春海、際涯もなく

※『十二国記』パロディ※



 一騎はできそこないの麒麟だ。

 周りの女仙たちは誰一人そんなことは口にしないけれど、一騎は自分をそう思っていた。
そもそも、自分が《麒麟》だという自覚もない。
 何せ、一騎は転変――自分は本来人ではない姿を持っているらしい――もできないし、自分で折伏しゃくふくした使令――女怪とは違うらしい――も持っていない。どうしたらそれができるのかもわからない。
 それは一騎が《胎果》だからだと女仙たちは教えてくれる。いたわるように、慈しむように。
 そして、時がくれば、いつかは必ずできるようになるはずだと繰り返す。『麒麟とはそういうものですよ』と。
 誰一人として、麒麟としての一騎を疑わない。みんなずいぶん麒麟というものを信じているんだな、というのがここにきてからの一騎の思いだった。
 ここにいる人々が蓬莱と呼ぶ場所で、一騎は物心ついたときから生きてきた。自分はどこにでもいる当たり前の男の子のはずだった。肉体は至って健康なのに、血の臭いや争いごとがひどく嫌いで体調を崩したり、肉をあまり好まないなどといういくつかの問題はあったが、両親は普通に一騎を愛してくれていたと記憶する。
 だが九歳になったある日、両親と車で出かけた先で突然の衝撃を受け、何かに全身を抱きすくめられたまますべての感覚が暗転した。意識を取り戻してからは、身体中の痛みとえずくような臭いに、眩暈と吐き気をこらえながら暗闇の中で息を潜めていた。

――とうさん、かあさん、どこ?
――ねえ、どこにいるの?

 呼びかけても答える声はなく、寂して悲しくてぽろぽろと泣いているところに現れたのが真っ白な腕だった。

――おかあさん?

 それを母の腕だと思い、手を取ってみれば、一騎はまるで見たことのない場所に引き出され、見たことのない服をまとった女性たちに囲まれていた。
 ここにいれば、いつか父や母が迎えに来てくれるのだろうと最初こそ一騎は思っていたが、おそらくそうではないということを、蓬山と呼ばれる場所で暮らすうちに少しずつ理解しはじめていた。あの衝撃と暗闇が、一騎を育ててくれた温もりとの最期の別れの時だったのだ。
 二度と両親とは会えないという事実に何日も何日も泣き暮らして、ようやっと一騎はそれを受け入れた。受け入れることが、生きることなのだと、それしか道はないのだと本能的に理解していた。それでも受け入れられないのは、自分自身のことだった。
 みんなは、一騎は麒麟だ、麒麟だから大丈夫だと口にする。一騎はちっとも一騎自身のことが信じられないのに、それがとても不思議だった。
 自分はこんなに出来損ないの存在なのに。無力で、無知で、誰かの世話にならねば生きていくこともできない。
 せめて自分にできることがあればと思うのに、そんな一騎が与えられた使命は「王を選ぶ」というものだった。
 麒麟はそのために生まれてくるのだと、女仙たちは口を揃えて言った。
 王などわからない。なぜそれが必要なのかも、一騎にはどうも呑み込めなかった。
 転変もできず、指令ももたない自分が、そんな存在を選べるのか。そもそもどのようにして王を選ぶというのか。
 麒麟ならばわかるはずだとみんなは言う。だが、一騎はそもそも麒麟だという自分のことさえわからない。
 もしも王を選べなかったら。みんなは失望するだろうか。やはりお前は麒麟などではなかったというのだろうか。
 なら、自分は何ものなのだろう。麒麟でもない自分は、これから先どこでどう生きていけばいいのだろう。
そう考えると一騎は足がすくむのだ。この先の自分のことを思うたびに、まるで真っ暗な闇の中に突き落とされた心地になるのだった。
 だが時間は流れ続ける。まったく心の準備もできていないのに、とうとう夏至の日が訪れた。
 麒麟である一騎が住む蓬山は黄海と呼ばれる荒地の中心にあり、そこに入るには四つの門のいずれかをくぐらなければならないのだという。門は春分と秋分、夏至と冬至の年に四回、四つの門のうち一つが、わずか一日のみ開かれる。
 夏至が来たということは、夏至を待つ人々がその日にのみ開かれる門から黄海に入り、一騎がいる蓬山まで向かってくることを示す。その目的はただ一つ。一騎に王として選んでもらうためにほかならない。やってくる人々の中に必ず王がいるとは断じきれないものの、その確率は高いとされている。
 つまり、一騎はこれから初めて女仙たち以外の人間と多く顔を合わせ、彼らがそれぞれ王であるか否かを判断しなければならないのだった。
 夏至が過ぎてからというもの、一騎は背筋を這うような得体のしれない何かにずっと取りつかれている気がしている。ともすれば今いる場所から走って逃げ出してしまいたいような、それでいてその原因に近づいて早く確かめてみたいような、そんな気持ちだ。
 蓬山に向かってくるという一群に、自分の本能のようなものが恐れを抱いているのを感じていた。
 当惑と不安が一騎の小さな胸をかきむしる。だから、このところの一騎はただでさえ多くはない口数がめっきりと減っていた。
「どうしたの、一騎くん」
 案ずるように声をかけてくれたのは遠見だ。一番身近に一騎の世話をしてくれる彼女は、ほかの女仙たちがいないときは、一騎くんと呼んでくれる。一騎の蓬莱での呼び名だ。その甘やかに優しい声を聞くと、一騎はひどく心が安らいだ。
 遠見がいると安心する。ここにいてもいいのだと思える。
「遠見がおれの王様ならいいのに」
 その日の朝餉が終わったときに小さな声で思わずそう洩らすと、遠見は困ったようにくすくすと笑った。
「女仙が王様になったっていう前例はないかなあ。あたしたちは、一騎くんたちをお世話するためにここにいるから」
「そうだよな…変なこと言ってごめん……」
 肩を落として項垂れる一騎の頭を、彼女はそっと撫でてくれた。
「大丈夫。何も心配しなくていいんだよ。一騎くんが一騎くんであることがきっと大事なの。自分じゃない誰かになろうとか、無理して何かを決めようとか、そういうことはしなくていいんだよ」
「うん…ありがとう遠見」
 彼女は優しい。一騎を否定するようなことは何も言わない。それでもやっぱり、一騎の気は晴れないのだった。


 ついに、一騎にとって初めての昇山の季節となった。
 ある日の朝、一騎は女仙に連れられていつも暮らす宮から外に出た。迷路のようにうねる小道をしばらく歩き、普段はかんぬきが掛けられて重く閉ざされている門が開かれると、そこには昇山のために黄海を越えてきた人々が押し寄せており、彼らが滞在のために張った天幕でまるで一つの町のような様相を呈していた。
 そこにいる人々は一騎の姿を目にするや、ざわめきながら膝をつき、食い入るような視線を一騎に寄越してきた。これだけの視線を一度に受けた経験などもちろんなく、一騎はそれだけでその場から走って逃げ出したい気持ちになった。
 だが、これは昇山が終わるまでの始まりにしか過ぎなかった。
門の外には離宮があり、その中の廟へは祭壇に進香を行う者たちが入れ替わり立ち代わり出入りする。一騎は毎日壇上の御簾の向こうからその様子を眺めて、王になりそうな人物を確かめなくてはならなかった。
 王だと思える人がいれば教えるようにと女仙たちは言ったが、一騎にはさっぱりわからなかった。それらしい人がいないかと目を凝らすのだが、四日が経ってもどうにもそれらしき人物は見つけらず、早くもこの生活に飽きはじめた。
 それなら外に出て直接一人一人と会うべきなのだが、多くの人の気配と視線が集まるこの状況に、一騎は 初日からすっかり怖気づいてしまっていた。一度外に出れば、期待に満ちた幾百の目に晒される。それに応えるものなど、自分は何一つ持っていないのに。
 その視線が、そのうちに一騎がなんの役にも立たないただの子供であることを見抜き、一転して非難の眼差しを向けるのではないかと思うとそれもおそろしかった。
 自分はこんなにも臆病な生き物だったのかと、一騎は心底自分にがっかりした。落ち込みながら、昇山の人々の対応で忙しく立ち回る女仙たちから離れ、室内からそろそろと離宮の外へと移動する。
 一騎がどこかに行きたいといえば、誰かが必ず同行してくれるのだが、今は一人でいたい気持ちだった。
 そして遠くからなら、一人でも天幕が立ち並ぶ広場の様子を見に行けるのではないかと考えた。確認して、それで大丈夫そうなら、明日女仙たちと一緒にみんなの前に顔を出そう。そう心に決める。
 人の目は恐ろしいが、どんな人たちが自分に会うためにやってきているのかまったく興味がないわけではなかった。
 知りたい気持ちと、まだ知りたくない気持ち。期待とも恐れともつかぬ何かを感じているのは一騎も同じだった。
 進香を行うため離宮の入り口に続くきざはしへと行列を作る人たちを横目に、地面に降りるため脇からこっそりと欄干を乗り越えようとしたときだった。
「そこで何をしている」
「え?」
 欄干の下から唐突に声をかけられ、一騎はひっくり返った声を上げた。まるで聞き覚えのない男の声だった。
身の軽い一騎は、どんなに高いところに上っても、たとえそれが高木であっても平衡を失うようなことはなかった。それが自分にかけられたたった一言で動揺した。
「う、わっ」
 欄干から足を滑らせ、しまったと思ったときには身体は宙に浮いていた。思わず心の中で女怪の名を呼ぶが、それより先に一騎の身体は別の腕に抱きとめられていた。慣れ親しんだ柔らかな腕とはまるで違う固い感触は、だが確かな安定感で一騎を危うげなく支えていた。
 いったい何が起きたのだろうと顔を上げた途端、一騎を抱きとめた男が声を放った。
「危ないだろう!」
ぴしゃりと叱りつけられ、一騎は思わず首を竦めた。こわいと思った。誰かもわからぬこの人物がこわいと。こんなところで一人でいれば、女仙たちも一騎を叱っただろうけれど、見たこともない人間から叱責されたことが一騎を竦みあがらせた。
 ぎゅうと身体を小さく強張らせた一騎の様子に相手も気づいたらしい。少し逡巡したような気配ののち、先ほどより穏やかな低い声が間近で響いた。
「いきなり声を上げてすまなかった。大事はないか」
 返事をしようとして、だが一騎はとっさに声が出なかった。そろそろと顔を上げてみれば、思ったより間近に相手の顔があったからだ。
「あ、う、」
 一騎を抱きかかえていたのは、やはりまるで見覚えのない男だった。進香をする者たちの中にもいなかったように思う。鎧をまとっているから武人なのだろう。ずいぶんと年若く見えるが、見た目通りの年齢であるのかはわからない。亜麻色の柔らかそうな髪が、目元にかかるほどに長く伸びている。その間から覗く紫にも灰色にも見えるような不思議な色合いの瞳が、一騎をじっと見つめていた。
 いずれにしろ、普段女仙たちに囲まれるばかりの一騎にとって、武装した青年の姿はまったく馴染みのないものだった。ましてその腕に抱きかかえられているという事実が、いっそう一騎を混乱させていた。
 青年を見返したまま、口をぱくぱくさせている子供を青年は不思議に思ったようだった。
「やはりどこか怪我を、」
 一騎を案じてか、のぞき込むようにさらに顔を寄せる。怜悧な眼差しが心配そうに緩み、そうするとひどく優しい印象になるのに一騎は驚く。そこまで口を開いてから青年ははたと何かに気づいたようだった。一騎を見る涼しげな目元が、みるみる大きく見開かれる。
「まさか」
 そう呟くのを耳にして、一騎ははっと我に返った。手足をばたつかせて強引に青年の腕から抜け出す。地面に降り立つや、青年から飛び離れるようにして距離をとり、そのまま走り出そうとして、でもそれはあまりにも失礼だと思いとどまった。
 震えそうになる足を叱咤し、青年に向き直る。
「あの、俺、だいじょうぶだから、ほんとに」
 顔を上げて告げると、彼はやはり驚いたように一騎を見つめたままそこにいた。背中で結わえた亜麻色の髪が風に揺れている。
 その姿に、一騎はなぜか息が止まりそうになった。
「えっと、ありがとう」
 それだけを何とか口にして、一騎は青年に背を向けると、今度こそ離宮の中へと一目散に走り去った。
 誰もいないところまで駆け戻ってから、一騎は自分の女怪の名を呼んだ。
「ザインっ」
 普段、走るくらいでは切れるはずのない息が、びっくりするほど上がっていた。
「ザイン…!」
 一騎の呼ぶ声に応え、人目を避けて隠伏していた女怪が足元から姿を現す。自分に向かって広げられたその両腕の中に一騎は迷うことなく飛び込んだ。
 やわらかくしなやかな腕が、一騎を母そのもののように優しく抱きしめる。髪の毛から足の先まで真っ白な一騎の女怪は、その双眸だけが鮮やかな翡翠色をしている。上半身は年若い女性のものだが、下半身は雪豹と白虎が入り混じり、尾は蜥蜴のそれだ。肩から腕にかけては肌の上にうっすらと銀色の鱗が浮いている。
 一騎はザインにしがみついて、ほうっと安堵の息を洩らした。だが心臓はずっと音を立ててせわしなく動いたままだった。
 なにかおそろしい思いをしたのかと、気遣わしげに女怪が一騎をのぞき込んでくる。
「違うんだ」
 一騎は首をぶんぶんと横に振った。
「俺は、大丈夫」
 本当は大丈夫などではなかった。あれからずっと頭の芯が痺れたようになっている。そう、あの青年に接したときから。
――俺、どうしたんだろう。
 武人の装束をまとった見知らぬ男。最初はこわいと思った。
 ただ思い出すのは、この身体を受け止めてくれたしなやかで力強い腕。耳に残る低く優しい声。
 こちらをいたわるように寄せられた顔は、華やかに美しい女仙たちに劣らぬほど整っていた。最初はおそろしいと思えた切れ長の眼差しも、和らいだ途端、思わず呆けるほどの優しさを湛えていた。
 間近に見た、まるで黎明を思わせるような紫灰の双眸を思い出し、一騎は胸がつかえたような苦しさを覚えた。どくどくと脈打つ鼓動がうるさい。今まで経験したことのない感覚は、幼い麒麟を混乱させた。こわい。けれどそれだけではない、恐怖とは違う何か。息が苦しい。
――海、みたいだった。
 なぜかそう感じた。一騎は海を知らない。一騎が下ることになるという国は海に囲まれた島だというが、生まれてこの方一騎はこちらでも蓬莱でも海を見たことがなかった。頭上にあるという雲海さえも。
 だが、海だと思った。あの男を。その存在も、深い声も、夜明けを宿したような眼差しも、まるで海のようだと。
 すべてを包み込むような、同時に何もかもを呑みつくしてしまうような。
 思い返すだけで、息が詰まる。経験したことのない胸を締めつけるような苦しさに一騎は喘いだ。
 いったい自分に何が起きたのだろう。どうしてしまったのだろう。

――心臓が、はじけそう。

 女怪の腕に抱かれながら、小さな手で一騎は自分の胸を押さえた。


     ***


「どうした、総士」
 馴染みの声に呼びかけられ、その場に立ち尽くしていた総士は声をかけてきた相手を振り返った。そこには同じ軍に所属するカノンが不思議そうな表情を浮かべて立っていた。
「いや先ほどそこに、蓬山公がおられたんだが」
 蓬山公とはこの蓬山の主、つまり麒麟のことだ。総士は今出会ったのが麒麟であったとようやく気付いていた。
カノンがまさかと目を見開く。
「ここに?お一人でか」
「……ああ。ご挨拶をしようとしたが逃げられてしまった」
 ただの子供と間違えて抱き上げてしまったのだとは言わなかった。思わず苦笑が滲む。
 新しい麒麟は未だ幼いと聞いていた。蓬山での住まいから出て、女仙たちに取り巻かれながら離宮へと進香のために歩いていく姿も、遠目からではあるが目にしたはずだった。そもそも、この場所に旅装でもない子供がいるとしたらそれは麒麟でしかありえないと理解できでいたはずなのに、まるで小さな子供のように接してしまったのは、子供の思っていた以上の幼さと、その黒髪のせいかもしれなかった。
 不意に、幼い頃ともに過ごした妹の姿を思い出してしまった。井戸が枯れた街のため、民衆のために水を願って天に祈りを捧げ続け、最後空井戸に身を投げた彼女が仙に召し上げられてから、もう十一年になる。その後、総士自身もまた武官として十九歳のときに地仙となっていた。
「ずいぶんと驚かせてしまったらしい」
 苦笑交じりに返せば、カノンはふむと神妙に頷いた。
「麒麟は仁の獣だ。我らのような武官はその性質が苦手とするのだろう」
 総士もカノンも、武勇でもって国を支える立場にある。昇山にあたっても、多くの妖魔の血を流してきた。もちろんそれ以外の血も。
 身体に受けた数多の血は、きっと骨にまで染みついている。守るために奪い続けてきたその証。終生この身から離れることはないだろう。
「とはいえ、もし将軍が登極されれば今後お側でお仕えする機会もあるはずだ」
「ああ…そうだな」
 総士たちは、自分たちが仕える将軍の供としてここにいる。禁軍を預かるナレイン将軍は、今この国でもっとも信頼に足る人物だ。妖魔に襲われ壊滅した街から被害にあった民衆を助け出し、さらに保護して別の街まで送り届けることさえした。
 誰しもが、この人こそが次の王の器だと期待し、望みを抱いている。昇山さえすれば、必ず王に選ばれるはずだと。その想いは総士も同様だった。だからこそ、過酷を極める黄海の旅にも同行したいと望んだのだ。この国の行く末が決まるそのときをこの目で見届けたかった。数多の犠牲を払ってきたからこそ何としても。
 そう、思っていたのに。
 なぜか、さきほど抱いた麒麟の感触が腕から離れなかった。
 見た目よりもよほど軽い身体は、この子供が確かに仙骨を持つという麒麟だということを教えていた。
 だが、子供が麒麟であることよりも、虚を突かれたようにこちらを見上げる琥珀色の双眸の方が印象的だった。
 真っすぐで無垢な眼差しは、自分が何者であるのかについてまるで頓着していないように見えた。
 ここにいる者たちが、この麒麟に王として選ばれるため己の財産や命をかけて蓬山まで辿りついたことなど分かってはいない。辿りつけずに命を落とした者の数も。
それどころか、この麒麟はおそらく総士たちの国の惨状さえも知りはしないだろう。己の決定が何を生み、何を導くものなのか。自分が一国の運命を握っている自覚など、きっと持ってはいない。
 それでもあれは麒麟なのだと、総士の冷静な部分が断じていた。天の意思をその身に抱くもの。
 あの子供は、王を選ぶ。明日か、そのまた明日か。近いうち必ず。
 王を選び、その黒髪を垂れてその前に叩頭し、幼い身体を、その存在すべてを王である人物に捧げる。その時、自分は――。
「総士?」
黙りこくったままの総士に、カノンが不思議そうな視線を寄越していた。知らずうちに自分の手を見つめていたことに気づき、はっと我に返る。
「いや、なんでもない」
 胸にざわりと過ぎったものが何であるのかを確かめる前に、総士は靄のような思考を振り払った。
「将軍のところに戻ろう」
 そう口にすると離宮に背を向け、天幕の方へと歩き出した。


それからの話



――妙な癖をつけてしまった。

 総士は空を見上げて嘆息した。
 麒麟の本性は獣だ。それ故にか、彼らは主人の気配――彼らが言うところの王気――に聡すぎるほどに聡い。
 それは総士の麒麟も同様で、しかも幼さもあってか、ひどくひたむきで、押さえることも隠すこともしない。
 それを教えなかったのはお前なのだから自業自得だと仲間たちは言う。
 だが、総士だって繰り返し言い聞かせはしたのだ。
――内宮で待っていろと。
 また妖魔が出たという知らせに、その被害の大きさと一帯の街の治安の悪化から、王自ら禁軍を率いて制圧に出向いた帰りだった。
 登極して半年が過ぎ、妖魔出現の頻度は各段に減ってはいるが、十年をかけて荒れ果てた国内の平穏は未だ遠かった。
 なにか起こるたびに王ができるだけ直接事に当たることで、民衆の心を鎮める意図もあったが、必然王宮を空けることも多く、だが一騎を連れていくわけにもいかず、幼い麒麟を置いて王宮を出ることがたびたび続いている。
 一騎がそのことで不満を訴えたことはない。王宮にいるときも、政務の間もずっと傍らにいて大人しくしている。
 それでもずっと主人の傍にいられないというのは寂しいものなのだろう。総士が王宮の外に出ると、その帰還の際には禁門まで迎えに来るようになってしまった。
 麒麟の全力の疾走に追いつける生き物などこの世におらず、まして制止することもできない。となれば、総士が言い聞かせるしかないのだが、見た目よりよほど頑固な子供は、内宮で待てという指示にまったく納得しないのだった。
「お前も同じだろう」
 今は王の射人として傍らに控えるカノンが、天馬に跨ったまま肩をすくめる。
「何がだ」
「王宮に近づくと空ばかり見ている」
「なんだと」
 笑いながらの声に、咄嗟に返す言葉が出てこなかった。総士自身、一騎の迎えを期待しているのだと言外に指摘され、だが否定できる要素もない。総士が、手勢も含めて必ず血の穢れを清めた上で王宮へ戻るようにしているのを彼女は身をもって知っている。
 唸るように溜め息を洩らしながら騎乗していた騶虞をその場に留まらせると、総士は鎧の上に羽織っていた風除けの肩布を外した。
 冬晴れの澄み切った蒼穹は目を射すほどに青い。その鮮やかな空を切り裂いて滑るように駆けてくる漆黒の神獣は、もうすぐそばにある。どれだけ眺めても飽きることのない優美な体躯は、ほかの獣が決して持ちえないものだ。黒麒ならではの墨染めの鬣が間近でたなびき、こちらに向けられる双眸が蜜を溶かしたような琥珀であると分かるほどまで接近する。その姿へ、総士は布を広げて呼びかけた。
「一騎」
 それが合図となった。麒麟の瞳が歓喜に輝いたと思う間もなく、その姿が溶けた。溶けたとしか表現することはできない。何度となく目にしても不思議なものだと思う。ぐにゃりと形が曖昧になり、熱に溶けた飴や硝子のように引き伸ばされたと見えた途端に、すべてが反転する。
 次の瞬間、総士が差し伸べた布の中には黒髪の子供が収まっていた。
「総士!」
 声変わりを迎えていない、明るい声が高く響く。
「おかえり、総士!」
 そう口にして、子供はなにもまとっていないむき出しの腕で、武装したままの総士の首に縋りついた。その身体に、総士は慌てて布をまきつけた。
 かつて転変の仕方がわからないと不安げに泣きじゃくった子どもは、もうどこにもいない。息をするようにその身を人から獣へと変え、総士を迎えるためにこうして風のように空を駆けてくる。
 それにしてもだ。宙で獣形を解きながら飛び込んでくる術など、いったいどこで覚えたのだか。
 毎回裸で抱きついてこられるのも心臓に悪い。麒麟が失道以外に病にかかることはなく、よほどの危機でなければ傷つくこともないのだと理解はしているが、布に包んだだけの身体は、その細い首も肩もどうにも見ていて寒々しい。まして今は三月にまだ少し遠いという時期。首都でもあちこちに雪が残る。せめてと何重にも布を巻きつけてみるが、一騎はまるで頓着せずに、腕を伸ばして総士に身体を擦りよせる。
「台輔におかれましては、お変わりなく」
「あ、カノンお疲れさま」
 そこで初めて気づいたように一騎が声を上げた。
「みんなもお帰りなさい」
 総士の腕に抱えられたまま、一騎が腹心の手勢にも声をかけていく。麒麟の声に周りは深く頭を垂れるばかりだが、さてその下でどんな表情を浮かべていることやら。カノンなどは明らかに笑みをかみ殺している。普段は彼女もこの幼い麒麟に振り回される立場なのだが。
 一騎は、周囲のそんな様子にまるで気づくことはない。総士を一番に出迎えたということがこの幼い麒麟にとっては重要なのだった。
 結局、総士が一騎を止めることなどできないのだ。自分がいない間、この子が王宮で一人どのようにして自分の帰りを待っているかを知っているからだ。それでいて、寂しいの一言も口にすることはない。あまり我慢をするなと言うと、総士の方が我慢してるなどと神妙に返してくるものだから閉口した。
 確かにそうなのかもしれない。登極してからというもの、就寝時は一騎を牀榻ねどこに呼び寄せて昔語りをしたり、一騎がわからないという政務上のことに答えてやるのが習慣となっていたが、王宮を出ている間は一騎が傍らにいないせいで、そんな時間がひどく恋しく思われる。まさか、こんな形で一人寝を寂しく思うようになる日が来るとは思わなかった。
 夜が夜ならば、朝も同じだ。一騎は寝つきも寝起きも良い上に、総士が起床が苦手だと知ってからは、総士を起こすことが王の麒麟である自分の役目の一つだと心に決めたらしく、毎朝懸命に総士を起こすのだ。
 それに抗い、あたたかな小さい身体を無理やり抱き込んで二度寝をしようと試みれば、腕からぬくもりを引き剥がされ、見れば一騎の女怪が、一騎を腕に抱きしめて剣のある目つきでこちらをじっと見据えているという事態になる。
 あの目を見ると、一騎と誓約を済ませて蓬山の離宮に戻ったときに、一部の女仙たちにまるで麒麟を拐かす極悪人を見るような目で見られたことを思い出す。
 だが、その心も分からぬではない。女仙たちに取って麒麟は愛し子だ。麒麟を愛し守るためにその両腕はある。生まれたときから世話をし、母か姉のごとくに慈しむ。いつか王を選ぶときまで。
 まして一騎は幼かった。麒麟としてもあまりに未成熟な子供を、彼女たちは心から案じ、その成長を守っていた。麒麟の待ち受ける宿命を知るからこそ。
 麒麟には、麒麟自身の意思というものがない。天意を体現する神獣であり、一国の運命は麒麟によって定まる。そして麒麟の運命は、麒麟が選んだ王が担う。決して分かつことのできないもの。もし王が道を踏み外せば、麒麟がその報いをすべてその身に受ける。失道という形で。
 一騎の命は、総士の手の中にあるといっていい。それでも、一騎は総士を自分の王に選んだ。それは何にも揺らがせることのできない事実であり、真理だ。その理によって、総士はここにいる。
 早く国を立て直し、平穏な治世を一年でも長く続かせたいというのが総士の望むところであり、この国に住むすべての人間の願いだ。王となってすでに半年が経つが、蓄積された問題は未だに山積みだった。
 一騎には、未だ海を見せてやるという約束を果たせてはいない。王宮から見える雲海ではない。この島国を取り巻く涯てのない虚海うみだ。それは、登極前に総士が一騎と交わした約束だった。妖魔が出るまでの海辺は、白い砂浜と穏やかな蒼い海が広がる美しい場所だった。幼い総士も、妹の手を引いて遊んだものだ。春になれば、岸のあちこちに植えられた桃の木が花を咲かせ、零れ落ちた花びらが浜を薄紅色で染めるのだった。
 あの春の海を、いつか見せてやりたいと願い続けている。これがお前の国なのだと教えてやりたかった。本来、この国はこんなにも美しく、穏やかで豊かな土地であるのだと。
 一騎は、初めての折伏のときに、自分の不注意で総士の左目を傷つけたことを未だに悔いている。
 その悔恨から総士を王にしたのだと、そのために天さえ偽ったのだと思い込んでいたほどだ。天命のなんたるかも分からぬ幼い麒麟はそうやって自分を責めて傷ついた。
 総士が左目を傷つけることになったのは、実のところ一騎のせいではない。避けようと思えば避けられた。だが、己が傷を負うことが、一騎をあの場に踏みとどまらせると判断した。一騎が折伏を成し遂げるために必要であると。
 一騎の後悔を知りながら、総士はそれでも構わないとさえ思っていた。この傷が自分と一騎の楔となり、結果的に自分を王にしたのなら、これ以上の僥倖はないと。
 隣国の麒麟と王の仲介さえ無ければ、自分はきっと一騎を苦しめながら縛り続けることになっただろう。失道させていたかもしれない。そう思えば今でもぞっとする。
 腕に抱えた一騎を見下ろしたまま黙り込んだ総士を不思議に思ったのだろう。
「そうし?」
 腕の中で一騎が首をかしげた。大きな琥珀色の両目が気遣うように揺れる。小さな手が伸びて総士の頬に触れ、そっと左目の傷を撫でていく。指先から伝わる麒麟の優しさとあたたかさに、思わず目を細めた。
 少し重たくなったかと思う。重たいといっても、仙骨を持つ麒麟のそれは人よりはるかに軽いのだが、初めて出会った頃に比べれば幾分か体重が増えた。それを感じて、あたたかなものが胸に満ちる。
 麒麟は、成獣するまで成長を続けるという。一騎はまだ成獣にはほど遠く角も伸び切っていないため、人としての姿もまだ成長するだろうと言われている。それでもこうしてこの子どもを腕に抱く日が来なくなるとは思えなかった。
 ああそうだ。最初に出会ったときも、こうして一騎を抱き上げたのだった。あの時から、この琥珀に魅せられている。王になりたいと初めて望んだ。今もこの子供が腕の中で総士をまっすぐ見ていることに、その存在にどれほど救われていることか、この子は知らないだろう。
 そういえば、まだ一騎の迎えの声に応えてはいないのだと遅れて気づき、総士は小さな麒麟の身体を高く抱え直した。目の高さを合わせ、驚いたような幼い顔を間近に覗き込む。
「ただいま、一騎」
 正面から目を合わせて告げると、一騎の白く円い頬がみるみる紅潮していった。うわぁと小さな声が洩れ、琥珀色の瞳がまるで溢れ落ちんかとばかりに見開かれるや、かすかに潤んで揺れる。その鮮やかな変化に、総士は思わず見入った。

――総士、そうし。

 あなただけだ、あなたしかいない。あなたが俺の王なのだと、目に涙を溜めながら幼い声で懸命に告げた時となんら変わらない。

――御前を離れず、詔命に背かず、忠誠を誓うと、
――……誓約します。

 そばにいてほしい。そばに置いてほしい。離れたくない。どうか。

 一騎の仕草や眼差しは、言葉以上に雄弁に総士が自分のすべてなのだと訴える。一騎という存在そのものが総士を求めて寄り添う。一騎が向ける想いと信頼に、総士はいつも眩みそうになる。それに応えねばならぬと駆り立てられる。そして、同時に決してこの存在を手放すものかと思うのだ。
 鮮やかに変化する表情をもっと見たくて覗き込むように微笑みかけると、一騎は顔を真っ赤に染めたままはくはくと口を開いては閉じ、とうとう目を伏せて総士の首に両腕で縋りつくと、肩に顔を押しつけてしまった。
「一騎、どうかしたか?」
 繰り返し問いかけても、顔を隠したまま唸るばかりで答えない。それを残念に思いながらも、抱きつく小さな身体をもう一度抱え直す。艶やかな黒髪を撫でてやろうと手を伸ばせば、黒髪に絡むものに気づいた。何かと指先で摘み上げて、その正体に思わず笑みが浮かぶ。ひらりと舞い込んできたそれは、薄紅色に染まった桃の花だった。
「一騎、お前春を連れてきたな」
「え?」
 伏せていた顔を上げた一騎に手のひらを差し出すように言うと、おずおずと小さな手が開かれる。総士はその上に、そっと花びらを落としてやった。
「これ?」
「桃花だ。来る途中どこかの枝で絡んだんだろう」
「俺、ぜんぜん気づかなかった……」
 そんなことにも気づかぬほど一心に迎えに来てくれたのだと思えば、悪い気などしない。
「一騎、もうすぐ冬が終わる」
 長い長い、この国の冬が。
 配下に合図し、騎獣を進ませる。禁門を抜けて内殿への隧道を登りながら、総士は腕の中の麒麟に告げた。一騎は黒髪を揺らし、首を傾げて目を瞬かせる。
「うん?」
「今度の春には、必ずお前を海に連れて行く。約束だ」
 その意味するところを正確に理解したのだろう。総士だけをまっすぐに映した琥珀の双眸。次の瞬間、一騎は花が開くように顔をほころばせて頷いた。
 それは総士が登極して、初めて一騎とともに迎える春だった。



2018/02/14
Twitterのお題企画で、イラストをもとに書かせていただいたものでした。王様総士と麒麟一騎くん。このあとは『魔性の子』ルートのつもりでした。
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