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サラリーマンの皆城くんとボディガードの一騎くん


 僕の名前は皆城総士。この日本中どこにでもいる、いたって普通のサラリーマンである。
 ……いや、だった。そう、つい一週間前までは。


     ***


 訪問先から会社に戻り、資料作成を終えてから退勤すればもう九時を回ろうとしていた。
 僕の就職先は外資系の製薬企業であり、そこで医薬情報担当者として勤務している。一般企業のサラリーマンとは職種が異なるが、日々忙しく会社勤めをして給料をもらっていることに変わりはない。
 このところ早朝に病院を訪問することが多く、プレゼンの準備も抱えていたために恐ろしく目まぐるしい一週間だった。それも一区切りつき、明日は休みだ。夕食をどこかで食べていくことも考えたが、それよりは早く家に帰りたかった。自宅マンションまでは電車一本というのがありがたい。三十分ほど電車に揺られていれば最寄り駅にたどり着く。
 ちょうどやってきた電車に乗り込み、空いた座席に腰を落ち着ける。この時間帯ともなれば人もそこそこ疎らだった。僕と同じようにスーツをまとったくたびれ気味のサラリーマンか、バックパックを背負った学生と思わしきジーンズ姿の青年くらいしかいない。しばらくはスマホで呼び出したネットニュースを眺めていたが、それも疲れて目を閉じた。少しばかりうつらうつらとしていれば、あっという間に最寄り駅についていた。
 駅に降りたのは、僕と青年の二人だけだった。閑散とした駅の改札を通り抜け、帰宅途中にあるコンビニを目指す。せっかくなら久しぶりに酒でも飲もうかと、コンビニに続く道を曲がったときだった。
 耳をつんざくようなブレーキ音が住宅街に響き、驚いて目を上げた僕は視界に飛び込んできたものに絶句した。通りの向こうから黒い乗用車が恐ろしい勢いでこちらにカーブを切り、そのまま僕へと突っ込んで来ようとしていた。右に避けるか左に避けるか、少なくとも何らかの行動に出なければこのままでは死ぬと、僕の本能が激しく警鐘を鳴らす。それなのに完全な異常状態に僕の身体は凍りついたようにちっとも動こうとしない。
 人間、とっさの事態になるとこうも動けないものなのか。それでいて僕の目は車種と運転手、それからナンバープレートを瞬時に把握しようとしていた。身体は動かないのに頭脳はフル回転している。なんとも間抜けな状態だった。
 そして乗用車はスピードを落とすことなく僕に向かっていた。僕が道路にいるのが見えているだろうに、いっさいブレーキをかけることも僕を避ける様子も見えない。このまま僕をひき殺すつもりなのかと思い当たり、今度こそ血の気がざあ、と引いた。車のヘッドライトが僕の視界を灼く。このまま僕の人生は終わるのかと諦めの境地に至ったときだった。
 不意に、何かに抱え込まれるようにして強く身体を引っ張られた。それがどこからか伸びてきた腕によるものだと気づいたときには、僕の目の前ぎりぎりをあの乗用車が猛スピードで掠め去っていくところだった。車はガリガリと塀を削る耳障りな音とタイヤのスリップ音をけたたましく響かせ、最後まで速度を落とすことなく通路を曲がって姿を消した。
「……はっ…」
 僕は思わず大きく息を吐きだした。
 ……助かった。
 それを証明するように、僕の心臓はうるさいほどに音を立てている。
 誰かが電信柱の影に引き込んでくれなかったら、間違いなく死んでいた。抉られた塀の跡は本来の僕の未来だった。それを思うと改めてぞっとする。指先は冷えきっているし、気を抜けば膝さえ震えてきそうだった。だがまずは助けてくれた相手に礼を言おうと振り返り、その人物を見て、僕はおやと首を傾げた。どこかで見覚えがある……というよりも、たしかさっき同じ電車に乗っていた学生だ。心配と安堵を顔いっぱいに浮かべて僕を見ている。
「君は……」
 確か別の方角へ別れたと記憶していたが、なぜ僕の目の前にいるのだろうか。訳が分からないでいると、尋常ではない騒音を耳にしてか、周囲の住民が何人か通りへと出てきた。
「早くここを離れよう」
「あ、ああ」
 思ったよりも柔らかい声に促され、僕はその学生と一緒に急いでその場をあとにした。



「で、どういうことなんだ?」
 僕の前では、さきほど僕を助けてくれた青年が困ったように眉を下げて僕を見ていた。
 学生だとばかり思っていたが、年齢を聞けばなんと僕と同い年だった。つまり二十六歳、立派な成人男性だ。少し長めの黒髪に大きな目、そして色白の柔らかい顔立ちのせいでまったくそうは見えない。僕が年齢以上に落ち着いて見えると言われがちなのを差し引いてもだ。くっきりとした太眉と丸みのない骨ばった体格がなければ、女性にも間違えられそうな線の細い造りをしている。
 あれから、青年はこの先も何かあるかもしれないからと僕を自宅マンションの入り口まで送ってくれ、そこで立ち去ろうとしたのだが、それを引き留めたのが僕だった。え?なんだ? と困惑に首を傾げる青年の腕を引っ掴み、御礼をさせてくれと言ってむりやり自室に連れ込んだ。そのままダイニングの椅子に座らせ、僕がその向かいに腰かけて今に至る。
 腕組みをしてスーツを着たままの僕と、パーカーにジーンズの彼が向かい合っていると、面接か何かのような雰囲気さえ漂う。いや、僕としては尋問する警察官の気持ちだった。もちろんお茶の一杯も出してはいない。
 僕の中では不信感が渦巻いていた。もちろんこの青年へのだ。自宅マンションまでの道を歩きながら、疑念は膨れ上がる一方だった。彼は確かに僕を助けてくれた。だが、あのスピードで突っ込む車から僕をたまたま助けたにしてはあまりにもタイミングが良すぎる。そもそも別方向へ歩いて行ったはずなのに僕を助けられたということは、僕をつけていたということではないのか。それはつまり、僕がああいう形で命を狙われる可能性を知っていたということでもある。
 さらに不審なのが、僕を送るときに自宅場所を尋ねなかったということだ。青年は迷うことなく僕の自宅マンションへと足を向けた。つまり、僕のある程度のプライバシーさえ、この青年は把握しているということだ。
 青年は相変わらずおろおろとした表情を浮かべて黙ったままだ。だんだんと僕はいらいらしてきた。あの車は間違いなく僕を狙っていた。どうやら僕は僕の知らない間によく分からない事態に巻き込まれているらしい。それも相当に物騒で凶悪な。
 だが、青年がいたから僕が生き延びられたのも事実だ。なんとか責め立てる口調にならないよう注意しながら、僕は青年に確認をした。
「君は、僕がああして命を狙われる可能性を最初から察知していたと考えて間違いないか」
 青年はううっと唸ったまま答えない。なら答えるまで質問を続けるだけだ。
「はっきり聞く。君は何者だ?」
「うっ……」
 ナイフを突きつける気持ちで、僕は青年に問いかけた。
 ――暫しの間。
 青年の瞳が次第に大きく揺れ、うううと呻きながら青年はテーブルの上に突っ伏した。勝った、と思うにはどうにも相手がちょろすぎる気がする。こいつは大丈夫なのか? と別の意味で疑念が湧くが仕方がない。何せ僕と初対面であるというアリバイを取り繕うことさえできないのだ。もっとも、それは本人にも自覚があるようだった。
「駄目だ……やっぱ俺こういうの向いてない……ごめん父さん」
 青年はよく分からないことをもごもごと口にし、はあっと大きくため息を吐いてから顔を上げると、とうとう覚悟を決めたのか口を開いた。
「俺は、お前のボディーガードだよ……」
「ボディーガードだと?」
 僕は唖然として聞き返した。
 なんだって突然そんな存在が目の前に現れるのか。
 僕はそんなものを頼んだ覚えはまったくない。そもそも、ガードされるような理由もまったく思い当たらない。だが、彼は依頼を受けて僕を守っているのだと続け、自分は真壁一騎という名前であること、この半年ほど前から僕を警護していたというところまで白状した。
「半年もだと……?」
 昨日今日ではないことに、僕は愕然とした。まったく気づかなかった。
「本当は、それより前からずっと交替でお前の護衛は続いてたんだ。俺が担当になったのが半年前ってこと。今年に入って、身の回りでおかしなことが続かなかったか? 今日みたいに車が突っ込んでくるほどじゃなくてもさ」
 一騎に尋ねられ、僕は記憶を探った。そう言われてみれば心当たりがないこともなかった。
 僕は仕事柄外回りが多い。病院や薬局に出向く必要があるからだ。確かにこのところ、乗っていたバスが故障を起こしたり、通りを歩いていたら数メートル先に物が落下してきたりということなどがあった。いや、他にもぶつかられた勢いで赤信号の通りに飛び出しかけたこともある。駅のホームでも似たようなことがなかっただろうか。確かにあった。朝の通勤時の慌ただしい最中のことだと片づけていたが、もし偶然ではないとしたら?
 第一、今のセキュリティが高いマンションに越したのも、以前住んでいた自宅に、不法侵入された形跡があったからだ。とはいえ特に実害もなかったし、最近は物騒な事件が多いと片付けていたが、……まさか。
 ここに至って、僕はぞっとした。
「それは、僕がたまたま巻き込まれなかったということではなく、君が……いや、真壁さんたちが僕を守っていたということか?」
「一騎でいいよ」
「なら僕のことも名前で呼んでくれ……つまり僕は何ものかに命を狙われていて、一騎たちが守ってくれていなければ、とっくに人生を終えていたということで合っているか?」
「まあ、そうなるかな」
 一騎は神妙に頷いた。
 ――そんな馬鹿な。
 僕は言葉もなくして黙り込んだ。
 つまり、僕が今まで当たり前だと思っていた日常は、知らないところで一騎たちに守られることによって成り立っていたらしい。いや、日常だけではない。僕の命そのものがだ。
 僕を引き損ねて去っていった車と、それを運転していた人間を思う。僕はごくりと唾を飲み込んだ。
「僕を狙っている人間はまだ存在しているんだな?」
「そうだな」
「ということは、この状況は今後も続くということか」
「そうなるな」
「冗談じゃないぞ……」
 僕は頭を抱えた。まったく冗談じゃない。僕にはサラリーマンとしての仕事がある。僕はこの社会を回す一つの歯車だ。それが替えのきくパーツでしかなかろうが、自分に与えられた仕事を完璧にこなすことは、僕のアイデンティティでもある。殺し屋なんぞに命を狙われている場合じゃない。
 明日からどうすればいいんだと悩む僕に、声がかけられた。
「大丈夫だ。総士には手を触れさせない、絶対に。それが俺の役目だから」
 顔を上げれば、それまでどこかゆるい印象だった一騎が、居住まいを正してまっすぐな目で僕を見ていた。思わず、その空気に気圧される。
「本当はこれからもずっと陰から守るつもりだったんだ。こんなことになっちゃったけど。この際だから、ちゃんと堂々とお前のこと守らせてくれないか? 絶対守るって約束する」
「……断ると言ったら?」
「前みたいにこっそり守るよ」
 それはどちらにしろ拒否権はないのではないか。事実を知ってしまった以上、陰からこっそり守られているだけというにもすっきりしない。
 それにしてもだ。それだけ執拗に命を狙われるどんな理由が僕にあるというのか。
 僕は生まれてこの方、誰かの恨みを買った覚えはない。なにか特筆すべきことがあるとすれば、早くに両親を亡くしたこと、物心ついたときから左目を縦に裂くように走る大きな傷があることくらいだ。傷は隠しようもないし、右目に比べて視力もかなり劣りはするが、生活を送るのに支障はない。本当にいたって普通に成人し、サラリーマンとして人生を送っているのだ。まあ、左目の傷のせいで何度かカタギではない扱いを受けたことはあるが、指摘されるのが面倒で眼鏡をかけて隠すようにしていれば、それもやがて口に上ることもなくなった。少なくとも表向きは。
 とにかく僕は、ごく平凡なサラリーマンでしかないのだ。まったく心当たりのないことで命を狙われるなど冗談じゃない。
「なぜ僕が命を狙われる必要がある」
 肝心の問いを投げかけると、一騎は再び困ったように眉を下げた。
「うーん、それはあんまりはっきりと言えないっていうか、ただお前の両親に関係あるっていうか」
 僕の死んだ両親がなんだっていうんだ。あの二人はどこかの企業の研究者だったと聞いているがそれだけだ。まさか国家機密にでも関わっていたとか、犯罪組織の一味だったとでもいうのだろうか。だが、一騎は中途半端に僕の適当な予想を肯定した。
「そういうわけじゃないけど、似たようなもんかな……」
「どういうことだ」
 そんな雑な説明があるか。思わず声が低くなり、一騎が首を竦める。だが、それでも具体的な説明はしようとしなかった。その後も強く説明を求めたが、それ以上は何度繰り返しても同じことだった。
 とにかく、僕はその両親の研究だか秘密だかの関係で、ものすごくヤバい組織に命を狙われているらしい。ヤバいというのは、決して僕が選択した表現ではない。一騎が「ヤバい」としか表現しなかったためだ。せめてどれくらいヤバいのか教えろと言っても、とにかくヤバいとしか答えない。
「ならせめて、誰の依頼で僕をガードしているのかを教えろ」
「う、それもちょっと……」
「言えないのか」
「うまく説明できないっていうか……うん、ごめん」
「……」
 万事がこの調子だった。隠し事も説明も下手だが、どうにも中身がザルすぎて肝心の目的がざっくりとしか分からない。一騎を僕につけた人間はある意味で秘匿に成功している。
「本当にヤバいんだ…」
 とうとう犬のように眉を下げてこちらを見上げられてしまえば、逆にこちらが追い詰めてるような罪悪感に駆られてそれ以上追求もできなかった。
 とはいえ、よくわからないがヤバいというだけで、自分の身の安全を委ねる気にはさすがになれない。改めて冷静になってみると、やはり茶番以外の何物でもないような気がする。僕は大きくため息を吐いて、結論を出した。
「まったくわからないことがわかった。もういい。帰ってくれ」
 これ以上は付き合ってられないと思い、一騎にそう伝える。途端、一騎は目に見えて肩を落とした。
「やっぱり俺のこと信用できないか……」
「逆に問うが、どこにお前を信用できる要素があるというんだ?」
「うーん……じゃあちゃんと仕事着で話せば、もっと本気をわかってもらえるか?」
「は? 仕事着? ……本気だと?」
 僕は、一騎の仕事の向き合い方について疑問を抱いているわけではない。守られる意味も、その背景も分からないから、信用できないと判断しただけなのだ。なのに、なぜそんな話にすっ飛ぶのか。だが、一騎は何かを決めたようだった。
「ちょっとトイレ借りるな」
「!? 一騎、ちょっと待て……!」
 僕の制止は間に合わなかった。あっという間に椅子から立ち上がり、迷うことなく僕の家のトイレに消えると(やはり室内の構造まで知っていた)、一騎は十数秒ほどで戻ってきた。そしてトイレから現れたその格好に、僕は度肝を抜かれた。
「なっ!?」
 一騎がまとっていたのは、首筋から手の甲、足の先までぴったりと全身を覆う漆黒のボディスーツだった。身体の線もあらわなスーツの素材は光沢からして合皮だろう。だぼついていた先ほどの衣服に比べ、無駄のないしなやかな細身が強調されて、なんというか妙な色気がある。
 だがそれだけではなかった。腰と太腿にはスーツの色と同じ漆黒の幅広のベルトがぐるりと巻きついている。それが銃器の携帯に使用するレッグホルスターと呼ばれるものであることは、素人の僕でも理解できた。装着部分からして、ナイフも含めて大小最低でも四つは差し込めそうだ。
 ―いや待て。どうしてこんな衣装が必要になる?
 呆気に取られたまましばらくの間まじまじとその姿を見つめ、一周回って冷静になった僕は率直な疑問を口にした。
「一騎。いったいなんだこれは」
 コスプレかなにかか? というのが僕の正直な感想だった。
 だが一騎は、まるで当たり前のような口調で答えた。
「え、これが俺の仕事着なんだけど」
「仕事着」
 僕は。単調に一騎の言葉を反芻した。自分がさぞかし間抜けな顔をしている自覚はあった。
「僕を警護するのに、こんな服が必要だというのか……?」
「そういうことだな」
 ――どんな事態だ。いったい僕は何に巻き込まれているんだ。
 ボディーガードというからには、まあそれなりに動きやすい格好というものがあるのだろうが、SPのようなものを想定していた僕にしてみれば、一騎のそれはあまりにも範疇外だった。
 どちらかというと殺し屋とか特殊工作員だ。それもアメコミ映画とかSFアニメでしか見たことがないようなものだ。あるいは、ロボットアニメのパイロットスーツにも見えなくはない。
 一騎の《仕事着》に、むしろ完全に思考が迷走した僕は、いったいこの状況をどう受け入れればいいのか、いよいよ分からなくなってきた。なにせ僕はただのサラリーマンなのだ。会社と自宅とを行き来するだけの人間にはあまりにも重い。
 どうしろっていうんだ。この状況を。そして一騎の存在を。
 もはや一刻も早く現実逃避したい気持ちで額に手のひらを押し当て、腰かけた椅子に背中を預けたときだった。
「総士!!」
 一騎が鋭く叫んだ。警鐘を鳴らすその声に、僕は打たれたようになって身体を凍りつかせた。一騎は、叫んだときにはすでに立ち上がって手元から何かを放っている。
 皮膚がチリリと泡立った。何かが恐ろしい勢いで耳元を掠めていったの感覚で悟る。と同時に背後から響くトスっという音。
「危なかった……」
 僕の背後を睨みつけていた一騎が、安心したようにふにゃりと笑んだ。
「ん、なっ……」
 僕は口をあんぐり開けたままおそるおそる後ろを振り返る。目を向けた先では、一騎が投げつけたと思しきものが背後の壁に突き刺さっていた。照明を受けて銀色に光るそれは長さ五センチほどの針だ。そしてその針が深々と貫いているのは。
「……蚊だと……?」
 僕は戦慄した。
「良かった、お前が刺されなくて」
 虫一匹も殺さぬような優しい顔をした男は、今まさに針一本で蚊を仕留めたばかりとも思えぬ表情で、それはもう心から安心したというようにふわふわと笑っている。その笑顔は妙にかわいらしい。
 だが、僕はまったく笑えなかった。
 いったいどんな動体視力と反射神経だ。蚊だって、まさか細針一本で白壁に串刺しにされて虫としての生と終えることになろうとは想像もしていなかっただろう。いや、それともこいつはただの蚊ではないのだろうか。
「まさかその蚊に何か仕込まれていて、僕の命を奪おうとしていたとでも」
「そういうんじゃないけど」
 ――違うのか。
「つまりただの蚊か」
「ただの蚊だな」
「なぜ、そこまでして蚊を」
 たかが一匹の蚊を。
「だって、お前のこと刺そうとしてたから。俺は、お前をどんな危険からも守るっていう依頼を受けてるから、これはまあサービスみたいなもんかな」
「さーびす」
 思わず棒読みになった。サービスの意味がわからない。だが一つわかったことがある。
 たしかにこれはヤバい。
 ――この男、本当にただのボディガードなのか?
 どう考えてもヤバいのは一騎の方だ。その一騎が本当にヤバいと言ったからには、自分は相当にヤバい案件に関わってしまったらしい。
 無言で青ざめる僕に何を思ったか、一騎はやたらと真剣な顔で僕に告げた。
「大丈夫だ、総士。俺がお前を守る」
 それはものすごい真摯で力強い声だった。その懸命さは、なぜか心を打つものさえあった。
「ああ……じゃあ、よろしく頼む」
 僕にそれ以外の何が言えたというのか。僕はただのサラリーマンでしかないし、今後もずっとそのつもりだ。だが、実は僕自身もよくわからない謎の組織とやらから存在を狙われているらしい。その僕を守るという名目で、僕はボディーガードを名乗る真壁一騎という青年に二十四時間厳重警護されるという異常事態になったのだった。


     ***


 謎の乗用車に轢き殺されかけてから一週間が経った。あれ以降、僕はなんのトラブルにも巻き込まれていない。いっそ悪い夢だったのではないかと思うくらいだ。
 ときどき報告を兼ねて僕の前に現れる、一騎の姿を見ない限りは。一騎を見ると、あの事件は現実に起きたことで、僕は今も命を狙われているらしいことを実感せざるを得ない。とはいえ、僕がつつがなく会社に通えているということは、一騎が完璧に僕をガードしてくれているという証明でもある。……おそらくは。
 一騎は僕を二十四時間守ると宣言した。ということは、彼は二十四時間僕に張りついているということだ。もちろんプライバシーは尊重しているというが、なにか異変を感じたらすぐ駆け付けられるところにいるらしい。
 と、ここで僕の中に今更の疑問が生じた。人間には睡眠時間が必要だ。それは残業や移動の多い、ややオーバーワーク気味のサラリーマンである僕だって同じで、それでも最低なんとか四、五時間は睡眠を確保するようにしている。そうでなければ死ぬ。
 ――なら一騎は?
 ――そもそも、あいつは夜はどこにいるんだ?
 疑問は膨れ上がり、翌朝僕は一騎を問い詰めることにした。呼び出す方法は簡単だ。僕が悲鳴を上げればいい。朝食を用意するために立ったキッチンで、八枚切りの食パンを二枚オーブントースターにセットし、]インスタントコーヒーの粉末を愛用のマグカップに放り込む。ポットからお湯を注ぐタイミングで僕はわざとらしく声を上げた。
「あつ…っ!」
「どうしたんだ、総士!!」
 一騎は秒も置かずに僕のそばに現れた。慌てたような必死な形相に胸が痛むが仕方ない。しかし早い。対応が早すぎる。まさか天井裏にでも住んでいるじゃないだろうな。
「総士、火傷か!?」
「来たな一騎。お前に聞きたいことがある」
 僕に伸ばされた一騎の手をこちらからむんずと掴むと、僕はそのまま一騎をひっぱってリビングのソファに座らせた。僕もその隣に腰かける。
「僕はこのとおり毎日ぴんぴんとしてサラリーマンとしての職務をまっとうできている。それはつまりお前が僕を完璧にガードしているということだろう。その点についてはとても感謝している」
「あ、うん?」
 一騎は面食らったように瞬きをしながらも頷いた。
「その上で尋ねる。お前、僕が家にいる時はどこから僕を見張っているんだ? というかどこで寝起きしているんだ?」
 僕をガードする以上、僕が住む部屋の隣室あるいは上か下の部屋を押さえているという可能性はある。だが、僕としてはどうも違うような気がしていた。
 えっと、と一騎は目を泳がせた。
「言え、一騎」
 基本的に一騎はそこまで押しに強くない。そして僕の要望には基本的に二〇〇パーセント応えようとする。その性格を僕はすでに把握していた。案の定、白状しろと問い詰めれば、渋々ではあったが正直に吐露した。
「ベランダ……」
「ベランダだと」
「寝袋で」
 ――いったい、いつの間に。
 このマンションは高層建築で、二十五階に居住している僕はベランダに洗濯物を干すなどということはできない。プランターなども置いておらず、窓の開け閉めのために近寄る以外ほぼ出入りしないため、まったく気づかなかった。確かに穴場ではある。空間もそれなりに広い。だが。
「空き部屋を使え」
 僕はこめかみを押さえながら一騎に告げた。正直頭が痛かった。
「え?」
「外じゃなくて中に住め。ベランダはやめろ」
 どうせ部屋は余っている。一人住人が増えたところで問題ない。ベランダで寝泊まりされている方が大問題だ。それに依頼とはいえ、僕を守ってくれる存在が、吹きっさらしのベランダで寝泊まりをしているというのはどうにも良心が咎める。
「どうせ二十四時間一緒に過ごしているんだ。家の外だろうが中だろうが変わりないだろう」
 そうなのか? と、幼い仕草で首を傾げるこの男は本当にボディガードなんだろうか。殺し屋紛いの凄腕を持っているらしいことは見て知っているが。
「ほ、本当にいいのか?」
「そう言っている」
「えっと……じゃあ、お世話になります」
「ああ、こちらこそ」
 つまりこれで僕と一騎は晴れて同居人ということになった。まあ実際は知らない間に内と外の壁を挟んで同居がスタートしていたわけだが、今日からは同じ空間で顔を合わせて暮らす立場になる。もちろん前提は、一騎が僕のボディーガードであり、僕は一騎に守られる立場だ。同居を公にできない同居人ではあるが、こうなったことに僕は少し満足していた。陰から守られるより、相手の姿が見えている方がいいものだ。僕としても安心する。
「お世話になるついでに提案があるんだけどさ」
 気になっていたことが解決し、朝食を再開してひと息ついている僕に、おずおずと一騎が口を開いた。
「なんだ」
「ごはん、俺が作っていいか?」
「なんだと」
 そういえば、一騎は先ほどからずっと僕を見つめていた。正しくいえば、バターを塗った食パンとコーヒー、そして野菜ジュースを交互に口にする僕の様子をだ。その目はどこか悲しそうというか、何かを案じるようだった。
「俺、ずっとお前の食事が気になってて」
「なぜ」
「野菜が少ない……」
「……」
「お前の安全を守るからには、食生活から守らないといけないんじゃないかって思うんだ。内臓からお前のこと守らないと、せっかく敵から助けても栄養不足で入院とかになったら困るし」
「……」
「だから、これからは俺がお前のごはんも作るな」
 そう宣言した一騎は、その日の晩には早速食事を作ってくれた。茄子とベーコンのトマトスパゲッティにポテトサラダ、タマネギのコンソメスープに、デザートとしてパンナコッタまでついてきた。しかも味は僕が職場近くでときどき使っているお気に入りのイタリアンレストランレベルという始末。
「必要ならお弁当も作るぞ」
 そう腕まくりをする一騎にもはや僕は返す言葉もなく、台所は好きに使ってくれとだけ告げた。家主の僕より、一騎に委ねた方がよほど意味がある。
 僕が手に入れたのは危険なまでに有能なボディガードなのか、家政夫なのか。現状、とくに身の安全が脅かされていないため、僕としては後者の気持ちが大変に強かった。
 しかし、一騎はもちろんただの家事が得意な同居人などではもちろんなかった。
 それをつきつけてくるのが一騎の格好だった。僕の前から隠れる必要がなくなっても、一騎は例のボディースーツを脱ぐことはなかったのである。僕の食事を用意しているときも、風呂や洗濯に掃除をしているときも、それはあくまでも一騎の仕事のうちということだった。
「やっぱ仕事だから、室内でも仕事着の方がいいかなって」
 そういうものだろうか。いや、確かに仕事は仕事なのだろうが。正直まったく落ち着けない。何せ、今後朝も昼も夜も、この全身真っ黒なボディースーツの男が僕のそばに張りついているのだ。なんというかあまり心臓によろしくない。
「外に出るときもその格好なのか」
「外では人に紛れるようにしてるぞ」
「そうか」
「夜はだいたいこっちかな」
「……そうか」
「でもこっちが仕事着だし、お前を正式に守る以上はお前の前では堂々とこれで行くな」
「…………そうか」
 結局、普通の服でいてくれというタイミングを僕は逃した。仕事着だと言う以上、こちらの方が一騎としても動きやすいのではというよくわからない配慮もしてしまった。
 そんなわけで、本日も一騎はボディースーツを着用したまま家事をしている。ちなみになぜかエプロンつきだ。おそらく実戦用のスーツと思われる素材は汚れようが傷つこうが、エプロンなどよりよほど強靭なはずだが、そこだけは日常感を出したらしい。中途半端にもほどがある。
 身体にぴったりとしたレザースーツの上に、大きな前ポケットのついた生成りのエプロンをつけている様子は、いったい現実と非現実の境はどこにあるのかと問い質したくなる倒錯ぶりだった。
 最初にその姿を見たとき、僕はボディスーツを見たとき以上に動揺し、絶句した。さすがに首もとが苦しいのか、正面のジッパーを少し下ろし、鎖骨が見えているのもなんだか良くなかった。
 だが悲しいことにその衝撃も三日もすれば薄れた。悲しいことに、人間どんな事態にも慣れるものなのだ。スーツを着て家事をする一騎の様子をまじまじと眺められる程度には余裕ができた。
 こうしてみると、細身だがバランスの良いまったく無駄のない肉づきをしている。見とれるといってもいいレベルのものだった。動くたびにボディースーツが照明を弾き、スーツの下の筋肉が躍動する様を見せつけてくるのだが、その動きに僕はいつも黒豹のしなやかさを思い出した。まあ、その上にエプロンをつけているのだが。
 だが、一騎との同居の問題点はそこだけには留まらなかった。


 ある休みの日に、僕は少し昼から酒を楽しもうと、ブランデーなどを置いている食器棚下の収納スペースの扉を開けた。そしてそこにあるものに絶句し、凍りついた。
「わ、勝手に開けるなってば!」
 僕の異変に、何か危険が? と飛んできた一騎が、戸棚が開かれているのを見て叫ぶ。見るなよと扉を閉めようとするのを僕は力づくで抑えた。
「これはどういうことだ……」
 地を這うような声が僕の口から洩れる。
 戸棚の中は僕が知らない世界になっていた。正しくいえば、それこそドラマや映画でしか見ないようなハンドガンやアーミーナイフ、ライフルなどの温床になっていた。つまり武器庫だった。もちろんオモチャなどではないだろう。本物の武器、いや兵器だ。
 わなわなと震えている僕に、一騎は困ったように眉を下げ、あまつさえ頬を染めた。
「勝手に見られたら恥ずかしいだろ……」
「待て、そういうことじゃない」
 ――僕はそういう反応を期待したわけじゃない。
 いかがわしい本が見つかってしまった男子中学生のような仕草でうつむかれ、僕の方が混乱する。それともこれが正しい反応なのか? ……そんなわけがあるか。
「僕は、この状況について説明しろと言っているんだ」
「でも、これでどんな敵がやってきてもお前のこと守れるから」
「このごくありふれた一般家屋にいったい何が襲ってくるっていうんだ。軍隊か? 宇宙生物か?」
「油断は禁物だぞ、総士」
「明らかに危ないのはお前じゃないのか!?」
「え、なんでだ?」
 僕らの対話は成功しなかった。
 そして、一騎のこの悪癖はその後も加速を極めていった。
 それから三日後の週末、自分でお湯を沸かすため、片手鍋を取り出そうとシンク下の扉を開いて目にしたものに、今度こそ僕は叫んだ。
「一騎いいぃぃぃ!! 鍋の横にまで銃刀類を保管するのをやめろ!! 包丁差しにナチュラルにサバイバルナイフをさすんじゃない!!!!」
 確かに、僕は一騎にキッチンを好きに使っていいと言った。だがそれはこういう意味じゃない。断じて違う。いったいどうして自分のキッチンの収納スペースが武器庫になる可能性に思い至るというのか。
 それなのに、一騎はいったい何が問題なのかと言わんばかりに、不思議そうに首を傾げるだけだった。
「俺、間違えないぞ?」
「そういうことでは! ない!!」
 先日スーパーのチラシの横に武器カタログが置いてあるのを見たときに、僕はもっと考えるべきだったのだ。なるほどボディーガードたるもの、こういうものにも詳しくないといけないのだな、などと適当に流すべきではなかった、詳しいどころではない。どうもこの男、重度の銃火器オタクではないかと気づいたときには遅かった。
 その翌日、僕が再びキッチンに入ると、一騎がせっせとキッチン道具や野菜に何かを書いて貼っていた。
 僕は、すぐ近くにあったアボカドを手に取ってみた。「アボカド」と書いてある付箋が貼りつけてある。見れば分かる。だがその隣のものを手にして目を剥いた。そこには「手榴弾」と書いてあった。
「こうしておけば間違えないだろ?」
 絶句している僕に、一騎はふんわりと笑って得意げに胸を張った。
 僕の家の台所は死んだ。いや、台所ではあるが、武器庫兼用となったため、迂闊に足を踏み入れることができない場所になってしまった。冷蔵庫だけは死守しているが、そのうち弾薬が保管されるだろうことは目に見えている。こうなると、一騎が使っている部屋の押し入れやベッド下などはどうなっているのかと思い至り、それ以上は想像するのを止めた。パンドラの箱を開けていいことなど一つもない。希望に至る代償がでかすぎる。
 だいたい一騎は、銃を手にしていなくとも素手だけでおそろしく強いのだ。針一本で蚊をしとめたように、先日は財布に入れようとしていた十円玉で蠅をしとめていた。なんでも中国武術の暗器術の応用だとかで、もとは手にした鉄玉や鉛玉を親指ではじき出し、礫(つぶて)として使用するものらしい。大体三メートルほどの距離なら相手に正確に命中させられると聞き、僕は心底恐怖した。一騎なら身近に存在するものすべてを武器にできるはずで、となるとあれだけ銃器を集めたがるのはやはり趣味なのだろう。ハムスターが餌を寝床にため込むのと似ているかもしれない。まったくかわいくはないが。
 それにしても、これだけの銃器を、一騎はどこから手に入れてくるのか。Am●zonで通販できるわけでもなし、おそらく裏ルートだろうが……と悶々としつつ尋ねると、え? という顔で一騎が僕を見た。そんなことを聞かれるとは思ってもいなかったという様子だった。
「気になるか?」
「それはもう、大変に気になっている」
「そっか……やっぱ入手経路は伝えた方がいいよな」
 どこでキャベツや牛乳を買ってるかっていうのも気になるもんだもんなと頷く一騎に、僕は全力でそうじゃないと訴えたかったが、今それを口にしてもまったく意味のないことは骨身に染みて理解していたので、なんとか言葉を飲み込んだ。
「もし、僕が知っても問題ないような情報であれば是非教えてくれ」
 あまりに危ないルートであっても恐ろしいが、どこからともなく増えていく銃器とすでに一つ屋根の下で暮らしている身としては知らないより知っておいた方がましだ。内心で冷や汗をかきつつ葛藤する僕に、一騎は「いいぞ」とあっさり頷いた。
「今から行こう。ついてきてくれ」
「なんだと?」
 どういうことだ? まさかそれこそつい近所に買い物に行くような感覚で武器を手に入れられるというのか?
 外に出るからと、最初に出会ったときに着ていた男子学生を思わせるラフな服装に着替えた一騎について行った先は、思った以上に近かった。というか、うちのマンションの一階だった。僕が住むマンションの一階には小洒落た喫茶店が入っていて、普段はマンションに暮らすマダムや仕事帰りのOLを中心に賑わっている。かくいう僕もここのコーヒーが好きで、ときどき休日に立ち寄っていた。そこに一騎は慣れた様子で僕を連れて入っていった。
 いらっしゃいませ、と朽葉色のくせ毛を持つ店長の青年が微笑み、窓際の席を案内してくれる。一騎は慣れた様子でコーヒーを頼み、しばらくすると香しい香りと共にカップが運ばれてきた。改めて見てもいたって普通の喫茶店だ。それも質のいい。
「まさかここで誰かと武器を手に入れる打ち合わせをするとでも」
 こんな居心地の良い喫茶店でなんということを、と内心で震える僕に、一騎はそうじゃないと首を横に振った。
「甲洋……えっとここの店長がブローカーなんだ」
 僕は声を失った。ぎょっとして店長の顔を振り返れば、その通りですがそれが何かと言わんばかりの整った笑顔が、穏やかにこちらを見ていた。
「甲洋、今日も見せてもらいたいものがあるんだけど」
「いいよ。昨日もいいの仕入れたから、そっちも見るといいよ」
「ありがとな」
 僕の住むマンションの一階にある喫茶店。イケメン店員がおいしい食事とケーキで爽やかに客を持てなし、女子高生を中心にマダムにも高い支持と評価を受ける、地元が誇る癒しの場所。それが見せかけの姿で、実は物騒な武器の売買を手掛けている真っ黒な場所だとどうして想像できようか。この真実を口にしたところで、狂っていると思われるのは僕の方だ。
「あ、ここの窓ガラスも全部防弾ガラスなんだぞ」
 固まって動けずにいる僕に、一騎が嬉しそうな笑みを浮かべながら説明する。やめてくれ。揺れる街路樹が視界に飛び込んでくる壁一面の窓ガラスを眺めながら、今日のおすすめケーキを説明するような口調で防弾ガラスの話などしないでほしい。
 さらにいえば、喫茶店のキッチンの内側にある収納スペースはすべて二重構造になっており、そこにあらゆる武器が設置されているらしい。奥の控室も同様だという。なんでもない扉を開いたら、その奥にはショットガンやマシンガンがかかっているなどという光景が、現実に存在しているとは。
「いつ銃撃があっても、守るよぜったい」
 イケメンが爽やかに笑う。だが目の奥の光は真摯なもので、それが余計に真実味を加えている。
 この平和な住宅街が銃撃戦の舞台になるいったいどんな事件が起きるというのか。おそろしすぎる。一騎や甲洋と会話をしていると、僕が見ている世界は、すべてがまやかしなのではないかとさえ思えてくる。この二人はいったいどんな日常を生きているのだろう。
 最新のライフルの性能について盛り上がる二人の姿を、僕はコーヒーを飲みながら眺めることしかできなかった。


     ***


 それからも僕と一騎の奇妙な同居生活は続いていた。僕は毎朝いつも通りに会社に出勤し、仕事を終えて帰宅する。日中僕の護衛をしているはずの一騎は、帰宅時にはちゃんと僕を出迎え、二人で一騎が作った食事を取る。
 一騎の格好は相変わらずぴったりしたボディースーツで、その上にエプロンを着ているというものだったが、それも慣れた。
 いつの間にか、僕は風変わりな衣装を着た、武器マニアでちょっと……いやかなり変わった料理上手の男と同居しているだけのつもりになっていた。なぜ一騎が仕事着だというそれを常に纏い、決して脱ごうとしないのかを考えることをやめていた。言ってしまえば、僕は一騎との暮らしが割と楽しく、当たり前のものに感じつつあった。まるでずっと昔から一騎が僕の傍にいたような気にさえなっていた。
 それがとんでもない勘違いであることを僕は思い知ることになる。



 その日、僕は普段通りに退勤して、会社のビルを出た。いつもと同じルートだ。一騎もどこからか僕の姿を見守っていることだろう。
 駅に向かう途中、僕は無性に喉が渇いて自販機に立ち寄った。道沿いから離れたところに、街灯に照らされた自販機がぽつんと立っている。僕は迷わずそこに足を向け、いくつかの銘柄の中から無糖のものを選んでボタンを押す。ガコンという音ともに目当てのコーヒーが取り出し口に落ちてきた。それを手に取ろうと身をかがめたときだった。灼けるような熱が首筋に走り、僕はそのまま昏倒した。


 意識を取り戻したとき、まず鼻をついたのはかび臭さ、そして胸が悪くなるような澱んだ水の臭いだった。身体を動かそうとして、僕はまったく身じろぎできないことに気づいた。スーツの上から、全身を縄かなにかで縛られている。それも後ろ手に拘束されているせいでかなり息苦しい状態だった。口も布で覆われ、もごもごと息を吐き出すことしかできない。目だけは塞がれていなかったので、首だけをなんとか動かして周囲を確認した。
 あたりは薄暗かったが、やがて視界が慣れ、自分が倉庫のような場所の床にうつ伏せに転がされていることを知った。倉庫はじめじめとしていて、泥がこびりついた床には汚水があちこち水たまりを作っている。僕の身体も髪の毛も、埃と泥にまみれているに違いなかった。
 自分が何者かに拉致されたことはもう分かっていた。僕が連れ去られるのを一騎が阻止できなかったことも。だから、傍らにいる男の存在にもとくに驚きはしなかった。
「よう、お目覚めか?」
 耳障りな濁音が耳に触れる。限られた視界から、一人の男が詰みあがった木箱の一つに腰かけているのが見えた。黒の革ジャンとジーンズを身に着け、手にはバイク用グローブを嵌めている。口元はマスクで覆われていて、顔立ちはもちろん年齢さえ判別することはできない。そして男は僕を転がしたまま、手にしたジャックナイフの切っ先でぴたぴたと僕の身体をつついていた。もう片方の手ではずっとスマホを弄っている。
 まるで遊ぶようなたわいもない仕草だが、僕に向けられているのは間違いようもなく凶器だった。手に収まるような小型の飛び出し式ナイフは、ひどく男の手に馴染んでいる。相当に使い慣れていることが明らかに見て取れた。しかも、ときおりつつかれる箇所は、すべて正確に人体の急所であることに気づき、僕はぞっと鳥肌を立てた。ときどきスーツの布地を裂いてみせるのも、単にからかっているだけなのに違いなかった。おそらく、この男は遊ぶように僕を殺せる。急所を一刺しにしてひと思いに僕にとどめを刺すことができるし、逆に絶妙に急所を外して僕を嬲りながら生き地獄に陥れることもできるだろう。すぐに僕を殺さないのは男に目的があるからだ。
 僕は呻きながら顔を動かし、座る男を睨み上げた。口を塞がれているせいで、洩れるのは無様な呻き声だけだ。僕の視線に気づいた男が笑い声を洩らす。
「まあそんな顔するなよ。あんまり反抗的だと、そのきれいな顔にもう一つ傷ができるぞ」
 そう言って男は僕の左目に走る傷を、ジャックナイフの刃先で撫でた。その感触に、沸騰するような怒りと拒絶反応がこみ上げる。そこに触れるなと叫びたかった。僕はこの傷がどういう理由でできたものなのか知らない。だがこれを触られることに、聖域を汚されたような不快感と怒りがこみ上げた。
 僕を見下ろした男が、へえと感心したような声を上げた。
「いい目をしてる。なあ、お前もこっち側にくるか? 案外向いてるかもしれないぞ」
 ――冗談じゃない。
 こっち側だろうがあっち側だろうが、僕は僕が生きる世界以外のところに行く気などなかった。僕の日常は、ただ会社と家を行き来するだけのサラリーマンとしての日々だ。今はそこに一騎が加わった。一騎は最初こそ僕にとっての非日常だったが、今や僕の生活の一部になっている。僕と一騎が生活するあのマンションだけが僕の帰る場所だ。こんな男に屈するつもりは決してなかった。
 だが僕の射殺さんばかりの視線も、四肢の自由を完全に奪われたこの様ではまったく効果がなかった。男は面白そうに笑うだけだった。
「どうしてやろうかなあ。髪の毛を切るっていうのもありか。それとももっとわかりやすいところを切り落とすか? そうだな腕とか」
 男のナイフは、今度は僕の髪の毛をすくい上げた。鋭利な切っ先が毛先の数本をプツリと断つのがわかった。その次に縛られたままの僕の片腕をトントンとナイフの柄でつつく。
 ひゅっと自分の喉が鳴るのを自覚した。
 僕も剣道の心得がある。それなりに身体を鍛えてはいるし、痴漢の一人や二人を撃退するくらいの腕力もある。だが、これは次元が違う。僕など赤子の手をひねるようなものでしかない。この男は息をするように簡単に僕を殺せる。
 死ぬかもしれない。もっとも最悪な仕方で。事故でもなく、病気でもなく、見知らぬ人間の悪意によって一方的に命を絶たれる。
 その恐怖が今になって初めて僕の身体の内側から現実のものとなってわきあがってきた。
 なるほど、一騎の言っていたことは本当だった。僕は命を狙われていて、誰かが護ってくれない限りいつ殺されても仕方のない存在だった。
 自分の意思とは勝手に、僕の身体が震えだす。その一方で、頭の中はひどく冷静だった。永久凍土の氷が脳に詰まっているような感覚。もう一人の自分が、別の場所から冷静に僕自身を見下ろしている。腕に食い込む拘束具の痛みは現実なのに、どこか遠い。
 死にたくない。こんなところで死にたくない。
 そう全身で訴える自分と、このまま死ぬはずがない。死んでたまるかと思う自分がいた。
 このまま終わるわけがない。なぜならそれを許すはずのない存在を僕は知っている。
 身体は震えているのに、僕はいつしか笑みを浮かべていた。口を塞ぐ布の下で。全身を走るこの震えが、恐怖からなのか興奮からなのかわからない。両方だろうが、どうも後者の方が強い気がする。
 僕はどこかでこの状況を楽しんでいた。
 ――僕を殺せるものなら殺してみろ。
 僕がそう思えるのは、ひとえに信じる一つの存在があるからだった。
 その姿を僕が脳裏に思い描いたときだった。

「ようやっとお出ましか」

 男が笑って呟いた。その目線の先に無理矢理首を傾けてみれば、人一人分が通れるほどに開けられた倉庫の入り口に、黒い人影が立っていた。まるで闇がそのまま形をとったようにも思える。漆黒のボディースーツをまとったその人影はゆっくりと僕がいる方に歩いてくる。やがて薄暗い照明の下で露わになったその顔に、僕はぞっと血の気が引くのを感じた。
 漆黒の獣が、そこにいた。一瞬、その瞳が紅く光を帯びたようにさえ思った。まるで地獄の番犬かと思うような激情を全身にみなぎらせたその存在が誰なのか、僕は一瞬本当にわからなかった。

 ――一騎か……?

 それを肯定したのは男の声だった。男は笑いながらその人影に向かって呼びかけた。

「待ちくたびれたよ、真壁一騎。いや、グリムリーパー?」

 一騎のことを、男はそう呼んだ。グリムリーパー。――死神と。

 ――ああそうか。

 僕はようやっと腑に落ちた気持ちだった。死神とは文字通りの意味だ。僕のガードにつく前に一騎がやってきた仕事。一騎は殺し屋だ。ただのボディーガードであるわけがなかった。それはきっとどんな理由があるにしても、相当な汚れ仕事だったに違いない。今僕が転がされている地面に染みを作っている汚水を啜って生きているような男が、死神と呼ぶほどに。
 それでも、僕は一騎を恐ろしいとは思わなかった。正体がわかったことで逆に安堵さえしていた。なぜなら、どんな過去を持とうが僕にとって一騎は一騎でしかなかった。僕を守るといった真壁一騎を、僕はここにきても信じていた。
 拘束されて転がる僕の姿を確認した一騎が目を見開き、一瞬にして全身に怒りをまとったのが目に見えてわかった。全身の毛を逆立てて唸る獣のように、一騎が歯を食いしばる。だがそれ以上の感情を見せることはせず、一騎は静かに手にしていた銃を男に向けて言った。
「総士を離せ」
 普段の柔らかな声が、激情をはらみながらも氷のように凍てついている。だが男の方はどこまでも淡々と、そして冷徹だった。
「交渉するつもりなら、その手にあるものを放せよ。死神」
 一騎は何も言わなかった。だが、もう一度僕に目を向けたあと、男に言われたとおりに、右手のM4カービンを床に落とした。ゴトリと音を立てて転がったそれを、右足で遠くへと蹴り飛ばす。
 僕は、さきほど左目を嬲られたときとは、また別の意味で全身の血が沸騰しそうだった。一騎が、僕のために素直に男の要求を呑んだことが耐えがたかった。
 ―やめろ一騎。そんなやつの言うことに素直に従うんじゃない。
 僕はそう叫びたかったが、布に阻まれて何も音にはならなかった。
 だが、要求に応じた一騎に対して男は鼻を鳴らしただけだった。
「馬鹿にするなよ。それだけじゃねえだろ。お前が持ってるものは」
 一騎はあいかわらず無言でいたが、やがてため息をついて更に男の声に従った。
 続いて転がったのはアーミーナイフ。それから手榴弾。背中に背負っていたらしいアサトライフル、それからスコーピオン。投げナイフと思しきものが一本、二本、三本。ハンドガンが二丁。
 ガコンガコンと音を響かせながら、次々と床に落とされていく。
 ――待て。その細身のどこにそれだけの武器を隠し持っているんだお前は。
 もはや僕は呆れを通り越してドン引きの境地にいたが、事態は好転などしなかった。
「言うとおりにした。総士を離せ」
 身に着けていたすべての武器を捨て、両手を顔の横にあげながらそう要求した一騎を、男は笑い飛ばした。
「じゃあお前が死ね」
 男は朗らかに言い放った。
「お前が死ぬか、こいつが死ぬか。そのどちらかだ。例外はない」
 その台詞に、僕は床に転がされながら憤慨した。こんなものは交渉ではない。一方的な要求だ。こいつは最初から一騎に選択肢を与える気などない。
「聞こえたか? こいつを助けたかったらお前が死ね」
 ――やめろ。そんなことをするな。
 ――お前はそんなことをしてはいけない。
 僕は一騎に必死に目で訴えた。心の中でも叫んでいた。僕だけが生き残ったって意味がない。なぜなら、一騎が存在しなくなった時点で、僕の命の終わりも確定したようなものだ。一騎以外に、誰が僕を二十四時間守ってくれるというんだ。一騎は僕と守ると約束したのだ。それを放棄するような真似は決して許せなかった。
 一騎は僕に目を向け、それから男に視線を戻してしばらく黙っていたが、やがて大きな息を吐いて返答した。

「――いやだ」

 一騎はきっぱりとそう答えた。
「少し前なら、俺がって言ったんだろうな。でも今は違う。総士を死なせるつもりはないし、俺も死ぬつもりはない。俺は総士を助けてここを出る」
 はっと男が吐き捨てた。嘲笑を隠そうともしない声だった。
「じゃあ、こいつを殺そう」
 なんの躊躇いもなかった。僕は後ろ髪を無造作に鷲掴みにされ、身体をむりやりに引きずり起こされる。仰け反った無理な体勢にこの背骨が悲鳴を上げた。
 ――こいつ……せめて口さえ塞がれていなかったら唾でも吐きかけてやったんだが。
 恨みと怒りを込めて睨みつけてやったが、男に堪えた様子はなかった。僕を見る目が、侮蔑と憎しみ、そして勝利の確信に歪む。
「この男を殺した方が、お前の苦しむ顔が見られそうだ」
 そう言って、男は僕の首元めがけてジャックナイフを振り下ろした。
「総士っ!!」
 一騎が僕の名前を呼ぶ。だが、その声は焦りや不安に満ちたものではなかった。僕は、その声にひどく安心した。
 大丈夫だと、一騎は言っていた。僕を絶対に死なせないと。
 だから僕の心は凪いでいた。ああ、きっと大丈夫に決まっている。僕と一騎なら。
 そう、二人ならきっと。



 勝敗は呆気なく決まった。
 僕の首にナイフが突き立てられると思った瞬間、絶叫を上げたのは男の方だった。右腕を押さえてナイフを取り落とし、そのときには一騎はすでに男に肉薄していた。その腹に容赦のない拳を叩きこんで動きを封じる。男は蛙が潰れるような悲鳴を上げて床に這いつくばった。それで終わりだった。
 僕は一部始終を目にしていたはずだが、あまりの早業に何が起きたのかも分からなかった。だが、右腕を押さえながら悶絶して地面を転がりまわる男の腕に何かが刺さっているらしいのをわずかな光で確認し、戦慄した。
 ――針だ。
 そう、初対面で一騎が蚊を仕留めたのに似た、いやあれよりは太さも長さもある針が、男の腕に深々と突き立っていた。あんな細針を隠し持っているなど気づけないし、そもそも知っていたところで針一本で何ができるのかと普通なら思うところだ。まして僕が人質にされており、僕が刺し殺されるまでおそらく秒にも満たなかった。だが、自在に飛び回る蚊さえ捉える一騎の実力から持ってすれば、けっして勝算がない賭けではなかったということだ。
 さすが、死神の名を持つ男。ここまでくると、なぜ一騎が僕のボディガードをやっているのかとすら不思議になる。どう考えたって一騎の方が存在が危ない。何らかの秘密を握っているらしい僕などよりよほど危険人物なんじゃないだろうか。
 今更冷や汗をかく僕の目の前で、男はまだもがいていた。この苦しみようからして薬でも塗ってあったのかもしれない。だが、痛みにのたうち回りながら男はなおも悪意に満ちた捨て台詞をわめき散らした。
「殺し屋風情が。誰かを守って英雄気取りか? それとも今まで殺してきた人間への贖罪のつもりか?」
「俺はもう誰も殺さないって決めた。それだけだ」
「はっ、綺麗ごとをいうな!!」
 嘲笑が夜の闇に響く。
「もう黙れよ」
 男の声を遮ったのは一騎だった。ナイフより鋭く、静かな声だった。
 続いてごきり、と嫌な音がする。喚く男に手を伸ばした一騎が、その首に手をかけたのだ。男が限界まで目を見開いてガクガクと身体を痙攣させたが、悲鳴がその口から迸ることはなく、空気の洩れる音が喉から洩れただけで、そのままぐるりと白目を剥いた。口端から泡が溢れ、地面を汚していく。
「殺したのか?」
「殺してない。気絶しただけだ」
 その言葉に僕は今度こそ脱力して地面に崩れ落ちた。膝をつき、大きく息を吐きだす。
「総士っ、大丈夫か!」
「いや、安心したら力が抜けた」
「ごめん、こわかったよな」
「いや、お前が殺してないとわかって安心した」
 そう言うと、一騎が呆気にとられたように僕を見た。
「そう……し、」
 何かを言いかけた一騎を、別の声が遮った。
「よぉ一騎。あいかわらず見事だなあ」
「溝口さん」
 突然建物の入り口から現れたのは、体格のいい角刈りの男だった。どう見てもカタギではない。一騎に溝口さんと呼ばれた男は、ぼろぼろの僕を見てにやりと口端を吊り上げた。余裕があるというか、むしろ面白がっているような印象を受ける。今日は次から次へと新たな登場人物が現れる。いったいなんなんだ。混乱気味の僕に男は声を掛けてきた。
「そっちが例の皆城のおぼっちゃんか」
「はあ、どうも」
「俺は溝口って言って、まあ一騎の昔馴染みだ。こいつの父親とも懇意でな、一騎は俺からしてみればまあ可愛い甥っ子ってとこだな」
「やめてくださいよ、溝口さん」
「お前の親父さんのことも知ってるが、まあそのうち追々な」
 どこかきまり悪そうに口を挟む一騎をあしらいながら、機会があればと、ものすごく気になることを口にされて困惑する。いよいよもって僕の周囲が物騒になっていく。本当に僕の両親は何に関与していたというんだ。
「あとは頼みます」
「おう任せとけ。ところで一騎、お前やっぱりこっちに戻らねえか」
「遠慮します。俺、総士のボディガードやるって決めたから」
 きっぱりした一騎の拒絶に、溝口という男は笑っただけだった。軽い口調からして、本気の誘いではないということなんだろう。
「しゃあねえなあ。実働部隊はいつも人手不足なんだが」
「溝口さんのとこはみんな優秀だから、大丈夫ですよ」
 困ったように一騎が笑う。
「まあ、気をつけてがんばれよ」
「はい、ありがとうございます」
「皆城のぼっちゃんもな。こいつのことよろしく頼むわ」
「はあ……」
 こいつの親父からも言われてんだわと一騎の頭を大きな手でわしわしとかきまわす男に、僕は唖然としながらも頷く。
 その後、失神した男を悠々と肩に担いで、溝口氏は去っていった。今後の男の運命が気になるが、僕が知ることはないのだろう。それが死んでいた方がマシというようなものであったとしてもだ。
 彼らが姿を消したところで、僕は踵を返して傍らにいる一騎に声をかけた。
「まあいい。僕らも帰るぞ。僕は疲れた」
 一方的に誘拐され、拘束され、ナイフをつきつけられて殺されかけても、僕は世間的にはただのサラリーマンでしかない。今日は木曜日。明日も平日で通常通り出勤しなければならない。仕事は山積みだ。
 時計を見ればもうすぐで日付が変わろうかというところだった。愛用しているオメガのシーマスターアクアテラは、あれだけ無体な扱いを受けながらもなんとか壊れることはなく、しっかり正しい時間を刻んでくれている。さて、これから家に帰ってシャワーを浴びて、それからベッドにもぐりこんだとしていったい何時間寝られるのだろうか。腹も空いている。何せ夕飯を食べ損ねたまま三時間も縛られて床に転がされていたのだ。
 自分を見下ろせば、スーツは泥まみれな上、あちこちが裂かれたり擦り切れていてボロボロだった。ネクタイも同様だ。これはもう棄てるしかなさそうだ。ブランドも色も気に入っていたが仕方ない。先ほどまでの扱いと身体に残る痛みからして、身体や腕には打撲傷や縛られたあとが残るだろう。僕がサラリーマンで良かった。スーツを着れば不審な痣も痕もとりあえずは隠せる。
 それよりここはいったいどこなのか。ドラマなどで見る監禁場所の定番とも言うべき海辺の埠頭ということしか分からないが、どうやって家まで帰ればいいのだろうか。すきっ腹を抱えてげんなりしつつ、とりあえずこちらだろうと見当をつけた方向に足を向けようとして気づいた。
 一騎がぽかんと口を開けて立ち尽くしたまま僕を見ていた。
「どうした。帰らないのか?」
 なにかほかに後始末でもあるのだろうか。
「俺、お前と一緒に帰っていいのか?」
「は?」
 今度は僕が口を開ける番だった。
「だって、俺お前のことちゃんと守れなかった」
 一騎の声は震えていた。僕を拉致した相手にはあれほど堂々と相手をしたくせに、今の一騎はまるで幼い子供のようだった。瞳は揺れ、その表情は悔恨と自責の念に満ちていた。
「ごめん、総士。ぜったい俺が守るって約束したのに」
 俯く一騎に、僕は一歩近づいた。
「守ってくれただろう」
「ひどい目にあわせた」
「お前の方がひどい思いをしている」
 薄明りの下でよく見れば、まったく一騎こそひどいありさまだった。僕のスーツとは違い、一騎が着ているものは対戦闘用に特化したものであるはずだ。縛られ転がされたくらいで駄目になる僕のスーツとは強度も段違いであるだろうに、それは僕以上にあちこち擦り切れていた。
 白い面には煤と埃ばかりか幾つかの傷も確認できる。口端から滲んでいるのは血だろう。僕のもとにたどり着くまでに、相当の死闘を繰り返したに違いない。僕が連れ去られたことを知った一騎が、僕の居場所を突きとめるために何をしたのか、それは多分僕の想像など及ぶものではない。映画やドラマではない、生死と隣り合わせの本当の暴力の世界。
「……俺は慣れてるよ」
 その言い方に胸が詰まった。穏やかで、どこか投げやりな口調だった。一騎の口にしたそれは真実なのだろう。僕が今経験した非日常が、きっと一騎の日常なのだ。それを僕はやっと知った。それでも、いやだからこそ僕は言いたかった。
「お前のおかげで助かった。ありがとう、一騎」
「総士は優しいな」
 ふにゃりと一騎の顔が緩む。今にも泣きだしそうな顔だった。
「お前は、そうやっていつも優しいんだ」
 昔からと微笑んだ一騎は、自分がうっかり何を口走ったか気づいていないのだろう。あいかわらずそういうところが甘い。
 どうにも彼と僕の間にはまだまだ裏がある。溝口氏の口調からしてもそうだ。だが、浮かび上がる疑念を僕は意識の奥底に閉じ込めた。僕も腹を決めたのだ。
「もしかしてこのまま姿を消そうという腹積もりか?」
 腕組をして確認すると、一騎は目に見えて動揺した。
「今さら僕の前から消えられても困る。もしかしたら以前のように影から見守れたらいいなどと考えてるのかもしれないが、僕はそんな関係になるくらいなら最初から守ってもらわない方がいい」
 きっぱりと言い放つ。
 思った以上に突き放すような物言いになってしまった。僕の欠点だ。だがほかにうまい言い方も見つからない。
「……つまりだな、僕は、お前がいてくれないと困るということだ」
 素直な気持ちを口にしてしまえば、それは単純なことだった。そうだ、僕は一騎にいてほしいのだ。これからも僕の近くに。すぐそばに。僕がなによりも嬉しかったのは、一騎が僕を助けたことではない。一騎が、僕と一騎自身、両方を生かそうとしたことだ。もし一騎が僕の代わりに自分の命を手放していたら、僕は僕を一緒に許せなかっただろうし、僕を勝手に置いていく一騎を恨んだかもしれない。それくらいに、僕は二人で生き残れたことが嬉しかった。今更一騎が離れていくことなどありえない。
 一騎は大きく目を見開いたまま、僕を見ていた。ぱくぱくと金魚のように口を開けては閉じ、やがてその表情がくしゃりと歪んだ。
「俺、これからも総士のそばにいてもいいのか?」
「ああ、そうだ」
「お前のこと、守らせてくれる?」
 直球の一言だった。
 これが少女漫画であれば、ヒロインが花や星をバックに頬を染めてハートを乱舞させるところだが、僕としてはときめきよりも胸をえぐる切なさの方が勝った。その一言を告げた一騎が、まるで捨てられる寸前の子犬のような必死な目つきをしていたからだった。
 その思惑がどこにあろうが、それが贖罪だろうがなんだろうが構わないとさえ思えた。
「ああ。僕のそばにいてくれ、一騎」
 お前が僕のそばにいてくれるなら、最後まで僕を守りきってくれるというなら、きっと僕は何も恐れなくていいはずだ。本当に僕の人生が終わるその最後の瞬間まで。
「そうだな。今後も僕と同居しながら僕を守る上で、一つだけ条件がある」
「なんだ?」
「家の中でぐらい普段着でいろ」
「え、ダメかこれ」
「悪くはないが落ち着かない」
 僕は、もと殺し屋だろうが、ボディガードだろうが、武器マニアの家事上手だろうが、真壁一騎という人間と暮らしたいのだ。仕事としてではなく、ただの真壁一騎としてそばにいてほしい。
 そんな本音を口にするのはまだ恥ずかしく、条件として口に出すのが僕のせいいっぱいだった。だが、一騎はにこりと笑って頷いた。
「わかった。お前がいうならそうする」
「そうか」
「ああ、これからもよろしくな総士」
 そうして差し出された傷だらけの一騎の右手を、僕を守ってくれるその手を僕はぎゅっと力強く握りしめた。


     ***


「総士、おかえり!」
 あの拉致事件から、早くも二ヶ月が経った。一騎とは今も変わらず僕のマンションで一緒に暮らしている。一騎は二十四時間、安心安全な僕の毎日を守ってくれている。僕が五体満足で過ごせているのが、何よりの証拠だ。
 そして、いつもより少し早めにマンションに帰宅した僕を、今日も一騎が忠犬よろしく玄関で迎えてくれる。ピンと立った耳、ブンブン振られる尻尾の幻覚が見えるようだ。その格好は以前のボディースーツではなく、Tシャツにチノパンといういたってラフなものだ。その上から黒いエプロンをかけている。なんでもどこかに黒を身につけていないと落ち着かないということだったが、それはまあ許容範囲だろう。一騎の艶やかな黒髪ともよく似合っている。穏やかに笑う姿からは、一騎がもと殺し屋であることも、銃火器を扱うプロであることもとうてい想像がつかない。その胸には、料理雑誌が抱えられていた。
「夕飯これから作るんだけどさ、何がいい?」
 対外的な脅威からだけでなく、僕の日々の食生活まで守ると決めた一騎の作るごはんはたいへんおいしい。もう僕はファーストフード店やコンビニ弁当の味が思い出せない。あれはあれでおいしかったはずなのだが。
 そんなことを思いながら手にしていた鞄を置き、ジャケットを脱ぎながら一騎が広げたページをのぞき込もうとして、僕は固まった。
「今日は豚肉がいいかなって思ってさ」
「……一騎、それはなんだ」
「え? 鶏肉の方がいいか?」
「そうじゃない。もう一冊抱えてる雑誌の方だ」
 絶対零度の声音による僕の指摘に、一騎は明らかにやばいという顔をした。
「あ、えっとこれは」
 視線をさ迷わせながら、料理雑誌の下に覗いていた雑誌ごとまとめて抱えなおし、そのままリビングに撤退しようとする首根っこをひっつかまえて、僕は一騎が隠そうとした雑誌を取り上げた。
「あ、ダメだ総士!」
 抗議の悲鳴にもまったく容赦せずにむんずと冊子を掴み、ばらばらと雑誌を広げる。そして付箋が貼られたページを見つけて僕は目まいがした。
「一騎……お前……」
 案の定の武器カタログ。そこまでは想定していた。だが開いたページにあったのはとんでもないものだった。
 ――パンツァーファウスト3。
 特殊装甲を持つ戦車を貫徹するためのロケットブースター付きタンデム弾頭を配備したドイツ製の携帯対戦車ロケット。見開きには、武器の写真と迷彩服に身を包んだグラサンの米兵が、肩に担いだそれを目標に向かって構えている写真とが解説と一緒に事務的に配置されている。先日雑貨ショップで僕が見つけて土産に買ってやった、愛らしいカニをデザインした付箋とのギャップがおそろしいほどにシュールだ。このカニだって、自分が銃器をチェックするための目印になるなどとは思っていなかっただろう。
 一騎の「趣味」のおかげで、僕はすっかり銃火器類に詳しくなった。洋画や洋ドラを見ていても、主人公がぶっ放す銃がシグザウエルP226であるのか、コルト・パイソンであるのか、はたまたS&W M500であるのかを判別するのは朝飯前だ。まったくもって嬉しくない。ただのサラリーマンであったころに比べて、僕の物騒度もそうとうに上がっている。
 この前も、昼休みにとあるマッドな映画を観たと話しかけてきた同僚に「ああ、確か主人公がソードオフを持っているんですよね。あれは銃身や銃床を切り詰めて短くしているので、携帯が容易でコートなどに隠して持ち歩けますし、狭い場所でも使えて威力が大きいんですよ」などとすらすら返してしまい、明らかに不審な目を向けられた。皆城さんってやっぱり、とその目は語っていた。違う。僕は好きで覚えたんじゃない。一騎がソードオフを愛用しているからだ。なお、メーカーものを購入したのではなく、自分でショットガンを改造したらしい。
 以前、白菜と豚肉のミルフィーユ鍋の上に彩りとして散らしたニンジンがチョウチョの形をしていたことがあったが、それと同じ手で銃火器を自己改造できるのが僕の一騎だ。器用などというレベルではない。一騎に二律背反は存在しない。
 それにしてもだ。いつか対戦車兵器を欲しがるのではと危ぶんでいたが、その予想は思ったより早くに的中したらしい。とはいえ、実際その可能性を目にした僕がやることは一つしかなかった。僕は音を立てて雑誌を閉じると、却下! と叫んだ。途端に「えええぇ」と上がる不服の声。いい度胸だ。
「駄目に決まっているだろう! だいたい今度はなにと戦うつもりだ……!」
「だって、いつか戦車が突っ込んでくるかもしれないだろ……」
「仮に僕が政府の要人レベルの警護が必要な身分だとしても、一個人を抹消するのに住宅街に戦車を投入する事態になるわけがないだろう!」
「でも万一ってことも……」
「僕を狙う敵は、そこまで頭の作りがやわやわな脳内お祭り状態のやつらなのか!?」
「ちょっと触ってみたいなって」
「それが本音だな!!」
 ぜったい駄目だと言い放つと、肩を落としながらわかったと返してきた。キャンディを買ってもらえなかった子供のような顔だった。ぐっと胸が詰まる。なんで僕の方が罪悪感を覚えないといけないんだ。そもそも、この家にはすでに十二分すぎるほどに銃火器がある。今警察に踏み込まれでもしたら、僕は確実にその場でお縄にされる。たとえ相手が警察であっても一騎は僕を守ってくれるんだろうか。……守ってくれるのだろう。部屋の銃火器はその証明でもある。そう思うと、なんともいえない感情が僕の胸の内に込み上げてきた。
「総士?」
 僕の無言を不思議に思ったのか一騎が首を傾げたが、僕は切りかえるるように声をかけた。
「それより僕はお前のごはんが食べたいんだが」
「あ、そうだな!」
 僕の要望に、しょんぼりしていた一騎がぱっと顔を上げて笑った。まるで花が咲いたかのような明るい笑みに、僕も自然と口元が綻ぶ。一騎は銃器を眺めてコレクションするのと同じくらい、僕のための献立を考えるのが好きだ。そのことを僕はすっかり知っている。
「総士、何がいい?」
 わくわくと尋ねてくる一騎に、最初に広げて見せられたページを思い返し、そこに載っていたいくつかのメニューを脳内で並べてから僕は答えた。
「豚バラの炒めもの」
 空きはじめた腹に訴えかけてきたのがそれだった。柔らかな豚バラ肉としゃきしゃきしたレンコンを甘酢で味付けしたピリ辛炒め。それに炊き立ての白米と朝にも飲んだ茄子と油揚げの味噌汁があれば最高の夕飯だ。味噌汁には刻んだミョウガも乗せてもらおう。
「わかった! すぐ作るから、先に風呂入って来いよ」
 着替えはもう置いてあるからと告げて、一騎は腕まくりをしながらキッチンに入っていく。
 その後ろ姿を見ながら、僕は自然と笑みを浮かべていた。
 実のところ、僕は気づいていることがある。
 僕が両親の秘密を受け継いでおり、なんらかの組織に狙われているというのはおそらく事実なのだろう。その組織から一騎が僕を守ってくれているのも。だがそれだけじゃない。一騎もまた狙われる存在であるということだ。
 僕を拉致監禁した男の目的は、明らかに一騎を呼び出すことにあった。僕はただの餌でしかなく、男の本当の目的は一騎にあった。
 それは僕と同じ理由、あるいは一騎自身の過去が関係しているのだろう。つまり、僕は一騎に守られることで、逆に危険に巻き込まれる確率が上がっているというわけだ。
 でも僕はそれを一騎に言うつもりはない。一騎に真実を確認することで、一騎が僕のそばから離れていく可能性が恐ろしいからだ。
 僕は一騎の過去をすべては知らないし、なぜ一騎が僕をここまで守ろうとするのかも知らない。もしかしたら例えばそれは僕の左目の傷に関係しているのかもしれない。いつかは知ることがあるのかもしれないが、一騎が自分から口にするまで僕から問い質すつもりはない。あれだけ隠し事の下手な一騎が、「真実」を墓の下まで持って行くつもりでいるのなら、僕はそれでも構わない。そう思っている。
 一騎との暮らしは、毎日が刺激的だ。いっけん男同士の穏やかかつ気楽なシェアハウスと見せかけて、実際は守る側と守られる側の関係。
 そして僕は、料理道具を魔法のように扱っておいしい食事を作ってくれる一騎の手と、銃火器を握って僕を危険から守ってくれる一騎の手の両方を愛している。いつの間にかそうなってしまった。
 それをすべて無かったことにして以前のように暮らせる気がまったくしない。まるで麻薬のようだと思う。僕が愛しているのは一騎自身であるかもしれないし、あるいは一騎の連れてくるスリルなのかもしれない。
 いずれにせよ、僕はもう今更ただのサラリーマンには戻れないのだ。戻るつもりもない。僕だってこんなスリルジャンキーになる予定じゃなかった。こうなったのは一騎のせいなのだし、ならば一騎は最後まで僕の面倒を見るべきだ。コインの裏表のように入れ替わる僕と一騎の奇妙な共生関係が、一瞬でも長く続くことを僕は願っている。
 一騎から取り上げた雑誌と自分の鞄を手にリビングに戻ると、僕はそれを処分に回すこともせず、リビングの雑誌ラックに突っ込んだ。一騎が愛用している料理本と僕の読みかけの英字新聞の間に。


2019/06/23
幻蒼#8発行の短編集『Misch★masch』より。原題は「普通サラリーマンとボディガード」でした。ボディガードとは。一騎視点の過去だとか、うっかり一騎がピンチになって、スーツの皆城くんが敵に向かってやけくそでマシンガンぶっぱなす展開とかそっと考えたりしていました。一騎くんのご衣装はアメコミのあれでそんな感じのやつです。