界をとうに越えている。いつ目覚めるのか、目覚めたところでどれほどの日常生活が送れるのかまして戦いに加わることが可能なのか、診察した千鶴にもわからなかった。ザインは溶解したまま沈黙している。
 そして、一騎の閉じた瞼の下には、真紅に染まった瞳があると教えられた。同化現象の進行をもっともわかりやすく示す、いわば瞳の刻印。剣司らの開発した新しい拮抗薬が処方されているとはいえ、再び一騎が視力を失っている可能性も否定できなかった。
 このまま眠っていれば、ある程度まで命は守られるだろう。自ら進んで死地に赴くこともない。だが、それと同時に、このままで終わるはずがないと思う自分もいるのだ。まだ一騎にそれを望むのかと自らの浅ましさを嗤いたくなる。それでも一騎が後退も停滞も決して自分に許しはしないことを理解し、信じてもいる。だが今のところ、一騎はただ静かに意識を閉ざしたままだ。
 何かを口にしようとして結局できず、総士は苦笑とともに吐息を零した。

「…こんなとき、お前の声が聞けないというのは…少々寂しいものだな」

 口をついたのはたわいもないものだった。だが、紛れもない本音だった。口にすることで、ああそれが足りないのだと自覚する。一騎の視線が、声がないことがこんなにも寂しい。こんなにも物足りない。その温度を感じられない事実が胸を掻き毟りたくなるほどの切なさを呼ぶ。
 ふっと息を吐く。数度呼吸を繰り返して心を落ち着けると、自然と微笑みが浮かんだ。気持ちを切り替え、部屋を出ようと足を向けた時だった。

――そうし。

 ふと名前を呼ばれた気がして、総士は振り返ると装置に飛びつくようにして強化ガラスに手をかけた。

「一騎ッ!?」

 名前を叫び、そこで我に返る。
 そんなことがあるはずはない。仮に意識を取り戻したところで液体に全身を浸した一騎が声を出せるはずもなかった。いくら声が聞きたいからといって、幻聴まで聞こえるとは。そこまで参っているつもりもないのにと自ら苦笑する。そこで装置の中の一騎に目を留めて、今度こそ総士は絶句した。

「かず…き」

 絞り出すような声で名前を呼ぶ。
 眠る一騎が、微笑んでいた。ほんのわずかに上がったように見える口角。それは総士自身の願望が見せた錯覚なのかもしれなかった。それほどにかすかなものだった。
 だが、総士はそれだけで心に抑え込んでいたものが揺らぐのを感じた。押し殺しきれなかった感情がぶわりとわきおこり、溢れ出しそうになる。耳の奥に一騎の声がよみがえる。

――やれるさ、俺とお前なら。そうだろ?

 だから、大丈夫だと。

「一騎」

 ぐっと歯を噛みしめる。叫びだしたくなるような声を飲み下し、腹の奥へと仕舞い込む。まだ揺らぐわけにはいかない。まだ全てを吐露するには早すぎる。決壊しそうな感情を押しとどめて、総士は拳を握りしめた。

 そうだ。僕はやれる。
 まだここにいるのだから。命は残された。自分も一騎も。
 お前がいてくれる限り、僕はどこへだっていける。そばにいなくても、その心と意思が共にあれば。
 お前はいつだって、僕にとっての座標だった。

「一騎…僕は先に行く」

 そう言ってから、総士は首を振って苦笑した。

「いや違うな。僕が置いていかれたのかもしれない」

 もし本当に一騎が、一騎の選んだ場所で自分の役割を果たすことをとっくに選んでいたというのなら。そこに、今もいるのだとしたら。
 ならば己も進むだけだ。
 一騎の存在が総士を前へと駆り立てる。昔からそうだった。そして今も。立ち止まることを許さず、進み続けることを選ばせる。

「未来へたどり着こう一騎。未来を作る者たちのために道を作ろう」

 もう一度改めて口にする。

「行こう…一騎」

 ガラスの上に右手を伸ばし、一騎の失われた腕に自らのそれを重ねるように置いて、総士はくしゃりと顔を歪めて微笑んだ。






 その場所に。
 そこに、お前さえいれば。





「一人でも散っていけるよ」

(《英雄の孵化する場所》より)



- end -


2015/11/30 pixiv up
タイトル:模倣坂心中
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