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※『十二国記』パロディ※


 母が死んでから、一騎は臆病になった。
 幼い一騎をかばい、母親が死んだのは一騎が九歳の時だ。家族で海を見に、車で出かけた矢先の交通事故だった。運転席にいた父は重傷を負ったものの一命は取り止めたが、一騎と一緒に後ろ座席に座っていた母は助からなかった。一騎を胸に強く抱きかかえ、そのまま死んだ。窓ガラスを貫いたものと衝突の衝撃から一騎を守った結果、ほぼ即死だったという。一騎はその時のことをほとんど覚えていない。だが、その日から一騎は海が嫌いになった。一度も見たことのない海を忌避し、恐れ、嫌悪した。
 明るい母を失った真壁家は静かで暗いものになった。母こそが真壁家の光だった。家族を照らす優しい太陽。一騎にとって父にとっても。だからもうこの家に光は射さない。
 母のことで父が一騎を責めたことは一度もない。あの日、海を見たいと言ったのは一騎だったのに。あれから父は一騎の前で母の話をしなくなった。家を出入りするときは、玄関に置かれた母の写真に必ず挨拶をしろと、ただそれだけだった。写真はときどき玄関から消えた。それは決まって父が自室で写真を眺めているときだった。けれど、その胸に抱えた思いを、父が一騎と分かち合うことはなかった。
 沈黙は重かった。母が死んで、父が母の生業としていた器作りを引き継いだが、父の作る茶碗はすべて歪んでいた。食卓には、歪んだ茶碗ばかりが並ぶようになった。茶碗の歪みは父の心の歪みであり、一騎の歪みであり、真壁家の歪みだった。
 自分と父はよく似ている。どこにも吐き出せない思いを共有することもできず、ただ淡々と月日は流れ、傷は癒えずにそこに在り続けた。話そうと、ただ一言口に出せれば良かったのに、一騎には一度もそう切り出すことができなかった。父への罪悪感がそうさせた。父が一騎を責めない分、一騎が自分を責めずにはいられなかった。母の不在、寂しさと悲しみ、行き場のない遣る瀬無さを自分に向ける以外の方法がわからなかった。父の無骨な気遣い――そう気遣いだろう――さえうまく受け止められない自分が悲しかった。そうして、一騎は一騎になった。
 父が、どれほど母を愛していたか幼心に知っていた。その光を奪ったのは自分だ。父から一騎が奪った。自分が母を殺した。そうして、父の心を殺したのだ。
 いつしか、自分は父だけでなくほかの誰かをも傷つけるのではないか、と一騎は思うようになっていた。自分が周りの人々のすべてを台なしにしてしまうのではないか。生活も、心も、命も、なにもかも。
 思い込みというには深い確信があった。自分は父から母を奪った。たとえ自分がそうしたいと願ったわけではないのだとしても、一騎の中には一騎自身も知らないもう一人の……いや本来の自分がいて、そいつが一騎の知らないところで本性を露わにし、周りに牙を剥くのではないか。一騎はそう考え、自分自身をおそれた。
 だから極力誰とも関わらないようにした。一騎の中にいる存在を誰かに気づかれてしまわないよう、一騎は息を潜めて生きていた。まるで、自分などどこにもいないかのように振る舞った。そうして自分の居場所を守ろうとした。
 一騎の生きる世界は、少なくとも表面上は穏やかだった。一騎がそれを望み、頑なに守ろうとした。この平穏を乱すものがあってはならない。それが決して自分であってはならない、絶対に。自分への警戒と不安と緊張は、二重三重にもなって一騎自身を縛り上げた。周囲の気配をうかがい、自分はまるでいないかのように振る舞う。毎日をそうして生きて、いつかそれが一騎の当たり前になった。
 それでも一騎はときどき思うのだった。

 ――あるがままの自分で居られる場所とはどういうものだろうと。



 一騎が通うのは、最近では珍しくなった中高一貫の男子校だった。周辺の学校がブレザーや私服を選択する一方、創立以来変わることなく学ランの着用を義務づけている。そんな校風であるから規律は古く厳格な方で、学生は勤勉たるべしと言い聞かされる。とはいえ「勤勉な学生」たちは、その反面よく遊びもした。学校が「よく学び、よく遊べ」を校訓としていることもある。文武両道を謳う校風はもちろん授業にも反映され、剣道を必修科目に組み込んでいる。昔から近所の道場に通っていた一騎には得意と言っても良い科目だったが、それさえも目立つことがないよう細心の注意を払っていた。けれどいつだって、一騎が思うほどに現実はうまく回りはしないのだった。
 午前の授業が終わり、教師が教室を出て行くと同時に一騎は自分の席を立った。弁当を手にし、静かに廊下に出る。だが、そこに待ち構えている生徒がいた。とっさに、こいつ誰だったっけと一騎は思った。顔は覚えている。だが名前は思い出せない。それなのに、相手は「真壁」と親しげに話しかけてくる。その続きに切り出される内容だけは分かっていた。ああ、いつものあれだ。
「なあ、今日の授業が終わったらサッカーに付き合ってくれよ。俺のチームでさ。真壁が必要なんだ。頼むよ」
 この通り! と仰々しく手を合わせられ、弁当の包みを強く握ったまま、一騎は相手の目を見返すことなくこくりと頷いた。やった! と相手がはしゃぐ。
「じゃあ、放課後に校庭な。……絶対先に帰るなよ」
 念を押して離れていったその先で、わっと声が上がった。
「お前真壁誘うのずりぃだろ! 反則!」
「うっせー早いもん勝ちだろー! 秘密兵器はさ!」
 サッカーの対戦相手なのだろう。浴びせられた非難に一騎を誘った少年が大声で言い返し、それから彼らは周囲をはばかることなく一緒になってゲラゲラと笑いだした。
「真壁ってさ、あいつの動きマジスゲーよな。信じらんねえ。俺らと同じ人間かよ」
「なあ、真壁が今日いくつゴール決めるか賭けるだろ?」
「馬鹿! 先生に聞こえんだろ……」
 たしなめる声は形ばかりのものだ。顔を見合わせた少年たちがひときわ大声で笑う。教師の顔を気にする体裁をとりながら、これを近くで耳にしている一騎のことにはまるで構う様子がなかった。いながらにして無きものにされていた。少年たちの笑い声を背に、一騎はその場を離れた。
 試合や競技で便利扱いされていることは分かっていた。一騎の身体能力がときおり賭けの対象となっていることも。彼らに悪意はない。ただ一騎を娯楽の対象にしているだけだ。それはある意味で平和と言えた。彼らは日常を楽しんでいる。それはいいことだ。一騎は自分にそう言い聞かせた。どんなにうまく立ち回ろうとしたところで結局悪目立ちしていることには失望するが、一騎が同級生たちに反感を抱くことはなかった。そう、構わなかった。たとえ道具のようなものだとしても、一騎の居場所はここにあった。
 本当はどこからもいなくなれたら良かったのに、それでも一騎はここにいた。この場所以外を、知らなかった。


 いつものように人目につかない場所を探し、見つけた空き教室に腰を落ち着けて、弁当を食べようとしたとき、誰かが教室に入ってくる気配があった。一瞬身体をこわばらせたものの、一騎はすぐに警戒を解いた。こんな場所に来るのは、今のところただ一人しかいない。
「なんだ、総士か」
「なんだとはご挨拶だな、一騎」
 一騎と同じ学ランを身につけた生徒は、親しげに一騎の名を呼んで穏やかに微笑んだ。
 名前を皆城総士という彼は、ついこの前一騎の高校にやってきたらしい転校生だった。らしいというのは一騎のクラスの生徒ではないからだ。実際にどこのクラスなのかも知らない。知ったところで、一騎にはそのクラスの人間も状況もよく分からないし、とくに興味もなかった。ときおり昼休みに顔を合わせる程度でしか彼を見かけることはないが、この学校はそれなりに生徒数が多いからそんなものだろう。ただ、十一月に転校生だなんてずいぶん季節外れだなと思ったことは覚えている。
 総士は一見近寄りがたいほどに端正な顔立ちをした少年で、いつもきちんと制服を身につけている。生徒たちは、たいてい校則を破らない程度に制服を着崩しており、それは一騎でさえ例外ではなかったのだが、彼はそういったことをしなかった。黒い上着の金ボタンは喉元まできっちりと留め、下にTシャツやパーカーを着こむこともしない。色素が薄いのか髪色がいくらか明るく、肩まで伸ばした髪は校則に触れそうなものだが、かといっていわゆる不良にはまったく見えない。ピンと伸びた背筋は気持ちが良いほどで、折り目正しいというべきか、きっとこの制服をデザインしたやつは、こういうふうにこの服を着てほしかったのだろうなと思わせる「正しさ」だった。
 つまり一騎とはまったく違うタイプの人間だ。きっと頭も良く、この先クラスでも頼りにされるのだろう。普通なら、一騎などと会話を交わすことさえないような存在なのに、なぜ名前で呼び合うような関係になったのかというと、一騎がこうして人目を避けて昼食をとっている場所にある日総士が現れたからだ。一騎は弁当を食べる場所をそのときの気分や状況で変えるのだが――屋上だったり、校庭の裏だったり、今日のような空き教室だったりだ――その後もなぜかしばしば総士と遭遇した。顔を合わせたときはそのまま一緒に昼を食べ、今では多少の会話さえ交わすようになっている。
「お前、本当によく俺の場所がわかるな」
「ああ、それは……」
 総士は少し口ごもってから柔らかく笑んだ。
「わかるさ。お前の行きそうなところは」
「そう、なのか」
 さすがの一騎も、こうもたびたび遭遇するのがただの偶然ではないと気づいている。どういう理由かは知らないが、総士はどうやら一騎がいるところをわざわざ探してここにいるようなのだ。転校生なら学校の細かな構造などまだそう詳しくもないだろうに、どうして限られた休み時間の中で的確に一騎を探し当てられるのかが謎だったが、総士がそう言うのならそうなのだろうと一騎は思った。この少年はひどく聡明で、他の誰もが見通せないところまで見透かしているようなところがある。
 ほかに友達がいないということもなさそうなのに、あえて一騎のところにくることも不思議だった。一度尋ねたこともある。総士は、転校生という物珍しさから人にまとわりつかれるのが苦手なのだと答えた。そっか、と一騎は答えた。その気持ちは分かるような気がした。とはいえ、それもあとしばらくのことだろうとも思った。きっと総士も学校に馴染んで、ほかのクラスメイトと普通に過ごすようになる。今一騎といるのは、それまでの肩慣らしのようなものだ。鬱屈として人との輪に入れない自分といることで、総士がおかしな目で見られなければいいと思うが、賢そうなこの少年はそんな失態は踏まないだろう。
「ところで、僕も同席させてもらって構わないか」
「いいよ」
「ありがとう、一騎」
 総士が一騎と食事を取るのはこれが初めてではないのに、総士はいつも必ず確認をとる。了承をするとひどく嬉しそうにして一騎の隣に座るので、一騎はそれが少し面はゆく、くすぐったかった。総士は手にしていたビニル袋から自分の昼食を取り出しながら、一騎の弁当箱に視線を寄越した。
「一騎はいつも弁当だな」
「総士はいつもパンと野菜ジュースだな」
 一騎もそう言い返す。総士が口にするパンはとくに惣菜やクリームが挟まったものではないごくシンプルなもので、パッケージからして学食で買っているわけでもなさそうだ。弁当でないということは、そういうものを作ってもらえる環境にはないということなのだろう。
 一騎は総士の自宅も家族構成も知らない。尋ねようという気にはならなかった。それは大きなことではないと一騎は感じていた。尋ねることで少しでも総士との関係に変化が及ぶのも嫌だった。彼とはこのままの距離で穏やかな時間を過ごしていたかった。やがて総士が他の生徒と仲良くなるにつれて今のような時間も減り、そういえば一緒に弁当を食べたこともあったなとときどき思い出すようになるのだろう。そのうち一騎のことなど忘れてしまう。きっと、そうなる。その予想は少し寂しくはあった。そう思うくらいには、今総士と過ごせている時間が一騎には楽しかった。そのことを今更はっきりと自覚し、一騎は困惑する。それでもこの感情が悪いものとは思えなかった。総士の隣でなら、ただの真壁一騎として過ごせるような気がしていた。
 それにしても、育ち盛りの高校二年生がこれだけで腹がふくれるのか少し心配にはなった。少し考えて、一騎は自分の弁当箱を差し出した。
「どれか食べるか? その、大したものじゃないけど」
 一騎としてはただのお節介のような気持ちだったが、総士はひどく驚いたように目を瞬かせた。その表情に自分はとんでもないことをしてしまったのではと思い、慌てて弁当を引っ込めようとしたがそれを止めたのも総士だった。
「なら、そのおひたしをいただいてもいいだろうか」
 ほうれん草を指さされ、いいよと自分の箸を手渡す。
「これだけでいいのか」
「ああ、実は最初から気になってたんだ」
「なんだ、そうだったのか」
「美味いな」
 一口つまんだあとにしみじみと言われ、一騎は頬に熱が上るのを感じた。思えば、父以外に自分の作ったものを食べてもらうのは初めてだった。思わず礼を言うと、総士が呆気にとられたように一騎を見る。
「まさか、これはお前が作っているのか?」
「え、そうだけど」
「自分でこれを? 一騎は……すごいな」
 そんな綺麗なものではない、と一騎は思った。料理をするのは、これが一騎が唯一できることだったからだ。誰かのためではなく、自分のためだった。父は掃除や洗濯はできても料理が不得手で、それを一騎が補った。つまり、そこに一騎の居場所があった。自分と父のために弁当を含む三食を作っているのは、自分がここにいるのだと父にわかってほしかったからだ。父と話すことはほとんどない。それでも一騎はここにいる。父の食うものは一騎が作っている。作って空になった弁当箱や皿を見て安心していたのだ。
「すごいとかじゃ、ないんだ。これが俺のできることで。っていうか、こんなことくらいしかやれないんだ」
一騎の抱える汚い感情を知らないから、総士はそんなふうに一騎を褒めてくれるのだろう。そんな気持ちで口にした言葉に、だが総士は黙り込んで眉を寄せた。何かを思案するような、それでいて少し躊躇うような様子を見せたあと、一騎に不意に尋ねた。
「……一騎は、自分の居場所が欲しいと思うか?」
「えっ……」
 いったい、一騎の中の何を見透かしたというのだろう。そんなことを言われて一騎は動揺した。思わず顔を跳ね上げて隣を見ると、総士はまっすぐに一騎を見ていた。その表情には、一騎をからかうような様子はまったく見えない。
「お前だけの場所。お前を必要とする場所があるなら、それを願うか? それがどんな場所であっても」
「俺だけの、場所」
 何を言われているのか、実のところはよくわからなかった。でも、もし本当にそんなものがあるとしたら欲しい。自由に息ができる場所。一騎が一騎でいられる場所。そんなところ、まるで想像もつかないけれど。
「一騎」
 総士の声は、これまでのやりとりとは一転して真摯なものだった。総士の灰色の瞳に自分が映っているのが分かるほど間近にのぞき込まれ、一騎は思わず息を詰めた。
「僕は……それを用意してやれると思う」
「お前……何言ってるんだ?」
 一騎が不安になったのは、それを口にした総士がひどく苦しそうだったからだ。まるで意味の分からない言葉だったが、なぜか一騎には総士が本当はそれを言いたくはないように感じたのだ。それなのに、それをずっと一騎に告げたかったのだという気もしていた。そして、総士の言葉には一騎が目を背けたくなるほどの真実があった。
 ――俺の、居場所。
「それ、どこにあるんだ」
「海の、向こう」
「う、み」
 ぱくぱくと口を開けては閉じることを繰り返し、一騎はようやっと「俺は、」という一言を絞り出したが、そこで休憩の終わりを告げるチャイムが鳴った。慌てて空になった弁当箱を包みなおし、教室に戻るために立ち上がると、目の前で総士が笑っていた。そこには先ほどの迫るような、どこか必死な様子は、もうどこにもなかった。
「一騎、また明日会おう。お前ともっとちゃんと話したい」
「うん、明日な」
 総士と会うのは昼休み中の偶然という形を取っていたから、こうして約束を交わすのは初めてだった。総士が自分と話したいと思ってくれることが、単純に嬉しかった。
 このとき一騎は、浮かれていたのだと思う。本当はもっと考えるべきだったのだ。いつか化けの皮を剥がされ、自分の暗い内面が人に露見することをあれほど恐れていたのに。自分が誰かを傷つける可能性にずっとおびえていたはずなのに。総士の前で、いつしかそれを忘れていた。
 ――一騎の中にいる、化け物の存在のことを。



 だが、明日の約束は来なかった。
教室を出ようとしたところで、突然総士が顔色を変えて立ち止まった。
「なぜ、こんなところに」
 愕然として虚空を見つめるその顔に、一騎は総士が一瞬にして何か自分の知らない生き物になってしまったように思った。
「追って、きたのか。いまさら」
「総士、どうしたんだ。なあ」
 もう授業が始まってしまうと急かそうとする前に、総士にぐいと手首を掴まれた。
「一騎、来い」
 いきなりの接触に驚きで心臓が跳ね上がったが、総士は一騎の反応に構うこと無く、ほとんど駆け出さんばかりの勢いで一騎をひっぱっていく。
「総士、どうしたんだ。そっちは教室じゃないぞ。なあ、総士」
 答えを求めて総士に尋ねたが、帰ってきたのはまるで聞きなれない別の声だった。
「タイホ」
 それはすぐ間近で響いた。一騎はぎょっとした。特別教室があるこの階にはあまり人の出入りがない。廊下には総士と一騎以外おらず、ほかの人間の気配などない。それなのにその声は再び虚空からはっきりと響いた。
「タイホ、お急ぎを。追いつかれます」
「分かっている。はやく、ここから離れなければ」
 見えない存在と、総士が会話をしている。その存在は総士を「タイホ」と呼んだ。なにか怖気のようなものが、背筋を這い上がってくるのを感じた。なにか、なにかが起ころうとしている。それはとても良くないものだ。そして、総士はひどく焦っているように見えた。一騎の手を引いてついに廊下を走り出しながら総士が言う。
「すまない、一騎。本当はもっと早くお前に話すべきだったんだ。それを、僕が」
「総士?」
「こら、お前たちもうすぐ授業が始まるぞ」
 階段を駆け下りたところで、教師に遭遇した。
「真壁と、なんだ……? 君は見たことのない生徒だが」
「えっ」
 総士を見て教師が訝しんだのと、総士が舌打ちをしたのは同時だった。
 ぴしり、と空気が張り詰め、そして揺れた。続いて聞こえたのは、何かが張り裂け、砕ける音だった。立て続けに怒号と悲鳴がわき上がる。いったい何だと、一騎と教師が窓の外を見たとき、どんと地響きのような音とともに建物が揺れ、窓ガラスが一瞬にして白濁した。



 ごう、と突風が吹きつける。異臭が鼻をついた。生臭い臭気だった。轟音が耳をつんざき、無数の刃と化したガラスの破片が一斉に襲いかかってくるのを一騎は目にした。その異様な状況に、一騎は身を守ることも忘れて立ち尽くす。自分に向かってくる透明な刃は、場違いにもひどく美しく思えた。一騎、と叫ぶ声が聞こえる。それは総士の声だったが、とても遠くからかけられたように思った。皮膚を破片が切り裂くのを感じる。その痛みよりもガラスの破片が反射する太陽の光が眩しくて、一騎は目を閉じた。
 だがその一瞬後、おそるおそる目を開いた一騎の前に飛び込んできたのは、廊下に散らばる無数のガラスの破片と、その下に横たわる教師の姿だった。窓のガラスはすべて吹き飛んでおり、校庭の様子が丸見えになっている。一騎は慌てて自分の身体を確認したが、いくらかの切り傷ができているだけで、大きな外傷はどこにもない。怪我が無いのは振り向いた先にいる総士も同じだった。だが、倒れた教師からうめき声が聞こえるのに気づき、一瞬で我に返った一騎は血相を変えて駆け寄った。
「先生、先生……!」
 そばに屈み込み、必死に声をかける。だが身体を助け起こそうにも、教師の身体には数え切れないほどのガラスが突き立っていて、触れることなどできなかった。むき出しの皮膚からは血が流れ出している。せめて止血をしたいのに、一騎はどうしたらいいのかわからない。
「総士」
 助けを求めて振り返ろうとしたとき、一騎の足首を掴む手があった。その手は血にまみれていて、そのまま目の前の教師に繋がっていた。校門などでよく見かける闊達な印象の教師は、今は痛みと恐怖に目を濁らせて一騎を見ていた。ひゅうひゅうとその口から息が漏れる。
「真壁、お前……どうして」
「せん、せい」
 教師の恐怖と疑念が、自分に向けられているのを一騎は悟った。教師だけが深い怪我を負い、近くにいた自分がほぼ無傷なのは確かに異常なことだった。しかし、それよりもまずは教師を助けなければと思った。だから総士に縋ったのに、返ってきたのは望んだ答えではなかった。
「校庭はおそらく駄目か。あとは屋上しかない……一騎、上に行くぞ」
 ここから離れろという言葉を、一騎は首を振って拒絶した。
「先生を置いて行けっていうのか」
「命に関わる怪我ではない。手当を受ければ助かる」
「でも!」
「僕らがここにいることの方が問題なんだ。お前はこれ以上被害を増やすつもりなのか!」
 その一言は、えぐるように一騎の胸を刺した。同時に、無数のガラス片と流れる血の赤が、一騎をこの場所に縫い止めていた。それは幼い日の光景を思い起こさせるものだった。ヒュウっと喉が鳴る。カタカタと身体が震え出す。
 一騎は、喘ぎながらすぐ傍に落ちたガラス片を拾ってうつろに見つめた。
 ――俺が? 俺のせいで? これも全部?
 心が凍りついていく。ただの冷たくて真っ黒な塊になり、深い深い海の底に沈んでいく。
「一騎! 一騎、しっかりしろ!」
 総士が一騎の名前を呼ぶ。反応を見せない一騎に焦れたのか肩に手をかけられ、一騎は思わず悲鳴を上げてそれを振り払った。ただ、そのつもりだった。だが、振り上げた手が何か柔らかいものにあたったのと、総士のうめき声が響いたのは同時だった。
「うっ、あああっ」
「タイホ!」
 虚空から、なんということを、という悲鳴が聞こえた。
 総士が、一騎の前で顔を押さえて蹲っていた。押さえた指の間から、赤いものが流れ出すのを一騎は見た。
「あ……あ……」
 そのとき初めて、一騎は自分がガラス片を手にしたままだったことに気づいた。そして、今その手で、総士を振り払ったのだということも。尖ったガラスの先には、血痕のあとがあった。自分が手にしたガラスが総士の顔を切り裂いたという事実が結びつき、一騎の全身から血の気がひいた。音を立てて、一騎の手からガラスが滑り落ちる。
「あ、俺が……」
 ――俺が、総士を傷つけた。俺が、この手で。
 ――俺が。
 二度ともう誰かを傷つけてはならないはずなのに、よりにもよって自分から一騎に近づいてくれた存在をこの手でえぐった。あのとき手に伝ったのは、総士の皮膚と肉を切り裂いた感触だったのだ。
 恐怖と混乱で吐きそうになりながら、ふらふらと総士に近づく。総士が押さえた場所からは、未だに赤い血が流れ続けている。血の臭いが先ほど以上に鼻をつく。
「総士、保健室にいこう……保健室に行けば……」
 先生がいて助けてくれる。目の前の教師も手当をしてもらえる。――きっともう保健室どころじゃない。頭の冷静な部分は一騎にそう教えていたが、それでも一騎はわずかな日常に縋っていたかった。一騎の知る、なんでもない空虚で穏やかで暗い沼の底のような、それでも一騎の一部であった日常に。
「この程度……平気だ」
 蹲ったままの総士が肩で息をしながら言った。
「それに、僕らが行くべきは保健室じゃない」
「なら、お前はどこに行けって言うんだ!」
 こんな怪我をしているのに、頑なに一騎をどこかへ向かわせようとする総士に一騎は思わず叫んだ。だが、総士の反応はどこまでも冷静だった。
「僕らが行くべきは海の向こう」
「むこ、う」
 ――海の向こう。さっきもそんなことを言っていた。どこだ、それは。一騎は海なんか知らない。生まれてから一度も見たことはない。あの日から、見たいと思ったことも。
「そこにいったら、どうなるんだ」
 ひりついた喉で、声をしぼり出す。
 ここは。ここにいる自分は。学校は、家は、――父は。
 一騎の問いに総士ははっとして一瞬口を噤んだが、すぐに口を開いた。
「あちらがお前の世界になる。お前の居場所になる。こちらに戻ることはできない」
 初めての海を見に行こうとして母は死んだ。いなくなった。あの日から、海は一騎にとって忌避すべきものとなった。自分と同じくらい消してしまいたいものだった。それなのに、海の向こうへ行くと総士は言う。そしてもう戻れないという。それはあの日いなくなった母と何が違うのか。
 そしてそれは、こちら側には一騎の居場所はないのだと宣告されたようなものでもあった。
「一騎。お前はここからいなくなりたいんじゃなかったのか?」
 総士は、一騎の願いを正確に見抜いていた。
 確かにそうだ。それでも、自分がいた痕跡なにひとつこの世界から消えてしまうのは嫌だった。捨ててしまいたいわけではなかった。意味を理解するよりも嫌悪感と恐怖が先に立つ。無意識に一歩下がろうとする一騎を、だが総士は視線だけで押しとどめた。
「――例え拒まれてもお前を連れて行く。それが……僕の役目だ」
 顔面の左から血を流しながら総士が姿勢を正し、床にひざまずいた。ぱたぱたと滴る血が教室の床を汚していく。その血は床に血だまりを作り、一騎の上履きへと範囲を広げていく。総士がしようとしていることに、一騎は戦慄した。
「なんで、お前何して……」
 一介の同級生が、同じ年頃の少年にひざまずくなど尋常ではなかった。一騎は混乱に慄きながら首を振って叫ぶ。
「総士っ!」
 ついさっきまで、ここはただの学び舎だった。だが、今はまるで異なる場所に変貌を遂げてしまっていた。一騎の知らない場所に。ひざまずいた総士が顔を上げる。その瞬間、一騎は喉を引き攣らせて声にならない悲鳴を上げた。総士は裂けて潰れた左目からは血を滴らせ、残る右目で一騎を正面から捉えていた。一騎は、今初めて自分が切り裂いた箇所が、総士の左目だったことを知った。総士の双眸は一騎を縛り上げ、その場に縫い止めた。一騎はひたりとも身じろぎできずに喘ぐ。
 ――こいつは誰だ。皆城総士。
 ――お前はいったい誰なんだ。
「やめろ……総士やめてくれ……なんで、なんでお前がこんなことするんだ」
 必死にふりしぼった声は掠れていた。だが、総士の反応は冷徹だった。何かを覚悟し、今まさに切り捨てようとしているようだった。
「御前を離れず、忠誠を誓うと誓約する」
 ひざまづいたまま口早にそう唱え、一騎を見据える。
「一騎、許すと言え」
 言われたことの意味がわからず、一騎はとっさに首を横に振った。許すとはなんだ。許しを請うべきは自分ではないのか。
「お前、何言って……そうしっ」
「許すと言うんだ」
「――っ」
「一騎っ……!」
 抗うことを許さぬ声だった。総士の右手が一騎の足首を掴む。振り払い、逃げてしまえと思うのに身体が竦んで動かない。突き放すことは許されない。もう一度振り払うことは。そうして総士を傷つけることは。
 一騎はなにも理解できぬまま総士の言うとおりに叫んだ。
「許す……!」
 その瞬間、総士の顔に浮かび上がった表情をどう表現すべきか一騎にはわからなかった。安堵も諦めともつかぬ曖昧な笑みは、ひどく空虚で美しかった。一騎の心臓を掴み、縛り上げるような笑みだった。
「そう…しっ」
 名前を呼ぶ一騎に答えることなく、総士はそのままこうべを垂れると、その額をゆっくりと一騎の足の甲に押し当てた。
 瞬間、全身を風のような何かが駆け抜けた感覚があった。ぐらりと立ちくらみ、身を起こした直後、一騎は甲高い獣の叫び声を耳にした。弾かれるように声が聞こえた方角に目を向ければ、割れた窓ガラスの向こうに巨大な何かの影が翼のようなものを羽ばたかせるのが見えた。あんなものは、さきほどまでいなかったはずだ。
「なんだ、あれ」
 呆然として思わず叫ぶ。
「ヨウマ」
「よう、ま?」
 今度こそ屋上へと走り出しながら尋ねた一騎に、総士は息を切らしながら答えた。
「人に害をなす生き物だ。今はシレイを使って押さえている。だが長くは持たない」
 途中走り抜けた廊下は凄惨な状況だった。どこもガラス片にまみれ、あちこちで教師や生徒が呻きながら転がっている。無傷の人間は誰一人いなかった。応急処置をとろうにも人手がおらず、救援を待つしかない状態だ。走り抜ける一騎たちの姿に何人かが気づいたようだったが、彼らが一騎に向けたのは、皆一様に、あの教師と同じ、怯えるような疑念の眼差しだった。一騎は言葉もなく、目を伏せた。
 最上階まで階段を駆け上がり、総士と二人、屋上に転がり出るように飛び出して扉を閉める。目の前には、窓から見えた巨鳥の姿がはっきりとそこにあった。
 羽を広げた巨鳥の大きさは、優に六メートルは超えている。巨大な羽根が羽ばたくたびに、突風が吹き荒れる。異様なのはその大きさばかりではなかった。その鳥は、金色の毛並みを持っていた。太陽の光を受けるたびに、きらきらと黄金色に輝くその様はいっそ美しくさえある。だが、その姿はあまりにも怪異だった。鷲のような形状でありながら、そこから伸びる足は虎のものだった。黒く巨大な爪が、飛び回るたびに鋭く光る。嘴は鮮やかな緋色で、まるで血の色を連想するような禍々しさだった。その怪鳥に飛びかかる二回り小さな獣がいるが、それもまた異形だった。背中に羽の生えた狼など、一騎は見たことがない。そして攻防は、狼の方が劣勢なようだった。
 長くは持たないといった総士の言ったことは本当のようだった。総士も焦りをにじませていた。
「あの鳥は名をキジャクと言う。足の爪で人を切り裂き、その肉を食らう。まずあれを倒さなければ、この場を脱することはできない」
「あんなもの、どうやって」
「お前に斬ってほしい」
「なっ」
 まっすぐに乞われ、一騎は絶句した。
 自分が? あの化け物を?
 だが、総士は確信に満ちた口調で続けた。
「今のお前にならできる。むしろ、お前にしかできない」
 そんなこと、できるはずがない。一騎にはあんな化け物と対峙する力も武器もない。剣道の心得はある。だが、今目の前に起きているのは、そんな経験など何の意味もないものだ。殺し合いの経験など、現代日本で生きる一介の男子高校生にあるはずもない。
 だが、その一騎の前に一振りの長剣が不意に現れた。それは、宙から現れた女の両手によって、捧げ持つように差し出されていた。
 美しい剣だった。日本刀とは違う。まっすぐな長剣は間違いなく両刃だろう。柄には精緻な掘りが施され、剣を納めた鞘自体にも金で装飾が施されている。鞘に結びつけられた組紐からは翡翠のようなピンポン玉ほどの宝玉がぶら下がっていた。まるで美術館に飾ってあるかのような代物だ。とうていあんな化け物と戦えるような剣とは思えない。
 宙に浮いた白い女の手にある美しい宝剣。その異様さに立ちすくむ余裕も与えず、総士が剣を取るように言う。
「この剣であれば、あの鳥を斬れる」
 総士は断言した。そして一騎に告げる。
「剣を抜け。それはお前のものだ。お前にならそれを使える。お前とともにあり、お前を守り、お前の道を開く」
 だが、一騎は首を横に振って否定した。
「嫌だ、俺はこんなものは握りたくない!」
 これは武器だ。一騎には分かる。相手を断ち、破壊するもの。間違いなく傷つけるもの。これを握ったら本当に戻れないのだと一騎には分かっていた。だが、首を横に振る一騎の声に重なるように総士の声が響いた。
「お前しかいないんだ。お前にしかできない。やれるものなら僕がやっていたさ。だが僕にはできないんだ一騎」
 総士は、一騎の前で拳を堅く握りしめていた。だが、その身体は小さく震えているようだった。傷ついた左目の血はすでに止まっているようだったが、総士の顔色は紙のように白い。顔の左半分を血で汚したまま、総士は一騎に向かって叫んだ。
「僕ではそれを扱えない……っ!」
 血反吐を吐くような声だった。怒りと、悔恨と、そして呪詛とも呼べるようなものがその声にはあった。なぜ? という疑問は、すぐに確信へと変わる。
 ――ああ、俺のせいだ。俺がお前を傷つけたから。
 ――そうだ。
 ――なら、俺がやるしかない。
「一騎っ!」
 背後から獣が襲いかかろうとする気配を感じた。それを察した総士が叫ぶ。一騎を切り裂こうとする虎の爪。それが一騎に届く寸前、
「あああぁぁああああ!!!!!」
 一騎は雄叫びを上げながら右手で剣の柄を掴み、振り向きざまに一閃した。絶叫とともに鞘から引き抜かれた剣は、白刃を煌めかせたと思う間もなく、その切っ先で異形の足を切り裂いていた。獣がギャアアァア! と悲鳴を上げる。怯んだ隙をつき、両手で柄を握り直すと、さらに駆け寄って二閃、三閃と剣を振るう。闇雲に振り回しているようで、それは的確に相手を捉え、傷を負わせた。
 一騎は自分の身体が自分の意思を離れて剣を振るうのを感じていた。手は柄に吸い付いたようにして張り付き、あたかもまるで最初から一騎の身体の一部であったかのように馴染んだ。そのことに怖気立つような心地がする。こんなものは知らない。こんなことをする自分など知らない。
 否、と嘲笑う声がした。一騎の中からだった。声は告げる。これがお前だ。そしてこいつは敵だ。こいつをお前が殺す。お前は俺だ。簡単なことだ。俺にはできる。さっき総士の目を切り裂いた、《俺》なら。
 高揚感のようなものが一騎を支配し、剣を握る自分に一騎は酔った。ただしくは剣そのものが持つ力に引きずられたのだが、一騎にはその違和感がわからなかった。相手との距離を見誤り、踏み込みすぎたのだと悟った時には、視界いっぱいに怪鳥の鋭い鉤爪が迫っていた。
 左肩の肉が抉られたのだと理解したときには、裂けた制服から血が噴き出していた。目が眩むような激痛に一騎の喉から吼えるような悲鳴が迸る。
「っあああああぁああぁあああぁあ!!!!!!」
「一騎っ!! 気をしっかり保て!!」
 焦るような総士の声が一騎の意識をとどまらせる。
 そうだ退くことは許されない。背を低くして足で地面を踏みしめ、汗と血で滑る柄を震える両手で強く握りしめる。引き攣る喉で繰り返し喘ぐ。痛みは酷かった。視界も霞む。だが武器は握れる。とうてい正気を保っていられる状況とも思えないのに、一騎の頭は冷静だった。むしろ痛みで、より思考がはっきりしていくようだった。
 黄金色の怪鳥に目線を定めながら、先ほどの教師とクラスメイトの表情が一騎の脳にこびりついていた。彼らは、まるで化け物を見るような目で一騎を見ていた。疑念と怯えが確かにそこにあった。答えははっきりしていた。一騎がずっと怖れ続けていたことがとうとう現実になったのだ。一騎の正体が暴かれてしまった。一騎の場所は、もうこの世界のどこにもない。いや、きっと最初からどこにもなかったのだ。母を失ったあの日から。
 本当は、この世界で一騎を受け入れて欲しかった。あるがまま、弱さも醜さも許して欲しかった。ここにいてもいいのだと言ってほしかった。
 友だちに、先生に、父に――他の誰でもいい、誰かに。でも、それはもう叶わない。
 ――ああ、これが俺だ。
 目の前で醜くもがくおぞましいこの生き物は一騎自身だ。叫声を上げながら無様にのたうち回る哀れな化け物。
 ――お前が俺だ……。俺は、お前だ……。
 だから、この手で消さなくてはならない。
「ああああああああぁぁ!!!!!」
 一騎は咆哮しながら、剣を真横に払った。渾身の一閃。それが確かに対象を捉えたのを握りしめた柄に伝う衝撃で確信する。
 どう、と地響きを立てながら怪鳥が屋上に横たわった。片羽根を切り裂かれ、左足も切り落とされてもはや飛ぶことができない。それでもまだ息があった。まとっていた黄金はくすみ、血に濡れた羽根をばたつかせながら屋上の上をもがき回る。暴れる化け物に一騎はすでに駆け寄っている。とどめを刺さなければいけないのだと分かっていた。
 まだこいつは消えていない。だからこいつを完全に消してすべてを終わらせなければいけない。終わらせたその先になにがあるのかなど分からない。ただもう今までの何もかもが変わってしまったこと、二度と戻れないこと、そのすべてを自分は受け入れなければならないということだけを理解していた。
 ――父さん、父さん。ごめん。ごめんなさい。
 父に直接伝えることのできなかった言葉が涙とともに溢れる。作業場で轆轤を回す父の姿が浮かぶ。あの背をただ見ていることしかできなかった。ずっとそうだった。触れることも、声をかけることもできず、ただ。
 ――父さん、母さん。
 後悔と懺悔と。痛みと寂しさと。無力で臆病な自分への怒りと憎しみと。すべてを力に込め、長剣を振り上げる。
「っつああああああああぁ!!!!!」
 逆手に握り直し、両手で掴んだ剣を、一騎は悲鳴のような雄叫びを上げながら垂直に深々と突き立てた。
 ――ここが、心臓(核)だ。
 獣の体内に剣を沈め、ズブズブと肉を断つ感触が生々しく手に伝わる。獣の血はすでに一騎の全身を染め、髪や裂けた制服から悪臭を放っていたが一騎はもう構わなかった。獣が暴れるたびに顔に降りかかる血が首へと流れ、どろりと制服の下に入り込む。嫌悪感に怖気が立つが、両手は柄を握りしめたまま、獣を足で踏みつけ、さらなる力を込めて獣の肉へとめり込ませていく。「ギャアァアアァアァ!!」と獣が耳障りな断末魔を叫ぶ。ガツンと骨に当たったところで痛みにのたうつ胴体から剣を引き抜き、もう一度深く剣を押し込む。グチュリ、ズブリ、メリメリと肉を割いていく。獣は悲鳴を上げながら衝撃と激痛にもがいた。
 その獣の悲鳴を聞きながら、一騎は笑っていた。涙を流しながら剣を握り、繰り返し、繰り返しその身体に刃を突き立て、獣の血を浴びながらうつろな笑みを浮かべていた。
 そして暴れる獣がいよいよ力尽き、最期に大きく痙攣して絶命したと同時に、一騎の中で張りつめていた何かが音を立てて引きちぎれるのを感じた。
 膝ががくりと落ちるのと、何かに優しく抱きとめられるのとは同時だった。まるで母のような懐かしい感触だった。疲弊と痛みで意識が朦朧としている。それでも長剣の柄は握りしめたままだった。いや、とうに力は抜けているのに指が硬く強張ったまま枝のように柄に絡みついているのだった。長剣が一騎の腕のようになってしまったかのようだった。
 ――ああ、俺はもっと、もっと戦わないといけないのに。
 がくがくと震える腕で、剣を持ち上げようとするがうまくいかない。爪で抉られた左肩から先は感覚すら無く、視界は霞み、顔中に浴びた血が乾き始めて瞼も上手く開けることができない。
 ――俺、は。
 いまさら、ひどく泣きたい気持ちだった。両腕で自分を抱えて静かな場所で蹲り、一人声を上げて泣きたかった。それなのに血のこびりついた一騎の目尻からは涙の一滴も零れることはないのだった。
「あ、う……」
「もういい一騎。十分だ」
 ひどく優しい声が耳に触れた。
 一騎、と総士はもう一度名前を呼んだ。
「ひとまずは窮地を逃れた。お前のおかげだ。だから今はもう眠るんだ。……眠れ」
「……そ、う……」
 ――総士。
「……すまない」
 苦しげに紡がれたその一言を耳にして、一騎の意識はそのまま途切れた。




2020/02/16
楽園ミュートス#4/ノベルティの再録です。『月の影 影の海』の冒頭を小説版の戦闘シーンを交えながら総士と一騎でやってみようという思考実験でした。ボロボロ学ラン×長剣一騎と、「許す」と言わせる総士が書きたかったともいう。遠見真矢の不在、剣司になれない同級生、島の大人ではない先生を要素として加えています。テーマは「歪み」。一騎は、どのルートでも「魔性の子」になるかもしれない。
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