こそうしとまかべさんちの自転車


 海神島真壁家の軒下には、一台の自転車が置いてある。
 たくさん荷物をつめても平気そうな、頑丈な前かごがついた黒い自転車だ。つかいこまれた様子はあるが、いつも丁寧に整備され、磨かれてぴかぴかと光っている。
 そして前には、小さな子供が座るためのチャイルドシートが備え付けられている。そこは物心ついたときから、そうしの特等席だった。
 真壁家が自転車を買ったのは、海神島に来てからのことだという。この島は長く人が住んでおらず、再び人が生活できるよう再整備されてまだいくらもたたない、新しい土地だ。真壁家も今の家に落ち着くまで、ずいぶんと慌ただしい思いをしたらしい。らしい、というのも、その頃のそうしはまだ赤子で、育ての親である一騎や、その父である史彦の苦労について、伝聞でしか耳にしたことがないからだ。
 大変だったんだねとそうしが口にすると、大変なだけじゃなかったよと一騎は笑う。俺たちには希望があったからと言う。希望って? と尋ねれば、一騎はいつも目を細めてそうしの頭を撫でるのだった。

 真壁家の自転車のおもな使用者は、一騎だ。仕事先である喫茶《楽園》に行くとき、真壁家の必要を賄うための買い物に行くとき、ある程度の距離を移動する際のほとんどすべてに自転車を使う。
 そして、出かける一騎についていく場合、そうしも自転車に乗せてもらう。そうしが通う保育園も、自転車での送迎だ。
 そうしが自転車に乗るときは、まず一騎が自転車のペダルやブレーキをチェックし、問題がないと判断してから、頭にヘルメットをかぶせられ、チャイルドシートに抱き上げてもらう。そうしが落ちないようにちゃんと座席におさまっているかを確認したあと、一騎がハンドルを握り、サドルにまたがる。
「じゃあ行くか、そうし」と一騎が言うと、そうしは頷いて声を張り上げる。

「しゅっぱーつ!」
「了解」

 一騎と自転車に乗るとき、出発の合図をするのは、必ずそうしの役目だった。その役目をそうしはいつも誇らしく思っていた。

 海神島は坂の多い街だ。背後を山々にぐるりと囲まれ、どの道も海に向かって下りながら伸びている。整備された道はいずれも広く見通しが良い。
 傾斜も特に急というわけではないが、行く場所や方向によっては、自転車で移動するのは必ずしも楽なばかりではない。だが、一騎はいつも滑るように自転車を走らせる。登り道でも負けずにぐんぐんと登る。下り道をシャアアァっと風を切っていく姿は颯爽としてかっこいい。そうしは心からそう思っている。
 真壁家の家長である史彦も、自転車を使うことがある。一騎の代わりに自転車をこいで保育園に迎えにきてくれたり、一騎に頼まれて買い物に行くときなどだ。単に、散歩というときもある。
 がっちりとした体格の史彦がサドルに腰かけると、自転車は何かを訴えるように、ぎしぎしと軋みをあげる。じゃあ行こうかという史彦の声とともに、どっこらしょと自転車は動く。史彦の運転はのんびりとして、丁寧だ。
 ゆらゆらと周囲に目をやりながら進む道のりも悪くはないが、そうしにはちょっとだけ物足りない。だが、史彦と出かけるのもそうしは好きだ。
 史彦に乗せてもらうときは、あちこちで声をかけられる。一騎が一緒のときはそうしも一緒に挨拶されることが多いが、史彦の場合は、ただ挨拶を受けるばかりでなく、質問や相談事を持ちかけられていることもある。
 真壁家は器屋を営んでいて、その主人である史彦は土を捏ねて器を作ることが仕事だが、海神島学園の学園長も兼任している。だから島の人にはよく知られているのだろう。海神島は人口色豊かで、肌も髪の色も異なる人々が暮らす島だが、史彦は出会う人みんなの話を、同じようにふむふむと聞いては頷き、相手を労わる言葉をかけてからまた自転車を走らせる。真壁のおじさんは人気者なんだなあ、とそうしはいつもどきどきするのだった。
 溝口はまた別格だ。溝口は、真壁家の隣に住む、角刈り頭がいっけん怖い中年の体格のいい男で、そうしの師匠のような存在でもある。顔は厳ついが中身は茶目っ気たっぷりと本人は自負する。そうしに、剣道を習うよう勧めてくれたのは溝口だ。取っ組み合いと称して、体術を教えてくれることもある。男の一人暮らしということ、真壁家と古くから付き合いがあるとかで、毎日の食事は溝口も一緒にとっている。
 一騎に代わって溝口もときどきごはんを作ってくれる。もともと料理が得意で、喫茶店のオーナーをしていた時期もあるという。仕事先ではともかく、家では和食を作ることの多い一騎に比べて、溝口が作るのはほとんどが洋食だ。とりわけ、大皿に湯気を立てて盛られる、黒こしょうのぴりりときいた、厚切りのベーコンたっぷりのカルボナーラが、そうしのいちばんのお気に入りだった。
 溝口は忙しい人で、長期で島を空けることも多いが、島にいるときは彼もそうしの面倒をよく見てくれた。当然、彼も真壁家の自転車を使う人間の一人である。溝口の運転は勢いがある。言ってしまえば雑だ。ハンドルをがたがたと揺らしながらがむしゃらに飛ばす。多少の段差も、なんのそので突っ走る。その度にそうしはハンドルに必死に掴まり、キャアキャアと声を上げてそのスリルを味わった。そうしはあれはあれで大変楽しいが、いつも溝口は一騎に釘を刺されていた。そうしと自転車が怪我するだろ! というのが一騎の言い分だ。

「なんでがたついた道まで無理やり自転車で走るんですか」
「そうしは喜んでるぞ?」
「この前遠見にも注意されてたでしょ」
「そこは目をつぶってくんねえかなあ」
「駄目ですよ」

 そんなわけで、真壁家の自転車は一騎、史彦、溝口の三人が使用する大変忙しい自転車なのだったが、やはり一番多く乗るのは一騎だった。
 そうしも一騎の運転が一番好きだった。一騎の運転で視界に飛び込んでくる景色が好きだった。
 頭にヘルメットをかぶせられるのは、窮屈でちょっと嫌だけれど、見える景色はどこまでも視界いっぱいに広がってそうしを迎えてくれるように思えた。
 とりわけそうしが好きなのが、山から湾に向かってまっすぐに伸びている広い坂だった。
 両側に街路樹が立ち並び、綺麗に石畳が敷き詰められたそこを下っていくとき、そうしはいつも、まるで空と海に飛び込んでいくかのような錯覚に襲われる。
 だから、そうしは坂を下りるたびに一騎にねだった。

「かずき、もっとスピードあげて」
「もうけっこう出してるぞ」
「もっと、ねえ、かずき」
「もうちょっとな」
「もっと!」
「こら、そうし」

 たしなめながらも、しょうがないなあと一騎が笑う。

「つかまってろよ」

 一騎がスピードをあげるたびに、そうしは歓声を上げた。
 まるで二人一緒に飛んでいるようだと思った。
 行く手の蒼に向かって。


     ***


 成長するにつれて、そうしが乗せてもらう場所は自転車の前から後ろになった。大きくなった身体ではシートに入らなくなってしまったのだ。
 チャイルドシートを前用から後ろ用に設置しなおしたとき、一騎はやたらと感慨深げにしていた。

「自転車に乗せたばかりの頃は、本当にちっちゃかったのにな」
 
 これもそのうちすぐに小さくなるんだろうなと、嬉しそうな、それでいて少しだけ寂しそうな顔をしていた。
 そうしも寂しかった。後ろから一騎に両手でしがみつける安心感は何ものにも代え難かったが、身体に風を受ける爽快感を味わえなくなったのは少し残念だった。
 一騎の背中しか見えないのも寂しかった。前に乗っていたときも一騎の姿を視界に収めることはできなかったけれど、すぐ後ろに一騎がいて、その視線を常に感じることができた。一騎の両腕に囲われて守られている気持ちになった。後ろからでは、それがない。
 一騎はいつもまっすぐに自転車を走らせる。綺麗に背を伸ばし、前だけを見つめて、空を飛ぶようななめらかさで。
 その姿に、そうしはときどき理由もわからない焦燥を覚える。勢いよく走る自転車から振り落とされて、そのまま置いて行かれてしまうのではという不安に駆られることさえあった。そんなこと、一騎が絶対にするわけがないのに。

 (――ぼくも自分で自転車に乗れるようになりたいな)

 そうしたら自分で、自分の望む場所に行ける。
 一騎と走ることだってできる。自分の力で。
 そう思いはじめるようになるのはいくらも経たないうちだった。その想いは、時の経過とともに、そうしの中でグングンと大きくなっていった。
 そして。
 保育園を卒業し、海神島学園附属小学校の、その年唯一の小学一年生として入学することが決まってから少したったある日の晩に、そうしは思いきってお願いを口にした。

「一騎、史彦おじさん、溝口さん」
「どうした、そうし」

 緊張にやや強張ったそうしの声に、左隣に座っていた一騎が首を傾げる。
 そうしは大きく息を吸い込んでから口を開いた。

「ぼく、自転車が欲しい」

 カタンと音がして、それからしんとなった。
 顔をあげると、一騎と史彦と溝口が、三人とも口を開いてそうしを見ている。
 揃って夕食をとっていた真壁家の全員が(溝口も含めて)、ごはんのお椀を片手にしたまま、おかずに伸ばす箸を、あるいは白米を口に運ぶ手を止めていた。
 三人にまじまじと見られて、やや動揺しながらそうしは理由を説明する。

「ぼく、一人で乗れるようになりたくて…その、入学式の日までに特訓しようかなって思って」

 乗せてもらっているチャイルドシートは、一騎が予想したように、そうしにはとっくに小さくなりはじめていた。
 保育園も卒業したのだし、小学校に上がる前に、自分で自転車に乗れるようになりたい。だがまだそうしは自分の自転車を持っていない。乗れるように練習するためには、まず自転車を買ってもらわなくてはいけない。
 いつもねだる前から与えてもらうことが多いため、そうしは自分でねだることがあまり得意ではない。馴染んだ家族相手のお願いだというのに、握った拳は汗をかいていた。

「だ…だめかな…」

 大人たちの無言の反応に思わずうつむいたそうしだったが、一拍置いて、うむと正面の史彦が頷いた。

「よし、俺が買ってやる」
「とうさん!?」
「いいの…!?」

 一騎が驚き、そうしは家長から下りた許可に顔を跳ね上げて明るい声を上げた。
 史彦は、黙っていると厳しく見える顔立ちを緩ませてそうしに頷いた。その目元は優しい。

「はじめての自転車だからな。丈夫でいいものを選びなさい。値段は問わない」
「父さんずるい!」

 なぜか抗議したのは一騎だった。一騎は箸を膳のうえにきっちりと並べて置くと、不貞腐れたように続けた。むっと、史彦が口を尖らせる。

「なにが問題だ」
「俺だって金を出す!」

 そうしの初めての自転車なんだから! とこちらも負けじと口を尖らせる。顔立ちが似ていないと言われる親子だが、その表情が呆れるほどよく似ている。更にそこにのんびりと溝口が割って入った。

「それなら俺にもかませろや」
「溝口おまえもか」
「そりゃあかわいいかわいい、そうし君のためだもんなあ」

 妙なことになったなと、そうしは幼心に思った。
 こういうやりとりをついこの前もやった覚えがある。そうだ、ランドセルだ、とそうしはすぐに思い出した。
 そうしが小学校に入学することになってからというもの、少しずつそうしの入学準備を進めている真壁家であったのだが、ランドセルを買う話が出たときにちょっとした問題が起きた。それを聞きつけた知り合いたちが、自分たちもそうしのランドセルを用意すると言い出したのだ。どんな色がいい、形がいい、欲しいものを幾らでもというとんでもない流れになりかけたが、ランドセルなど二つも三つも必要ではない。結局、スタンダードで実用的なものを、有志がお金を出し、みんなで購入するということで落ち着いた。
 オーダーメイドで作ってもらったランドセルは、そうしの部屋で出番を待って置かれているが、そうしは、毎朝起きてランドセルを見るたびに、この騒ぎのことを思い返し、卒業するまで大事に使おうとしみじみ決意をするのだった。
 一騎もそのことを思い出したらしい。

「またランドセルのときみたいになってきたな…」
「そりゃまあ、そうしが自転車欲しいって言いだしたって聞いたら、またみんな首突っ込んでくるだろなあ」

 溝口が頷きながら、赤蕪の漬物を口に放り込む。パリパリと咀嚼する音が響く中で、史彦が眉を寄せた。

「今回は、家族の問題として我が家でのみ買うということでいいんじゃないのか」
「だからそこは俺も入れてくれや」
「だから何故、溝口お前まで」
「一緒に食事をしてる仲じゃねえか」
「この際溝口さんは仕方ないだろ、父さん」
「む…」

 やたら白熱しはじめた大人たちを前に口をはさむこともできず、とりあえず自分もご飯を食べようと、子持ちニシンと一緒に煮つけてあるタケノコに箸を伸ばした。ニシンの出汁がよく染み込んだやわらかいタケノコをもぐもぐと咀嚼しながら、そうしはううむと考えた。

 (――ぼくが乗るものなんだから、ぼくがお金を出すべきなんじゃないのかなあ)

 そうしには自分のおこづかいがある。お年玉も毎年いろんな大人たちからもらうので、そこそこたまっている。なにより最近では、保育園の卒業祝がすごかった。けっこうな額になったので一騎が慌てて整理したほどである。
 これは保護者が管理した方がいいだろうということで、ふだん必要だろう少額のお金以外は、家長である史彦が預かっている。

『これ、そうしが持ってるお金の記録な』

 卒業式を終えたすぐあと、一騎がそうしに文庫本よりもさらに小さいサイズの薄い冊子を手渡してくれた。そうしがどういう理由でどれだけのお金をもらって、ぜんぶでいくら持っているのかわかるものだという。そうしの《通帳》だと教えてくれた。表紙にはボールペンでくっきりと「まかべ銀行 ふみひこ支店」と書いてある。

『もしそうしが自分のお金で買い物したいときは、父さんのとこに行って、理由と必要な金額を言えばお金を出してくれるから』
『史彦おじさんに?』
『ああ』

 一騎は神妙な顔で頷いた。後ろで聞いていた溝口が「海神島銀行 真壁支店のがいいんじゃねえか…」とボヤいていたが、一騎には聞こえなかったようだ。

『それで、お金をもらったら、ここにお金をつかったものの名前と金額を書くこと』

 言われるままに中を開いてみれば、文字と数字がずらりと並んでいる。一つ一つに、例えば、「西尾のおばあちゃんから お年玉として」「溝口さんから おつかいのお駄賃として」などなど丁寧に書き込まれていた。なるほど、こう記録していけばいいらしい。

『わからなかったら一緒に書こうな』
『うん!』
『俺がそうし君のお金を預かるのか…大役だな…』

 食後のお茶を啜っていた史彦が神妙な声で呟く。そこへ一騎が振り向いて声を掛けた。

『父さん、ちゃんと利子もつけろよ』
『つけるのか…』

 どの程度つければいいんだと悶々とする史彦をよそに、そうしの通帳に興味を示した溝口が、立ち上がりざまにそうしの手元を覗き込む。

『お、なんだそうし。俺より金持ちだなあ。今度おじさんにおごってくれや』
『ちょっと溝口さん、そうしにたかるとかやめてくださいよ』

 呆れた声で溝口をたしなめた一騎に、そうしは尋ねた。

『ねえかずき、りしってなあに?』
『ん、子どもみたいなもんだよ。お金の』
『え、お金って子どもできるの!?』
『そうだよ』

 そうしは驚いた。お金は持っているだけで子どもを作ることがあるのか。

『…お金ってすごいね』

 改めて通帳を見下ろしてしみじみと呟くそうしに、一騎もまた重々しく頷く。

『だから大事にしないとな』

 ――雑!!!

 このとき背後では史彦が絶句し、溝口でさえ白めを剥いていたのだが、真剣に一騎の話を聞くそうしは気づかなかった。お金の子どもってやっぱりお金だよね、どんな子なんだろうと考えていた。
 そんなことをつらつら思い出しながら自分の通帳について切り出そうと考えていたのだが、大人たちの間では話がまとまったようだった。

「じゃあ、そうしの自転車を買うお金は俺たち三人で割り勘ってことで」

 一騎が結論し、史彦と溝口が頷く。すっきりしたとばかりに、同じタイミングでグラスのビールを呷るのに、飲みすぎるなよと一騎がもはや耳だこの台詞をかけた。
 この分では今回もそうしの貯金を使うことなく終わりそうだ。「まかべ銀行 ふみひこ支店」のそうしの預金は、貯まるばかりである。

「本当にいいの?」

 尋ねたそうしの亜麻色の髪を、一騎が微笑みながら右手でくしゃりと撫でた。

「いいんだよ。お前、もう自転車の後ろに乗るのも窮屈になってただろ。乗せたほうが早いと思ってついつい乗せるばっかりになってたけど、そうしもそろそろ自分の自転車欲しいだろうなって、前から父さんたちと話してたんだ」
「そうだったんだ…」

 自分のことをちゃんと考えていてくれたことが嬉しい。今と、そしてこれからを見てくれることが嬉しい。

「ありがとう。史彦おじさん、溝口さん、一騎」

 箸とお碗を置き、姿勢を正してお礼を伝えると一騎が目を細めた。

「一騎の時間が空くときに、一緒に自転車屋さんに行ってきなさい」

 再び食事に箸をつけながら史彦が笑う。
 溝口もフキとワカメの味噌汁をすすりながら、楽しみだなあそうしと笑みを浮かべていた。
 それから二日後、約束した通り一騎の仕事終わりに、自転車屋でそうしの新しい自転車を買うことになったのだった。


     ***


「おや、一騎君。それにそうし君も」

 一騎の自転車の後ろに乗せられ、商店街の入り口付近にある、島唯一の自転車屋さんに辿りつくと、ちょうど店主が中から出てきたところだった。自転車を止めて降りた一騎とそうしを見て、目を細めながら尋ねてくる。

「空気を入れに来たのかい? それとも調整が必要かい?」
「いえ、ちょっと新しく自転車を買いに」

 そう一騎が言うと、店主が大きく目を見開いてそうしを見た。

「ひょっとしてそうし君の」
「そうです」
「へーええぇそっかそっか。自転車に乗るのか。そうときたら中に入ってくれ。たくさん揃ってるよ!」

 しかしもうそんな年かあとやたらと感心されて、少し居心地が悪い。そうしは思わず一騎の手を掴みながら、そろそろと案内された店内に足を踏み入れた。
 外よりひやりとした空間に、ゴムや油のにおいが充満している。床は油であちこちが黒くなっていて、自転車の整備に使うのだろう様々な道具が、入れ物と一緒に雑然と転がっている。その壁際に、いろんな自転車が所せましと並べられていた。

「子供用は、このあたりだねえ」

 言われた場所を見てみると、小さな自転車たちが身を寄せ合うようにして置かれている。大人用に比べてどれも色が鮮やかだ。ピンクもブルーも黒もある。とにかくやたらとカラーバリエーションが多い。色を決めるだけで悩んでしまいそうだ。

「人気の色とか形ってあるんですか?」
「そりゃあこれだね」

 一騎の質問に、店主は店の壁を指差した。
 そこには真っ白なカラーリングの自転車がかけられている。ところどころに鮮やかなエメラレルドグリーンの模様がデザインされ、全体的に細身の造りの自転車だ。悪くはないけど、どうかなあとそうしが首を傾げていると、「あー…」と一騎が声をもらす。一瞥してから口を開いた。

「汚れるから却下」

 現実的な視点から、すげなく選択肢から除外された。まあ取り扱いがちょっと難しいかねえと店主は肩を竦めて笑っている。

「じゃあ、この自転車なんかどうだい!」

 男の子ならきっと好きだぞーと紹介された自転車に、今度はそうしが眉を寄せた。

「ぼく、それやだ」
「「え!」」

 店の主人が凍りついた。一騎もなぜか一緒に声を上げて固まった。
 主人が自信満々に示したのは、鮮やかな紫に差し色でオレンジと緑が入った自転車だった。
 すごく嫌いではないけど、仲良くなれない気がする。そんな気がする。
 そうしは睨むように自転車を見つめながら、思ったことを口にした。

「なんか…はでだし…」
「派手…」
「ちゅうにびょうっぽい」
「ちゅうにびょう」

 総士が呟くたびに、一騎が呆然と繰り返す。

「そっか、そうし…お前これ嫌なのか…」

 なんとも複雑そうな様子なので、じゃあ一騎は好きなのかと尋ねようと顔を上げると、なぜか一騎は外の方をなにかを哀れむようなちょっと遠い目で見ていた。

「カラーリングって変えられないよな…たぶん」
「一騎?」

 そっちはアショーカしか見えないよ、一騎。

「あ、ごめんそうし。ええと、じゃあどれなら好みだ?」

 はっと我に返った一騎に尋ねられ、ううんと唸りながらもう一度店内の自転車をじっくりと眺める。さらに近づいて一つ一つ覗き込み、少し悩んだ末に、一台の自転車に目を留めて指差した。

「これがいい」

 それはシンプルな深い灰色の自転車だった。全体的に落ち着いた色合いで、差し色の黒が洗練された印象を与える。

「いいんじゃないか?」

 一騎も納得したように頷いた。
 もう一度二人で細かく見てから、やっぱりこれにしようと購入が決まった。
 店主がそうしに合わせてサドルの高さを調整し、急ブレーキやペダル、タイヤのメンテナンスをする。次は自転車に乗って来ておくれとあたたかく励まされて、店を出た。
 自転車をひいて、一騎と二人で夕暮れに沈んでいく街並みを歩いて帰りながら、そうしは弾む心を押さえきれずにいた。
 海神島の坂を自分の手で下っていく日が、楽しみでならなかった。

「溝口さん、自転車の乗り方のこと教えて」

 家に帰り、夕食を食べたあと、そうしはお茶を飲んでいた溝口のところに本を抱えて近寄った。
 島の公民館の一角にある図書コーナーから、先日借りてきた、自転車の乗り方について書かれた本だ。さっそく開いて目を通したのだが、解説がところどころ理解しきれなかったのだ。

「へーえ、そうしは本から学んで理解しようってかあ」

 やーそいつはどうだろうなあと溝口はにやにや笑っている。

「だって、取り扱い方とかちゃんと読んで勉強しなきゃ」

 そうしは真剣にそう考えていた。

(――だって、自転車の乗り方…なんて浮かんでこないよね…)

 そうしには、ときどき頭の中で声が聞こえるときがあった。それは、目の前にあるそうしの知らないこと、わからないことを教えてくれた。とりわけ幼い頃はその機会が多く、そうしもとくに不思議に思うことなく、その現象を受け入れていた。
 だが、あるときそうしが口にしたことに一騎が驚き、史彦が眉を寄せて、なぜか遠見先生の病院に連れて行かれたことがある。そうしには目の前で交わされるやりとりがよくわからなかったが、《メモリージング》という言葉が何度か出てきたことは覚えている。大人たちが会話する横で、それってなあに?とそうしは自分の中に問いかけたが、返る声はなかった。
 家に帰ったあと、僕はどこかおかしいの? と不安になって一騎に聞いたが、一騎はそんなことはないときっぱり言った。大丈夫だと繰り返して、そうしを両腕で抱きしめた。一騎の腕は少しだけ震えていて、そうしは自分のことよりも一騎の方が心配になった。
 今も、定期的に遠見先生のところへ診断に行くが、特に大きな問題は起きていない。結局、そうしは自分に起きていることの原因を理解できていないが、一騎が大丈夫だというのなら何も疑問に思うことはないのだろうと、そうしは考えている。
 あれから声が聞こえることもほとんどなくなった。それでもどこか遠くから声が響くように思うときもある。あるいは、そうしが聞こえていないと思っているだけで、夢の中などではもっとはっきりと聞いているのかもしれない。
 いつも朧で、朗読のような、それでいて語りかけるようにして響く声。一騎ともまた違う、どこか懐かしい…安心する声。
 こういうときこそ何か教えてくれたらいいのになと、解説本をパラパラとめくっていると、突然背後から伸びてきた手にひょいっと取り上げられてしまった。

「そうし、予習はここまでな」
「一騎!」
「自転車は頭で乗るものじゃないだろ。だからここまで。明日に備えて早く寝ろよ」

 練習するんだろ、と言われて総士はうっと言葉を飲み込んだ。


     ***


 そして翌日。
 このギャラリーはなんだと、そうしは無言で立ちつくした。
一騎に手伝ってもらって坂道が終わるところまで自転車を下ろし、練習に適した平坦な道を探して辿りついた場所には、なぜか見知った面々がずらりと並んでいた。
 近藤咲良に、水鏡美三香、御門零央、西尾里奈や春日井甲洋もいる。

「なんで…」

 呆然とするそうしに、咲良が「そりゃ見ないとでしょ!」と腕組みをした。練習をするそうし以上にやる気に満ち溢れた姿だ。

「診察に出かけてる剣司の分もあたしが見るから、しっかりやんなさい」
「そうしちゃん、頑張ってね!」

美三香が両拳を握ってそうしに声をかける。その横で、零央がやたら頼もしげな笑みを浮かべて頷いている。里奈も腰に両手をあてて、頑張んなさいよ! と激励を寄越した。

「鏑木も来たがってたんだけど、あいつ仕事抜けられなかったらしくって。あ、おばあちゃんもあとから見にくるって言ってたから」
「それ、お店は…」
「西尾商店は今日は緊急閉店です」

 ドヤ顔で宣言されて、この島の人はみんな大丈夫なのかなとそうしは声を失った。
 一騎が家を出る前に「そうし、ごめんな…」とうな垂れていたのはこれかと察する。
 新しい自転車のハンドルを握ったまま、一騎の顔をオロオロと見上げると、一騎が申し訳なさそうに眉を下げてそうしに詫びる。

「ほんと、ごめんな…お前が自転車買ったってこと、みんなに知れ渡っちゃってて…とうさんも職場で自慢しちゃったらしくて…俺もつい楽園で…」
「まあしょうがないよ。みんなそうしのことには興味津々なんだから」

 甲洋が諦めろとばかりに一騎を慰めているが、甲洋がここにいるということは、もちろん喫茶楽園も休みということだ。しょうがないどころではなく同罪だ。それをまったく気にした風もなく、甲洋はそうしの頭をくしゃくしゃと撫で、無茶はするなよと言ったあとに続けた。

「しかし、今日は操がいなくて良かったな」
「甲洋、そんなこといってホントにあいつが来たらどうすんだ」

 一騎が呆れたようにため息を吐き、そうしも内心でうわあと思った。
 操というのは、来主操と名乗る青年のことだ。
 どうやら普通の人間ではないらしいということだけ、そうしは知っている。とにかく好奇心が旺盛で、少しでも知らないこと、興味をひかれるものがあると、ぐいぐいと頭を突っ込んでくる。綺麗な空が大好きで、そうしと同じで少しだけ犬がこわい彼のことが、そうしも大好きではあるが、何分彼が関わると賑やかなどではおさまらない騒ぎに発展することもある。
 ここに操がいたら「自転車? 自転車に乗るの? そうしが? 俺も! 俺も乗りたい、俺も自転車乗る!!」と言い出すことは間違いなく、申し訳ないが、これ以上の大事になるのはさすがに勘弁してほしい。
 確かにいなくて良かったと安堵したところで、背後からかけられた声に、そうしはびくりとなった。

「あ、いたいた」
「真矢おねえちゃん! 美羽おねえちゃんも…」

 振り向くと、遠見真矢が姪である日野美羽を連れてやってきたところだった。遠見の隣で、美羽がにこにこと手を振っている。その手には、真矢がよく手にしているカメラがあった。

「えへへ、時間できたから美羽ちゃんと来ちゃった。そうしくんも自転車に乗るような時期になったんだねえー」

 遠見の柔らかな声でしみじみと言われてくすぐったい。

「一騎くんと買いに行ったの?」

 少しドキドキしながら、そうだよと、そうしが答えると遠見が微笑んだ。

「そっかあ」

 ぴかぴかの自転車うらやましいな、とくすくす笑う。彼女もよく自転車に乗る人だ。オレンジ色の髪をきらきらなびかせて青い海をバックに走っているのを何度も目にしている。
 つい昨日買いに行ったばかりだと一騎が口を添えたのに、遠見は口を尖らせる。

「一騎くん、ずるーい」
「ごめん」

 あからさまにうろたえた一騎に、遠見はもう一度笑った。冗談だよ、と目を細めながら一騎を肘で小突いているのを横目に、それにしても、とそうしは改めてしみじみ周囲を見回した。
 この人数の前で、まだ一度も乗ったことのない自転車の初練習をするというのか。どんな羞恥プレイだ。娯楽の少ない島だとはいうが、それにしてもお祭り気分にもほどがあるのではないだろうか。
 これは、あれだ。そうしが初めておつかいをこなしたときと一緒だ。
 あのときは本当にひどかった。なぜか取材まで申し込まれ、翌日の海神島新聞に載ったばかりでなく、「そうしのはじめてのおつかい」とかいう番組名で全島放送された。
 実のところ、そうし自身はその騒ぎの全容を知らない。一騎から夕食に使う鶏肉のミンチと大根と玉ねぎを買うという初任務を命じられ、使命感と興奮で頭がいっぱいだったためだ。
 しかも買い物を終えた先で、なぜか自宅で待っているはずの一騎に迎えられ、やたらめったらぎゅうぎゅうと抱きしめられたことは覚えている。
 まさかそれが島中に放送されるほどの騒ぎになっていたなど知るはずもない。もっとも、騒いでいたのはとりわけ見守る側で、保護者である真壁家にいたっては、一騎は顔色を失ったままエプロンの裾を握りしめて中継画面をガン見、その横で史彦も提供される煎茶をひたすらにお代わりしながら、同じく険しい顔で画面を覗き込んでいたというのだから相当だ。海神島も平和になったもんだとしみじみ感想を述べたのは、西尾商店のおばあちゃんだったとかそうでないとか。
 ちなみに、同時に「来主操のはじめてのおつかい」も放送されたのだが、おつかいの内容としてはそちらの方が惨劇具合がひどく、放送事故として海神島放送局の歴史に残るインパクトを植え付けた。もはや伝説回となっている。
 そうしが放送のことを知っているのは、なぜかその番組を録画したものを、真壁家では恒例のごとく正月にみんなで見るからである。そろそろいい加減にやめてほしいと思っているが、史彦も一騎も感慨深く真剣に見るので、何も言えないままでいる。
 ちなみに溝口は見るたびにげらげらと笑っている。彼が笑っているのはそうしの姿ではなく、それを見守る真壁親子の様子なのだが、どっちにしろ恥ずかしい記録であることに違いはない。
 歩くとぴこぴこと音が鳴る靴をはき、ひよこの形のリュックサックを背負った自分が真剣な顔で買い物メモを握りしめて海沿いの道を歩いている姿など、そう繰り返し見たいものではない。
 自分が大切にされているのはわかる。成長を見守ってくれているのもよく知っている。しかしそれとこれとは別だ。いつかすべての記録映像を無に返したいと考え、その機会を伺っているそうしだが、まだ契機は訪れない。
 もはや遠い目でそんなことを思い返していると、何かに気づいた一騎がそうしの顔を見て真顔で告げた。

「大丈夫だ、そうし。今回は取材は断っといた」
「うん…」

 こうなると、なにが大丈夫なのかそうでないのか判断さえ不明だが、この様が放送されないのならいいやと思うことにする。
 出鼻を散々に挫かれ、もはやどのタイミングと勢いで自転車に乗ればいいのかもわからなかったが、いつまでもこうしてはいられない。練習の時間は限られている。

「じゃあ、えっと、乗ってみるね」

 全身に突き刺さる視線を意識しないように努めながら、そうしは皆に背を向けて、誰もいない道へとハンドルを向けた。まだおぼつかない動作で車体を跨ぎ、サドルに腰掛ける。
 海から吹きつける風を感じながら、頭のヘルメットをかぶりなおした。今日ばかりは、しっかり一つに結わえているとはいえ、伸ばしっぱなしの髪の毛が少しだけ煩わしい。
 頭の中で予習した内容を繰り返す。ハンドルを握る。足をペダルにかける。
 シミュレーションは何度もした。あとは実践あるのみ。
 大きく息を吸い込み、そして吐きだす。
 ハンドルを握る手に力を込める。ペダルを大きく踏み込み、そして。

 ――盛大にこけた。

 視界がグワンと揺れたと思う間もなく、ズシャアという音とともに、全身が地面へ放り出されて叩きつけられる。
 悲鳴を上げたのは見守っていた方だった。

「そ、そうしっ!!!!??? 大丈夫か、そうし!!!」
「そうし君、平気!!??」
「そうし!!??」

 慌てた一騎をはじめとして、みんながばたばたと駆け寄ってくる音を聞きながら、地面につっぷしたそうしは起き上がる気力もなく呻いた。
 遠くで、からからと車輪が虚しい音を響かせていた。
 擦れた膝こぞうがめちゃくちゃ痛かった。


     ***


 その後も、そうしの自転車特訓ははかどらなかった。
 初日はギャラリーの多さもあったし、緊張もあっただろうからと理由をつけることができたが、三日、四日たってもまったく進展がみられない。
 最初からそうしにプレッシャーを与えすぎたのではと大変反省した面々が引きさがり、練習風景はかなり静かなものとなった。
 それでも常に一騎か、史彦や溝口、ときには甲洋や真矢などが、そうしの練習につきあってくれている。途中まで後ろを支えてもらい、走れそうなところで手を離してもらうという定番の練習法を試しているのだが、最長でも5メートル進んだところでバランスを崩すのが常だった。
 基本的になんでもそつなくこなしてきたそうしにとって、これは大変落ち込むことだった。
 かつてなく手足を擦り傷だらけにし、絆創膏やガーゼのお世話になっている。
 一騎が手当してくれるのだが、怪我をしたわけでもない一騎の方が痛々しい顔をしているのが、またどうにもつらい。
 溝口などは、この機会にどんどん怪我しておけと笑い、限度があると一騎に小言を食らっていた。
 増えていくばかりの絆創膏をさすりながら、そうしは溜め息をつく。
 固定されていないハンドルを操りながら両足を地上から離してペダルを漕ぐ。漕ぐ速度は一定でなければならない。それでいて、ある程度スピードがつくまではバランスが保てない。
 スピードをいきなりつけるのは怖い。だがそうでなければ進まない。堂々巡りだ。どう考えても無理だ。
 そうしはいくつものことを同時に考えるのが苦ではない。むしろ得意といっていい。だが、身体がついてこないのだ。
 どれだけ自転車の乗り方について知識を取り入れても、こうなってはお手上げだった。

 (――こんなとこで、立ち止まってる場合じゃないのに)

 いそがなくちゃ。いかなくちゃ。
 だって、ぼくは、たどり着かなくちゃ。
 
 そうしはときどき、そんな感情に支配されるときがあった。
 焦燥が胸を焦し、すぐにでも立ち上がってがむしゃらに走り出したくなる、そういう衝動だ。
 このままではいけない、進まなければ、先へ、先へ。――先へ。
 そうしてふと我に返って呆然とするのだ。どこへ? と。
 今も、そんな焦りがちりちりとそうしの幼い心を焼いては掻き乱す。自分を落ち着けようと息を吸い込み、子供らしからぬ溜め息を洩らす。
 どうしたらいいんだろうと、胸の上に手を置いて問いかけてみる。だが、どこからも返る声はなかった。


 その晩、寝る前に絆創膏を貼り替えてもらいながら、そうしは一騎に尋ねた。

「一騎はどうやって自転車に乗れるようになったの?」

 この家で暮らすまで自分の自転車は持っていなかったとはいえ、一騎はときどき遠見などに借りるなどして自転車に乗ることはあったらしい。今でこそ自在に自転車を乗りこなす一騎にも、初めて自転車に乗った瞬間というものがあったはずだ。
 一騎は思い返すように首を傾げた。

「うーん…俺は跨ってみたら漕げてたからなあ…」
「……」

 まったく参考にならない。薄々察してはいたが、それにしてもひどい。
 もともとずば抜けた運動神経を持つといわれている一騎だけに、自転車に乗れなくて困った経験などないのだろう。

「そのうちみんな自転車に乗れるようになって、ぼくだけ乗れないのかもしれない…」

 自分より年下の子供たちが自転車を自由に乗り回す中で、自分だけが何もできずにいる状況が思い浮かんで、そうしは思わずぽつりと零した。
 肩を落としてうなだれるそうしに、一騎はくすりと優しい笑みをもらした。

「俺の友達も自転車に乗れなかったよ」
「一騎の友達?」
「そ。女の子と…男の子」
「どうして?」
「女の子の方は、すごく身体が弱かったんだ。学校に通うこともできないくらいで、いつも痛いのをこらえてて。だから自転車の練習だってできなかった。身体は弱いけど、意思はすごく強い子で、俺は…その子をいつか自分の自転車に乗せてあげるって約束したんだ」

 約束は果たせなかったけど、と懐かしむように目を細めて語る一騎に、なぜか胸がしめつけられるような感覚を覚える。一騎がここに来て自転車を買ったのは、もしかしたらその約束も関係していたのかもしれない。

「男の子の方は?」

 そうしが続けて尋ねると、一騎は少し躊躇うようにしてから、一拍置いて小さく続けた。

「…片目が見えなかったから…乗れなかった」
「片目…」
「…左目の傷のせいだ。視野や平衡感覚の懸念があって…自転車には乗らなかった」

 治ってからも、結局乗ることはなかったけどな、と一騎は眉を下げて笑った。

「前に住んでた島は、ここよりもっと急な坂が階段と一緒に入り組んでるようなとこだったから、自転車が一番便利ってわけじゃなかった。それにあいつ…研究だのなんだので部屋にこもりがちだったし」
「じゃあ、もし遠くに出かけたくなったときはどうしてたの?」
「俺の後ろに乗ってたよ」

 そうしと一緒だな、と一騎は笑った。
 一緒、と内心で繰り返してからそうしは思った。
 自転車に乗れなかった二人。一騎が乗せてやりたいと願い、あるいは乗せて走ったという一騎の友達。

 本当は、一緒に走りたかったんじゃないかな。
 一騎と並んで、自分の足で走りたかったんじゃないかな。

そうしはそんな風に思った。

(――だって、ぼくなら、一騎と走りたい)

 一騎の後ろに乗るのは好きだ。背中に抱きついて、まるで一騎と一つの風になったような気になれる。一騎が向かう場所に、乗っているだけで一緒に行ける。
 でも、それだけでは満足できなくなっていた。
 それに、そうしも一騎を乗せてみたかった。
 そうしが見せたいと思う場所に一騎を連れて行く未来を、そうしは何度か夢想した。
 例えば、楽園のような場所へ。
 あるいは故郷だと、一騎が教えてくれた場所へ。
 それが海の向こうだって、一騎と一緒に行きたかった。
 でも、自転車にさえ乗れない今の自分ではなにもかもが叶わない。

「ぼくも乗れないままだったらどうしよう」

 項垂れる総士に、一騎は微笑んだ。

「お前は乗れるようになるよ」
「ほんとに?」
「ああ、ほんとに」

 自分の足で走っていくよ。お前なら、と一騎は柔らかく目を細めてそうしの頭をくしゃりと撫でた。


     ***


 あれから更に三日が経った。だが、あいかわらずそうしは上達しなかった。
 身体的な疲弊以上に、精神的に疲れを感じはじめている。
 つきあってくれている一騎は何も言わないが、家事に使う時間を自分に割いてくれていることを、そうしは知っている。これ以上一騎の時間までを無駄にはできなかった。
 その日も、あと少しで日が暮れるぎりぎりまで練習をしたところで、一騎が時計を見てそうしに尋ねた。

「そろそろ時間になるけど、どうする。もう少しやるか?」

 そうしは少し考えてから、ぐっと足元を睨みながら答えた。

「もういっかい、乗る」
「わかった」

 あと一回な、と一騎は笑うと、再度自転車に跨ったそうしの後ろに回る。自転車の車体を支え、そうしがバランスを整えたところで声をかけた。
 ハンドルを握り、ペダルに足をかける。もう何度となく繰り返した動作。

「いいか、手を離すぞ」
「うん」

 そろそろと自転車が進みだす。背中から、気遣うような一騎の視線を感じる。思わず奥歯を噛みしめた。

(――あきらめたくない)
(――自転車に乗れるようになりたい)

(――あきらめるもんか)

 自分の自転車が欲しいと思ったのは、自分でペダルを踏みたいと思ったからだ。
 ただ連れて行ってもらうのではなくて、自分の意思でついていきたい、あるいはその先へ進みたいと思ったからだ。
 前に乗せられているときも、後ろに乗っているときも、一騎の顔が見えないのがいやだった。
 そばにいるのはわかっている。息遣いも、体温も感じられる。
 それでも、足りないと叫ぶ心があるのだ。
 もっと先へ。もっと近くへ。一緒にと。
 心は逸るのに、身体が追いつかない。そのもどかしさに地団太を踏みたくなる。悔しさと焦燥だけが胸を焦がす。心と身体がばらばらになりそうだ。
 前を見ていなければならないのに、足元ばかりが気になってしまう。どこを見ればいいのか、どう進めばいいのか、わからない。どこに行けば、いいのかも。でも立ち止まることはしたくない。
 葛藤とともに、視界が揺れた。

(――あ、だめだ。)

 ハンドルを握る腕が震え、ぐらつく。ペダルをこぐタイミングを見失う。思考が真っ白になる。
 またこける、と思ったときだった。

 ――踏み込め。

 どこからか、声がした。

(――え?)

 なんだろうと考える間もなく、そうしは反射的にペダルを踏む足に力を込めていた。
 ぐんっと力が加わって、自転車がひっぱられるように前へ向かう。同時にあれほどぐらついていた自転車が安定した。

(――うそ。)

 信じられない思いで目を見開く。それでも踏み込めと言われたまま、足を動かす。右、左、右と。
 そのたびにゆっくりと自転車のスピードが上がっていく。
 強張っていた身体は、自然を取り戻し、両手はしっかりとハンドルを握っていて揺らがない。
 身体がすうすうとする。すべてが心許なくて、走っているはずの地面から、車体ごと浮き上がってしまいそうだ。
 一騎はどうしてるだろうか。今の自分が見えているだろうか。それに声は。声はいったいどこから聞こえたのだろう。
 気になって気が逸れそうになったが、それを再び響いた声が打ち消した。

 ――振り向くな。進め。

 ――前へ。

 声は力強かった。張り上げるわけでもないのに凛と響く。
 そうしの身体の中に。
 ああ、あの声だと気づく。物心ついたときから、ときおりそうしに色んなことを教えてくれた声。
 かつてなく明瞭なその声は、過ぎ去る風の中から響くようであり、耳の奥、そうしの内側から響くようでもあった。今まで聞いた中で、もっとも明瞭で、一言一句はっきりとそうしに届く。
 聞くものを励まし、先へ導く声だった。
 そうしはその声に押されるように、前を見据えて再びペダルをこぐことに集中した。

 左、右、左、右。
 振り向くな。進め。背を伸ばして、前を見て。ただ、逸らさずに前を。

 気づくと、ぐんぐんと風を切っていた。

(――すごい。)

 心の中で歓声を上げる。
 そうしは目を見開いてその感覚を味わった。
 全身で風を受けている。
 見知った景色があっという間に飛び去っていく。同時に、体の中の余分なものもいっしょに吹き飛んでいくようだった。

 (――飛んでるみたいだ)

 一騎の運転で走る感覚とはまったく違う。息を切らせながら、自分の手足を広げて飛んでいる。
 顔にあたる風が少しだけ痛い。
 ビュウビュウという音が耳元でなり続けている。
 風さえ追い越して走っている。
 違う、そうしが風になっている。
 まっすぐに前へと進めと諭す声に従い、そうしは走り続ける。
 その行く手にアショーカの姿が見えた。
 天高くそびえ、雲を貫きながら碧色に発光する海神島の世界樹ユグドラシル。みんなの守り神。
 いつもは遠くに望むだけの姿が、今はとても近く見える。
 このまま、このまま走っていけば、アショーカのところにだって行ける。そんな気がする。
 そうだ行ける。そして、行かなければいけない。辿り着かなければいけない。
 知らず、ハンドルを握る手に力がこもる。さらにスピードを上げようとして、だが、それを留めたのはやはりあの声だった。

 ――焦るな。ゆっくり行け。

 声は穏やかで、なだめるような響きを持っていた。そして、ほんの少しだけ笑っていた。

 ――お前の足で、お前の速度で、進んでいけ。

 まだ、そのときではないのだと思った。誰に言われるのでもなく、そういうことなのだと悟った。
 急がなくていい。焦らなくていい。それを許されている。
 そうして、今、ここにいる。
 そうしは息を吸い込み、そして吐きだすとやがてブレーキをかけて減速し、自転車を止めて足を下ろした。いつの間にか息が上がっていた。ずいぶんと必死に漕ぎ続けていたらしい。
呼吸を整えながら後ろを振り向けば、思った以上の距離を走ってきていた。
 スタート地点にあった建物が小さい。その前で待っているだろう、一騎の姿も豆粒ほどにしか見えない。
 いちおう片手を上げて振ってみたが、見えただろうか。
 急いで戻らないと、一騎が心配して追いかけてきてしまうかもしれない。
 戻らなければと思った。一騎のところへ戻ろうと。
 ここまで自分の力で走ってこられた。ならば、帰ることもできる。
 一騎の待つ場所へ。
 いったん自転車を降り、行く手を楽園へと向ける。
 アショーカを背中に、しっかりとハンドルを持ち背筋を伸ばして、もう一度サドルにまたがった。
 もう恐れもためらいもなかった。足をペダルに乗せ、力を込めて漕ぎ出した。
 その背中に優しく誰かが触れた気がした。
 ふわりと身体を包む風の中で、その誰かは笑っていた。


     ***


 その晩は、そうしが自転車に乗った祝いだとかで、やたらと豪勢な夕食だった。…と思う。というのも、自転車に乗れた興奮と疲れとで、そうしはずっと意識がふわふわしていたためだ。史彦や溝口がしきりに褒めてくれていた気がするが、それさえも記憶があやふやだった。そして風呂に入ったあと、そうそうに寝落ちてしまった。

 そうしが目を覚ましたのは、まだ窓の外が真っ暗な時間だった。
 部屋の中はしんと静まり返って、何の音も聞こえない。中途半端に覚醒した意識は、そうしに眠ることを許してくれず、そうしは水でも飲もうと布団から抜け出した。自分の部屋を出て、冷たい板張りの廊下をぺたぺたと歩いていたときだった。
 ふいに一騎の声が聞こえた気がして、そうしはそっと居間を覗き込んだ。

(――一騎?)

 こんな時間に、誰かと電話でもしているんだろうかと不思議に思って、そうしは目に入ったものに息を飲んだ。
 部屋の明かりを消したまま、中庭に続く縁側の窓を開け放して、一騎が柱にもたれて座っていた。その姿は月明かりに照らされて、白々と闇に浮かび上がっていた。一騎から伸びた淡い影が、居間の畳に落ちている。
 電話をしている様子はない。この場所には、一騎しかいない。だが、月を見上げながら微笑む姿は、まるでそこに誰かがいるかのようだった。
 口端が引き上げられて、緩やかな弧を描く。綻んだ口元が開かれ、一騎の声が部屋に響いた。

「そうしがさ、今日自転車に乗ったんだ」

 見えない誰かに語りかけるように、一騎は言った。

「お前、くやしいだろ」

 親しげな物言い。どこかからかうような口調で続けたあと、ふっと目を細めて笑った。

「違うか。…嬉しいよな。お前は、そう言うんだろな」

 呟くように、噛みしめるように、そう言って静かに微笑む育ての親の横顔に、そうしは知らず見入っていた。
 月明かりにぼんやり照らされながら、一騎はもう一度笑った。まるで、そのまま月の光に溶けていくような、淡く儚い笑みだった。
 いつだって、そうしのそばで揺らぐことのない存在であり続ける一騎が、今この瞬間に透きとおってそのまま消えてしまうような気がして、そうしはぞっとする。とっさに声を上げて一騎の名を呼ぼうとしたときだった。
 一騎は、一瞬泣きだす寸前のように顔をくしゃりと歪めてから、目を伏せて微笑んだ。

「俺も、嬉しい。…総士」

 ――心臓が跳ねた。
 一騎が口にしたのはたしかに自分の名であるはずなのに、一騎が口にした声音に、そうしは動けなかった。
 今まで聞いたこともないような、優しく、どこか甘さを含んだ声だった。居たたまれなくなるほどに、柔らかい。
 立ち去らなければとふいに思った。自分はここにいてはいけないとも。
 焦りのうちに身を返そうとして、ギシリと足音を立ててしまった。

(――あ)

「そうし?」

 しまったと思った時には、一騎がこちらを見ていた。大きく目を見開き、首を傾げている。そこに先ほどの危ういような透明感はどこにもない。錯覚かと思うほどに、そうしが知るいつもの一騎だった。

「あの、一騎、」
「どうした。喉が渇いたのか」
「そうじゃないんだけど、えっと」

 どう答えたらいいのかわからず、入り口に立ったまま、視線を揺らがせてまごついていると、一騎がふっと目を細めた。

「…おいで、そうし」

 一騎が両腕を差し伸べる。その優しい仕草と柔らかい笑みに、吸い寄せられるように近づく。そばにたどり着くと同時に抱き込まれ、背後から抱えられるようにして一騎の膝の上に座らされた。

「おまえ、重たくなったなあ」

 笑いを含んだ声でしみじみと言われて、そうしは思わず口を尖らせた。

「一騎、史彦おじさんと同じこという」
「んー親子だからなあ」
「じゃあぼくもそうなる?」
「そうだな。そのときになれば、わかるよ」

 そのときに、なれば。
 一騎に優しく抱きしめられながら、その返答にそうしは何も言えずにいた。
 誰と話してたのとか、どうしてそんなに寂しそうなのかとか尋ねたかったのに、口が縫いつけられたように開かない。
 一騎がそうしをあやすように身体を揺らす。
 一緒にゆらゆらと揺れながら、そうしは一騎の温度に身体を任せることにした。先ほどまで体の中に燻っていた感情が、次第にほどけていく。昼間、自転車に乗って感じていた清々しさとは異なる、静かすぎるほどに穏やかな安らぎがここにあった。
 しばらく沈黙に身を委ねていると、一騎がしみじみと呟いた。

「今日のお前、すごかったなあ」
「ぼく、すごかった?」
「すごかった。いきなりスピードがついて走り出すから」

 ちょっと焦ったと一騎は笑った。

「お前、どこまでも走って行っちゃうから、」

 置いていかれたみたいに思ったと、続ける声がかすかに震えているように聞こえて、そうしは胸の奥をキュウと掴まれたように思った。

「まるで、飛んでるみたいだったよ」

 ぎゅっと抱く腕に力がこめられるのを感じながら、一騎も不安になることがあるのかと思った。
 一騎に追いつけないのも届かないのも自分なのに。
 自転車から降りたそうしを声もなく抱きしめた一騎の腕のあたたかさと力強さを思い出す。
 すごいなと、良かったなと繰り返し一騎は誉めてくれたけれど、もしかしてそれだけではなかったのだろうか。
 先ほど目にした、今にも月光に透けてしまいそうな一騎の姿を思い出す。
 そうしを抱える一騎の腕にぎゅうっとしがみつきながら、そうしは一騎の胸に頭をすり寄せた。

「ぼく、ちゃんと一騎のところに戻ったよ」
「そうだな」
「ちゃんと帰るよ」
「…知ってるよ」
「一騎は、ぼくのそばにいてね」
「俺はここにいるよ。そうしのそばに」

 そうしの頭の上で一騎が笑う。
 その笑い声はさらさらと葉ずれの音のように降ってきて、そうしの中に降りつもる。

「だから大丈夫だ」

 まるで言い聞かせるような声だった。自分と、そしてそうしに。

 ――大丈夫。

 とたんに安堵を覚え、遠のいていた眠気がそうしに再び襲いかかってくる。
 その声に促されるようにそうしは目蓋を閉じた。
 何もおそれなくていいのだと、そう言われている気がした。
 今の自分のままでいいのだと。

「寝たのか、そうし?」

 そうしを抱きしめる一騎の声が遠くなっていく。
 髪の毛を優しく梳かれ、頬を撫でる感触があった。

「…おやすみ。そうし」

 今はまだ、このままで。
 眠れ、と穏やかに重なるあの声がした。


     ***


 目覚めは爽やかだった。
 いつのまに布団に寝かされたのか、そうしはいつも通り自分の部屋でぱちりと瞼を開いた。身体を起こして自分の両手を見下ろす。
 昨日の出来事を思い出して、じわじわと身体の奥から熱がわきあがってきた。
 気づいたら、上布団を跳ねあげていた。着替えるも忘れて、寝間着のままで部屋を飛び出す。

「一騎!!」
 
 大声で名前を呼びながら居間に駆け込むと、台所でちょうど味噌汁をかきまわしていたらしい一騎が、目を見開いてそうしを振り返った。
 新聞を読んでいた史彦と、出し巻き卵の乗った皿を手にした溝口も驚いてそうしの顔を見ている。
 そうしは朝の挨拶もそこそこに、台所の一騎のところまで駆け寄って、一騎のエプロンを掴んだ。

「どうした、そうし」
「一騎、ぼく、ぼくね、」
「うん?」
「自転車に乗れるようになったんだよね!?」

 興奮のうちにそう尋ねると、一騎はキョトンとしたあとに破顔した。

「そうだよ。もう自転車に乗れるんだよ、そうし」

 その言葉に、胸の内にで何かがぶわりと膨らんで、全身に広がっていく。

(――本当に自転車に乗れるようになったんだ、ぼくは)

「なんだなんだ、夢だと思ったのか?」
「夢じゃないけど、でも夢だったら嫌だと思って」

 溝口に面白がるように尋ねられて、思わず頬を染めながら俯きぎみに答える。
 昨日のことは、何もかも、まるで本当に夢のようで、どこまでが本当のことなのか、とっさに分からなくなってしまいそうだった。でも、自転車に乗れたのは夢じゃない。
 どくどくと脈打つ心臓を押さえて、大きく息を吸って吐きだす。

「ねえ、一騎」
「ん?」

 おたまを右手にしたまま首を傾げた一騎を、もう一度真剣な顔で見上げて、そうしは自分の決意を口にした。

「一騎が自転車乗れないときは、ぼくが一騎を乗せてあげるから!」
「へ」

 一騎がぽかんと口を開けて呆気に取られる横で、溝口が大きく吹き出した。史彦もわざとらしい咳払いをしていたが、大真面目なそうしはまったく気づかない。

「一騎が行きたいとこまで運んであげるからね」
「運ぶ…」

 自信満々に言ったのに、なぜか一騎は左手で口元を覆って俯いている。溝口は相変わらずげらげらと笑い続けている。

「そりゃ羨ましいなあ。どれ、俺もそうしに運んでもらおうかなあ」
「えー溝口さんおもたいもん、やだ」
「そんな軟弱なこといってると一騎だって運べねえぞぉ?」
「一騎はだいじょうぶだよ」
「ほら、真壁だって運んでもらいたいって顔してんじゃねえか」
「真壁のおじさんも? 僕に運んで欲しい?」
「いや、俺は別にだな」
「ありがとな…」

 口元を押さえた一騎が顔を赤くしながら、ようやっとという様子でそう返す。その一騎に、そうしははやる心で更に尋ねた。

「ねえ一騎、今日の剣道の稽古は自転車でいっていい?」
「んーそれはまだ早いな。もう少し練習してから」
「そっかあ」
「今日は父さん家にいるから、稽古の時間まで父さんに見てもらえよ」
「おじさんに?」
「いいだろ、父さん」
「もちろんだ」

 史彦が重々しく頷く。一騎は笑うと、そうしの背中をぽんと叩いた。

「ほら、顔洗って着替えてこい。これから朝ごはんだから」
「おうそうし、今日の卵焼きは溝口スペシャルだぞお」

 急がないとなくなるぞおと溝口が追い打ちをかける。
 溝口スペシャルということは、チーズとめんたいこが入ったふわふわの出し巻き卵だ。朝から酒のつまみみたいだと一騎は呆れるが、美味しいものは美味しいのだ。なくなっては困るとそうしは慌てて洗面所へと足を向ける。
 その背中に一騎が声をかけた。

「そうし」
「一騎?」
「遠くまで走れるようになったら、一緒に自転車乗って出かけような」

 天気のいい日に弁当を作って、それから海にでも出かけよう。
 自転車だから、少し遠くの浜まで。
 自転車を軽やかに走らせる一騎の隣で、自転車を漕ぐ自分の姿が思い浮かんだ。
 青い海と蒼い空。その二つが織りなす水平線を背景に一騎と並ぶ自分が。

「うん!」

 そうしは大きく頷いた。
 どこまでも二人、走っていける。そうしはそんなふうに思った。



 海神島の真壁家の軒下には、二台の自転車が置いてある。
 大きな前かごがついた黒い自転車と、一回り小さな灰色の自転車。
 寄りそうようにして、並んでいる。


- end -


2016/04/17 pixiv up
ツイッターのワンドロお題「自転車」に触発されて書いたものです。
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